青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

2020-01-01から1年間の記事一覧

『ストーンサークルの殺人』M・W・クレイヴン 東野さやか 訳

イングランド北西部カンブリア州はなだらかな丘陵や山の多い地域。厳しい冬が過ぎ、春の日差しに露に濡れた芝とヘザーが輝いている。この地方独特の石壁の修復に一日を費やしたワシントン・ポーは天然石づくりの屋敷つきの小農場、ハードウィック・クロフト…

『誓願』マーガレット・アトウッド 鴻巣友季子・訳

静かなディストピア社会の怖さは、一定の形で社会が完成してしまうと、その中で暮らす市民にはそれが普通の状態に感じられ、何ら不都合のない社会のように見えてしまうことである。権力が軍や警察を使って暴力的な弾圧を行う、ラテン・アメリカ諸国の独裁主…

『ネヴァー・ゲーム』ジェフリー・ディーヴァー 池田真紀子・訳

ミステリの世界には、いろんな刑事や探偵がごろごろしている。新しい主人公を考える作家も大変だ。四肢麻痺で首から下が動かせない、リンカーン・ライムは画期的だったが、さすがに、行動に制約が多すぎて作家の方にもストレスがかかったのか、今度の主人公…

『私はゼブラ』アザリーン・ヴァンデアフリートオルーミ 木原義彦訳

ゼブラ(シマウマ)というのは本名ではない。父が死んだ時、木立ちを透いて棺の上に光が指して縞を作った。それを見て強烈なメッセージを受けた主人公が咄嗟に発したのが「私の名はゼブラ」という言葉だった。それ以来、彼女はゼブラを自称することになる。…

『指差す標識の事例』上・下 イーアン・ペアーズ 池 央耿 東江一紀 宮脇孝雄 日暮雅通 訳

<上・下巻併せての評です> 時は一六六三年三月。王政復古から三年がたち、イングランドは落ち着きを取り戻しつつあった。ヴェネツィアの貿易商の息子でライデン留学中のマルコ・ダ・コーラは、家業に持ち上がった騒動の対策のため、英国に到着した。ところ…

『言語の七番目の機能』ローラン・ビネ 高橋啓訳

評を書くときには、読者がその本を読む気になるかどうかを決める際の利便を考慮し、どんなジャンルの本かをまず初めに伝えるようにしているのだが、本書についてはどう紹介したらいいのか正直なところ悩ましい。シャーロック・ホームズ張りの推理力を発揮す…

『これは小説ではない』デイヴィッド・マークソン 木原善彦訳

シュルレアリスムの画家、ルネ・マグリットの画に「これはパイプではない」というのがある。紛れもなくパイプを描いた絵の下に、「これはパイプではない」と書かれているところに面白みがあるのだが、書かれていることはまちがっていない。『ウィトゲンシュ…

『アウグストゥス』ジョン・ウィリアムズ 布施由紀子訳

ジョン・ウィリアムズは長篇小説を四冊書いているが、一作目は自己の設けた基準に達しておらず、自作にカウントしていない。二作目が『ブッチャーズ・クロッシング』。三作目が第一回翻訳小説大賞読者賞を受賞した『ストーナー』。『アウグストゥス』は、そ…

『狼の領域』C・J・ボックス 野口百合子訳

やはり、ジョー・ピケットは容易に人の入り込めない深い山中にいるのが何よりも似つかわしい。普通の場所では、この男の魅力は引き立たない。今回はワイオミング州南部のシエラマドレ山脈が舞台。その頃、ボウ・ハンターが射止めた獲物のところに駆けつける…

『沈黙の森』C・J・ボックス 野口百合子訳

ジョー・ピケットは最近、このワイオミング州トゥエルブ・スリープ郡の猟区管理官になったばかりだ。かつて許可なく釣りをしたということで、州知事に違反切符を切ったことで有名な男だ。ライフルの命中率は高いが、拳銃はからっきしダメで、おまけに常時携…

『鷹の王』C・J・ボックス 野口百合子訳

ワイオミング州の猟区管理官ジョー・ピケットを主人公とするシリーズのいわばスピン・オフ。もちろんジョーも活躍するが、この作品の主人公はジョーではない。シリーズの多くの作品で主人公を助ける強力な相棒、ネイト・ロマノウスキが真の主人公だ。元特殊…

『ラスト・ストーリーズ』ウィリアム・トレヴァー 栩木伸明訳

ウィリアム・トレヴァーの絶筆「ミセス・クラスソープ」を含む、文字通り最後の短篇集。トレヴァーのファンなら誰でもすぐに手に取って読もうとするはずだから、こんな駄文を弄する必要もない。だからといって、初めての読者にぜひ読んでほしいと勧めようと…

『賢者たちの街』エイモア・トールズ

『モスクワの伯爵』で、とんでもない逸材を引き当てたと思ったエイモア・トールズの、これが長編デビュー作。一九二〇年代から一九五〇年代のロシアを舞台にしたのが『モスクワの伯爵』なら、これは一九三七年のアメリカ、ニューヨークが舞台。まるでタイム…

『死んだレモン』フィン・ベル

原題は<Dead Lemons>だから、邦題はほぼ直訳。辞書で引くと<lemon>には「できそこない、欠陥品」の意味がある。色と香りは抜群なのに、かじると酸っぱいからだろうか。レモンにしてみれば、とんだ言いがかりだ。<dead>には「まるっきり、すっかり」の…

『発火点』C・J・ボックス

コロラド州デンヴァ―にある環境保護局第八地区本部から、二人の特別捜査官が、ある件に関わる裁定文書をワイオミングまで届けに行くところから話は始まる。途中シャイアンの町で、陸軍工兵隊員の男と待ち合わせるが、男は二人が銃を携行していることに驚き、…

『ウィトゲンシュタインの愛人』デイヴィッド・マークソン 木原善彦訳

SF的な味わいのジャケットに惹かれて手を出すと裏切られる。たしかに、地球にただひとり残る女性が主人公であることはまちがいないが、なぜそういうことになったのかについての説明は一切ない。「汚染」という言葉が出てくるから、何かが起きたのだろう、と…

『スパイはいまも謀略の地に』ジョン・ル・カレ

ジョン・ル・カレは、映画にもなった『寒い国から帰ってきたスパイ』、『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(邦題『裏切りのサーカス』)、『誰よりも狙われた男』等々、数々の傑作をものしてきたスパイ小説の大家である。作家になる前は英国諜報…

『ホーム・ラン』スティーヴン・ミルハウザー

二〇一五年に刊行されたスティーヴン・ミルハウザーの短篇集<Voices in the Night>。何でも大きくて長いのが好きなアメリカでは短篇集でさえ厚い。日本でそれを訳すとなると、二分冊にするしか手はない。『ホーム・ラン』はその二冊の一冊目。残りは同じ訳…

『フライデーあるいは太平洋の冥界 トゥルニエ/黄金探索者 ル・クレジオ』

危機的状況に見舞われているというのに、マスコミは知らぬ顔を決め込んで、退屈な日常の風景を飽きもせず垂れ流している。大衆は大衆で、よせばいいのに狭い日本の中を右往左往、旅に出ては感染者を増やしている。他でもない、鳥や魚が人を恐れることなく近…

『影を呑んだ少女』フランシス・ハーディング

舞台は十七世紀の英国。いわゆる清教徒革命の時代。主人公の名はメイクピース。変わった名だが、ピューリタンが多く暮らす界隈に住むにあたり、母が改名したのだ。メイクピースは眠りにつくと自分の頭の中に幽霊が入りこもうとしてくる恐ろしい夢を見る。叫…

『アコーディオン弾きの息子』ベルナルド・アチャガ

<mother tongue>という言葉がある。「母語」という意味だが、「母国語」という訳語もある。真ん中の「国」だが、ほんとうに必要だろうか。半世紀も前のことになるが、高校の修学旅行で南九州を旅したことがある。市の方針で行き先が隔年で北九州と南九州に…

『結ばれたロープ』フリゾン=ロッシュ

登山の経験もなく、山の近くに住んでもいないのに、何故だか山の生活を書いた小説を見つけると読まずにいられない。自分には出来ないことをする人々への憧憬があるのだと思う。最近読んだものの中ではローベルト・ゼーターラーの『ある一生』やパオロ・コニ…

『夜の果てへの旅』L=F・セリーヌ

それでは、これがあの悪名高いセリーヌの代表作なのか。読み終えて意外な気がした。おそるおそる手に取ったせいかもしれないが、若い頃の作品ということもあり、まだ反ユダヤ主義は顔をのぞかせてもいない。それどころか、主人公はこんなことまで言っている…

『あの本は読まれているか』ラーラ・プレスコット

表題にある「あの本」というのが、ノーベル賞作家、ボリス・パステルナークの長篇小説『ドクトル・ジバゴ』。ソ連が出版を許可しないので、イタリアで出版され、瞬く間に世界中で翻訳され、ノーベル賞を受賞する。しかし、反革命的であることを理由に、ソ連…

『隠れ家の女』ダン・フェスパーマン

二つの時間軸と二つの都市で物語は進められる。二つの物語が進行していく過程で、それまでばらばらに置かれていたピースが、位置が定まるにつれ、少しずつ絵柄が明らかになり、一枚の画が現れてくる。これは二つの部屋を行き来しながらジグソー・パズルのピ…

『ユリシーズ1-12』ジェイムズ・ジョイス 柳瀬尚紀=訳

コロナの影響で家の中にいる時間が長くなっているので、ふだんはなかなか手をつける気になれない本を手に取ってみた。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』には、定本ともいえる丸谷才一ほか訳の集英社版『ユリシーズ』がある。『【「新青年」版】黒死館殺…

『あなたを愛してから』デニス・ルヘイン

ヒトは、生まれてすぐに一人で立ったり、ものを食べたりすることができない。誰かの世話を受けることが予め定められている。それだけではない。その誰かが問題だ。ヒトは可塑的な存在で、オオカミの中で育つと、オオカミのようにしか生きられない。つまり、…

『靴ひも』ドメニコ・スタルノーネ

父と母、兄と妹の、どこにでもいるごく普通の四人家族の話なんだけど、読んでいると、だんだん胸のあたりが痛くなってくる。普通の小説はここまで本音を書かない。人って、普通、本音で生きていない、だろう? ちがいますか? あなたは本当にしたいことをして…

『ザリガニの鳴くところ』ディーリア・オーエンズ

二つの小説がひとつに縒りあわされている格好になっている。一つは一九六九年に沼地で起きた一人の男の死の謎を追うミステリ仕立ての小説。もう一つは、その十七年前の一九五二年に始まる稀有な生き方を強いられた一人の女性の人生を追った物語である。 アメ…

『神前酔狂宴』小谷田奈月

若い人を主人公にして、一人称限定視点で語られているので、老人としてはなかなか入り込むことが難しかったのだが、そのうちに主人公が何にこだわりを抱き、何を自分の内側に入れることを峻拒しているのかが呑み込めて来ると、ああ、そういうことね、と理解…