青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『教皇ハドリアヌス七世』コルヴォー男爵 大野露井 訳

今年の翻訳大賞はこれで決まりだ。もう何年も前に『コルヴォー男爵を探して』(A・J・A・シモンズ、河村錠一郎訳)を読み、「これが今まで本邦初訳であったのがちょっと信じられない。稀覯本に限らず、奇書、珍書に目がない読者なら何を措いても読まねばならない一冊」と書いたことがある。そのコルヴォー男爵こと、フレデリック・ロルフの代表作『教皇ハドリアヌス七世』の本邦初訳である。

待つこと久し。待ちわび、待ちあぐね、ついには老齢のせいもあって、待っていたことさえ忘れ果ててしまった今ごろになって訳出されるとは。生きていてよかった、というと大げさに過ぎるが、期待を裏切らない出来映えである。ギリシャ語、ラテン語はおろか、多言語を素材に独自に作り出した造語まで駆使し、時代がかった擬古文やら、教皇庁ならではの格式ばった言い回しやら、或は打って変わったべらんめえ口調まで、作者の言葉遊びを日本語に置き換える作業を、訳者は多分苦労しつつも愉しんで翻訳されたにちがいない。読んでいて何度にんまりさせられたことか。

持ち重りする大冊ではあるが、小説としてはそれほど込み入った話ではない。司祭になりたいと願う青年が、周囲にその機会を阻まれ、何年にもわたって貧乏暮らしにあえいでいたところ、ある日突然教会側から謝罪と賠償を申し出られてそれを受ける(ここまでが序章)。話はそこからとんとん拍子に進む。念願の司祭となったジョージは枢機卿のお伴をしてコンクラーベが開かれている最中のローマに赴くが、本人の知らぬところで話はついており、あろうことか、到着早々ジョージは新教皇に選出されてしまうのだ。

およそ信じられない話の運びである。ところが、そこからが面白い。ハドリアヌス七世を名乗ることになったジョージは、ためらうことなく、長きにわたって思案し続けてきた教会の改革に乗り出す。旧弊な老人たちに支配されていたカトリックの総本山のトップに立つことで至上の権力を握った新教皇は、自分の目に適った連中を周囲に置くことで足場を固め、矢継ぎ早に改革を推し進める。彼は自分のために動いたのではない。当時、ロシアは革命の渦中にあり、世界中がその成り行きを見守っていた。俗界と距離を置くのではなく、新聞を通じて教皇の考えを広く大衆に知らせ、世界中のキリスト者に愛の力を訴え始めたのだ。

ところが、若く人好きのする教皇の人気が高まるにつれ、それを妬む者や、足元をすくって旨い汁を吸おうと考える輩が現れる。貧しい暮らしをしていた時分のジョージによこしまな恋心を抱いた未亡人と社会主義者のジャーナリストが、根も葉もない新教皇のスキャンダルを騒ぎ立てることとなり、それに乗じて教皇の行き過ぎた改革を苦い思いで見ていた守旧派が勢いづく。ハドリアヌスは退位を迫る守旧派とどう対峙していくのか、果たしてその顛末は、というのがおおよそのあらましである。

一般人には想像もつかないカトリック教会や神学校の内部の暗闘、桎梏。またローマカトリックの中枢であるバチカンの内幕など、その資金力から権力構造、イタリアやドイツといった周りを取り巻く世俗の国家権力との力関係等々を、中に足を踏み入れたこともない素人が、あれよあれよと言う間に最高権力者でなければ不可能な権力を行使するのを横目で見ていられる愉快さと言ったらない。才能こそあれ、一介の物書きでしかなかった青年のどこにこれほどの力が隠されていたのか、と周囲の者も恐れるほどの抜群の力量は神からの賜り物なのか。

ここらあたりで内幕をばらしてしまおう。実はこれ、コルヴォー男爵ことフレデリック・ロルフの自伝小説と言っても過言ではない。ロルフは英国国教会からカトリックに宗旨替えし、司祭を目指していたが、周囲の不興を買い、神学校を追い出されてしまう。その後も当初の志を失わず、絵や写真の才能を活かして生活費を捻出し、後には小説を書いたりもするが鳴かず飛ばず。そのあたりのことは序章に詳しい。このノンシャランとした序章と最後に告白されるジョージの本心との対比が凄まじい。屋根裏部屋で猫と暮らす平穏な日々の裏にどれほどの懊悩が隠されていたのか、クライマックスのジョージの独白と比べられたい。

しかし、いくら待っていても小説のように迎えが来るわけもなく、抜群の才能を誇りながらも世間に認められない芸術家の苦悩と自恃を創作の形で世に問うたのが『教皇ハドリアヌス七世』であった。自分の現状を写し取ったのが序章なら、もし自分が本来あるべき姿で人の前に立ったなら、こうもしたい、ああもできるはず、といった空想、妄想が勢いよく迸る形で体をなしたのが第一章から第二十三章までの部分である。特に、自分が落剥してからの周囲の連中の掌を返したような態度によほどはらわたが煮えくり返ったのだろう。作中にぶつけられた恨みつらみ、自己憐憫の何たる激しさよ。

ネガとポジ、陰画と陽画という比喩を使えば、この小説がポジで陽画なのだが、作家の実の姿はネガであり、陰画のままで終わっている。ではなぜそういうことになったのか。シモンズの本が出て、再評価の声が高まりを見せながらも今に至るまで邦訳が出なかったあたりにその答えがあるのだろう。人は一人で生きているようで実はそうではない。同じ時代を生きている多くの人々と共に生きているのだ。若い頃はそんなことは考えもしない。己が才を恃み、他を顧みることはない。ロルフにもその幣があった。時が移り、作品を客観的に評価してもらえる時代を待たねばならなかった。今なら、この小説の面白さは受け入れられるのではないか。多くの人に読んでもらいたい、と作者に代わって切に願うところである。