青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ザ・ドロップ』デニス・ルヘイン

f:id:abraxasm:20170606165041j:plain

はじまりは犬だった。映画『ティファニーで朝食を』のように、ごみ箱から助け出されるのが猫だったらもっとよかったのにと思ったけど、頭のイカレた男に殴られても死ななかったのは、ピットブルだったからで、猫だったら死んでいただろう。そう考えると、犬でよかったのだ。捨てられていたのは、ナディアという娘の家のごみ箱で、偶然前を通りかかったボブが、ごみ箱の中で何かが立てる物音を聞きつけたのだ。

ボブは、カズン・マーヴの店のバーテンダー。つけをためて深夜までねばる老女にも、死んだ仲間を偲んで集まる連中にも親切だった。内気で、人と付き合うのが苦手。当然恋人もいなかった。それが、犬のおかげでナディアと話をするようになる。前に獣医の手伝いをしていたナディアは犬の扱いに詳しかった。時々、いっしょに犬の散歩にも行くようになったころ、元の飼い主が現れる。エリック・ディーズは前科者で、精神病院に入っていたこともある。十年前、ボブのバーを出てそのまま姿が消えた男を殺したと噂になっている男だ。

デニス・ルへインはクリント・イーストウッド監督の映画『ミスティック・リバー』の原作者。本作も同じ町、ボストンのイースト・バッキンガムが舞台。カズン・マーヴは、ボブの実の従兄弟で、二人は昔つるんでやんちゃなこともしていたが、今は実直に働いている。ただ、名前は「カズン・マーヴの店」だが、経営権はチェチェン・マフィアの手に握られている。金貸しと集金で稼いでいたマーヴは、今は故買屋と店をマフィアの賭けの上がりを一時的に預かる中継所(ドロップ)とすることで手間賃を稼いでいた。

そのマーヴの店が強盗に襲われ、店の売り上げ五千ドルが奪われる。マフィアのボスの息子チョフカが店に現れ、ボブとマーヴに金を探せと脅しをかけてくる。強盗事件を操作するのはトーレスというプエルトリコ人刑事で、ボブとは教会で顔をあわす顔なじみだ。二人とも熱心なカトリック信者だが、なぜかボブは聖体拝受をしない。常々それに疑問を感じていたトーレスはマーヴの店で十年前に起きた失踪事件を再捜査し始める。ウィーランというその男がヤクを買いに行った先のひとつがディーズのところだった。

誰もが顔見知りで、同じ教区に住む者は行きつけの店もそれぞれ決まっていて、仲間内の結束の固いアイルランド系移民が集まる下町。ただ、そこもチェチェン人に限らず、新興のギャングたちが勢力争いを繰り広げ、表面は信心深い人々が暮らす町も一皮むけば地下は危険が渦巻いている。そんなイースト・バッキンガムの死んだ両親が残した家で、それまで誰の目にもとまらないようにひっそり暮らしていたボブは、犬を飼い始めてから人が変わったように見える。生きがいを見つけたのだ。

マーヴは追い詰められていた。父の入っている施設に払う金にも困っていたところに降ってわいたような強盗事件。マフィアには脅されるし、同居する姉の面倒も見なければならない。マーヴは最後の荒稼ぎを計画する。スーパー・ボウルの日、自分の店にドロップされる大金を強奪しようというのだ。実行犯として目をつけたのが出所したばかりで顔を知られていないディーズだった。ディーズはディーズで、自分から犬も女も奪った大男の存在が面白くない。一泡吹かせようとナディアを連れてカズン・マーヴの店に顔を出す。

マーヴの最後の賭けはうまく行き夢の海外暮らしに出発できるのか。父親に虐待された過去を持ち、執拗にボブとナディアにつきまとうディーズの真の思惑とは。周囲からは善意の人と見られているボブは、信心深い信者のくせに何故頑なに聖体拝受を避けるのか。ナディアの首に残る傷跡は彼女の過去に何があったことを物語るのか。二人の間に愛は生まれるのか。過去を引きずる者たちのそれぞれの因縁がスーパー・ボウルに湧きたつイースト・バッキンガムの一夜に収斂する。

小さな町に起きた十年前の事件の真相が今暴かれる。チェチェン・マフィアの暗躍やカトリック教会内の性的虐待事件等々の実態を効果的に使用しながら、過去に起こした事件に首まで浸かって身動きの取れない男たちのどうしようもない悪あがきが、とんでもない結果を招く。教訓。見かけが大人しいからといって決して人を見くびってはならない。この結末のつけ方に共感を抱けるかどうかは読者次第。ただ、本作も映画化されたと聞くと納得のいく出来栄えではある。いかにもアメリカ映画のラストシーンにありそうな決着のつけ方といえる。

『中動態の世界』國分功一郎

f:id:abraxasm:20170603164916j:plain

この本は、ハイデッガーアレントはもとより、デリダラカンフーコードゥルーズ、と有名どころを次々と繰り出しては、能動と受動という二つの対立以前に在った「中動態」という態の存在をあぶりだすことを目的として書かれている。聞きなれない名前だが、「中動態」の存在は早くから知られていたし、研究も存在していたという。著者自身、ずっと前から気になっていたのだが、アルコール依存症患者に係わる知人と話したりするうちに、書かねばという気にさせられたのが執筆の契機だという。

アルコール依存症患者は、意志が弱いから再発するのだ。もっと強い意志を持たねば、と普通は考えるが、実はそれがまちがいのもとだ、とその人は言う。発想が逆転している。そもそも、人が行動を起こすときに意志が先に立ったりはしない。意志は後から現れるのだ、と。では、何故そう思ってしまうかというと、われわれは、この世界を能動と受動という二つの態に分けてとらえてしまうからだ。無理やり飲まされて(受動)いないなら、自分で飲んだ(能動)ということになる。

銃で脅迫されて、ポケットから財布を取り出す行為は能動か受動か?ハンナ・アレントによるとアリストテレスの哲学なら能動になるのだという。なんでそうなるの?と欽ちゃんみたいな声が出そうになるが、「私が暴力によって脅されてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」だから。確かに、財布を出すことを選択せず、ボコボコにされることを能動的に選択できる余地が残されてはいるものの、納得のゆかない説明だと感じる。

はたしてそう簡単に割り切れるものかどうか。そこで、著者は前々から気になっていた「中動態」をこの際極めてみようと、ギリシア語まで学びなおして、語源からたどり直す。このあたりは、大事なところなので、読み飛ばすわけにはいかないが、正直あまり面白くは感じられない。ただ、古くは、能動態に対立するのは受動態ではなく、中動態であったということが分かってくる。それが、いつの間にか消滅し、その後を襲ったのが受動態、とまあ簡単にいえばそうなる。

そこで、そのちがいだが、能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるが、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になるのだという。例えば「曲げる」は、主体から発して体の外で完遂する過程を表す。問題は、「生きる」も「在る」も、それと同じカテゴリーに入っていることだ。つまり、当時は「生きる」ことも、主語から出発して主語の外で完遂する過程と考えられていた。生きることに主体の関与は必要なかったのだ。

ここで、カツアゲの例に戻る。「私が暴力によって脅されてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」の中に、もう一つ概念が必要だったことがわかる。それが同意だ。私の行為には自発性は存在しないが同意は存在する。アリストテレスの場合、強制がなければ自発的ととられているが、強制ではないが自発的でもなく、自発的ではないが同意はしている。そうした事態は日常的に多くみられる。自分はカツが食べたいが仲間が蕎麦にしようというから仕方なく蕎麦屋に行くというパターンだ。強制か自発か、つまり能動か受動か、ではなく能動と中動の対立する事態を枠組みとして設定すれば、事態が分かりよくなる。

著者はこの後スピノザを持ち出し、かなりその哲学について詳述している。かなり煩雑になるので結論から言うと、能動と受動を行為の方向と考えずに、スピノザは質の差だと考えた、というものだ。行為の方向から考えると困っている人にお金を渡すのも、カツアゲも同じ行為である。しかし、質は異なる。自己の本性の必然性に基づいて行為する物は自由であるとスピノザは言っている。同じように見える行為の中に、自己の認識の差を見ているのだ。

最後に唐突に登場するのが、ハーマン・メルヴィル。『白鯨』の作者である。そのメルヴィルの遺作『ビリー・バッド』という小説に登場する、三人の人物を「善」と「悪」と「徳」の寓意として読み取り、どの生き方も完全ではないとする。彼らは強制はされていないが誰も自由ではない。彼らの生き方を問うことで、われわれが置かれている世界は、完全な自由などないが、完全に強制されているわけでもない。つまりは中動態の世界なのだ。では、どう生きるか?中動態の世界を知ることで、より自由に近づいていこうと呼びかけて終わっている。

ハイデッガーアレントスピノザについて、少しではあるが学ぶことができたのは収穫である。ありもしない自由意志に縛られていることは、以前から朧気ながら気づいていたので、それを文法上の問題として改めて考えられたのはよかった。しかし、最後まで読んできて、えっ、これで終わり?と思ったのも確かだ。何か、肝心なところで手を離されたようで落ち着かない。もう少し展望の見える位置まで引っ張って行ってほしい気がする。それこそ、個人一人一人の問題だ、と著者は言うだろうけれど。

『五月の雪』クセニヤ・メルニク

f:id:abraxasm:20170530122113j:plain

作者の生まれたマガダンという町。ロシア北東部といっても、広大なロシア連邦のことだ。どこだろうと思って地図を開くと、意外に日本に近い。オホーツク海に面した港湾都市カムチャッカやアラスカという地名がよく出てくるはずだ。マガダンにはソ連時代に収容所があった。流されてきた文化人や芸術家が釈放後もそのまま居つくことがあって、地方都市ながら、極北の地ではあっても、文化的には恵まれていたのだろう。

医師となった祖母オルガ、父を捨てて地方の文化人であった男と出て行った母マリーナ、航空関係の仕事に就き、まずはアラスカへ移動、今はロサンジェルスで引退生活を送る父トーリク、有名なテノール歌手の支援者でもあった祖父、といった家族の一人一人を視点人物にして、作家自身と思しいソーニャの家族とそれを取り巻く友人、知人を含む一種のファミリー・ヒストリーを、短編連作小説風に仕立て上げたのが、『五月の雪』だ。

連作と書いたが、人物も時間も直接的につながっているわけではない。しかし、よく読んでゆくと、ああ、これはあの作品に出てきた彼女のことだな、と分かるように書かれていて、再読時には、あれやこれやがつながって完全なジグソー・パズルの絵柄が浮かび上がってくる仕掛けだ。

例えば、スキーの事故で骨折したトーリクが黒海沿岸の保養所に出かけたとき、出会ったのがマリーナ。回想視点で書かれた、この時の話が「皮下の骨折」(2012)にある。現時点で父と母は別居はしているがよりは戻っている。一方、上階に住むテノールの歌手のことを祖父が回想する「上階の住人」(1997)では、母は家を出、映画監督に部屋で同居中だ。父が何かとそれについて愚痴るのだが、相手の男は腐しても、母のことはまだ恋しいらしく、何やらおかしい。

時間の順序が前後しているので、初読時は人物相互の関係がよく分かっていない。全く関係のない別の短編のつもりで読んでいる。むしろ、そう読んでもらいたくて、この並び方にしたように思われる。というのも、作家の分身であるソーニャはまだ若く、物心ついた時にはアメリカに移住している。語るべき素材は、家族から伝え聞くロシア時代の暮らしがほとんどである。しかも、母方の祖母には祖母の、父方の祖父には祖父の別の暮らしがあり、語るべき事柄は無数にある。

外国文学を読む面白さの一つに、自分の国とは異なる自然や食物、料理といった日常生活の細かなあれやこれやにふれる喜びがある。近くて遠い国という言葉があるが、ロシアもその一つだろう。しかも、社会主義時代のソヴィエト連邦は「鉄のカーテン」が敷かれていて、暮らしはおろか、何も知ることができなかった。同じように中国からアメリカに渡ったイーユン・リー、あるいは、著者が影響を受けたジュンパ・ラヒリら移民としてアメリカに渡った作家の作品には、故国に対する割り切れない感情が滲む。

クセニヤ・メルニクには、リーに見られるほど政治的な問題意識は感じられない。収容所の存在も、どちらかといえば懐古的に語られる。それよりも問題は物不足の方だ。「イタリアの恋愛、バナナの行列」(1975)は、そのものずばり。モスクワの叔母を訪ねたターニャが、飛行機で乗り合わせたイタリアのサッカー選手に誘われたデートに出かける途中、見つけたバナナの行列に並び、時間に遅れてしまう。そのバナナも空港で見失うという、花より団子、虻蜂取らずの両主題をそつなくまとめた一篇。

一線を退いたダンス教師が、一人の若い生徒に才能を見出し、夢中になることで、失いかけていた若さや情熱を再び手にする姿を描く「ルンバ」(1996)も、ファミリー・ヒストリーの周縁に位置する物語。若い才能に入れあげた教師の思いが、思春期の娘の反抗心や好奇心に翻弄される滑稽さを描く、古典的といってもいいストーリーだが、ルンバのラテン的な情熱が、どちらかといえば沈滞し、陰鬱なロシアの極東地帯の田舎教師を一時的にせよ、奔騰させる。その娘アーシャの母が、ソーニャの父トーリクの親友トーリャンの初恋の人、というから、スピン・オフを見ているような気分だ。

ソーニャが主人公として活躍する唯一の作品が「夏の医学」(1993)。おばあちゃんのような医師になりたいという夢を持つソーニャは、ある夏のこと仮病を使って祖母のいる大病院に入院する。好奇心剥き出しの少女が、仮病のばれていることも知らずに、医師や看護師との間で繰り広げるやり取りが、何とも狂騒的で、なるほど作家になるような少女というのはこんなことを考えているものなのだな、と納得させられた。

余談だが、ロシア人は本当にボルシチが大好きなのだな、と改めて思った。何かというとボルシチが出てくるからだ。やはり、寒さゆえだろう。アメリカに来てもパーティとなると大鍋でボルシチを作る。まあ、アメリカといってもアラスカのフェアバンクスだから、ロシアと緯度は何ほども変わらないのだが。結婚してアメリカに移住した娘の家を訪れた母が娘夫婦に感じる違和感を描いた「クルチナ」(1998)は、移民として母国以外の国に暮らす娘を思う親心を描いて胸に迫るものがある。

親の願いでピアノの前に縛りつけられている少年の胸中を描く「絶対つかまらない復讐団」、医者でも直せない偏頭痛を直してもらうために魔女に家を訪ねる少女の思いをつづった「魔女」と、子どもの気持ちを描かせると俄然文章に生き生きしたものが宿るのは、著者が1983年生まれ、とまだ若いせいか。しかしながら、祖父母の世代、父母の世代の考え方や感情の揺れなど、巧みな筆使いで描き分ける力量も備えている。将来が楽しみな書き手の登場である。

『人みな眠りて』カート・ヴォネガット

f:id:abraxasm:20170527151308j:plain

2014年に出た『はい、チーズ』の訳者あとがきに、もう一冊未発表作品集があると紹介されていて、首を長くして待っていたのがやっと出た。カート・ヴォネガットの短篇集である。『スローターハウス5』で有名になる前、1950年代にスリック雑誌(光沢紙を使った高級雑誌)に寄稿していた短篇のなかに、雑誌に載らなかったものが結構な数で残っていた。それをジャンル別に編集し、SF、ミステリ等を集めたのが『はい、チーズ』。ボーイ・ミーツ・ガール物やO・ヘンリー風のショート・ストーリーズ等を集めた姉妹編が本作ということになる。

新妻ナンシーに似せて作られた精巧なジェニーは、天才技術者ジョージの自信作。会話はおろか歌うことさえできる。片時もジェニーと離れていることができなくなったジョージは、ついに家も会社も後にして販促の旅に出た。もちろんジェニーをトラックに載せて。自分の創作した人形に夢中になるピグマリオン・コンプレックスの男を描く「ジェニー」。妻より、自分の理想に近い機械仕掛けの女を選んだ男は、年に一度だけジェニーを新しい筐体に移し替えるため本社を訪れる。

その筐体というのが、何と電気冷蔵庫!ジェニーのソフトラバー製の顔は冷蔵庫の扉についているのだ。体は冷蔵庫でも、ジョージと会話している時のジェニーは、誰の目にも素敵な女性に見え、二人は似合いのカップルに見える。別れた妻からジョージに死ぬ前に一度会いたいという知らせが届く。トラックは一路本社へと向かう。歳をとらないジェニーとちがい、ナンシーは病み衰えていた。冷蔵庫に恋した男の下した決断とは?愛というものの持つ不可思議さをとことん追求した一篇。機械と人間の交わす眼差しが切ない。

タイトルが讃美歌の歌詞から採られていることから分かるように、表題作はクリスマス・ストーリー。新聞社の敏腕社会部長ハックルマンはクリスマス嫌いで通っていた。その彼がある年のクリスマス、イルミネーション・コンテストの審査をする破目に。その年の一番は、皮肉なことに元ギャングのボスが金に飽かして作らせた物になりそうだった。ところが、本番直前聖家族の石膏像が盗難に遭う。

「クリスマスに対してだけではなく、政府、婚姻関係、ビジネス、愛国主義他、ほとんどすべての慣行に対して敬意を欠いているように見え」るハックルマンの「理想と言えば、簡潔な記事前文(リード)、ミスのないスペル、正確性、それに人類の愚行を報じる迅速性」だ。いいねえ。この現実認識と仕事に対する潔癖さ。クリスマス・ストーリーの定番と言えば、この手のすれっからし男の心を変容させることだが、果たしてハックルマンは?最後のオチにミステリ風味が塗されているのがニクい。

アルチザンとして裕福な暮らしをしている画家と売れないアーティストが、双方の妻のプライドの衝突(つまりは口喧嘩)のとばっちりを受けて、相手が得意とする主題の絵を一晩で描き上げるという勝負をさせられる。実は風景画を得意とするステッドマンも、抽象画しか描かないラザロも、互いに自分はペテン師である、と思っていた。真向かいに店を出す相手の方こそ本物の画家だとひそかに思っていたのだ。さて、その晩、二人は絵筆を手にしても、結局いつもの自分の絵しか描けない。途方に暮れた二人は、上手い手を思いつく。その秘策とは?

O・ヘンリーの『賢者の贈り物』を彷彿させる、よくできた話。この時期のヴォネガットは雑誌に合わせて、趣の異なる短篇を量産する職人作家だった。自分の書きたいと思うものより、相手の望むものを書く。それも実に巧みに。それは、主人公のステッドマンに似てはいまいか。ステッドマンは、画布に一筆走らせると、雲になり、白樺の樹になる。素人目には魔法のようだが、本人はそれが修練の賜物だと知っている。自分にはいくら頑張ってもラザロのような見る者の魂を掴んで放さない絵は描けないと思っている。

一方、ラザロはと言えば、評論家には褒められても一向に売れないのは自分の絵が独りよがりで、いくらあがいてもそれしか描けないことに業を煮やしている。この二人の仕事に対するディレンマは、クリエイターなら誰しも感じることがある煩悶ではないか。売れたらそれでいい、というものでもなければ、自分にしか書けないものさえ書いていれば売れなくてもいい、などということもない。

どんなジャンルでも苦も無く書ける才能の持ち主であるからこその贅沢な悩みを二人の画家に託して弁証法的な解決に導くという離れ業。この他にも、超絶技巧を凝らし、意表を突く短編が十三篇。『はい、チーズ』の時も思ったのだが、どうしてこれだけの水準の作品が雑誌未掲載なままで残っていたのだろう。当時の雑誌の水準がよほど高かったのだろうか。それとも、よく似たアイデアの作品と競合したのだろうか。いずれにせよ、こうして読めたのだから良しとしよう。全編にほのかに淡くあたたかな50年代のテイストが感じられる至福の短篇集。

最後に訳者に一つ疑問を。「ジェニー」の値打ちを22ページではジョージに「二十五万ドル」と言わせ、25ページでは「ジョージの言う二千五百万ドル」と書いているのは如何なる理由によるものか。何度読んでも真意がつかめなかった。「賢臓(キドリー)のない男」の中で、腎臓(キドニー)を「キドリー」と言いまちがうところに「賢臓」という卓抜な訳語をあてる訳者のことだ。何か理由があるのか、と勘ぐってしまう。単なる誤植ならそれでいいのだが。

『黒い犬』イアン・マキューアン

f:id:abraxasm:20170520175505j:plain

互いに愛し合っているのに結婚してすぐに別居してしまった妻の両親。小さい頃に両親を亡くし、親というものに飢餓感を覚えていたジェレミーは、両親の不仲に苦しんできた妻の不興を買いながらも、フランスとイギリスに別れて暮らす二人を事あるごとに訪ね、話を聞かずにはいられなかった。特に新婚旅行の締めくくりにと決行したフランスでの徒歩旅行の最中、義母のジューンが出遭った二匹の黒い犬のことを。そもそも二人がちがった道を行くようになったのはそれが原因だったからだ。

イアン・マキューアンの長編第五作目である。小さな教科書会社を経営するジェレミーは、愛する妻と子どもに囲まれ、幸せな毎日を送っている。彼はウィルトシャーにある養護施設で暮らす妻の母の所に通っては、話を記録している。回想録を書くつもりだ。フランスの農家に独居し、瞑想や観想に時を過ごしてきたジューンは今までに三冊本を書いている。あの黒い犬に出遭った日、突然の回心が起き、それまで夫婦で入党していた共産党を出て、神秘的な体験を追求する道に入ったのだ。

夫のバーナードはケンブリッジを出て外務省関係の仕事をしていた。二人はその職場で出会ってすぐに結婚した。第二次世界大戦が終わったばかりの頃で、イタリアで赤十字のボランティア活動をしたりしながらの新婚旅行だった。戦後の新しい社会を作るため、意欲に燃えていたのだ。合理論者の夫には、妻が突然隠遁生活に入り、神秘体験に固執するようになったことが理解できない。BBCの討論番組の常連で、労働党の議員でもあったバーナードは、妻と共にフランスで暮らすことはできなかった。

ジェレミーが妻の両親の間を行き来し、互いの消息を伝える役を受け持つには訳があった。子どもの頃に両親に死なれた彼は、オックスフォード時代、休暇の間も寄宿舎にいるしかなかった。そんな時、同級生の留守にその家を訪ねては、友達の両親の話し相手をして時間をつぶした。自分の両親にはない社会的な地位、アッパー・ミドルの有する文学や芸術、学問に対する文化資本といったものに、仮令一時的であるにせよ浸れるのが心地よかったのだ。義理のとはいえ、ジューンとバーナードは、ジェレミーにとって初めてできた両親だった。

養護施設で話を聞いた後、ジューンは亡くなる。何年かして、バーナードから電話がかかる。ベルリンの壁が壊れた日だ。チケットが取れたから一緒に見に行かないかというのだ。壁の崩壊に熱狂する民衆に混じって歩いていた二人は赤旗を振る若者がネオナチ風の集団に襲われそうになる場面に出くわす。間に入ったバーナードを独りが蹴る。囲まれた二人を助けたのは若い女性の二人組だった。直接的な「悪」に対し、話し合いの無力さを表すエピソードである。

四部構成で、第一部「ウィルトシャー」がジューン、第二部「ベルリン」がバーナードに充てられている。第三部「一九八九年」は妻との出会い、そして両親の思い出の地であるサン・モーリス・ド・ナヴァスルで自らが遭遇した事件について。最後の第四部「一九四六年」が、ジューンが黒い犬に出遭い、二人の道が完全に分かれてしまう結果に至る経緯を物語仕立てで綴る解決篇になっている。

ベルリンの壁強制収容所ゲシュタポなどが重要な役を担っている。特に、第四部「一九四六年サン・モーリス・ド・ナヴァスル」に登場する黒い犬は、戦争終了目前、ゲシュタポが村に現れたとき連れていた犬が、敗戦時に置き去りにされたのではないか、と考えられている。この犬とジューンとの格闘がこの小説のクライマックスになっている。黒い犬に「悪」を、それと闘う自分を守って、自分の背後にオーラのように出現した物の自覚が、ジューンに覚醒をもたらす。

一方、その場に居合わせなかったバーナードには、それはジューンがそう思いたがっただけで、ゲシュタポの話も彼にとっては噂に過ぎない。バーナードにとって世界をよくするのは、科学であり、議論であり、政治である。ジューンにとっては、自分の中に正しい心を持ち続けることや美しいものを愛でる時間を持つことが、もしかしたら世界をより良いものに変えていく方法なのだ。

二元論的な対立は解決できるようなものではない。ジューンの暮らしていた農家に一人こもって執筆活動を続けるジェレミーには、ジューンとバーナードの幽霊が交互に現れては持説を披露する。死んだ後も互いに譲らない二人のやりとりは物語の終わりに愉快な気分を投げる。ジェレミーは、黒い犬のことを考える。黒い犬と直接対峙したジューンは、悪の存在とそれ対立するものの存在をはっきり知ってしまった。現実に存在する悪と闘うにはどうすればいいのか?

それは、一人一人が自分の中に「善いもの」「正しいもの」を見出し、引き出し、自分の力で闘うしかない。しかし、そのためにはジューンのようにすべてをなげうってかかる必要がある。簡単なものではないのだ。小説はこう結ばれている。「いつかまた犬たちは戻ってきて、私たちに付きまとうだろう。ヨーロッパのどこかの場所で、いつとも知れぬ時代に」。そうだろうか。黒い犬は世界中のどこにでも現れるにちがいない。私には、その色がだんだん黒さを増し、我が身に迫っているように思える。

『クライム・マシン』ジャック・リッチー

f:id:abraxasm:20170518111842j:plain

あと一冊になってしまったので、すぐには読まずに置いておこうと思っていた未読のジャック・リッチー本。病院で待たされる間何を読もうかと考えて、手に取ってしまったのがまずかった。どれだけ周りが騒がしくても、点けっぱなしのテレビから音が流れて来ても、一度読み始めたら話の中にぐいぐい引き込まれてしまうのがジャック・リッチー。待ち時間で三分の一読んでしまった。その後、仕事休みに一篇。就寝前に一篇、とついつい読みふけり、とうとう17編全部読み終えてしまった。

表題作は、殺し屋の家に男が強請りに現れる。事件を新聞で読んで、その日その時間にタイム・マシンで移動して一部始終を目撃したのだという。初めは信じない殺し屋も何度も目撃されるうちに話を信じるようになる。星新一フレドリック・ブラウンのショート・ショートを思わせる筆致にひょっとしてタイム・マシン物のSF?と思わせておいて、最後に見事に裏切ってみせる。何と本格派定番の密室トリックを使ったバリバリのミステリ。

掲載される雑誌の読者層によって微妙に味わいの異なる作品を仕上げることのできる職人であったリッチー。17編の中には、ひと捻りも二捻りも工夫を凝らした作品が混じっている。暴走する推理力に物を言わせてありもしない謎を次々と生み出す迷探偵ターンバックルシリーズの一篇「縛り首の木」もその一つ。本来は本格探偵小説を知り抜いたリッチーが、ご都合主義的な謎やありえない殺害方法を揶揄するようなメタ・ミステリが持ち味だ。

味気ない高速を回避して下道を走って帰ることにしたターンバックルと相棒のラルフ。車の故障で貧しい村に迷い込む。一夜の宿と決めたホテルの窓からは首吊り縄を垂らした縛り首の木が見える。魔女として殺された女の呪いで、毎年村にいる者の中から一人が吊るされることになっている、今夜がその晩と聞かされた二人。早々と寝てしまったラルフの隣で、夜通し騒ぎを聞いていたターンバックルの推理が開陳される。いつもならそれで一件落着となるのだが、今回は一味ちがう。ゴシック・ロマンス風のざわつく恐怖を纏った異色の一篇。

350篇も書いてきたら、ネタにも詰まることだろう。ところが、リッチーはちがう。逆に自家薬籠中のネタを使いまわすことで、ファンの意表を突いてみせる。エドガー賞を受賞した「エミリーがいない」がその代表作。リッチーお得意のネタといえば、財産目当てで結婚した妻を殺す夫、という設定がある。しかも持論として、死体は自分の地所に埋める。家の庭なら掘り返しても怪しまれないというのが理由だが、果たして本当にそうなのか。

二軒並んで建つ屋敷に暮らす姉妹の妹の方と結婚した男に、賢い姉が疑惑を抱く。妹が姿を消したからだ。男の前妻は泳げないのにヨットに乗って海に出て溺れ死に、男はその遺産を手にした。今度はエミリーの番か。姉は声色を使った電話や幽霊騒ぎで義弟を追い詰める。とうとうある晩スコップを手に庭を掘り出したところを捕まえてみれば。使い古された手を臆面もなく引っ張り出してきて、見事に打っちゃりを食わすあたり、さすがである。

リッチーの上手さは、捻りのきいたプロットばかりじゃない。オチの鋭い切れ味だ。飽きさせない語り口で最後まで引っ張ってきておいて、ストンと切って落とす。唖然、茫然。そんな結末があったとは、と毎度のことながら驚かされる。本作の中でも最高なのが「日当22セント」。二人の信用できない目撃者の証言で、四年間を監獄で過ごしてきた男が釈放される。関係者は男の復讐を恐れる。まずは男の裁判で負けた弁護士。そして、二人の証言者だ。意外にも男は和解の提案を受け入れ、金で解決することを了承する。しかし、それで終わりではない。最後に鮮やかなオチが待っていた。

余命あと四か月と宣告された男が見つけた意義ある行動とは、リボルバーの引鉄を引いて、世に蔓延る礼儀知らずたちを始末することだった。子どもの前で親に恥をかかせた移動遊園地のチケット係を手始めに、老婦人に手ひどい仕打ちをしたバス運転手、客を客とも思わないドラッグストア店主、と次々に殺してイニシャルを書いたメモを残して去る殺人者に、世間の目は好意的だった。なんだか前より礼儀正しい人が増えてきている、と。シニカルな視線が貫かれた「歳はいくつだ」を含む全17篇。

アメリカでは短篇小説は長編に比べて評価されにくい、という話を聞いたことがある。短篇小説を中心とする作家で評価の高いアリス・マンローはカナダ人、ウィリアム・トレヴァーアイルランド人だ。アメリカではいくら雑誌の常連でも単行本が出ないと評価されないらしい。生涯に350篇余りの短篇を書いたジャック・リッチーも例外ではない。マンローやトレヴァーとはジャンルがちがうと言われればそれまでだが、ミステリ界にしぼってみても、さほど有名とはいえない。

しかし、日本では短篇は人気がある。ジャック・リッチーの短篇集は2005年に晶文社から出た本作を皮切りに、翌年は河出書房新社から、そして去年、一昨年と早川書房からもオリジナル短篇集が出されるなど、その人気に衰えは見えない。余分なものをそぎ落とせるだけそぎ落とした文体の名人芸が「縮み」志向の日本人に受けるのかもしれない。が、それだけでもないだろう。汲めども尽きないアイデア、鋭い人間観察、クールを気取りながら、ユーモアの裏打ちを忘れない心配り、と上げだせばきりがない。殺伐とした世界だからこそ、ジャック・リッチーが読みたくなる。まだまだ名品佳品が埋まっていそう。各出版社には、ぜひとも次の短篇集を企画してほしいものだ。

『10ドルだって大金だ』ジャック・リッチー

f:id:abraxasm:20170513183553j:plain

洒落た会話、シャープな文体、ひねりを効かせた展開、あっと驚くようなオチ、というのがジャック・リッチーの持ち味。2016年に早川書房から出た『ジャック・リッチーのびっくりパレード』を初めて読んで以来、すっかりはまってしまった。2013年には同じポケミスで『ジャック・リッチーのあの手この手』も出ている。『10ドルだって大金だ』は、2006年に河出書房新社から刊行されたもの。全部で十四篇の短篇集だが、先に挙げた二冊と比べても遜色ない出来栄えにまとまっている。

「結婚して三か月、そろそろ、妻を殺す頃合だ」という書き出しではじまるのが「妻を殺さば」。温室と納屋を探しても見つからない毒薬の在りかを、殺す当の相手に「ヘンリエッタ、毒薬はどこにある?」と尋ねるところからして、リッチー節炸裂だ。このオフビート感がたまらない。「仕事を義務だとか、喜びだとか、やりがいだとかと感じたことはないし、日ごろから、仕事を楽しんでいる人々は基本的にマゾヒストなのだと思ってい」るウィリアムは、生まれてから四十五年間働いたことがない。

「これまで他人がその慣習に従うのに異を唱えたことはない。平凡な精神というのは、何かに打ち込まずにはいられないものだ。労働にせよ、漫画本にせよ、結婚にせよ。それでも、わたしは常に独立した立場を大事にしてきた」。たとえ構成人数が二人でもチームに入るのは気が重い。金のためにした結婚なら三か月くらいが切り上げ時、というのが、殺しの理由というのだから、ふるっている。いいねえ。この人を食った言い種。

財産が目的だから、家計の支出にも目を光らせる。すると、不明朗な会計が見つかる。使用人が鷹揚な女主人を食い物にしていたのだ。首をすげ替えることで、食事は美味しく、時間通りに出るようになる。この悪党のすることなすことがいちいち、妻のためになっていくところが最大の皮肉。財産目当てで妻を殺そうという男なのに憎めない。逆に無邪気なはずの子どもは、ずる賢くて可愛げがない。庭に放り込まれた青酸カリの丸薬を家のどこに隠したのかを尋問する刑事が子どもの狡知に手を焼く「毒薬で遊ぼう」が、まさにその見本。

オチの秀逸さで目を引くのが表題作。会計検査で見つかった余分な十ドルを金庫に入れたのは誰なのか?二人の従業員はそれぞれ自分が犯人だと名乗り出るが、信用が落ちるのを防ぎたい銀行家はもみ消しを図る。翌朝、再度検査をする直前、余分の十ドル札を抜けばいい。従業員と申し合わせ、金庫の開く時間にやってくるはずの検査員の足止めをたくらむが、果たして。クリスティー張りの叙述トリックの大胆さにあきれる。

死体を隠すには自宅の庭がいいというのはこの作家の持論。「とっておきの場所」は、その死体の隠し場所を主題にした一篇。ウォレンは自分が疑われていることより、丹精した庭を警官たちに掘り返されることの方を気にしている。そんな時、隣人がウォレンは湖畔に夏用の別荘を所有していることをばらしてしまう。さて、死体はどこに?盲点を突いた隠し場所と殺人方法にニヤリとさせられる。

リッチーの短編に常連の二人の探偵も登場する。一人目はこの作品が初登場なのか、ボクサーとして登場する。外套も帽子もスーツも靴も黒一色で身を固めた男。服は上等だが、寝る時もそれを着ているくらいくたびれていた。力は強くパンチ力も抜群ながら、光恐怖症(フォトフォビア)があって試合は夜しかできない。キッド・カーデュラ(Cardula)というリングネームでさっそうと登場したこの男の正体はもうお分かりのことだろう。

もう一人は、ヘンリー・ターンバックル。作品により、警察に勤めていたり、私立探偵だったりするが、相棒のラルフとのコンビは今回も健在だ。知識は豊富で、抜群の推理力を誇り、鮮やかに謎を解いてゆくのだが、どこか過剰で必要以上に謎を解きたがり、その結果すべりまくるという迷探偵ぶりが笑わせてくれる。今回は五篇を所収。

「誰も教えてくれない」は、私立探偵開業後の初仕事。失踪人探しという私立探偵にはお約束の仕事の依頼。失踪した女中頭を探さずに報告書だけ送れといわれて、ピンときたターンバックルは匿名の依頼主の家をまんまと探り当て、調査を開始。すると、相前後して依頼主の息子と娘が父と同じ内容の調査を依頼に来る。失踪人は殺されていると考えた探偵が犯人だと指名したのは、何と執事!いつものやり口である。

探偵小説では、使用人が犯人というのはご法度。横紙破りのリッチーは、面白がってその手を使う。しかも、それは簡単に覆されて、真犯人が別にいることが分かる。しかも、何ということでしょう。通常なら序盤から登場していなければならないはずの犯人の存在が、最後になって探偵と読者に知らされる。こんないい加減なミステリがあるものか、と怒ってはいけない。重々承知した上での悪ふざけというか、メタミステリになっているのだ。

六人の連続殺人を予告する手紙が犯人から送られてくる。五人が殺され、警察は共通点を探すが見つからない。被害者の名前はセルヴァンティーズ、ジャクスン、リヴィングストン、ニューマン、ルーベンス。どこかで聞いたような名前ばかりだ。もう一つの手がかりは手紙に署名代わりに記されている<10/19/1>。手口からプロファイリングした犯人像と二つの手がかりからターンバックルは犯人に迫るが、大事なところで読みを誤る。「殺人の環」はクリスティーの『ABC殺人事件』を嚆矢とする「見立て殺人」をパロッている。さて、共通点は何か?アルファベット順というのがヒント。

クールな中にそこはかとなくユーモアが漂い、深く考える間もなく、あれよあれよという間に犯人が分かってしまう。最近流行りの猟奇殺人は登場しないので後味がいいし、凝りに凝ったミステリとちがって、淡々と語られるストーリーは、ひねりが効いているものの満腹感はない。一度手にすると、次々とページを繰る手がやめられない、止まらない。しかも、どの作品もはずれがない。まさに職人技。器でいうなら普段使い。シンプルでいて飽きることがない。ふとした折に手にとれるように、いつも手元に置いておきたいのが、ジャック・リッチーだ。