『奥のほそ道』リチャード・フラナガン
主人公はドリゴ・エヴァンス。七十七歳、職業医師、オーストラリア人。第二次世界大戦に軍医として出征し、捕虜となるも生還して英雄となり、テレビその他で顔が売れ、今は地元の名士である。既婚、子ども二人。医師仲間の妻と不倫中。他人はどうあれ、ある時期以降の自分をドリゴは全く評価しない。戦争の英雄という役割を演じているだけだ。とっかえひっかえ女とつきあうが愛しているわけでも肉欲に駆られてのことでもない。アイデンティティ・クライシスから抜け出せないで歳をとってしまっただけだ。
きっかけは分かっている。戦争が二人の仲を裂いたのだ。婚約者のいる身で他人の妻、それも自分の叔父の妻と恋に落ちてしまった。それが叔父の知るところとなり、別れようという相手に、帰ったら結婚しようと電話で告げて出征した。戦争が終わり、帰還したドリゴは婚約者と結婚し、戦争の英雄とたたえられ、現在に至る。傍目にはめでたし、めでたしの人生だが、本人にとっては不本意の後半生だ。ではなぜ、ドリゴは約束を果たさなかったのか?
すべての小説は探偵小説であるといわれる。別に探偵が出てくるわけではない。読むことでしか解消できない疑問点をその中に含んでいるからだ。その謎を解こうと読者は本を読み続ける。そして結末に至り、そういうことだったか、と納得するのだ。だから、尻切れトンボに終わってしまう作品には不満を感じる。逆に伏線がうまく回収され、ひっかかっていた不自然さが自然なものに感じられるような作品は高く評価される。
『奥のほそ道』は、ドリゴ・エヴァンスという男の人生を、恋愛と戦争体験の二つの要素に基づいて描いている。そして、そこにはこんな立派な男がなぜ抜け殻のような後半生を送らねばならなかったのか、という謎を解くカギが隠されている。メロドラマ要素の強い恋愛悲劇も、悲惨を通り越してアパシーに陥ってしまいそうな捕虜生活を描いた部分も、それだけで充分読ませる力を持つのだが、その二つを通してドリゴを変容させたものが見えてくるように仕組まれている。
決して親切には書かれていない。最後まで読み通したらもう一度初めに戻って読み直すといい。最初あれほど読みづらかった部分が、面白いくらいすらすらと読めることに気づくはずだ。なぜなら、さして重要な人物とも思えない複数の人物のエピソードが、冒頭から何度も顔を出すが、これがカギなのだ。初読時は、その後出てこなくなるので重要視もせずに読み飛ばしてしまう。ところが、これが後で回収される伏線になっている。
あるいは、作中くどいくらいに何度も話題として取り上げられるのが、当時封切りされたばかりのヴィヴィアン・リーとロバート・テイラー共演の映画『哀愁』。有名な「オールド・ラング・ザイン」の曲を蝋燭が一本、また一本と消えていく中、映画をなぞるようにドリゴも恋人と踊る。これもカギだ。結婚を約束した女と兵士の仲を裂くのが男の出征という点がそのまま共通している。映画をよく知る読者には悲恋の暗示であることは自明である。
それだけなら、よくできた大時代的なメロドラマになってしまいそうなストーリーを基部で支えているのが、ドリゴが日本軍の捕虜となって泰緬鉄道の敷設のため、強制労働を課される部分である。この部分は、もともと軍曹として従軍し、捕虜となり泰緬鉄道工事に携わった作家の父が話して聞かせた事実に基づいている。無論、多くの資料を読み、現地に足を運んで調査して得た客観的な事実に作家の主観的な想像力を働かせた虚構である。しかし、その迫力たるや生半なものではない。
ハリウッド映画でお馴染みの男ばかりが共同生活する軍隊ならではの磊落なユーモアが陰惨な強制労働を描くタッチと絶妙な均衡を保っている。もし、この男たちのくだらないといえばくだらないやり取りがなかったら、どこに救いを求めればいいのだろう。食べる物も着る物もなく、支給された褌一丁の姿で、泥濘の中を徒歩で工事現場まで歩き、ハンマーと鉄棒で岩を砕く。栄養失調で肛門が突き出た男たちは、便所までもたず糞尿を垂れ流す。あのナチスの強制収容所でさえ雨風から身を護る建物があった。ここには何もない。
日本軍の将校たちでさえ「スピードー」と呼ばれるこの命令の不条理さは理解している。ただ、彼らはそれに背くことができない。この服従の仕方はもはやカルトでしかない。自分の認識力や理解力の上に天皇という上部構造を置いて、その命令を行使することがすべてという生き方を自ら選び取る形で受容する。不都合な部分は受け入れやすい形に変形していく。まるで今でいうフェイクのように。リチャード・フラナガンの筆は、まるで今の日本を見ているような気にさせる。
そのように受け入れがたい現実を自分に強いた兵たちは、戦後においても何ら戦中と変わらない価値観で生きてゆくことができる。あれほどの犠牲を強いた泰緬鉄道を走った蒸気機関車C5631号機が靖国神社に今も保存されている。犠牲者については何も触れてはいない。戦後日本は体面上は、戦前の価値観を否定した上に今の日本を築いたことになってはいるが、戦犯の孫が戦前の価値観を称揚し、憲法改正を訴えることについて異議を唱える人の方が少数派というのが現実だ。
新聞を読まない人々によって支えられている政党が多数の支持を得ているのだから、こんな小説など読む人の数は限られているに違いない。小説は声高に正義を唱えたりはしていない。それどころか、戦争という異常事態の中で自らを失った異なる国家に属する人民の一人一人に寄り添っているとさえいえる。もちろん、主人公はドリゴなのだが、活写される人物たちの内面が読者の中で生命を得て甦り、それぞれの人生を生き始める。読む者は彼らとともにこの救いようのない現実に直面し、ふと己の置かれている現在を見つめ直す。自分を失っているのはドリゴだけでないことに。