青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『回復する人間』ハン・ガン

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周囲四キロに満たない小さな島で暮らしていたことがある。そこの子どもたちは年上の子の名前の下に兄(にい)や姉(ねえ)をつけて呼んでいた。初めは島中が親戚なのかと思っていたが、血縁とは関係なく、年長者への敬意を表すためのもので、大人の間でも親しい間柄ではそう呼び合うのだ。お隣の韓国にもそういうことがあるらしい。

表題作を含む七篇からなる短篇集である。その冒頭に置かれた「明るくなる前に」の「私」は、同じ雑誌社の先輩をウニ姉さんと呼んでいる。過失ともいえない不幸な巡り合わせで弟を亡くしたその人は、雑誌社を辞めてから、一年の大半をネパールやチベットの山地やタクラマカン砂漠ゴビ砂漠で過ごすようになった。

そのウニ姉さんの唐突な死を受けて、作家である「私」が彼女とのそれまでの会話を思い出す。二人が抱えていたそれぞれの悪夢について。ウニ姉さんが弟の死について自分を責め続けているように「私」には娘を連れて家を出るに至った経緯がある。怪我や病気、別離の経験を通して、大きな何かを失った者の、もがくような苦悩を潜り抜けての回復が全篇を貫く主題になっている。

表題作は未来から過去と現在を語る二人称回想視点で語られる。「あなたは」と語る話者は未来の「私」。ある喪失を起因として疎遠になった姉妹の妹が主人公。その姉の死が「あなた」を追い詰める。両親にも言えない秘密を共有した結果、姉は妹に心を開かなくなる。過去は変えることができない。ましてや相手が死者である場合には。過去と現在と未来、三つの時系列を往還して、二人にとって桎梏となった取り返しのつかない確執が語られる。生きる喜びに溢れた過去の「あなた」に語りかける未来の「私」の言葉が辛い。

エウロパ」は、恋人関係にない男女の捻れた関係を描く。会社勤めの「僕」には、イナという女友だちがいる。なぜ、恋人になれないか。それは「僕」が女の子になりたい男の娘(こ)だからだ。「僕」にとってイナは自分がなりたい女の子だった。男として女に欲情はするものの、女のなりをしたい男。たぶん「僕」を愛しているが、過去の何かがそれに蓋をして、一歩を踏み出せない女。イナの歌う「エウロパ」の歌詞が二人の緊張感を孕んだ関係を象徴する。

フンザ」は、非常勤の大学教師の夫と一人息子との暮らしを支えるため、睡眠を削って働く女の物語。「私」は通勤に使っている高速道路上でパキスタンにある桃源郷のような村、フンザについて考えている。逃げられない現実からの束の間の現実逃避。しかし、時が経つにつれ当のフンザが変貌してゆく。最早「私」が夢見るフンザは存在しない。二進も三進もいかない暮らしの中で夢見ることすら許されない「私」を圧し拉ぐ絶望的な状況。

年の離れた画家への思慕を、同い年になった「私」が、先に逝ってしまった「あなた」に優しく語りかける「青い石」。しみじみとした語りであるのに、ここにも日常の中に待ち受けている暴力の陰が潜んでいる。血が止まらない病気を持つ「あなた」が怪我をしないように気をつける所作をそっと見つめる「私」の中にもある残忍な心。死とは何か、生とは何かを静かに問う一篇。

「左手」は、この短篇集の中では異色作。平凡な会社員である「彼」は、ある日執拗に自分を罵る上司の口を押えていた。左手が勝手に動いたのだ。左手の暴走はそれだけにとどまらなかった。かつて憧れていた女性との出会いも、左手がお膳立てした。どうやら「彼」の左手は心の裡に押し隠されていた内的欲求の発露らしい。人は衝動に従って生きれば身の破滅を招く。だから誰もが内心を秘し隠し、社会通念に従って生きている。しかし、果たしてそれが本当に生きるということなのか、と逆説的に問いかけている。

掉尾を飾るのは回復の主題に正面から迫る「火とかげ」。「私」は、交通事故で左手が動かなくなる。それをかばって無理をした右手も傷めてしまう。家事のできなくなった妻に夫は冷たい。そればかりではない。腕の動かない画家など幽霊と同じ。そんな時、昔の友人から、写真館で「私」の写真を見た、との電話。身に覚えのない写真が気になって、写真館を訪れた「私」は、その写真を撮ってくれた男のことを思い出す。過去との思いがけない遭遇が「私」を蘇らせる。蜥蜴の尻尾が切られても元通りに生えてくるのを思い出した。

主人公は女性。誰もが現実の生活の中で傷つき、苦しんでいる。個人的な原因の背後に子どもを生み、家事をするのは女性だという考えがある。家庭内暴力の影も見え隠れする。年上の相手を呼ぶときに「姉さん」をつけるという習慣は年長者を敬う「美風」なのかもしれない。しかし、社会的な慣習は当事者が望む望まないにかかわらず一方的に服従を強いるものにもなる。それは韓国に限らない。教育勅語をありがたがる日本にも根強く残っている。

恢復期というのは、病や傷が癒えてくるころのことで、さすがに痛みも薄れ、熱も退いてくる。しかし、まだ本復には遠い、けだるいような日々の、あの原状復帰を待つ日の楽しさを期待すると裏切られる。『回復する人間』という表題には、むしろ、人間は回復するはずであり、回復されなければならない、という祈りにも似た強い思いが込められている。絶望的な状況の中、必死に生きる者たちの語られない闇にどこまで近づけたのか、と厳しく問われている気がする。