青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『指差す標識の事例』上・下 イーアン・ペアーズ 池 央耿 東江一紀 宮脇孝雄 日暮雅通 訳

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<上・下巻併せての評です>

時は一六六三年三月。王政復古から三年がたち、イングランドは落ち着きを取り戻しつつあった。ヴェネツィアの貿易商の息子でライデン留学中のマルコ・ダ・コーラは、家業に持ち上がった騒動の対策のため、英国に到着した。ところが、頼みにしていた代理人は死亡、父の資産は事業の協力相手に奪われてしまっていた。あいにく路銀も底をつき、一夜の宿もままならぬ身。ライデン大学で教えを受けたシルヴィウス師の紹介状を手に、急遽オックスフォードに向かう。

当時オックスフォードには、後に「ボイルの法則」を発見することになる、若きロバート・ボイルほか、ジョン・ロックやクリストファー・レンといった錚々たるメンバーが毎夜、エールを酌み交わしては科学や哲学論議に花を咲かせていた。ボイルがいると教えられたコーヒー・ハウスで、コーラは一人の女が男に頼みごとをし、邪険に断られる場に出会う。困っている娘を放っても置けず、耳にした話から、医学の心得があることを告げ、援助を申し出る。

女の名はサラ・ブランディ。母親が怪我をしたが医者を呼ぶ金がなく、元の雇い主に急場の助けを請い、断られたのだ。コーラは応急手当てを施し、その後も毎日様子を診に行くが、友人の医師リチャード・ローワーと地方へ出かけている間に、サラが殺人犯として拘留されてしまう。殺されたのはグローヴという大学教師で、死因は毒殺。サラの元の雇い主であり、馘首されたのを恨んでの犯行、というのが逮捕の理由。裁判の結果、サラは罪を認め、絞首刑となる。

「『薔薇の名前』×アガサ・クリスティ」という、惹句が目を引く。事件の裏には二通の文書があり、いずれも暗号化されている。暗号を解く鍵は一冊の本。舞台はオックスフォードの学寮、そこで毒殺事件が起きるという、まさに『薔薇の名前』仕立て。本作は四人の手記からなり、視点が変わる度に事実と目されていたことが、次々とひっくり返されてゆく。誰もが「信頼できない語り手」というわけだ。日本なら映画『羅生門』か、その原作である芥川龍之介の「藪の中」だが、英国ならクリスティの『アクロイド殺し』だろう。

手記を書いたのは、ヴェネツィア人学徒マルコ・ダ・コーラ。トリニティ・カレッジ法学徒ジャック・プレスコット。オックスフォード大学幾何学教授ジョン・ウォリス。歴史学者アントニー・ウッドの四人。殺人が起きたのは一六六三年だが、四人の手記を読むと、事件の始まりはそれよりずっと以前にあることが追々分かってくる。ことは、宗派対立と王を補佐する地位をめぐる権力闘争、という国を揺るがす大事に繋がっていた。

ジャック・プレスコットの父は王党派の軍人で剛毅清廉の士として知られていたが、何者かの讒言で内通者と断罪され、国外に逃れた後死去。家門は没落、領地は後見人の手に渡り、プレスコットはすべてを失う。父を信じる息子は、真実を求めて関係者に話を聞いて回るが、誰も相手にしない。追及し続けた結果、真実を知る手がかりは二通の文書にあることが分かる。文書は手に入れたものの、その際、後見人に重傷を負わせたかどで、プレスコットは逮捕されてしまう。

ジョン・ウォリスは微分積分学への貢献で知られる数学者だが、暗号研究者としてクロムウェル政権の国務大臣であったジョン・サーロウに雇われていた。クロムウェルには何度も暗殺が企てられており、サーロウは大陸にスパイを送って情報収集に余念がなかった。ウォリスは謀略のあることを知り、大陸から来たマルコに疑いを抱く。人を通じて素性を探らせた結果、コーラは貿易商の子ながら、トルコとの戦いで功績のある軍人だと分かる。

サラの父は、清教徒革命の中で最も急進的な、土地均分などを要求した水平派の指導者だった。ジェントリ(郷紳)層を中心とする独立派と相容れず、国王処刑後、独裁を強めるクロムウェルにより弾圧され、一家は町の中で孤立していた。民間療法に通じ、自然治癒力を持つサラを頼る者も多かったが、魔女だという悪い噂もついて回った。アントニー・ウッドは、そんなサラを愛し、何かと世話をしていたが、プレスコットの告げ口でグローヴとの仲を嫉妬し、二人は別れてしまう。

マルコ・ダ・コーラは人は良さそうだが、その正体が知れない。ジャック・プレスコットは父を信じることにかけては熱心だが、狂信者で人を人とも思わない陰謀家だ。ジョン・ウォリスは自身に対する思い入れが強く、一度こうと思い込んだら容易に意見を変えようとしない。「信頼できない語り手」ばかりだ。そんななか、名誉や地位に執着しない学究肌のアントニー・ウッドだけは信頼できそうだ。最後の語り手であることからもそれは分かる。

これといって探偵役をつとめる人物が見当たらず、推理らしい推理がされることもない。ひとつトリックがあるが、誰にでも分かってしまう初歩的なもので、ミステリとして、クリスティは過褒だろう。だが、王立協会の母胎となる会合に集う若者たちと旧体制にどっぷり浸かった長老派との対立や、清教徒イングランド国教会ローマ・カトリックの間に根づく宗教対立を含んだ、イングランドの複雑に入り組んだ権力争いを、ミステリの形式に落とし込んで、文庫上下巻で千ページを超える長丁場を最後まで読ませる力量は大したもの。

ボイルの「空気ポンプ」を使っての実験や、リチャード・ローワーによる史上初の人体間の輸血など、科学時代の幕開けを告げる動きがある一方で、あたりにはまだ、魔女や魔法、霊や錬金術が跋扈していた。混乱を極める時代の黎明期、歴史に名を残す実在の人物を多数配し、それぞれの経歴に応じた役どころを与え、一大歴史ミステリを仕立て上げたイーアン・ペアーズの力を評価したい。中でも、一六五五年にオックスフォードで絞首刑になったアン・グリーンをモデルにした、サラ・ブランディの造形が光る。『ストーナー』の訳者、東江一紀氏はじめ、名だたる訳者四人が、四つの手記を訳し分けているのも魅力だ。