青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『スウィム・トゥー・バーズにて』 フラン・オブライエン

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伝説的な現代小説でありながら、ジョイスの陰になり、陽の目を見ることのなかったフラン・オブライエンの代表作がやっと単独で刊行されたことをまず喜びたい。文章の難易度から言えば、同時期に発表されたジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』より、よほど読みやすい。適度に理解できるというのが難点だったのかもしれない。人は一般的に自分の理解できない物の方をありがたがるものなのだ。

「ぼく」は、大学に通う学生で伯父の家に下宿している。伯父からは「本の一冊も開いているのか」と皮肉を言われる毎日だが、実は本を書いている。しかもばりばりの現代小説だ。「ぼく」の小説論が作中に開陳されている。その概略は、小説は紛い物でなければならず、作中人物はどこかからの借り物でいいし、その性格や行動は作家が決めるのでなく、人物の勝手気ままににさせた方がいい。現代小説はもっぱら引照を旨として、既存作品と頻繁に照応させることで説明を省く。それが現代文学を理解しようなどという無教養な輩を締め出すだろう、というものである。まさに、ポスト・モダン。

その内容だが、いうところのメタ・メタ小説。「ぼく」の書いている小説の主人公がダーモット・トレリスという名の作家で、彼はレッド・スワン・ホテルの一室に住み、一日中ベッドに寝たまま原稿を書いている。トレリスは、登場人物を自分の部屋に同居させているが、彼らはトレリスが起きている間は言いなり(作中人物だから当然)にならざるを得ないが、内心では反発している。そこで、トレリスに薬を盛って眠らせておき、復讐の計画を練る。トレリスが創り出した絶世の美女とトレリスとの間にできた嫡子オーリックは父親譲りで小説の才があり、母が産褥で早世したことで父を恨んでもいた。そのオーリックに小説を書かせ、トレリスを痛めつけ、死ぬ苦しみを味わわせようというもの。

自分の生み出した人物に命をねらわれるという設定は、オースターの近作にもあったが、異なる階層間を往来する、その自在ぶりが半端でない。作家たるもの理想の女が描けたら、その女と寝たくなるのは当然で、その結果生まれた子が父を殺したいと思うのもフロイトを持ち出すまでもない。

ダーモット・トレリスが創り出す登場人物というのが、アイルランドの伝説上の人物フィン・マックール、狂王スウィーニー、見えない妖精グッド・フェアリ、同じく魔物プーカ、悪徳漢ファリスキー、ダブリン市内を暴れ回る二人のカウボーイ、といった既存作品から借りてきた、いずれ一癖も二癖もありそうな人物ばかり。主の眠っているのをいいことに、この連中が好き放題にしゃべりまくり歌いまくる。「スウイム・トゥー・バーズ」はアイルランド語「スナーヴ・ダー・エーン」(浮き漂え・二羽の鳥)の英訳で、作中狂王スウィーニーの話のなかに登場する。

フィン・マックールの格調高い物語のなかに狂王スウィーニーの哀詩が謳われるかと思うと、その話を受けて労働詩人ケイシーが詩を朗誦するという、時空も階層も異にする人物が織りなす入れ子状の物語が引きもきらず次から次へと繰り出される。その合間合間に「ぼく」の日常生活がぽつんぽつんと挿入されるという構造。一つ一つの挿話がとんでもない語り上手の口調で供されるので、構造の複雑さなど忘れついつい読み耽ってしまう。どうして、こんなに面白い小説が単行本化されなかったのだろうと首を傾げてしまった。

トマス・ピンチョンの全小説集が刊行されるような時代を待ってようやく手軽に読めるようになった。独り歩きするには、あまりにも早すぎたのだ。やっと「現代文学を理解しよう」などと思わずに、小説を楽しめる時代に出会えたというわけだ。伝説の英雄が語る物語の格調の高さと、妖精が今も生きていて、人々は歌が好きで酒飲みで猥雑というアイルランドの俗受けするイメージが混淆して何ともいえぬ文学的感興を催す。モダニズム文学の傑作であるとともに、ポスト・モダンを予言した伝説の一冊である。