青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『狼の領域』C・J・ボックス 野口百合子訳

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やはり、ジョー・ピケットは容易に人の入り込めない深い山中にいるのが何よりも似つかわしい。普通の場所では、この男の魅力は引き立たない。今回はワイオミング州南部のシエラマドレ山脈が舞台。その頃、ボウ・ハンターが射止めた獲物のところに駆けつけると、エルクは既に解体され、誰かが肉を持ち去った後だったという奇妙な事件が起きていた。他にも、キャビンが荒らされたり、車の窓ガラスが割られたり、立て続けに変事が起きていた。

ワイオミング州猟区管理官のジョーは、かつてブッチ・キャシディも姿を見せた山間の僻地バッグズに単身赴任中だったが、トゥエルブスリープ郡に空きができ、やっとのことで家族のもとに帰れることになった。人間のことは保安官に任せてもいいが、エルクのことは自分の仕事だ。ことの起きた現場を確認し、何があったのかを探ろうと、五日間のトレッキングを思い立ち、馬に乗って単身山に分け入った。なに、ひとりで山にいることが好きなのだ。

二年ほど前、オリンピックに備えて高地トレーニングに励んでいた女性長距離ランナーが行方不明になり、捜索隊の一員としてシエラマドレ山脈に入ったことがある。結局ランナーを見つけることはできなかったが、着衣の一部なりとも見つからないかと目を凝らしていたジョーの目にとまったのは男だった。圏谷(カール)にできた湖で不審な男が魚を釣っていた。決められた数以上釣っていて、許可証も携帯していなかった。

ジョーは杓子定規な男だ。相手は大男でこの山にも詳しそうだった。相手の言う通り見逃せばよかったのだが、それができない性分だ。男の名はグリム。キャンプには双子の兄がいて、つまりはグリム兄弟。違反切符を切るジョーに、兄の方は議論を吹っ掛け、一歩も退かなかった。まるでジョーの方が不法侵入者だとでも言いたげだった。そして、兄弟はジョーの後を追い、矢を放つ。矢はジョーの太腿を貫通し鞍を突き抜け馬体に刺さった。

二頭の馬が殺され、ショットガン、カービン銃も相手の手に渡ったとなっては多勢に無勢、逃げるしかない。山の中に灯りを見つけ、キャビンの戸を叩いたところで気を失った。助けてくれたのはテリという女性で兄弟とは旧知の仲。結局、兄弟にキャビンを襲われ、ジョーは窓を突き破って危ういところで難を逃れたが、傷ついた足を引きずりながら山を下り、麓の牧場で助けられ、病院に運ばれるという体たらくだ。

いつも間の悪い所に立ち会ってしまうのがジョーという男だが、今度ばかりは最悪だった。おまけに悪いことに、ジョーの供述を聞いて山に出動した保安官の一隊は、馬やエルクの死骸も、焼け落ちたキャビンの跡も何一つ発見できなかった。ジョーは大嘘つきだと皆に思われたのだ。州知事はジョーを休職させ自宅待機を命じた。一番まずいのは、兄弟に一矢報いることもできず、逃げ帰ったことで、ジョーは山の中に自分の大切なものをおいてきてしまった。勇気と自信である。

そんな夫に異変を感じた妻は、山に戻り、やるべきことをするよう夫を励ます。もちろん、頼りになる元特殊部隊員のネイトを連れて。つまり、これは徹底的に打ちのめされ、自信喪失した男がもう一度チャンスを与えられ、リヴェンジを果たせるかどうか、という物語である。もっとも、そこには例によって、政治家と実業家の仕組んだ陰謀が隠されていて、グリム兄弟と女性ランナーはそれと深いかかわりを持っていた。

本編が他のシリーズ作品と異なるのは、ジョーが対決するのが巨悪ではないということだ。事件の経緯を知るにつけ、兄弟の境遇には多分に同情の余地がある。自然の中で誰ともかかわらずに生きているという点で、兄弟はむしろジョーやネイトと共通する志向を持っている。一つ違うのは、ジョーは州政府によって雇われた、彼等のいう「政府側の人間」であることだ。やむなく連邦政府との関係を断ち、人目を忍ぶ生活を選んだネイトや、やむを得ず山に籠った兄弟は、ジョーが属する政府側にとって目障りな存在だった。

このねじれた関係がことをややこしくする。これまでネイトはいつ如何なる時でもジョーの側に立っていたが、ここで初めて、無条件でジョーの側に立つのをやめ、第三者的な立場をとる。これは今までにない展開である。長谷川伸の股旅物はウェスタン小説の翻案だという説を読んだことがある。敵対する相手に親近感を抱きながら、一宿一飯の恩義のために戦わざるを得なくなる、という話は『沓掛時次郎』をはじめ、他にいくらでもある。

これまで、このシリーズは、悪漢と善玉ははっきりしており、ジョーはゆるぎのない正義の執行者という立場に立っていた。ところが、この巻においては、あのネイトでさえ、ジョーを支持しない。無論ネイトはアウトローだ。初めから猟区管理官と行動を共にするのがおかしいのだが、今までは恩義のためにジョーに従ってきた。しかし、今回を境に二人は別の道を歩くことになるのだろうか。新機軸を開いたことで、今までにない憂愁を漂わせることになった『狼の領域』は、シリーズ中特別な意味を持つ一篇になったと言えよう。