青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『あなたを愛してから』デニス・ルヘイン

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ヒトは、生まれてすぐに一人で立ったり、ものを食べたりすることができない。誰かの世話を受けることが予め定められている。それだけではない。その誰かが問題だ。ヒトは可塑的な存在で、オオカミの中で育つと、オオカミのようにしか生きられない。つまり、ヒトとして生きるには、ヒトの中で育ち、ヒトとして生きられるような教育を受ける必要がある。そういう意味で、誰に育てられ、どんな社会の中で育つかは、その人の人格や自我を形成するうえで非常に重要な意味を持つ。

「自分」というのは、それほどまでにあやふやな基盤の上に出来上がったものなのであって、自信をもって「自分」は、といえるようなそんな大丈夫なものではない。物心ついたころには「自分」というものができ、それを「自分」と感じるようになるが、意識できる「自分」というのは、その一部に過ぎず、無意識という底の知れない闇の中に、どんな自分が潜んでいるのやら、それは誰にも窺い知ることはできない。

レイチェルはベストセラー作家の母親の手一つで育てられた。エリザベス・チャイルズは魅力的で、才能豊かな女性だったが、他人を自分の中に入れることができない人だった。それでは孤立していたかといえばその逆で、人を思うように操り、思うようにならない時は、あらゆる手を使って追い落としをはかる、そんな人物だった。ただ、我が子のレイチェルは愛していた。母の眼から見た娘は純粋でおおらかすぎた。娘を守るためなら離婚さえ辞さない、そんな女だった。

レイチェルはそういう人に育てられた。母が父のフル・ネームを教えてくれなかったので、母の死後、レイチェルはジェイムズという名前を頼りに父を探しはじめる。私立探偵を雇ったが、よくある名前で特定するのは無理だと諭される。ブライアンという探偵は、後にレイチェルの夫になる。そして、レイチェル三十五歳の五月のある晩、ブライアンはボート上でレイチェルに銃で撃たれ、海中に沈む。話はそこから始まる。

三章仕立ての第一章は、父親捜しをするレイチェルの姿が描かれる。記者となったレイチェルは、自分をとりあげた産婦人科医から父の名前を聞き出す。父の名はジェレミー。ジェイムズは姓だったのだ、しかし、血はつながっていなかった。母は、自分の子だと認めない父を追い出し、狂気ともいえる手段を講じて娘に連絡を取ることを禁じた。事実を知ったレイチェルは、義理の父と親交を深めるが父は病いで倒れてしまう。

テレビのレポーターになったレイチェルは、ハイチ地震を取材するため、首都ポルトープランスを訪れ、その惨状に衝撃を受ける。人々は住まいを奪われ、無政府状態となった首都では女性は危険な状態に置かれていた。レイチェルは幼い少女を暴漢から守り切れず、自責の念に駆られ、パニック障害を引き起こす。レポーター業も廃業し、引きこもりとなってしまう。そんな時、偶然出会ったのがブライアンだった。

どんな時もポジティブで、人に優しいブライアンの助けで、少しずつ人前に出られるようになったレイチェルはブライアンと結婚し、幸せに暮らしていた。パニック障害が起きそうになるのは、木材業を営むブライアンが外国に出張している間だけだった。その日も、ブライアンはロンドンに向かっているはずだった。たまたま外出していたレイチェルはあるビルから出てくるブライアンを目撃してしまう。

電話をすると、ブライアンは飛行機の中だという。バッテリー切れで電話は途中で切れた。次にかかってきた電話に、自撮り写真を送るようにいうと、ホテルの外にいる写真が送られてきた。しかし、一度疑念が生じると、それまでの信頼は失われてしまう。自分は夫のことを何も知らないことに気づく。次の出張の日、レイチェルは夫の車を尾行する。案の定、車は空港へ向かう道をそれ、一軒の家に向かう。そこにはお腹の大きいきれいな女性がいて、花束を持った夫がそのお腹に手を当てているではないか。

男が二人の妻をもち、二重生活を営む話は、アメリカで実際にあった有名な事件だ。レイチェルは夫のビジネス・パートナーであるケイレブを呼び出し、銃で脅して夫の居場所に連れて行けと迫る。それまでのレイチェルとはまったく打って変わった人格が表に出てくる。カメラの前でパニック障害を起こして解雇されて以来、外に出るのが怖くて、地下鉄にも乗れなかったレイチェルが、自分で車を運転し、高速道路で追い越しをかけてきた相手と競うことまでやってのける。

それまでの自分をかなぐり捨てて、やっと本来のレイチェルが外に出てきたのだ。完璧な理論を振りかざし、娘を自分の手中に収めていた母親の愛情という名の檻に閉じ込められていたレイチェルはいわば「鏡のなか」にいた。そこから出るのが不安で、孤独で仕方がない。それでパニック障害を引き起こす。そこから救い出してくれたのがブライアンだった。その愛する夫が自分を騙していた。誰にも頼れない。とことん追い詰められたとき、人は本当の自分しか頼るものがないのだ。

第三章は、ブライアンの正体が暴かれ、レイチェルもまた事件の渦中に放り込まれる。家に帰ったレイチェルのもとに刑事がやってくる。ブライアンが話していた妊婦が殺され、その容疑がブライアンにかかっているという。ブライアンの居所を聞かれ、水底にいるとも言えず、刑事に偽証するレイチェル。ブライアンは危ない橋を渡っていたらしい。刑事が帰った後、騙し取られた金を取り返しに殺し屋がやってくる。殺し屋と警察から逃げるレイチェルの逃亡劇が始まる。

第三章はそれまでとは全く異なる、ハラハラドキドキのクライム・ノヴェル。鏡の中から出てきたレイチェルは、母親譲りの頭脳を働かせ、ブライアンの残した手がかりを追跡し、隠れ家を襲う。そこで出会った真実とは? エピグラフに「仮面をつけ、われは進む―ルネ・デカルト」とある。すべては最初から仕組まれていた。見事な伏線がしかれ、それが次々と回収されてゆくその手際の鮮やかさ。レイチェルとブライアンの人物造形が非常に魅力的で、上出来のスリラーであり、ノワール調のラブロマンスでもある、という贅沢な一篇。