青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『新編バベルの図書館6』

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『新編バベルの図書館』も、この巻をもって完結する。第六巻は、「ラテンアメリカ・中国・アラビア編」。ラテンアメリカ編にはルゴーネスにはじまる「ラプラタ幻想文学」派を網羅したアルゼンチン短篇集と、そのルゴーネスとボルヘスから数編の短篇を収める。中国編は蒲松齢作『聊斎志異』から十四篇、『紅楼夢』からの抜粋二編を収めている。そして、アラビア編には、なんとも贅沢なことに、『千夜一夜物語』をガラン版とバートン版から長短取り合わせて二編ずつを収録している。

また、各編に所収の作品についてボルヘスの解題を記した序文がつく。読み巧者ボルヘスが、選んだ作品をどう観ているかを知るだけでも興味深く、このシリーズのお楽しみになっている。因みに評者偏愛のコルタサルについては「フリオ・コルタサルの短篇は、彼の長篇小説ほど有名ではないが、おそらく長篇小説よりいい。『占拠された家』は、幻想の世界が、古めかしい慣例に従ってわれわれが現実の世界と呼んでいるこのもうひとつの世界に徐々に侵入してくるさまがテーマになっている。緩慢な文体が物語の次第に増大してくる恐怖によくマッチしている」と、評する。愛すべき佳篇。

さて、『千夜一夜物語』である。児童向きの読み物や映画その他で、「アリババと四十人の盗賊」、「船乗りシンドバッドの冒険」、「アラジンと魔法のランプ」と誰もがよく知っている話ながら、実は俗に『アラビアンナイト』と称されるこれらの話は、もともと『千夜一夜物語』の中には入っていなかった。ガラン版の訳者であるアントワーヌ・ガランが他の物語から借り入れて挿入したものだといわれている。

とはいえ、かのド・クインシーが最高傑作と認めた「アラジンと魔法のランプ」、子ども向けのテクストで読んだつもりになるのはちとさみしい。評者は、当時出版されて間もない大宅壮一が仲間を集めて完訳したバートン版を読んで、その物語世界の豊穣さに驚き呆れた覚えがあるが、その後、大学時代にはマルドリュス版が訳出され、昔読んだ文章との違いにまた驚いた記憶がある。もともとバートン版は英訳からの、マルドリュス版は仏訳からの重訳である。どちらも原訳者の手が入っていることは知られている。ここは、いくつもの翻訳のちがいを知った上で読み比べるにしくはあるまい。

ガラン版は井上輝夫、バートン版は由良君美訳である。由良の『みみずく偏書記』に次のような文章がある。「わたしは何とかして、その全訳を読みたくなった。つまり児童用の再話や抄話でないものが欲しくなった。幸い日夏耿之介たちの全訳が当時あって、小学生には難しかったが、背のびをすれば読むことができた。この全訳(バートン版)が与えてくれた充実感と満足は忘れられない。以後児童用再話本や抄話本は駄目だと根深く信ずるようになった」。このときの感動が、この訳を生んだのだろう。是非、手元において賞玩されたい。自分の子が、「アラビアン・ナイト」を読みたいと言い出したとき、書棚から取り出し、手渡すことができる。子どものころ読書欲を満たせてもらった子どもは一生本を愛する子どもになるはずだ。なお、長いものでは、ガラン版から「アラジンと奇跡のランプ」が、バートン版からは「蛇の女王」が採られている。

聊斎志異』は、漢文脈を生かした簡潔な訳ながら、他の国とは異なるいかにも中国ならではという稀譚が選ばれている。科挙の試験がいかに難しいものであったかを、その話題が頻出することからも窺うことができる。それと、俗に「地獄の沙汰も金次第」というが、獄卒から大王まで賄賂がはばを利かす閻魔の丁というのも畏れ入る。芥川や中島敦が好きな読者なら必読である。

ルゴーネスのほとんどSFと言ってもよい怪奇譚は、いずれも名編揃いだが、不思議なことにチンパンジーに言葉を教えようと試みた男の回想を語る「イスール」一篇は、短編集の中にも、ルゴーネス個人の選にも重ねて収録されている。ただ、訳が異なり、前者が内田吉彦氏。後者が牛島信明氏である。この企画はイタリアの出版社によるものであり、その場合、邦訳が異なることなど配慮の外である。なぜ、こんなことになったのか一言断り書きがあるとよかったのではないだろうか。

イタリア版編集者による序が付されたボルヘス本人の近作短篇が四編収録されているのもうれしい。いかにもボルヘス、といった分身譚の「一九八三年八月二十五日」、錬金術師の魔法を描く「パラケルススの薔薇」、理性を崩壊させる増殖する青い小石を描く「青い虎」、そしてボルヘス本人が「最良の一作」と手紙で知らせてきたという「疲れた男のユートピア」と、どれも期待にたがわぬ傑作である。巻末にマリア・エステル・バスケスによるボルヘスのインタビューを付す。お気に入りのモチーフについて気さくに語るボルヘスの肉声が聞こえてくる「等身大のボルヘス」。必読である。