青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『アックスマンのジャズ』 レイ・セレスティン

f:id:abraxasm:20160620121315j:plain

ハリケーンが迫りくるニューオーリンズの街を舞台に、連続殺人鬼を追う三組の探偵役の活躍を描く長篇ミステリ。時は1918年、ジャズ発祥の地であるニューオーリンズでは、アックスマンと名のる斧を使った殺人犯による連続殺人が起き、市民は恐怖に震えていた。ジャズが好きなアックスマンは新聞社に宛てて犯行予告を送り、その時刻にジャズが演奏されている家は見逃す、と書いていた。当時、流行の兆しを見せていたこともあり、ジャズを演奏させるレストランが続出しバンド・メンバーは大忙し。怖いもの見たさで街に繰り出す酔狂な連中で街はマルディグラの狂騒状態に陥る。

アイルランド系の刑事マイクルは、アックスマン事件の捜査で指揮をとっていたが、四件目の事件が起きても犯人の手がかりすらつかむことができず焦っていた。上司のマクファースンからは捜査失敗の責任を負っての解任が仄めかされ、もしさからえば、家庭の事情をかばいきれないと、脅しめいたことも言われる。実はマイクルには黒人の妻とその間にできた二人の子がいる。時代が時代であり、南部のニューオーリンズでは白人と黒人の結婚は考えられないことだったのだ。

しかもマイクルには別の困難な事情があった。先輩刑事のルカを告発して刑務所送りにしたことで、仲間の刑事の反感を買っていた。ニューオーリンズには、ザ・ファミリーと呼ばれるイタリア系のマフィアが根強い力をふるっていて、その力は警察内部にも及んでいた。ルカに限らず、多くの刑事がドン・カルロの組織と通じており、マイクルは署内で孤立していた。そんな時、同じアイリッシュで新人のケリーが協力を申し出てきた。力を得たマイクルは家族を守るため捜査に邁進する。

同じ頃、模範囚で一年刑期を短くされたルカは、刑務所を出たばかりだった。ニューオーリンズに戻ったルカはドン・カルロを訪ねた。頼りたくはなかったが、ファミリーの銀行に貯めていた金が警察に摘発されたため、イタリアに帰ることもできなかったからだ。ドンは、ルカに当座の金と住まいを用意し、アックスマンが誰かを突き止めたら、組織から抜けさせることを約束する。昔なじみの刑事から事件の捜査資料を見せてもらったルカは犯人が現場に残したタロット・カードがブードゥー巫女のところで見たフランス式タロットであることを見抜き、クレオールに目をつける。

かつての情報屋からブードゥーについて知りたいのなら、ある女を訪ねるといいと教えられ、バイユーに足を踏み入れる。映画『ノーマーシー/非情の愛』で、リチャード・ギアキム・ベイシンガーが逃げ惑ったあのマングローブの枝という枝からスパニッシュ・モスが垂れ下がった湿潤で陰鬱な低湿地帯だ。そこで、訪ねてくる患者に医療を施していたのがシモーンというクレオールの美女。マルセイユ・タロットについてはたいした情報は得られなかったが、ルカはシモーンに魅かれるものを感じた。

三組目の探偵役は有名なピンカートン探偵社に勤務するアイダ。警察官志望だったが、女であることとわずかながら混じっている黒人の血のおかげで警察官になれず、それならと女も雇っているピンカートン探偵社に応募したが、今のところは受付しかさせてもらえてない。なんとか探偵として認められたいと思い、独りでアックスマン事件を調査し始める。このシャーロック・ホームズに憧れる女探偵の相棒を務めるのが、なんと、当時売り出し中のコルネット奏者、ルイス・アームストロング。あのサッチモの若き日の姿である。作中で繰り広げる即興演奏に聴衆が興奮するところなど、ジャズ台頭期のニューオーリンズの熱気をよく伝えている。

もっとも、この駆け出し探偵、ホームズには似ても似つかない足で稼ぐタイプ。若い女一人では張り込みや聞き込みも難しいからと父に演奏を教えてもらっていた頃からの友だちであるルイスを相棒役にしている。あやしい男の後をつけたり、人の家に忍び込んだり、と危なっかしい捜査を続けるが、大事な勘所は押さえている。危険な目にあうアイダを何とか助けようとするルイスの経歴その他は、現実のサッチモのそれをなぞっており、困難な状況下でがんばる若いミュージシャンに声援を送りたくなってくるが、音楽家は殴り合いには不向きだ。指や唇を怪我したりしたら商売が上がったりになる。

この三者三様の探偵役が視点を交代しながら犯人に迫るのがミソだ。プラス面としては、いろんなジャンルのミステリを読んでいる気分が味わえるところか。マイクルと彼を慕うケリーの警察官コンビは、署に巣食う悪徳警官やその背後に潜む巨悪との対決を一身に背負っている。正義の告発者が仲間に総スカンをくらうというのも警察小説によくある話だ。刑事としての能力も魅力もルカに劣るマイクルは、かつてルカが自分を仕込んでくれたように若いケリーを育てようとすることで、力と自身を得る。

ルカは好んでマフィアの手先になったわけではなかった。同じシチリア出身ということで、若くしてファミリーによって警察に送り込まれてしまったのだ。過去を持つルカが、シモーンによって身も心も癒されてゆくあたりは、この小説の中でいちばん読ませるところだ。アックスマンに最も接近するのもルカである。バイユーの低湿地帯で繰り広げられる追走劇はハリケーンによる洪水という状況もあって迫力満点。ハードボイルド小説のノリである。

アイダとルイスのコンビは、ホームズとワトソンを意識しているのだろうが、本家からの引用等それなりに楽しませてくれるものの、ホームズ物の味わいには乏しい。むしろ、毛皮をまとった大男が短剣をふるって襲いかかるところなど、ルパンやホームズ以前の犯罪小説風の雰囲気というほうがふさわしい。マイクルやルカがきれいごとではすまない男社会の中で生きるため、心ならずも手を汚さなければならない、どちらかといえば陰の役割を任されているため、陽のキャラクターとしてアイダとルイスの若さが必要だったのだろう。

マイナス点としては、三つの異なる小説を同時に読んでいるようなまとまりのなさがあげられる。個人的には、ルカが担当するハードボイルド・バージョンがもっとも好みで、次がマイクル、ケリーによる警察小説バージョン。ニューオーリンズのような大都市に蔓延る悪徳に対峙するにはアイダのような若い娘や、ただのミュージシャンに過ぎないルイスには荷が重過ぎる。ここだけヤング・アダルト小説のような雰囲気が漂うところに違和感が残る。もっと徹底してリアリズム路線で書いてもらいたかった。

イタリア系、アイルランド系、クレオール、黒人といった異なる人種が、それぞれの勢力範囲を持ち、緊張関係をはらんで住み分けるという独特の歴史を持つニューオーリンズ。その街を背景に、実際に起きたアックスマン事件を活用し、ロンドン在住という身でありながら、登場人物にニューオーリンズの市中を縦横無尽に歩き回らせるのみならず、ジャズに湧く群衆の喧騒、ハリケーンによる大洪水まで一切合財を放り込み、処女長篇を書き上げた著者の実力には脱帽する。ただ、あまりにも人が死にすぎる。こんなに殺さなくてもよかったのではないか、と言いたくなるのは、こちらが平和ボケした日本人だからだろうか。

『黄金の少年、エメラルドの少女』 イーユン・リー

f:id:abraxasm:20160617154830j:plain

結局は人間なのだろう、どんな面白い小説を読んだとしても、読後に残る充たされたという感じをあたえてくれるのは。イーユン・リーの小説が他の作家のそれと特別に変わっているわけではない。強い影響を受けたとされるウィリアム・トレヴァーの作品や、エリザベス・ボウエンのそれと比べても、共通する世界がそこにあるのを感じる。ひとつ異なるとすれば、作家の実年齢がある。人生経験を積んだ先輩作家に比べれば、リーはきわめて若い。その短い人生のどこを探ったら、こんなに深い陰影をもった人間が描けるのだろうか。

「優しさ」は、収録作の中で最も長く、ほとんど中篇といっていい作品だが、中篇という概念のないアメリカでは、優れた短篇に贈られるO・ヘンリー賞を受賞(2012年)している。しっかりとした輪郭のある一人の人間の人生を描こうとするには短編という形式は不向きである。限られた長さの中で強い印象をあたえようと思えば、思い出に残る人物より、よく練られたストーリーや完璧なプロットに頼りたくなる。O・ヘンリーの短篇がその見本である。

「優しさ」の主人公は末言(モーヤン)という四十一歳の独身女性。北京の外れにあるワンルームのアパートに住んでいる中学の数学教師。一人称視点で語られるモノローグめいた自己紹介で分かるのは、人と関わりを持たないで生きることに慣れた孤独な姿だ。よく誤解されるが、孤独というあり方自体には他人が思うほどさびしさも心細さもない。もちろん、孤独に生きる人の中にそう感じる人もいるにはちがいないだろうが、すべての人がそう感じているわけではない。人と余計な関わりを持たないでいることは、けっこう心安らかなものである。末言も、彼女に英語、英文学を教えてくれた杉(シャン)教授もそういう人であった。

「優しさ」は、末言の少女時代、十八歳で入隊した軍隊時代を中心に、他者に心を開かない彼女が、他者からもらった優しさについて回想する話である。五歳の時、やっと買ってもらえたひよこが死んだ。台所から盗んだ卵を割って中身を棄て、殻の中にひよこを入れようとしたが、ひよこは元には戻らなかった。「以来、人生はそういうものだと私は悟った。一日一日が、最後には殻に戻ろうとしないひよこみたいになるのだ」。五歳でこんなことを知ってしまう子は大きくなったどんな人になるのだろう。

末言の両親は年が離れていた。母は病気で寝ていて、父は用務員をしており、家は貧しかった。十二歳の時、牛乳の配給所に行く途中、杉教授に呼び止められ、部屋までいった。杉教授は、末言が両親の実子ではないことを教え、自身も孤児であったことを明かし、教育の支援者となった。毎日学校が終わると杉教授の部屋で教授の朗読するディケンズを聴き、ハーディーを聴き、D・H・ロレンスを聴いた。そのうち、教授が翻訳をやめても聞いていられるようになった。

軍隊では魏(ウェイ)少佐と出会う。不幸そうに見える末言に対し、何かと声をかけてくれるのだが、末言は頑なに心を閉ざし、魏少佐に他人行儀に接する。少佐は二十四歳で、入隊した頃、恋人と別れた経験があり、末言を同類だと思ったのだ。杉教授と出会ってなかったら、魏少佐と友人になれたかもしれない、と今の末言は思う。

十六歳の時、杉教授はこう言った。「心の中に誰かが入るのを許したとたん、人は愚かになってしまう。でも何も望まなければ何にも負けないの。わかった、末言?」。教授と同じアパートの住人で、時々話相手をしていた男の人が、離婚してこの土地を離れると聞かされた日だった。人は何故、自分を基準にしてしか、他人のことを慮れないのだろう。確かな出自を持たない者が生きていくには、そうするしかない、と杉教授は身をもって知っていたのだろう。善意からの言葉であるにしても、この言葉は人を縛りつける。

同じ年頃の女の子たちの軍隊での経験を語るところは、この作家にはめずらしく、華やいだ色あいに溢れ、寒さや雨といった悲惨な状況下にあっても、隠すことのできないユーモアが感じられる。杉教授とはちがった角度から末言の人生に触れ、その未来をより明るいものに向かせたいと考えた魏少佐。誰からも愛され、苦しみとは無縁の人生を送ってきたはずなのに、歌を歌わせると人の心をつかんでしまうほどの悲しみを歌うことのできる南(ナン)。英語版『チャタレー夫人の恋人』の中にある、あの部分にだけ印をつけて、とちゃっかり頼む潔(ジェ)等々、おそらく作家自身の入隊経験から拝借したのであろういくつかのエピソードは、この作品の中で唯一若さのもつあまやかさを感じさせてくれる部分だろう。

ディケンズ、ハーディー、ロレンスといった作家の本の中に生きる人々の世界のほうが、その中に入っていきやすい、と「私」は言う。それらは私と無縁だから、と。それでも、杉教授や魏少佐、軍で一緒だった女の子たちの声や姿は、いまも「私」の記憶の中に生き続けている。母の死の報せを受け列車に乗る末言を駅まで送ってくれた見知らぬ運転手の敬礼でさえも。なぜなら、「見知らぬ人の優しさはいつも記憶に残る。それは見知らぬ人の優しさが、結局はまさに時のごとく心の傷を癒してくれるからだ」。

年上の女性への思慕、同性に対して感じるかすかな情愛、あけすけに語られることのない秘められた感情が、さらりとした記述のなかからほのかににおい立つ。「優しさ」という言葉に置き換えられてはいるが、これは愛だろう。人から愛をもらいながらも、それを返すことをしてこなかった。だからこそ、それらの人に「借り」がある。すでに死んでしまっていても、魏少佐の顔や杉教授の朗読する声は、「私」の夢の中に、繰り返し繰り返し、あらわれるにちがいない。人に愛されながら、愛を返すことをしなかった人の物語。他に八篇の短編を含む。

『わたしの名は紅』 オルハン・パムク

f:id:abraxasm:20160616103024j:plain

『わたしの名は紅』って題名に「ゴレンジャーかい」とつっこみたくなった。章が変わるたびに、話者が交代し、話者の一人称視点で物語が語り継がれてゆく。表題の「紅」というのは、色の赤のことである。主題を担っている細密画に使われる塗料の色であることはもちろん、血の色でもあり、その他諸々のこの世にあるすべての赤を代表している。色が語り手?といいたい気持ちは分かる。しかし、色だけではない。金貨も犬も語り手になるし、悪魔だって一章を担当している。だいたい、死んでゆく人物が、今まさに死につつある状態を実況中継する。いわば何でもあり、なのだ。

かといって、これは寓話ではない。殺人者を追うミステリだし、子連れの寡婦をめぐる三角関係を描いた恋愛小説でもある。いやそれ以上に、ほとんど変化というものを知らなかったトルコの細密画というジャンルが、遠近法や肖像画という未知の技法や主題を有する西洋絵画と出会うことで起きたアイデンティティ・クライシスについての葛藤を、細密画師の口を借りて元画家志望の作家が詳細に論じた美術批評でもある。さらには、隣接する諸国家との絶えざる争いにより、最も強大な時には遠くヨーロッパまで版図を広げていったトルコという国の戦乱の歴史の概説であり、『千夜一夜物語』をなぞるように入れ子状に配された、細密画の挿絵の素材となる美男美女の悲恋やスルタンと寵姫の愛の物語でもある。

すっきりと、こんな小説と言い切ることが難しいのにはわけがある。ミステリを例に取れば、通常、視点は探偵側にある。読者は、視点人物である探偵の視点にそって語られる物語を読むことで、探偵側に感情移入しつつ物語の中に入ってゆく。近代絵画を例にとるなら、フーコーが『言葉と物』の冒頭、ベラスケスの『ラス・メニーナス』を引いて論じているように、その絵が誰の目から見られたものなのかが問われなければならない。なぜなら、神が死んで以来、世界は人間の目で捉えられるものとしてわれわれの前に存在しているからだ。

イスラム教を奉じる16世紀のトルコでは、世界はアラーの目から見たように描かれねばならなかった。当時のトルコ人にとって、西洋絵画が発見した遠近法は、いわば犬の目の位置に視点を置いた画法であり、到底受け入れることのできない不遜な画法とされていた。そのトルコにあって、ヴェネツィア肖像画を見てきた高官エニシテにスルタンがひそかに命じ、新たな技法を駆使した細密画を描かせていることが、宗教的な過激派の間で問題になっていた。実際にその絵画制作に携わる細密画師が絵師仲間に不安を打ち明けたことが殺人を引き起こす発端となったのだ。

宗教的な異端審問に発する殺人事件を扱ったミステリとしては、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』が有名だ。山間の修道院を舞台に、フランシスコ派の修道士とその弟子が連続殺人事件の謎を解くように、パムクの小説では、王宮の奥深くにある収蔵庫に籠もって、古写本の山のなかから手がかりとなる馬の絵を探すのは、細密画の名人オスマンと義父エニシテを殺されたカラの二人。トルコの細密画が、蒙古やペルシアの影響を受けながら今に至る変遷を様々な資料を挙げながら解説を加えるオスマンの話は、名人によるトルコ細密画史ともいうべきもので、圧巻である。

一方で、十二年前に結婚を申し込んで断られ、諸国を放浪し、様々な仕事に従事しながらもイスタンブルに戻ったカラと、エニシテの一人娘シェキュレとの結婚にいたるまでの経緯を描くサイド・ストーリーの方は、露骨な性愛描写を避けることなく、とことん通俗的に描かれる。というのも、章が変わるたびに視点が転換されることで、女の利己的な思惑がさらされてしまい、恋する男の視点から描かれる美しい恋人の像は、二人の子を持つ母の立場で結婚相手を誰にしようかと考える女の打算や二人の男から求愛されることへの快感をそのまま見せることにより、相対化される。

しかも、その間に、事件の犯人と疑われる秘密の細密画を描く絵師三人それぞれの細密画に対する考え方が、三つの挿話という形式で語られる。実は犯人は「人殺しと呼ぶだろう、俺のことを」というタイトルを冠した章において、何度も殺人のあらましについて語っている。読者は、名を明かしていない細密画師である犯人を、それぞれの考え方や論じ方を手がかりに、探しあてなければならない。これは、そういう論理パズルの側面も持つミステリなのだ。

それだけではない。手がかりとなる絵に描かれた馬だけでなく、犬やら死やら悪魔まで、一章を任された話者の御託に読者はつきあわねばならない。なぜなら、この小説自体が一枚の絵の中に人物だけでなく動物や小鳥、天使といった画像を稠密に配した細密画をなぞっているからだ。一人の人物の視点から世界を透視してゆくような、近代西欧的理知による見通しのいいパースペクティブを、この小説は付与されていない。近代西欧の発見による人間を主とするイデオロギーが主流になる以前のトルコを舞台にとるかぎり、それは当然のことである、と作者は考えたのだろう。アラーの前においては、馬も犬も人間も悪魔も何のかわりもない。すべては相対化されてしまう。

ふつうだったら主人公であるはずのカラをふくめて主たる登場人物に精彩がなく、かえってシェキュレと義弟ハッサン、カラの仲を取り持つ小間物屋の太ったユダヤ女エステルの方が生き生きと描かれているのは、彼女だけがイスラム世界から自由に生きているからかもしれない。少なくとも、作者はそう感じているだろうことは、読んでいてはっきり伝わってくる。このユダヤ女は、細密画の窮屈な世界にちんまりとおさまるには近代人的過ぎる。

オルハン・パムクを日本に紹介するに当たって訳者の果たした役割の大きさは評価されるべきだろう。ただし、読んでいる途中でくびをかしげたところは少なくない。おそらく原文に忠実な訳を意識されたのだろうが、日本語として読み辛い。幸い今は他の出版社から新訳が出ている。これから読む読者は、そちらを選択することも可能である。

『過ぎ去りし世界』 デニス・ルヘイン

 

f:id:abraxasm:20160609132013j:plain

ジョー・コグリンは、タンパ、その他で複数の会社を経営する実業家として知られている。慈善家としても知られ、第二次世界大戦下にあるアメリカを支援する募金集めのパーティーを開いたばかり。しかし、その実態はイタリア系のディオンをボスと仰ぐマフィアの顧問役だ。第一線を引いたとはいえ、ジョーの力は今も健在で、組織のなかでは<委員会>の数少ないメンバーの一人であり、委員会の決定にはボスといえどもさからえない。ジョーがボスの座を小さい頃からのワル仲間であるディオンに譲ったのは、ディオンとはちがってアイルランド系のジョーには幹部の席は与えられないというチャーリー・ルチアーノの考えを知ってのことだ。

頭も切れて、度胸もある。ポルトガルであつらえた百十ドルのスーツを着こなし、人好きのする笑顔が魅力的なジョーは、誰からも好かれている。特に、仕事の上で他人を儲けさせることにかけて、ジョーの右に出るものはいない。そんなジョーには敵というものが思いつかなかった。ところが、そんなジョーの命を狙うものが現われた。殺しに来る者の名前も日にちも分かっているという。分からないのは、それを命じた相手とその目的だ。

かつてはジョーも相当荒っぽいことをやってきた。殺した相手も多い。しかし、それは過去のことだ。妻は七年前に亡くしたが、九歳になるトマスという息子もいる。それに、今はヴァネッサという名門の一人娘でタンパ市長夫人と熱愛中だ。危険は避けたい。ジョーは、水疱瘡にかかったトマスを車に乗せて情報を告げてよこしたテレサという殺し屋に会いに行く。テレサも雇い主に命を狙われていた。うまく話をまとめてくれたら、ジョーを襲う殺し屋を教えるというのだ。

デニス・ルヘインという作家は初めてだが抜群に面白い。クライム・ノワールというジャンルには疎く、予備知識はなかったが、グレイの地にヴィンテージ・カーとリボルバーのシルエットが浮かぶ表紙に魅かれて手にとった。パーティーに顔を見せるギャングたちの写真に色めき立つ記者を編集長が抑えにかかる冒頭の挿話で、主要な登場人物の紹介を片づけるだけでなく、本編で重要な役割を果たす、ありえない登場人物まで総ざらいしてみせる手際はなかなかのもの。えっ、ありえない登場人物とは誰かって?そう、絶対に在り得ない存在。なぜかといえば、それは「幽霊」だからだ。

ジョーは、事あるごとにニッカボッカをはいたブロンドの少年を目にする。それは夜のパーティー会場だったり、真昼間の桟橋の上だったり、時間や場所に関係なく現れる。何かを告げに来ているようだが、着ている物や髪形ははっきり見えるのに顔にあたる部分だけがぼやけている。およそ三十年も昔のころの服装をした少年はジョー父親に似ているようにも思われるが、ジョーには、父親の少年時代の姿は想像できない。どうやら、孤独な少年時代を送ったジョーには両親と過ごした良い思い出はないみたいだ。

実は、『過ぎ去りし世界』は、<コグリン・シリーズ>三部作の第三作にあたるらしい。ジョーの子ども時代や、ギャングとしてのし上がってゆく時代は前二作に書かれている。それらを読めば、ジョーと両親の確執も、「幽霊」の正体も、もっとはっきりするのだろうが、本編を読むのに、前の二作を読む必要はまったくない。これ一冊で確立した世界がある。しかも、小説の書き手としてのデニス・ルヘインの実力は並々ならぬものがある。読み終わってから再読すると巧みな伏線がいたるところに引かれていて、うならされた。作品世界の紹介も必要充分になされている。

何より魅力的なのは主人公であるジョーの人物像だ。人を殺し、麻薬も扱うのだから善悪の範疇で分類すれば悪の側に入る人物であることはまちがいない。ただ、作者もいうように、この世の中にまったくの悪人も完全な聖人もいない。一本のスケールの両端に悪人と聖人がいるとすれば、われわれは、その目盛のどこかに位置している。まあ、ふつうの人生を送るわれわれ一般人は、かなりの程度で真ん中よりのどちらかにいるだろう。ジョーは、まちがいなく悪に近い。それくらいのちがいだ。

主人公だけがよく描けていても、まわりがショボかったら、その小説はとても読み続けられない。この作家は、魅力的なライヴァルや相棒、それに敵役を作り出すのがうまい。敵対関係にある黒人のギャングとディオンがもめたとき、その仲裁に入ったジョーとボスのモントゥーソ・ディックスの話し合いがいい。互いを信頼し合い、認め合いながらも手を組むことができない二人は絶体絶命の状況下にありながら、海のために乾杯し、互いの息子の噂話にふける。

ギャングや殺し屋といっても、全部が全部キレッキレでヤバい奴ばかりではない。働き盛りの男たちは、学校に通う年頃の子どもを持つ親でもある。自分の命を狙っている相手の家に乗り込み、ビールを飲み交わしながら話すのもやはり子どもたちのことだ。タクシー会社で働きながらフリーで殺し屋もやるビリー・コヴィッチとの対話も読ませる。凄腕の殺し屋というのは、そのターゲットさえも心を許してしまいそうな、ごくごくふつうのどこにでもいる善人にしか見えない。裏稼業さえ別にしたら、友だちにしたいような人間なのだ。互いの妻が死んだ時は弔いの席に顔を出す関係でもある。しかし、何かがあれば殺しあうしかない。緊張感をはらんで対峙しあう二人の間に過ぎ去っていく時間の愛おしさ。

いくら愛し合っても展望の持てない男女の関係ほど苦しくも切ないものはない。ヴァネッサもジョーもこの関係がいつまでも続けばいいと思っている。しかし、そんな時間が長く続くはずがないことは二人もよく分かっている。だからこそ、セント・ピーターズバーグにあるサンダウナー・モーター・ロッジ107号室での逢瀬は時を惜しんで愛し合うことになる。相手がギャングと知りつつも、生まれてから今までで最も幸せな時間を過ごせているという実感は嘘ではないからだ。ヴァネッサのこの愛も哀しい。

テンポのいい会話、凄まじい暴力シーン、と息もつかせぬ展開でぐいぐいと押しまくってくる前半に比べ、後半は少しずつ不安の影が忍び寄る。思い出したのは、映画『ゴッドファーザー』だ。パート1のデ・ニーロ演じるコルレオーネがのし上がってゆくときの仲間や同郷の者に寄せる情愛が暴力をさえ美しく見せていた。しかし、パート2、パート3と展開するにつれ、ただただ組織を守るために自分の信条をすら犠牲にしていかざるをえないマフィアの実態が空しく思えてきたものだ。『過ぎ去りし世界』は、あの映画に似ている。そういえば、イーストウッド監督の『ミスティック・リバー』は、デニス・ルヘイン原作だった。シリーズを構成する前二作『運命の日』、『夜に生きる』を探し出して読みたくなること必定の一篇である。

 

『千年の祈り』 イーユン・リー

f:id:abraxasm:20160607173202j:plain

イーユン・リーのデビュー短篇集。第一回フランク・オコナー国際短篇賞を受賞した、その完成度の高さに驚く。どれも読ませるが、読んでいて楽しいと感じられる作品が多いわけではない。むしろ苛酷な人生に目をそむけたくなることのほうが多いのだが、読み終わったあとの索漠とした思いの中に、真実だけが持つことのできる確かな手触りと哀しい明るさのようなものが残っているのを感じる。誰の人生にも人それぞれの秘密が潜んでいて、周りが考えるほど単純なものではない。リーの筆は、ときに厳しく、ときには優しく、人々によりそって、固い殻に覆われた外皮の奥にある核を明るみに出す。全十篇のどれも捨てがたいが、親と子の結婚観をめぐる考え方のちがいが対話を通して浮かび上がってくる作品が少なくない。

「市場の約束」も、その一つ。三十二歳になる、三三(サンサン)は、大学を出てからずっと生まれ育った町の師範学校で英語を教えている。夫も恋人も親しい友人もいない。母親はそんな娘を心配し、幼なじみで結婚してアメリカに行った土(トウ)が離婚したから、結婚したらどうか、と学校までやってくる。母は旅の客相手に屋台で煮玉子を売っている。他の店とはちがい、茶葉と香辛料をふんだんに入れたそれは絶品だ。

三三と土は結婚の約束をしていた。天安門事件の頃、大学に美人で評判の旻(ミン)という同級生がいた。学生運動のせいで就職がふいになった旻のために、土と偽装結婚して渡米する策を授けたのは三三だった。ところが、二人は三三を裏切り、本当に結婚してしまう。そのことを知らない母は結婚しない娘の気持ちが分からない。母を悲しませていることを知る娘もまた悲しい。そんな三三の前に一人の男が現れる。男の商売は、金を払った相手にナイフで体を切らせることだった。映画のような幕切れがひときわ鮮やかな一篇。

「死を正しく語るには」は、リーの子どもの頃の実際の思い出が生かされていると思われる。武装兵士に警備された核工業部の研究センターに勤務する父と教師の母を持つ「わたし」は、リーの出自に重なる。その「わたし」は、夏と冬の一週間だけ、ばあやの住んでいる胡同(フートン)にある四合院で暮らすことができた。胡同の子どもたちの暮らしは、秘密のベールに覆われた研究所の子どもたちのそれとはまったくちがっていた。原爆を落としたトルーマンや失脚した劉少奇の名前が、遊び唄の中に出てくるのだ。

地主階級だったせいで、親が決めた甲斐性のない男と結婚してしまったばあやは、その不甲斐なさを詰りながらも夫を愛していた。同じ四合院に住む北京の庶民階級に属する人々が、夕涼みに出てくる中庭での会話や、鶏をつぶして煮込み料理を作ったり、君子蘭を大事に育てる様子など、おおらかで、開けっぴろげで、それでいてつつましやかな、昔と変わらない中国の人々の飾らない暮らしぶりを、今は成人した女性の回想視点で綴っている。文化大革命天安門事件といった大文字の歴史の裏に隠された日の当たらない庶民の暮らしぶりを描くとき、リーの筆はあたたかくやさしい筆致をしめす。無頼を気取る宗家の四兄弟でさえ、懐かしく思い出される対象となるほどに。

表題作「千年の祈り」もまた、心の通じない父と娘の関係を描いている。結婚してアメリカに暮らす娘の離婚を聞きつけた石氏は、なぜ離婚したのかを娘の口から聞きたくて、観光を理由に渡米する。結婚したら夫婦は何があっても共に暮らすものだと昔気質の父は考えている。ロケット工学者だった石氏は、秘密を漏らすことを禁じられ、家族にも無口で通してきた。両親が不仲であったことを娘は知っていた。会話のない家庭は上手くいかない。夫と別れたのも、父と会話ができないのもそのせいだ。

石氏はアメリカに来てから公園で出会ったイラン人女性と通じない言葉で度々会話をしている。言葉の通じない他人同士の方が、血のつながった家族より気持ちが通じ合えるという皮肉。実は石氏には秘密があった。彼と家族の間に壁が築かれていったのはそのせいだ。しかし、妻も娘も周りの噂で気づいていた。隠しおおせていると思っていたのは父親だけだったのだ。アメリカを去るにあたり、石氏はマダムと呼んでいるイラン人女性にだけは、真実を打ち明けなければと思い、隠されていた秘密を語りだす。

父と娘のような近しい関係にある間どうしであっても、何かが邪魔をして、心と心が通じない状況に陥ることがある。それはいつの時代のどこの国であっても起きることかもしれない。しかし、大きな悲劇をもたらすものが、神でも運命でもなく、国家であったり、党であったりする時代、社会というものがあるのだ。人と人との自由な話し合い、語らいが許されない時代、社会状況がどんな悲劇を生むか、リーは声高には主張しない。話者は諦念を秘めた静かな声音で語りだす。聞く者は耳をすませて、その語るところを聞かねばならない。いかに嗚咽の衝動に迫られようとも、その口が閉じられるまで、じっと口を閉じ、耳を傾けねばならない。

リーは、これらを英語で書いている。中国語でなく、英語で書くことで、かえって書けるのだという。自由な考えや思いをそのまま表現することを禁じられ、封じてきた国の言語でなく、自分の思いは口に出して他者に伝えなければ何も始まらない土地に来て、ほとばしるように物語が出てきたのだろう。そのみずみずしい水脈は尽きることを知らない。近くて遠い国が、この作家の登場により、一気に近づいてきた印象を受けるのは評者だけではあるまい。

『さすらう者たち』 イーユン・リー

f:id:abraxasm:20160604141827j:plain

原題は"The Vagrants”で、『さすらう者たち』は、ほぼ直訳である。ところで、その「さすらう者たち」は、いったい誰を指しているのだろう。というのも、どれも一筋縄ではいかない人物たちの中で、唯一好人物といっていい、ゴミ拾いや掃除を仕事としている華(ホァ)という老夫婦が、通りすがりの二胡弾きにかつては自分たちも放浪者であったことを明かしているが、その盲目の二胡弾きを除けば主な登場人物は、舞台となる中国の新興工業都市、渾江市に定住する者ばかりだ。

毛沢東の死後、江青ら四人組は逮捕、紅衛兵による「文化大革命」が批判され、改革開放政策が叫ばれ出した頃である。一九七九年の春分の日。この日、教師である顧(グー)師の一人娘珊(シャン)が、反革命分子の罪状で公開処刑されることが告知されていた。珊はかつては紅衛兵として両親や近所の大人たちを批判、足蹴にするなどの暴力行為をくり返した罪で獄に囚われ、十年を獄中で過ごしたが、獄中から共産主義の誤りを批判した手紙を送るなど改悛の情が見られないことを理由に、この日の処刑が決まったのだ。

この物語は事実に基づくフィクションである。リーがネットで読んだ事件についてエッセイを書いている。その前半の要旨が「訳者あとがき」にある。ストーリー紹介としては、ほぼこれに尽きる。

一九六八年、湖南省に住む元紅衛兵の十九歳の女性が、文化大革命を批判する手紙をボーイフレンドに送ったところ、密告されて逮捕され、十年収監された。そして一九七八年、臓器移植のため麻酔なしで臓器を抜かれた後、銃殺された。女性の遺体は野に放置され、ある男に死姦のうえ損壊された。それからしばらくたって彼女の名誉回復のために数百名の市民が抗議行動を起こし、その結果、二歳の男の子の母親だったリーダー格の三十二歳の女性を含め、全員が処分の対象とされた――。

顧珊(グーシャン)が処刑される日、市では数箇所で批闘集会がもたれ、各集会所を引き回された後、珊は人目につかない場所で処刑される。過去に珊に関わった人々、この日の処刑及び臓器移植や死体損壊に関わった者たちが、それぞれの場所で動き出す様子を、リーは、まるでその場にいたかのように生き生きと描き出す。その人物像のリアルさはどうだ。

かつて妊娠中の母が珊に蹴られたことが原因で体に障害が残る十二歳の娘、妮妮(ニーニー)は、障害のせいで両親に疎んじられ、赤ん坊の子守をしたり、家族の食事を作ったりするほか、駅での石炭拾いから野菜屑拾いを命じられる。いつも腹をすかせている妮妮に優しいのは華老夫婦と顧師夫妻だけだ。ただ、娘が殺されるこの日、顧師の妻はいつものように妮妮のために食事を用意する余裕がなかった。死んだ娘があの世で寒がらないように、辻で服を燃やす準備で忙しかったのだ。妮妮は、ここでも自分が嫌われ行き場をなくしたと思い込む。

放送局でアナウンサーとして働く凱(カイ)は、少女の頃、珊と同級生だった。二年生の歌と踊りのコンテストで優勝したのが凱の方だったため、演劇学校に通い、ヒロイン役で人気を得たが、親の勧めもあって土地の有力者の息子と結婚した。場合によっては珊と自分が入れ替わっていた可能性もあり、珊のため行動を起こすことを考え、同調者と連絡を取っていた。

八十(パーシー)は、パイロットだった父が悲運の死を遂げたことで、政府から家や生活費を給付され、仕事に就くために勉強する必要がなかった。年頃になっても女性と出会う機会がなく、一度でいいから女性の秘所を見たいと思い、小さい女の子を手に入れることを考え、市中を徘徊していた。女性に餓えた八十と安らぎの場を求める妮妮が出会うのは必然ともいえた。食べ物と石炭をもらえることで妮妮は、八十の家に入り浸るようになる。

この少し足りない(と周りから見られている)二人のコンビは、周囲が見ているほど、愚鈍でも無能でもない。二人の会話は、知性の輝きが仄見え、未来に対する展望に溢れ、このやりきれないほど惨酷で息が詰まるような物語の中で、わずかな開放感をあたえてくれる。イノセントな二人が生の欲動に突き動かされ、「禁じられた遊び」というか、「穢れなき悪戯」というか、いかにも幼い性の交歓に及ぶ場面は、微笑ましいようなやるせないような微妙な感情を読む者に抱かせる。

田舎から街に来たばかりで、仲間に入れてもらえず、「耳」という名の黒犬だけしか心通わせる友だちのいない童(トン)は、革命の小英雄に憧れる勉強熱心な少年だ。迷い犬を探すうち、八十と出会い、前後の見境なく抗議集会で署名をしてしまう。この童を含め、真面目に熱心に学問し、革命や民主主義といった理念に動かされる凱やその他の人物は、いかにも生硬で、主たる役割を持つ人物ではあっても魅力に乏しい。

それにくらべ、八十や妮妮という、どちらかといえば道化やトリックスター的な役割を担わされた人物の方は、外見は良くないが、エネルギッシュで、ユーモアを忘れず、憎まれないキャラクターをあたえられている。それは、珊の死体を葬るために顧師に金で雇われた昆(クエン)のような信じがたい悪党にまでも付与されている。一党独裁による共産主義国家である中国のような国で、人間らしく生きていくには、アウトサイダーの位置に自分を置くしかない。共同体の中に身を置く限り、密告や裏切り、監視といった相互監視システムの一員とならざるを得ず、自分の思う通り、話したり動いたりすることはできないからだ。

しかし、アウトサイダーでいることは人並みの暮らしを捨てることでもある。物語の最後で、八十と昆は刑務所に収監されてしまうし、華じいさんと華ばあさんは、束の間の定住生活を棄て、以前のように「さすらう者たち」の仲間入りをすることになる。自分の欲望に忠実に生きたため、結果的には妹に家と親兄弟をなくすことになる妮妮もまたその旅に同行する。

「さすらう者たち」とは、狭義には彼らを指すのだろうが、広い意味で考えれば、揺れ動く国家の教義に右往左往させられる民衆全般を指すもののようにも思われる。それは知識人階級であるか、一般大衆であるかどうかを問わない。前者は意識的かつ主体的にさまよい、後者は何の意識もなく客体としてさまよう。どこに差異があろう。

イーユン・リー、初めての長篇小説である本書は、ウィリアム・トレヴァーゆずりの短篇小説の名手というリーの評価を改めさせるに足る完成度だ。リーのストーリー・テラーぶりが遺憾なく発揮され、陰惨なストーリーが、中国の一地方都市の風物や伝統的な文化と綯い交ぜになって、陰影に富む物語となっている。

『無垢の博物館』上・下 オルハン・パムク

f:id:abraxasm:20160602112305j:plain

主人公のケマルは三十歳。父親から譲り受けた輸入会社の社長である。引退した大使の娘で美人で気立てのいい婚約者スィベルとの結婚も間近だ。そんなある日、買い物に寄った店で昔なじみと久しぶりに再会する。フュスンは遠縁にあたる娘で十八歳になったばかり。幼かった少女は見ちがえるような美人に変貌していた。ケマルはフュスンをアパルトマンに誘い、関係を持つ。

結婚を前にした男が、突然目の前に現われた美女に心奪われ、婚約者を放っておいて、アパルトマンで昼休みに逢引きをくり返す。それだけでもとんでもない話だが、ホテルで開かれた婚約式にフュスンを招待し、美しい許婚を見せつける、という暴挙に出る。そうしておきながら、姿を消したフュスンが忘れられず懊悩する。

婚約者の憔悴しきった様子を心配したスィベルは、療養を兼ねて別荘での婚前同居を提案する。イスラムの国であるトルコでは、結婚前に処女を失うことは不名誉なこととされている。しかも、結局最後に事の次第をスィベルに打ち明けることで、婚約は解消される。ケマルは、フュスンの処女を奪っただけでなく、許婚の名も傷つけたことになる。

これだけでもじゅうぶん愚かしく思えるのだが、ケマルの異様さが際立つのはここからだ。自分の前から姿を消したフュスンを捜し歩き、親友に手紙を託す。やがて消息が分かる。フュスンは結婚して両親と同居していた。相手は新進の映画監督でフュスンの主演する映画を計画中。それを知ったケマルは資金提供を理由に、フュスンの両親の家に入り浸ることになる。

ただ愛する女の傍にいたいがために、結婚している女の夫や両親と食事をしたり、テレビを見たりする生活を八年の長きにわたって続ける、ケマルという男の執着心の強さにただただ辟易する。それも手一つ握るわけではない。時にからむ視線を待ちわび、ふとした拍子に擦れあう肌の感触に心を震わせる。フュスンの触れた食器や口にしたサイダーの瓶といった品をポケットに忍ばせて自分のアパルトマンに持ち帰り、始終もてあそぶ。

究極のフェティシズム。俗にいうフェチである。それだけではない。愛する女の傍にいて、その女が夫と口づけを交わしたり、抱き合ったりするところを見続けることを厭わないというのは、本人が意識していないだけで、これはもう立派な(というのも変だが)被虐趣味としか言いようがない。しかし、その一方でケマルは、フュスンの映画出演を妨害し、夫が別の女優を用いるように仕向け、フュスンと疎遠になることを期待してもいる。離婚となれば自分が後釜に収まることができるからだ。

男の視点から愛する女の心理を推し量ったり、それによって一喜一憂する男の心理を描くところなど、プルーストの『失われた時を求めて』を思わせる。また、長きにわたって一途に一人の女を思い続けるところなど、ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』を思い起こされる。また、年端のいかない女性に対する執着という部分では、ナボコフの『ロリータ』を思い出させる。どれも素晴らしい名作ばかりだが、それらと最も異なるのは、読んでいる時のスケール感の小ささだ。

何かというと、ケマルの親友が経営する会社が売り出し中のサイダーが持ち出される。コカ・コーラの台頭によって脅かされ、トルコ国内の業者によって安価な偽物が作られ、伸び悩むこのサイダーがひとつの隠喩になっている。オルハン・パムクによって描かれるトルコという国は、西欧に憧れ、西洋化に励みながらも、その模倣は猿真似の域を出ない。模倣者の悲しさで、まねようとすればするほど、その差異が目についてしまうのだ。

ケマルはイスタンブルでは上流階級に属し、彼のまわりには社交界らしきものも存在する。しかし、プルーストの描くそれとは比べ物にならないお粗末さで、ケマルもそれは承知している。トルコを舞台に小説を書こうとすれば、当然つきまとう後進性を逆手にとって、作家はむしろ意識的にトルコの持つ矮小さ、猥雑さ、不徹底さを前面に持ち出そうとするように見える。週に四日も通うフュスンの家での晩餐に並ぶのは、トルコの家庭料理だし、皆でテーブルを囲んだ後に待っているのは俗悪なテレビ番組だ。フュスンの夫が撮った映画は芸術映画とはとてもいえないお定まりのボリウッドならぬトルコ映画。このあたりの自虐的な戯画化は、むしろこの作品の評価されてしかるべき点だろう。

「無垢の博物館」とは、ケマルがフュスンの家からくすねてきた小物を中心に据えたコレクションを展示する私的博物館のことで、世界中を放浪し、多くの博物館を訪ねまわったケマルがフュスンを偲んで、その追懐に耽るため、フュスンの住んでいたアパルトマンを買い取って改装したものだ。展示物の解説のために、ケマル自身が執筆を依頼したのが、旧知の作家オルハン・パムク氏。関係者に取材したパムク氏が、ケマルの視点で執筆したのがこの小説、という体裁になっている。

自身の他の作品に登場する人物であるコラムニストのジェラール・サリク氏(『黒い本』)や、詩人Ka(『雪』)などをさりげなく配し、いつものようにイスタンブルという都市の持つ魅力をじゅうぶんに生かしきった作品構造――新市街と旧市街、ボスフォラス海峡に面した上流人士が集う別荘地と昔ながらの人々の生活が垣間見える下町の風情といった対比――を用意し、更には、右派と左派の攻防や爆弾テロ、軍事クーデタといったトルコの現代史をケマルの恋愛事象の背後に点綴するなど、手馴れた手法で長丁場を乗り切っている。

正直なところ、こんなに長くする必要があるのか、と思うほど、事件らしい事件は起きない。最後近くになってはじめて印象的な事件が起きるのだが、オルハン・パムク氏は視点をゆるがせにすることがない。フュスンのとった行動やその心理をどうとるかは読者にゆだねられている。八年に及ぶ、ケマルの訪問期間中、フュスンの言ったことや身ぶりを思い返しながら、読者もまたケマルと同じように思案するしかない。そのための上下二巻なのかもしれない。