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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『寂しい丘で狩りをする』辻原 登

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表題はエピグラフに引かれたヘミングウェイの「たしかに、狩りをするなら人間狩りだ。武装した人間を狩ることを長らくたっぷりと嗜んだ者は、もはや他の何かに食指を動かすことは決してない」(「青い海で―メキシコ湾流通信」)から採られたもの。いかにも物騒な題辞にふさわしく、小説は強姦致傷、及び窃盗、恐喝未遂で七年の量刑を宣告された被告押本史夫に対する判決文からはじまる。

野添敦子は京橋にあるフィルムセンターのエディター。数年前の大雪の日、親切心で車に同乗させた押本に強姦され、法廷で証言にも立った。その結果収監された加害者に逆恨みされ「出たら殺してやる」と脅されていた。復讐を恐れた敦子は顔見知りの法廷ジャーナリストの紹介で探偵を雇い、出獄した押本の動静を探ることにする。

桑村みどりは、イビサ・レディス探偵社に勤める私立探偵。夫の浮気調査を依頼した探偵社の営業本部長に勘のよさを見込まれ、勤めることに。今では腕利きの女性私立探偵である。しかし、プライベートでは、離婚後付き合ったストーカー男のDV被害に苦しむ被害者でもあった。野添敦子が人を介して調査を依頼することになるのが、桑村みどりである。

検事調書や判決文、調査報告書といった実務的な文書が、そのままの形で記載される法廷物を装ったスタイルから、一見するとストーカー、DVと世間を騒がす流行の犯罪事件を主題に、わが国のような法治国家において事件の被害者の人権がいかに守られることがないか、という既成の事実をこれでもか、というほどの事実を積み重ね、世に訴えようというねらいで書かれた小説のように見える。たしかに、一つにはそういうねらいもあるにちがいない。

最近も事件報道を目にしたばかりだが、ストーカー規制法が成立してからも、この手の犯罪が目に見えて減少したという報告を聞かない。警察ができるのは警告であり、違反しても1年以下の懲役もしくは100万円以下の罰金刑で、この小説に登場するような繰り返し同種の犯罪を犯すことをためらわない常習犯にとっては痛くもかゆくもない。警察には度々届けを出していたのに、という被害者の声を何度聞いたことか。

しかし、小説巧者、辻原登の手にかかれば、読んでいる間、読者の脳裏にそうした実用的な側面が浮かび上がることはまずない。どれほど、住所変更を繰り返してもターゲットの住処を見つけ出すストーカー常習者の手口の周到さ、緻密さ、またその執念深さに圧倒され、被害者にいつその魔の手が襲いかかるか、というサスペンスフルな展開から目がはなせなくなるからだ。

それだけではない。二人の女性が、DVや強姦事件の単なる被害者として描かれることなく、自立して働く魅力的で有能な女性として描かれていることも、その理由の一つだろう。二人の女性が卑劣な男たちによって追い詰められながらも、ただ逃げるだけでなく、正面から立ち向かおうとする、その姿勢に読者はエールを送りたくなるのだ。仮令、私立探偵みどりの手に握られるのが、スミス&ウェッソン製の拳銃ならぬボールペンであったとしても。ふだんは筆記用具として持ち歩いているが、タクティカル・ペンといい、強化アルミ製で、握り部分に滑り止めの格子模様が刻まれ、先端部はガラスも打ち破るという優れものである。

いまひとつ、この小説を面白くしているのが、主人公敦子の職業である。古い可燃性の映画フィルムを探し出し、復元させるという仕事に携わる敦子のもとへは、各地から新たに見つかった懐かしい映画作品の購入依頼が集まってくる。名匠、山中貞雄の幻のフィルムもその一つである。映画ファンならすでに承知のことだが、将来を嘱望された山中はこれからという時に召集され、中国で戦病死し、帰国がかなわなかった。フィルムは消耗品だと考えられた当時の日本では、古いフィルムは処分され、貴重な山中の作品も今では『丹下左膳余話、百万両の壷』、『河内山宗俊』、『人情紙風船』の三本しか現存していない。たとえ一本でも当時のフィルムが残っていて、それが復元可能であるとしたら、これは日本だけではなく、世界的にも一大ニュースになるはず。その一作とは、山中貞雄のデビュー作品『磯の源太、抱寝の長脇差』。現存するのは断片で、全編が発見されたら事件である。

完全に架空の小説のなかに、いかにもありそうな史実を象嵌させる辻原得意の手法は今回も健在で、この陰惨な小説を明るく彩るサイド・ストーリーとして十全に機能している。敦子を付けねらう押本が以前小倉の映画館で映写技師をしていたという設定が見事に生かされ、余韻の残る結末が準備されている。川本三郎が行きたくなるような戦後の闇市に出現したであろう飲み屋街だとか、懐かしい映画館の面影を宿すピンク映画館だとか、昭和の影を色濃く残す書割に、趣味を同じくするご同輩にはたまらない設定がいかにも、の辻原登の最新作である。是非。