青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『闇夜にさまよう女』セルジュ・ブリュソロ

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冒頭、銃弾が頭を貫通した女が痛みを感じずに車を走らせる場面が出てくる。前頭葉前部を撃ち抜かれていても、そういうことが可能だという。車を降りてハリウッドの看板まで歩いて行った女はそこで倒れ、翌朝日本人観光客に発見されて病院に送られる。半年後、リハビリの甲斐あって女は言葉も話せるようになるが、記憶がすっぽり抜け落ちている。一時的な記憶喪失とはちがう。弾丸と手術のメスによって脳の一部が摘出されたからだ。その結果、女は人格さえ以前とは別のものになっていると医者は言う。

厄介なことに身分を証明する免許証その他を何も所持しておらず、着ていた服はどこでも買える量販品で、テレビで放送されたにもかかわらず彼女を知っているという関係者は現れなかった。身元不明の女につけられる名前、ジェーン・ドーとして女は過去と決別し、新しい人生を生きることになる、はずだった。ところが深夜の病室で何者かに殺されそうになり、担当医の計らいで、ビヴァリー・ヒルズの豪邸で暮らすことに。

記憶をなくした女が、記憶を取り戻すのでなく、新しい人格のもとに出直そうというのがめずらしい。普通なら何としてでももとの自分に戻りたいと思うはずだ。しかし、リセットがきくものなら、そうありたいと考える人間の方が実際は多いにちがいない。人生をはじめからゼロにしてやり直せるチャンスなど誰にもないに等しい。ところが、ジェーンに異変が起こる。完全に防犯管理されたはずの豪邸に、見えるはずのないインディアンの姿が見えたり、眠っているうちに夢遊病状態で変装したりする奇行が現れる。

ジェーンの訴えで担当医のクルーグは女性のボディガードをつけることにする。射撃の名手のサラだ。サラにはデイヴィッドという息子がいた。彼は先天性免疫疾患に冒されていて、菌に耐性がなく、サラの経営する警備会社の地下にある部屋に作られた無菌室から一歩も出ることなく、あらゆる情報を処理していた。クルーグがサラの援助をしていた関係でサラはジェーンの庇護者になる。四六時中一緒にいるうちに二人は互いをよく知るようになる。ジェーンは夢で見たことを少しずつサラに話す。それは信じられない話だった。

前頭葉被切断者は、なくした記憶を補填するため、後づけの記憶から偽の記憶を作り出すことがあるという。ジェーンのそれは、殺し屋だった。それもCIAに類した組織の依頼を受け、長期間ターゲットをつけねらい、最後には死に至らしめるというものだ。ジェーンの話を裏付けようと現地に赴いたサラは、話が事実であったことに驚く。担当医のクルーグはそれは本で読んだことを自分の記憶と勘違いしているだけだとサラをいましめるが、ジェーンの話は詳細で事実に合致している。サラは次第にジェーンの話を信じるようになる。

蘇った記憶が真実なのか、それとも精神科医の言うようにすべて虚言なのか、読者はその結果を知りたいと思い読み進める。次々と現れる新たな事実が、それまでの読みをひっくり返し、新たな読みを浮かび上がらせる。探偵役のサラと一緒に読者も翻弄されてしまう。この間のミスディレクションはなかなかよくできている。再読してみたが、かなり、誠実に事実がほのめかされていることがよく分かる。問題はSF的な設定と極端なまでに過酷な幼少期の記憶が事実を見抜くのを妨害しているのだ。

記憶に中のジェーンもサラも共に保護者の強権に屈し、従順にその保護者の望む通りの人生を送ってきている。見ようによっては完全に虐待されているのだ。そういう過去を共有する二人がともに行動するうちに、精神的に共振するようになってゆくのは理の必然と言っていい。サラの視点を通して、ジェーンの過去を判断していくしかない読者はそれに引きずられて事態を読んでゆくことを要求される。ある意味で、信頼できない語り手による話を聞かされているようなものだ。

話自体は非常に興味深く、若干強引なところや、SF的なギミックが気になるところもあるが、ヒッチコック映画を見ているようなサスペンスは鮮烈だ。誰が本当のことを言っているのか、ジェーンは本当は誰なのか、彼女の記憶は真正なものなのか、最後まで明らかにされないまま事態はどんどん悪化してゆく。最後の最後に明らかにされた真実にはあっと驚く仕掛けが用意されている。ミステリとエスピオナージ、それにほんの少しばかりSF的なスパイスを効かせた本作はアメリカを舞台にしているが書いたのはフランスの作家だ。

最近読んだ新聞の書評欄に「フランスでは1日2人が虐待で命を落とすが、「家庭内のしつけ」とタブー視され、社会的関心は低い」と書かれていて驚いた(『父の逸脱/ピアノレッスンという拷問』セリーヌ・ラファエル著)。「犬の虐待の方が関心が高いぐらい」だと著者は言う。そうした社会背景の上に成り立ってこの作品は書かれている。作家自身が精神障害を持つ母のせいで不遇な幼年時代を送ったらしい。皮肉なことだが、それが作品をリアルなものにしているのはまちがいない。何者にもなることなく老いを迎えた身には、しつけの名を借りて自分の願望を子に押しつけようとしなかった両親に感謝したくなった。

『パリに終わりはこない』エンリーケ・ビラ=マタス

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エンリーケ・ビラ=マタスは邦訳された全作を読んでいるが、今のところではこれがベストだと思う。前二作も意表を突く話題に驚かされつつ楽しく読めたが、知的な部分が前に立ちすぎ、小説としての魅力が今一つ出ていない憾みがあった。本作も一応、著者本人と思しき作家が行う、アイロニーについての三日間の講演のメモがもとになっているという体裁をとる。短い断章形式で構成されるその中身は、中年となった作家の現在の思いと、パリでの二年間の修業時代の回想、それに聴衆を前にして講演している部分とが断章形式で代わるがわる提示される。しかし、視点は常に「私」に置かれており、話題はパリと作家修業、小説の書き方、人との出会い、等に限られていて、大きな逸脱はない。 

作家の自伝的小説でパリにおける修業時代を描いたものといえば、誰だってヘミングウェイの『移動祝祭日』を思い出す。だいたい、タイトルにしたところが、そこから採られている(『移動祝祭日』の最終章の題が「パリに終わりはない」)。ヘミングウェイが、パリ時代、カフェに腰を据え、鉛筆で原稿を書いたことや、スコット・フィッツジェラルドガートルード・スタインエズラ・パウンドとのつきあいの日々を描いたのが、『移動祝祭日』。そこには後のノーベル賞作家の、貧しくも幸福なパリ時代の暮らしが息づいている。つまり、これが元ネタになっているのだ。

「私」は若い頃、ヘミングウェイに憧れていて、中年となった近頃では大酒を飲んで太り、見かけも似てきたと本人は思っている。冒頭にキー・ウェストで行われたヘミングウェイそっくりさんコンテストに出場し、似てないといわれて撥ねられたエピソードを披露している。この作品がヘミングウェイの『移動祝祭日』のパロディ、それもちっとも似てないパロディであることをほのめかしているのだ。講演の主題が「アイロニーについて」であることも、このエピソードが冒頭に置かれた意味を表している。アイロニーとは「表面的な立ち居振る舞いによって本質を隠すこと、無知の状態を演じること」の意である。

「私」は、ヘミングウェイのようなハンター、ボクサーといった陽性のタイプではなく、母に言わせれば根暗なタイプで、パリ時代も幸福な時代だとは感じていない。金は父親からの仕送りで不自由はなかったし、下宿だって小さな屋根裏部屋ながら、家主はなんとあのマルグリット・デュラスだというから恵まれている。ただ、処女作『教養のある女暗殺者』を書きあぐねている作家志望の若者としては、将来というものの見えない絶望的な生活のように当人には思われていたようだ。

もちろん、アイロニーだとはじめから明かされているので、その辺は割り引いて読まなければいけないのだろう。事実、デュラスをはじめ、登場する人物の顔ぶれの豪華さたるや本家の『移動祝祭日』をはるかにしのいでいる。ロラン・バルトが入りびたるカフェで通りを行く人物評にうつつを抜かし、ジョージ・オーウェルの二人目の妻と話をし、ジョルジュ・ぺレックの顔も間近で見ることができたのだ。自分の下宿の部屋に逗留した人物の中には、レジスタン運動時代のミッテラン元大統領もいたというから世間は狭い。

へミングウェイにとってガートルード・スタインが文学上の庇護者であったように、「私」にとってデュラスがそうだった。ズボンの尻ポケットには、彼女が書いてくれた小説の書き方を箇条書きにしたメモがいつも入っていて、折に触れてはそれを開き、そこに書かれた内容について友だちに尋ねたり、自問したりするのが習慣になっていた。その部分だけを抜き出して読めば、小説家志望の青年にとっていかに有意義な解説が書かれているか驚かされる。パロディめかした書きぶりに騙されぬように読まねばならない。これは純粋な魂の告白など、恥ずかしくてできない作家が正体を隠すために被った仮面の蔭から真剣な声で語りかける小説なのだ。

とはいえ、サルトルの写真に影響されて眼鏡をかけ、パイプをいつもくわえた「私」のパリ時代の生活は、口で言うほど絶望的なものではなく、服装倒錯者に囲まれ、映画を撮るだけでなく出演もし、有名人が出入りするパーティーではデビュー直前の女優イザベル・アジャーニに凍りつくような視線で見つめられるなど、パリに暮らす亡命者の中でも恵まれた生活を送っている。この手の話は枚挙に暇がない。絶望的な顔の仮面でもつけておかなければ単なる自慢話と読まれてしまうにちがいない。

それでいて、読後の印象は悪くない。冷たく陰気な冬が明け、パリに春が来る場面などには本家の『移動祝祭日』にも似た抒情的な詩情を漂わせ、他のどこでもないパリに生きる喜びを堪能している若者の姿が浮かび上がる。そのたびに、現在中年となった作家が表面に出てきて、アイロニーを知る者の持つ強みと、それを知った者が未だそれを知らなかった当時をうらやましさの混じった気持で哀惜する心情を訴える。この構成の妙が本作の味わいを深いものにしている。『移動祝祭日』の愛読者なら何をおいても一読をお勧めする。また、小説家を夢見る若い読者にも。

『湖畔荘』上・下 ケイト・モートン

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<上下巻併せての評です>

とにかく再読すること。一度目は語り手の語るまま素直に読めばいい。二度目は、事件の真相を知った上で、語り手がいかにフェアに叙述していたかに驚嘆しつつ読む。ある意味で詐術的な書き方ではあるのだが、両義性を帯びた書き方で書かれているため、初読時はミスディレクションが効果的に働き、よほどひねくれた心根の持ち主でなければ、正解にはたどり着けないように仕組まてれいる。しかし再読すれば、いくつもの目配せがあり、伏線が敷かれていて、読もうと思えば正しく読めたことをことごとく確認できる。ここまで、フェアに読者を欺く書き手にあったことがない。

ウェルメイド・ミステリという呼び名があったら是非進呈したい。最初から最後までしっかり考え抜かれ、最後にあっと驚かせるしかけが凝らされている。上下二巻という長丁場だが、二つの大戦をはさむ1930年代と2003年、ロンドンとコーンウォールという二つの時間と空間に魅力的な人物を配置し、失意の恋もあれば道ならぬ恋もあって、最後まで飽きさせない。特に上巻末尾には、絶対に下巻を読まさずにおくものかという気迫に満ちた告白の予告が待ち受けており、これを読まずにすますことのできる読者はいないだろう。

主たる舞台となるのは、コーンウォールの谷間に広がる森に囲まれた土地に建つ、土地の方言で「湖の家」という意味の<ローアンネス>と呼ばれる館。もとはジェントリーが所有する広壮なマナーハウスの一部であったが、本館が火事に遭い、残った庭師頭の住居を修復して子孫が住むようになったものだ。1933年当時そこに住んでいたのは、アンソニーとエリナ夫妻に、デボラ、アリス、クレメンタインの三人姉妹、末っ子のセオドア、エリナの母であるコンスタンスというエダヴェイン一族。夏の間は祖父の旧友でルウェリンという物語作家が滞在している。

ミッド・サマー・パーティーの夜、皆に愛されていた弟のセオがいなくなる。まだ歩きはじめたばかりの赤ん坊が一人でいなくなるはずがない。事故か誘拐か、地元警察はもとより、スコットランド・ヤードの刑事も加わって捜査されたにもかかわらず、セオは見つからずじまい。以後悲劇の舞台となった<ローアンネス>は封印され、一家はロンドンに引っ越す。もともと森の中にあった敷地は訪れる者とてないまま、繁り放題の樹々に囲まれて静かに眠り込んでいた。

その眠りを妨げたのがロンドンから来た女性刑事セイディ。個人的事情から担当中の事件に感情的移入してルールを犯し、ほとぼりがさめるまで祖父バーティの住むコーンウォールに長期休暇中だった。日課となった犬とのランニングの途中、敷地内に残る古い桟橋に足を取られて身動きとれなくなった犬を助け出した時、館を見つけた。敏腕刑事であるセイディには、当時のまま時を止めたかのように息をひそめた館には何か隠された秘密のあることが感じとれた。調べてみると過去の事件が明らかになる。

館を相続しているのは次女のアリス。今ではA・C・エダヴェインという有名なミステリー作家だ。未解決事件の捜査のため家を調べる許可を求める手紙を書いたセイディに許可が与えられたのはしばらくしてからだった。アリスは、この年になって姉のデボラからとんでもない事実を知らされ、長年自分が思い込んでいたのとは全く異なる家族の秘密を知り、あらためて事件の真相を知りたくなったのだ。助手のピーターの勧めもあり、自身もコーンウォールに足を運んだアリスを待ち受けていたのは、思いもよらぬ結末だった。

冒頭、ケンブリッジ出の学者肌の父、てきぱきと家事を取り仕切る美しい母、結婚が決まり社交界デビューも近い長女、物語作者を目指す次女、飛行機に夢中なお転婆の三女、愛らしい弟で構成される裕福な家族が、自然に囲まれた美しい湖畔の家で楽しく暮らす様子が英国風俗小説そのままにたっぷりと描かれる。十五歳になったアリスは、庭師募集の広告に応じて現れたジプシー風の若者ベンに夢中。完成したばかりの処女作をベンに捧げ、愛を告白する予定だった。ふだんは余人を避け、ひっそりと暮らす夫妻が年に一度、三百人の客を招いて行う夏至の前夜祭のパーティーの夜、事件は起きた。

ミステリの要素は濃いが、読後感じるのはむしろ普遍的な主題である。これは母と子の物語であり、戦争の災禍の物語である。主人公の女性は十代で娘を産み、養子に出した過去を持つ。それについての罪悪感が災いして、幼児遺棄の事件に関して過度に反応し失職の危機に遭う。意志に反して子どもと別れなければならなくなった母親のあり方について深い考察がめぐらされている。また、人類が初めて遭遇した大量殺戮である第一次世界大戦時における兵士のPTSD、当時はシェルショックと呼ばれた戦争後遺症についても、その非人間性が静かに告発されている。

ミステリ作家であるアリスの口を通じて、今は懐かしい「ノックスの十戒」が引き合いに出されているのも忘れ難い。犯人は最初から登場していなければならない、とか秘密の通路は一つに限る、とか作家としての自戒が、いちいち本作に用いられているのが律儀と言える。フーダニットからハウダニットに移行したあたりから小説が味わい深くなったとか、自作を語るアリスに作者その人を重ねたくなるのも無理はない。しかも、そのアリスの読みが肝心なところで外れていたのも皮肉と言えば皮肉で、このあたりのシニカルさはアメリカのミステリにはないものだ。

家の相続、良家との縁組といった上流階級ならではの慣行が、母と子の間に確執を生み、物事が単純に進んでいくことを邪魔する。そんな階級にあって、エダヴェインの娘たちは自由奔放に生きようとする。エリナがそうであり、アリスもクレメンタインもまた同じだ。思春期の揺れる心をクレメンタインが、女ざかりの時代を母エリナが、そして独身の老人女性をアリスが代表している。生来奔放な女性が、戦争の時代に翻弄されながら、それでも自分らしく最後まで正直に生き抜いた姿が読後胸に迫る。すべてが明らかにされた場面、ミステリではおよそ覚えたことのない感情に支配される。至福の読書体験である。

『緑のヴェール』ジェフリー・フォード

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堂々たるファンタジーである。第一部『白い果実』における理想形態都市(ウェルビルトシティ)、第二部『記憶の書』におけるドラクトン・ビロウの脳内空間、と閉じられた世界をさまようことを義務づけられていた主人公クレイがようやくにして究極のファンタジー空間である<彼の地>へと旅立つ時が来た。旅の道連れは第二部『記憶の書』以来、クレイの良き相棒となった片耳のない黒い犬ウッドだ。動物好きの読者なら、このウッドという道連れが大好きになること間違いなし。

第二部の終わりで、クレイやウッドと連れ立って<彼の地>へ向かったミスリックスだったが、<彼の地>に長く留まることで、次第に人間的な部分を消失し、魔物の部分に侵食されるという事態が起きる。夜、無意識の理に隣に眠るクレイに襲い掛かり、ウッドに吠えられ、クレイにナイフを突きつけられる仕儀となる。事ここに至っては旅に同行することもかなわない。ついにミスリックスは一人理想形態都市に戻ることになる。

前二巻の語り手(記録者)と異なり、今回の語り手は魔物でありながら、子どもの頃よりビロウの教育を受け、万感の書を繙いてきたミスリックスである。クレイと別れた後、いったんは魔物の世界に融けこもうとしたミスリックスだったが、人間臭のする彼を魔物は敵とみなし散々な目に遭わされた。人間として生きられる唯一の場所、理想形態都市の廃墟に独居するミスリックスはクレイのその後を案じる。そこで<彼の地>にひと飛びし、羊歯と土、空気と水を持ち帰る。それらからクレイの記憶を蘇らせるのだ。記憶の欠片が立ち上がり、やがて一つの物語を構成し始める。

三部構成の壮大なファンタジーの完結編である本書は、<彼の地>が擁するクレイの記憶をもとにミスリックスによって紡がれた楽園の死と再生を巡る物語である。今は<彼の地>と距離を置くミスリックスは、実はクレイのその後の足取りを知らない。幼い頃にビロウによって捕えられ、東の帝国に連れてこられたミスリックスは、偶然溺れているところを救ったことから仲よくなった少女エミリアの縁で訪れることになったウィナウの他には、理想形態都市しか知らない。ものに触れればそれが持つ記憶が自分の中に流れ込んでくるという超能力を持つとはいえ、途方もない規模を持つ<彼の地>の年代史ともいえる物語を、現実に見たことのないミスリックスが語るのだ。その意味でミスリックスは「信頼できない語り手」と言えよう。

前半は、わずかな物しか持たず、ライフル銃と手製の弓矢で狩りをしながら、広大な大地を旅するクレイとウッドの苦難が語られる。せっかく見つけた洞窟の入り口が凍った雪で閉じ込められたり、夜のうちに水かさが増え、河のようになった草地で何日も雨に打たれたり、という冒険続きだ。だが、第一部で第一級観相官として不遜な性情を誇っていたクレイが、筋骨隆々とした狩人に変貌を遂げ、ウッドの助けを借りなながら、どんな苦しい状況に置かれても、困難に耐えつつ歯をくいしばって立ち上がる姿を見て、読者はようやくこの主人公に愛着を抱けるようになった喜びを味わう。主人公を愛せなくて物語が読めるものか。

もっとも、このクレイの変貌は、語り手が無類の読書家であるミスリックスであることによるのかもしれない。ほとんど無一物と言っていいクレイの持ち物の中に初めのページが破けていて題名も作者も分からない一冊の革表紙の本が何故か紛れ込んでいる。一日の終わりになると、ウッドがそれを読むことをクレイにおねだりをする。読んでやると大人しく聞いていていつの間にか眠るのだ。さっぱり内容の分からない本を読むクレイと嬉しそうにそれを聞くウッド。一日の終わりに心休まる風景である。

射止めた鳥の血を飲んで窮地に陥ったクレイを救ってくれた刺青を体中に彫り込んだ裸族も、ウッドと同じことを要求した。しかも、読み終えたページを飲み込んでしまうので、しまいには本の中身はなくなってしまう。それでも革表紙だけになった本を加えてきて話をせがむウッドのため、クレイは仕方なく作り話をして聞かせるようになる。第一部や第二部のクレイを知る読者なら、クレイのあまりの変わりように眉に唾をつけたくなるだろう。

シリーズを通しての作者の立場にしてみれば、さんざっぱら大ぶろしきを広げて見せた物語を、どううまくまとまりのあるものに仕上げるかが問題になる。ミヒャエル・エンデに『はてしない物語』というファンタジーがある。現実世界とファンタージエンという物語世界が並行世界として共存するというアイデアを効果的に使用した一篇だ。子どもの世界から想像力が消え、世界中に<虚無>がはびこり、物語世界であるファンタージエンが崩壊するのを食い止めようと少年が活躍する物語だった。

二つの異なる世界の出来事を描き分けるのに二色のインクが用いられていた。本書では、ミスリックスのいる現実世界がゴチック体、クレイのいる<彼の地>の出来事を綴るのが明朝体とフォントを変えて描き分けている。第一部『白い果実』で顔を切り刻んでしまったアーラ・ビートンが旅人エアと暮らす真の「ウィナウ」に赴き、アーラの赦しを請うのがクレイにとっての旅の目的である。ところが、旅を続けるにつれ、次第にその目的は変化し始める。

刺青をした種族や内海の水の中から出てきた種族、西の帝国からやってきた人々を襲う種族、洞窟で見つけた死体とその女が生み出した植物人間<緑人>、クレイがシリモンと名付けたピンク色の怪獣、といった人や獣が想像もできない長い時間をかけて繰り広げてきた<彼の地>をめぐる闘争の歴史がある。その争いの結果、<彼の地>は衰退に向かい始めていた。最後に残ったそれぞれの種族の生きの残りの者たちは、世界の再生の希望を異世界からの闖入者であるクレイに託す。クレイ自身はそれを知らず、唯々アーラの残した緑のヴェールに導かれるように、その役目を果たすのだ。

その一方で、魔物のことをよく思わない人々は、ミスリックスこそがクレイを殺した犯人であると彼を告発する。魔物となって暴れれば、人間などはひとたまりもないが、それでは、せっかく仲よくなったエミリアを泣かせてしまう。魔物として独り、廃墟となった理想形態都市でこれまで通り暮らしてゆくか、人間界の法に従って裁判を受けるのか、ミスリックスは懊悩する。果たして、人々が言う通り、クレイは魔物の手にかかり殺されたのか。それとも、ミスリックスの書き残した物語通り<彼の地>で楽園に行き着けたのか。

ファンタジーに異例のミステリー風味を加え、一味ちがった物語に仕立てて見せた作者の手腕にはひとまず拍手を送りたいが、この終わり方に不満を感じる読者もいるだろう。いくつもの伏線が張られており、注意ぶかい読者には見当がつくかもしれない。作者は通常のファンタジーではもの足りないと思ったようだ。第一部、第二部で語り手をつとめたクレイが、何故その役をミスリックスと交代しなければならなかったか、がそのカギを握るといえばヒントになっているだろうか。そういえば、トールキンホビットをめぐる物語でも語り手は交代していたことを今思い出した。それぞれ単独で読んでも話は完結するように書かれているが、できれば、第一部から順に読まれることをお勧めする。読み切るのにさほど時間はかからない。しかも、読んだ後の充足感は計り知れない。特に第三部は文句なしに面白い。

『白い果実』ジェフリー・フォード

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バベルの塔をモチーフにした、カバー装画がいい。街ひとつをそっくり呑み込んだ建築物という絵柄が、この三部作に共通するであろう主題を象徴している。ファンタジーなのだが、ディストピア小説めいた趣きもあり、寓意を多用した思弁的小説の装いも凝らしている。とはいえ、その本質は様々な怪異に満ちたあやかしを次々と繰り出し、見る者の目を眩ませる大がかりな奇術。ちょうど、理想形態都市(ウェルビルトシティ)を支配するドラクトン・ビロウが主人公の目を楽しませる手品と同じように。

ヘルマン・へッセに『ガラス玉演戯』という小説がある。ガラス玉演戯というのは、「古代から現代に至るまでの芸術や科学のテーマをガラス玉の意匠として一つ一つ封じ込め、それらを一定のルールの下で並べていくことによって、ガラス玉に刻まれたテーマ同士の関係を再発見し、新たな発見・感動を生み出すという、架空の芸術的演戯」というものだ。

人格形成小説(ビルドゥングス・ロマン)だから、一人の人間が如何にして人格を作り上げていくのかを描いている。弟子として師足るべき相手を探し、一段一段認識を高めていく。その舞台が、一種の理想的学園都市で、音楽や数学をはじめあらゆる学問技芸のマイスターが集まるカスターリエンは、第二次世界大戦の惨禍に嫌気がさしたヘッセが想像した究極の理想郷である。

マスター・ビロウが作り上げた理想形態都市は、その裏返しである。師であるスカフィーナティに教わった記憶術、それは自分の心の中にある宮殿をつくり、記憶するべき考えを象徴する花瓶や絵画、薔薇窓といった物体に置き換え、宮殿内に配置するというものだった。知識欲の強いビロウは、宮殿ではおさまらず、それを都市の規模に変えた。そして、頭の中にある都市を現実に作り上げたのだ。

多くの人々の知恵や技芸が互いを高めあい、相補い合って生成してゆくカスターリエンとは逆に、ビロウ一人のために都市があり、人々はその構成物に過ぎない。理想形態都市の住民は魔物の角から精製した粉末で一時恍惚感を味わったり、辺境の村に住む珍奇な生き物や剣闘士の競技といった見世物を見たり、とパンとサーカスを与えられることで懐柔されている。しかも人口増加に業を煮やしたビロウは人員削減のために主人公に命じ、観相学的観点から見て劣位の市民を処分することまで始める。

主人公のクレイはビロウの覚えめでたい一級観相官である。高慢で自惚れが強く人を人とも思わぬ傲岸不遜な人物だが、ビロウには忠実だった。そのクレイがスパイアという鉱石の産地である属領行きを命じられる。教会に置かれていた白い果実が盗まれ、その犯人を観相術で探せというのだ。属領でクレイはアーラという娘と出会う。理想形態都市に憧れ、そこにある図書館で学ぶことを夢見るアーラは独学で観相学を学び、クレイに劣らぬ能力を持っていた。

アーラを助手にしたクレイは何故か自分の能力を一時的に失い、捜査をアーラに頼らざるを得なくなる。捜索に失敗すれば硫黄鉱山送りはまちがいないからだ。立場の逆転によって自尊心を傷つけられたクレイは詭計を案じ、アーラを犯人だと告発。捕らえられたアーラの顔にメスを入れることで、従順な相を生み出し反抗心を除去するという暴挙に出る。ところが、大事な手術の最中に麻薬の一種である美薬が切れ、手術は失敗。アーラの顔は二目と見られぬものとなる。なぜなら、その顔を見た者は恐怖のあまり死んでしまうからだ。

任務に失敗したクレイが送られるのがドラリス島という流刑地。かつて自分が罪人と決めつけた人々を送り込んだところだ。高熱と悪臭が充満する硫黄採掘場である。ダンテの『神曲』の地獄めぐりを思わせる、この世の地獄で、クレイは自分の犯してきた罪の深さを知り、アーラに赦しを請いたいと願うようになる。赦免され、理想形態都市に戻ったクレイはビロウの相談役の地位を得るが、面従腹背を貫く。都市の地下深くに作られたクリスタルの球体の中に閉じ込められたアーラたち属領の人々を救出する目的があるからだ。

「依頼と代行」、「探索」、「双子」、「権力の継承」といった物語の機能を都合よく配置し、それに獣人やら魔物、緑人といった『指輪物語』等でお馴染みの異形の者たち、ビロウの天才的な技術とアイデアが作り出す、人語を解し酒や料理を供する猿のサイレンシオや、旅の道連れでありクレイの守り人でもあるカルーという力持ちの大男といった魅力的な脇役を配し、物語は一挙に加速する。

独裁者が恐怖と幻覚剤で支配する都市国家とその周縁に位置する属領という対立に加え、人工的に作り上げられた享楽的都市生活に対し、自然に囲まれた平和な村落で構成される原始共産社会といった構図もある。理想形態都市が有する女性には決まった役割しか認めず、その資質は男に劣るという考えに対する、同じ能力を有する女性アーラによる異議申し立てがある。やがて対立は波乱を生み、暴発する。

ファンタジーの筋立ては決まりきったものだ。それを面白く読ませるために、物語を貫く思想、魅力的な人物や奇想溢れる異世界の建築その他の意匠をどう創造するか、物語作者はそれを問われる。『記憶の書』の評でも書いたことだが、この作家の特徴は人物その他の形象がビジュアルであることだ。人狼グレタ・サイクスの頭に埋め込まれた二列のボルトなどは、容易にフランケンシュタインの怪物を思い浮かべさせる。読者の想像力に負担をかけないところが、巧みといえば巧みだが、ある意味安易でもある。

上辺の分かりよさに比べると、寓意を鏤めた思弁的な装いはそう分かりやすくはない。あえていうなら、ドラクトン・ビロウは自己の能力を通じて世界を創造する神としてすべてを統括する欲望の支配下にある。理想形態都市も属領をその中に閉じ込めたクリスタルの球体も、ひとつの秩序の下にある完璧な世界を希求したものである。しかし、世界は常に生成変化する。完璧に作り上げた世界であっても、時間の経過によって、生成変化の過程で生じる余剰や夾雑物が生じ、秩序を一定に保つことはできない。コスモスはカオスを内包しているのだ。秩序と混沌との相克こそが三部作を貫いて流れるパッソ・オスティナートである。

ファンタジーのお約束として、探索を依頼された代行者は宝探しの旅に出る。様々な苦難の末、帰還するわけだが、ビロウに敵対する道を選んだクレイには、果たしてどのような結末が待っているのやら。その前に、まだまだ次のミッションがクレイを待ち受けているにちがいない。次は、どんな世界が舞台となり、どんな奇妙な生物がクレイに襲いかかるのだろう。これが連続活劇の持つ醍醐味である。第三部がいよいよ楽しみになってきた。

『記憶の書』ジェフリー・フォード

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表題に惹かれて手に取ったら表紙の絵がまた魅力的だった。それで読みはじめたのだが、冒頭に何の説明もなく書きつけられた「理想形態都市(ウェルヴィルトシティ)」という言葉につまづいた。どうやら、かつてあった都市で、今は廃墟と化しているらしいのだが、語り手は、そこで高位の役職についていたらしい。しかし、今は一介の市民となって、そこを離れ、薬草を採っては市場に持っていき物々交換で日用品を手に入れているようだ。また、助産師のまねごともやっているようで、人々の信頼も集めている。

今一つ、説明が不親切だなと感じ、頁を繰る手を一時止めて「訳者後記」を読んでみて納得した。本書は三部作の第二部をなす巻だったのだ。書く方としては、当然第一部を読んでいるものとして書きはじめているわけだ。続きを読もうかどうか迷ったが、語り手はなかなかの話し上手で、かつて語った都市の崩壊の物語とは全く異なる、新たな出来事の到来を告げるその口ぶりに、すっかりその気にさせられて読み続ける仕儀となった。

「楽園に、一匹の魔物が野放しになっている。過去をよみがえらせることによって人々を惑わせる魔物が。」

この警告にある魔物というのが、まあ驚くなかれ、なんともチャーミングな魔物なのだ。その外見は教理問答の挿絵にでも出てきそうな、鉤爪に長い尻尾、大きな蝙蝠状の翼を持ち、頭には角、口からは牙をのぞかせている。歴とした魔物の姿をしていながら、廃墟で拾った眼鏡をかけ、人語を解し、いざとなったら料理も作ってくれる、道徳的な心の持ち主ときている。名はミスリックス。理想形態都市を作ったドラクトン・ビロウが<彼の地>で捕獲し、我が子として教育を施したのだ。

魔物の特技は、相手の頭に手を置くことでその人の考えていることや記憶のすべてが自分の中に流れ込んでくるという超能力だ。その力によって、父であるマスター・ビロウの恐るべき能力、知力を知ることができた。ところが、ビロウが送り込んだ人工の鳥が撒き散らす霧を吸った語り手クレイが暮らすウィナウの人々は次々と眠り込んでしまう。解毒薬を求めてクレイはビロウの住む理想形態都市の廃墟に出向く。老いぼれ馬に乗り、飢えた犬とクロスボウだけを頼りに。

人狼に襲われたところを助けてくれたのがミスリックスだった。ビロウの記憶をたどったとき、クレイの姿を目にしていたのだ。魔物に手を引かれてビロウのもとを訪れ、クレイは知ることになる。試験管を持つ手を滑らせ、ビロウもまた同じ薬品を吸い、眠りについたことを。解毒剤の在りかを訪ねるクレイにミスリックスの鉤爪が指し示したのは、ビロウの頭だった。彼は頭の中に記憶の宮殿を作っていた。その中にはすべてが象徴の形で収められている。そして、それぞれが何かを象徴する人も住んでおり、研究に励んでいるという。

ミスリックスの手が、ビロウとクレイの頭の上に置かれ、クレイはビロウの頭の中に運ばれる。そこは眠るビロウの記憶によって形作られた小宇宙だった。波打つ水銀の海の上空に浮かぶ小さな島には一望監視装置(パノプティコン)が聳え、そこからは時折、空を飛ぶ生首が研究者たちの思念を読み込もうと目を光らせて飛び出してくる。四人の研究者たちはどこからかそこに連れてこられ、研究を命じられている。逆らえば、<優男>という化け物が表れて彼らを食べてしまう。すでに一人仲間を失っているらしい。

クレイはアノタインという女性研究者の協力を得て、解毒薬を探そうとするのだが、アノタインの魅力にすっかり参ってしまったクレイは、ともすれば使命を忘れがちになり、何もかも忘れてアノタインンとの暮らしを満喫してしまいそうになる。そうこうするうちに、ビロウの体力が落ちてきたせいか、空に浮かぶ島は少しずつ崩壊し始める。崩壊を食い止めるためにはビロウの眠りを覚ますしかない。解毒薬を求めて、クレイは生首や<優男>と闘い、一望監視装置の中に入るのだったが、そこにあったものとは。

空想とはいえ、一応地上に存在する都市その他を舞台とするのではなく、人間の頭の中というインナー・スペースを舞台とするファンタジーである。ル=グウィンなどの手にかかると、灰色の茫漠たる世界のように描かれることの多い内的世界だが、この人の手にかかると、何ともわかりやすい。むしろ見えすぎるくらいの明るさで描かれるのが興味深い。空飛ぶ生首などというマンガチックなガジェットには笑ってしまった。

水銀の海というのは、一応無意識の隠喩なのだろうが、時間の順序はバラバラにせよ、そこに描き出されるのはビロウの愛の物語の記憶である。神ならぬ人間の、意識はともあれ、眠っているのだから、そこには無意識の世界が広がっていなければなるまい。合理や論理では説明のつかない、もっとどろどろとした欲望や正体の分からない何物かが息をひそめて待ち構えていてほしい気がするのだが、それはこちらのない物ねだりらしく、映画化でも狙っているのかと思うほど、どこまでも具体的かつピクチャレスクな風景が展開する。

美薬という麻薬紛いの薬品を、魔物もクレイもやたらと摂取するのだが、そこに倫理的葛藤などなく、むやみに心地よい楽園状態のなかで全能感に浸り続けるわけで、大丈夫かなあ、と心配になってきたりもする。第一部を読んでいないので、このクレイという人物について、全くと言っていいほど基礎的知識を欠いている者が評しているのだ。完全な勘違いということもあるだろうが、クレイのやることなすこと場当たり的で適当な感が強い。これで三部作の主人公がつとまるのだろうか、という感想を抱いてしまった。と、こうまで書いてしまうと第一部『白い果実』、第三部『緑のヴェール』も読まなくてはなるまい。

『イングランド・イングランド』ジュリアン・バーンズ

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大金持ちが島を買って、金にあかせて島を好き勝手に作り変えてしまうという話が主題の一つになっている。ポオの『アルンハイムの地所』や『ランダーの別荘』に想を得たと思われる江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』を思い出させる趣向である。しかし、中身はまるでちがう。ポオや乱歩の自己の夢想に忠実な仮想空間の実現という、ある意味純粋な個人の欲望の具現化に対して、サー・ジャックがやろうとしているのは、観光目的の施設の姿を借りた独立国の創設である。その意味では、既存の国家の中に独立国を作ろうとする井上ひさしの『吉里吉里人』の方が似ているかもしれない。

フロベールの鸚鵡』や『101/2章で書かれた世界の歴史』を書いたジュリアン・バーンズは英国小説界きっての知性派で知られている。歴史に対する懐疑的な姿勢は前掲の二作にも明らかだが、個人の記憶に関して同じ主題を扱った『終わりの感覚』が、いちばん気に入っている。本作が主題の一つにするのも、一つは個人の記憶の不確かさであり、アイデンティティというものが持つ曖昧さである。それは、主人公であるマーサ自身のアイデンティティであり、イングランドという国家のそれでもある。

そういうと、いかにも難しそうな気がするが、三部構成の一部と三部がマーサの少女期、晩年にあてられ、脂の乗りきった中年のマーサが活躍する第二部が、小説の中心であり、サー・ジャック・ピットマンの片腕となって「イングランドイングランド」を創出し、やがてそのCEOとなるまでの波乱万丈の人生はまさに怒涛のエンタテインメント。知性派の側面をかなぐり捨て、とまではいかないものの皮肉と諧謔を椀飯振舞して読者サービスに勤めている。ブッカー賞の最終候補まで行ったのも分かる。

マーサの父は、マーサが子どもの頃、家を出て戻らなかった。多くの子がそう感じるように、両親の離婚の原因が自分にあるように思いこんだマーサは賢く育ったが、神を信じず、皮肉屋で、男は誰もがマーサに惹かれたが、マーサはそうではなかった。成人したマーサは父との再会を果たすが、マーサの記憶の中心部分を占めるジグソーパズルも、父の記憶からはすっぽり抜け落ちていた。最後のピースが失われたせいで完成しないジグソーパズルは、マーサの人生の暗喩になっている。

さて、小説の核となる第二部は、「タイムズ」を買い占め、ワイト島にイングランドのレプリカを作るサー・ジャックという成り上がり男の野望を描く。マーサは、近くにイエスマンばかりが集まるのを厭うサー・ジャックがコンサルタントとして雇い入れた、いわば任命皮肉屋である。そこには、公認歴史学者のマックス博士、アイデア・キャッチャーのポール・ハリソン、その他のスタッフが集まり、アイデアを出し合う。ピットマンは、島内に二分の一サイズのバッキンガム宮殿を造営し、金と甘言を駆使して国王夫妻を迎え入れる。

その名も「イングランドイングランド」という観光施設は、ディズニー・ランドではないと言いながら、まさしくその英国版。ビーフ・イーターもいれば、ロビン・フッドのアトラクションもある、イングランドを満喫するべく造られた総合アミューズメント施設である。イングランドアイデンティティとは何か、をとことん追求してゆくのだが、そこに出てくるのは底の浅い、出来合いのイングランド像であって、アメリカ人や日本人観光客が喜びそうなものばかりだ。

おそらく愛情の裏返しなのだろう。徹底的に戯画化されたイングランド像がそこにある。そこを支配するサー・ジャックもまたその戯画化を免れない。自身は所属しない名門クラブのメンバーにしか許されないサスペンダーをし、唯我独尊。相手を挑発し、すべて自分の思い通りにいかなければ許せない。ある意味幼児的な自我は、赤ちゃんになっておむつをされて喜ぶという秘密の趣味を持つ所に現れている。いつクビにされても文句を言えない立場であるマーサとポールは、サー・ジャックに切られた新聞記者を雇い、その秘密を探り当てる。いざというときはこれを使って強請るつもり。それが功を奏して、ついにCEOに上りつめたマーサであったが、最後のピースは敵の手にあった。

第三部はオールド・イングランドのその後を描く。「イングランドイングランド」を追放されたマーサは、諸国をさまよった後、故国であるイングランドに戻るのだが、国家の実体、つまり経済から情報発信、それに国王まで「イングランドイングランド」に奪われてしまっては、旧イングランドに以前のような威厳は亡くなっていた。国土は荒れるままに放置され、それこそロビン・フッドがいた頃のアングリアに戻ってしまっていた。オールド・ミスと子どもに囃される年齢になったマーサは、故国と自分の来し方、行く末を見つめ感慨に耽る。

このすべてを奪われ、ただただ国民国家以前の旧態に先祖返りしてしまった旧イングランド、現在はアングリアと呼ばれる土地に、何故か不思議に惹かれる。インフラが整備されず、食べる物すら自給自足の産物でまかなうしかない、究極の地場産業スローフードな暮らし方。進歩とも成長とも無縁のありのままな暮らし方。もし、許されるなら、私もそこで暮らしたいとさえ思う。メディア王によって国を丸ごと買い占められたオールド・イングランドディストピアとして描きながら、おそらく、現実としてはあり得ないユートピアを皮肉にもそこに現出させる魔術師のような手捌きにうっとりさせられた。

主題であるアイデンティティについてマックス博士がマーサに説く言葉に我が意を得た思いがした。「私に言わせれば、たいていの人間は自分の人となりの大部分を盗むのだ。そうしなければ、貧しい人間ができあがってしまう。あなただって、意識するしないにかかわらず、大なり小なりそうしたつくりものなのだよ」。このどこか作家自身を彷彿させるマックス博士の言葉をもう一つ引いておく。「愛国心の最も熱烈な同衾者は無知であり、知識ではない」。これもまた然り。