青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『賢者たちの街』エイモア・トールズ

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『モスクワの伯爵』で、とんでもない逸材を引き当てたと思ったエイモア・トールズの、これが長編デビュー作。一九二〇年代から一九五〇年代のロシアを舞台にしたのが『モスクワの伯爵』なら、これは一九三七年のアメリカ、ニューヨークが舞台。まるでタイムマシンに乗ってその地を訪れているかのような、ノスタルジックな世界にどっぷり浸れるのがエイモア・トールズの描き出す作品世界。デビュー作とは思えない完成度の高さに驚かされる。

一九六六年十月四日の夜、中年の後半に差しかかっていた「わたし」はニューヨーク近代美術館で開かれた写真展のオープニング・パーティに出席した。黒のタキシードと色とりどりのドレスがシャンパンで酔っぱらう騒がしい会場を脱け出し、写真に見入っていた「わたし」は、その中に懐かしい顔を見つける。ティンカー・グレイ。二十年以上も前に撮られた二枚の写真には歴然とした違いがあった。一枚は金持ち然として疲れ、もう一枚はみすぼらしく薄汚れているものの眼が輝いていた。それには一つの物語があった。

舞台はニューヨーク、マンハッタン。一九三七年の大晦日の夜、二十五歳のケイティは、ルームメイトのイヴと連れだって、グレニッチ・ヴィレッジにあるナイトクラブに出かけた。ホット・スポットという名の店ではクアルテットがジャズのスタンダード・ナンバーを演奏していた。持ち金が切れ、誰かにおごらせようとしていたとき、カシミアのコートを着た男が現れた。兄に待ちぼうけを食わされたセオドア・グレイ。裕福な銀行家は愛称をティンカー(鋳掛屋)だと告げた。

一人の男に二人の女。典型的な三角関係のはじまりかと思ったが、予想は覆される。何日かたったある日、二人を乗せたテディのメルセデスがトラックに追突され、イヴが顔と脚に大けがを負ってしまう。責任を感じたテディは、退院後イヴを自分の高級アパートに同居させた。イヴの表現を借りるなら、「壊したから買ったの」だ。ルーム・メイトを失ったケイティは下宿を出て一人で暮らし始め、二人と会うことは稀になった。

ケイティの本名はカティヤ。ロシア移民のコミュニティのあるブルックリンのブライトンビーチ育ちだが、現在はウォール街の法律事務所で秘書をしている。そういう意味では、サクセス・ストーリーの勝ち組である。イヴはインディアナ州の富裕層の娘で気ままな暮しに憧れてニューヨークにやって来た。ティンカーはケイティの読みではボストン生まれでアイヴィー・リーグ出身という上流階級に属する。

一人の男をめぐる女たちの物語であると同時に、社会階層の上昇と転落の物語でもある。ニューヨークにアール・デコ様式の摩天楼が聳え立ちはじめた三十年代。資産家やその子息たちは何かというと広大な敷地内で豪勢なパーティを催していた。運転手付きのベントレーロールス・ロイスの後部座席に乗り込んで、高級レストランやバーに出かけては仲間同士の集まりを楽しむ、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』のような世界が、小説を鮮やかに彩る。

その中には、テディの学校の上級生で、父親の後を継いだウォルトのような衒いのない本物の紳士もいれば、ディッキーのような若くて陽気な資産家の嫡男もいる。テディと暮らすうちに、イヴはその中に苦もなく入り込んでいく。そんなイヴは周囲の目にはテディの妻の座を射止めようとする野心家のように見えていた。ケイティもまた、秘書仲間の誘いで、彼女たちの兄弟が催すその種のパーティに顔を出すようになっていた。

摩天楼の最上階から下界を見下ろす気分や、シャンパンやマティーニを飲んで出来たばかりのフランス料理店で極上の料理を味わう気分が、ケイティの眼を通してふんだんに披露される。多少、スノッブの匂いがする気がしないでもないが、これが「わたし」の回想視点であることを思い出せば、これくらいは許されるだろう。素のケイティはディケンズをこよなく愛する読書好きで、作中にはウルフやヘミングウェイといった当時の人気作家の文章が至る所に鏤められ、文学好きの心をくすぐる。

大方の予想を裏切って、イヴに逃げられた傷心のテディはケイティに救いを求める。焼けぼっくいに火がついて、二人はつきあい始める。ところが、またもや邪魔が入る。今度はテディという人間にまつわる秘話だ。テディは苦労知らずのアイヴィー・リーガーではなかった。父の失敗のせいで学費が払えなくなり、プレップ・スクールを退学した過去を持つ。転落のハンディを背負いながら、必死で頑張ってもとの場所まで這い上がってきたのだ。

親から受け継ぐのは、資産だけではない。食事のマナーや社交上の儀礼、服装や会話の品格といったブルデューのいう「文化資本」がものを言う世界。ワシントンの小さな本を読んだくらいでは身につくものではない。そういうことには厖大な金がかかるのだ。しかし、テディはそれを身につけることができた。そこに彼の秘密があった。あるとき、ケイティは偶然、それを見つけてしまう。それがテディとケイティとの仲を裂くことになる。

冬に始まった関係が春を迎え、秋を知り、再び冬を迎える。季節の移ろいの中で、人々もまた移ろってゆく。ニューヨークという、世界に二つとない魅力にあふれる場所で繰り広げられる、粋で洒落ていて、疾走するジャズのように、目まぐるしい人間模様。ノスタルジックでありながらヴィヴィッドなムード満載の恋愛小説であり、勇気を持ち、真摯に自分の人生を生き抜こうとする人々の人間群像を描いた都市小説でもある。

原題は<RULES of CIVILITY>。巻末に付録としてついている、若き日のジョージ・ワシントンが記した『礼儀作法のルールおよび交際と会話に品位ある振る舞い』の前半部分を踏まえているのだろう。このままでは、書店でハウツー本のコーナーに並べられかねないのを危惧して、邦題を『賢者たちの街』としたのだろうが、この小さな本は、作品の中では重要な役割を果たしている。そのまま『礼儀作法のルール』で、よかったのではないだろうか。