青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『台北プライベートアイ』紀蔚然 船山むつみ 訳

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原題は<Private Eyes>。私立探偵を表す「プライベートアイ」はふつう<Private Eye>と単数扱いだ。語り手は別の説を挙げているが、あまり説得力があるとは言えない。小説の終わりに、主人公である呉誠(ウー・チェン)の手助けをするタクシー運転手が、正式に相棒になり、私立探偵の仲間入りをしたことが書かれているので、複数形にした、と考えてもいいだろう。台湾の実質的な首都といえる、台北という魅力的な都市を舞台にした、一風変わったハードボイルド小説、と一口には言えるだろう。

なぜ語尾を濁すのかといえば、ことはそれほど簡単じゃないからだ。もし、純然たるミステリファンの読者がこの本を読んだら、腹は立てないにしても、何がハードボイルドだ、と呆れるだろう。なにしろ、この呉誠、私立探偵の看板こそ掲げているが、推理小説を読んだだけのズブの素人。もとは大学教授で劇作家。それが五十歳を前にして、突然大学教授の席を投げうち、劇団仲間とも一切関係を断って、修行のやり直しとうそぶき、臥龍街(ウォロンジェ)の洞窟めいた安アパートで隠棲を始めたのだ。

しばらくは退職金その他で食べていけても、長くは無理。そこで人助けも兼ねて、私立探偵稼業を始めることに。興信所組合に行くと何かと面倒な手続きが必要らしく、組合にも入る気もないので、それはパス。看板と名刺だけを頼りに仕事を開始した。拳銃も持たず、自動車にもバイクにも乗れない、チャリンコ探偵の登場である。はじめのうち、これはハードボイルド小説のパロディかと思って読んでいったのだが、どうやらそうでもないらしい。ちゃんと謎解きもあり、羊頭狗肉の気味はあるもののミステリにはなっている。

ある女性から夫の素行調査を引き受け、不可解な密会の謎を解き、探偵料も頂戴し、尾行の際に手足となって働くタクシー運転手の添来という仲間も得て、幸先の良い出発をしたはずが、青天の霹靂。マスコミが「六張犁(リョウチャンリ)の殺人鬼」と名づけた連続殺人事件に巻き込まれ、重要参考人として警察で事情聴取される羽目になる。しかも、ことはそれで収まらず、ついには容疑者扱いされ、逮捕されてしまう。著名な演劇人で元大学教授ということもあり、マスコミは大騒ぎ。母や妹にも心配をかけ、呉張は落ち込む。

瞬く間に街のあちこちに監視カメラが据え付けられ、常時誰かの目が市民の行動を監視しているという、オーウェルの描いた未来社会がいつの間にか常態化していることに今更驚きもしないが、それは台湾も変わらない。警察が収集した監視カメラの映像に、呉張と二人の被害者が偶々一緒に映りこんでいたのだ。そんな偶然が重なるはずがないことは素人にも分かる。どうやら、犯人の狙いは、呉張その人にあるらしい。ところが、呉張が留置されている間に新たな殺人が起こる。犯人がおちょくっているのは警察か、それとも呉張本人なのか?

羊頭狗肉と言うには訳がある。帯に「台湾生まれのハードボイルド探偵日本初上陸!」と派手派手しく謳っておきながら、主人公にハードボイルド探偵の気迫が感じられない。ハードボイルド探偵といえば、腕と度胸を頼りに、他人を頼らず、権威におもねらず、悪と対峙する孤高のヒーローというイメージがある。ところが、呉張ときたら、妻に見捨てられたせいで酒浸りになって、芝居の打ち上げの夜に泥酔し、海鮮料理店亀山島にいた、ほぼ全員を罵倒したあげく、一切合切を放り出して、臥龍街に逃げ込んだ情けない男。

おまけに、これは本人の責任ではないが、鬱病パニック障害のせいで夜は満足に眠ることができず、精神安定剤が欠かせない。それだけでなく高所恐怖症や対称強迫神経症にも悩まされている、病気のデパートみたいな存在だ。しかも、あろうことか事件の捜査に警察の協力を仰ぐとあっては、ハードボイルド探偵の名折れ。いつの間にか警察小説みたいになってしまっている。しかも、犯罪自体はサイコパスによる見立て殺人で、犯人は早くに見当がつき、小説は見立ての意味を探る、ホワイダニットの謎解きミステリとなっている。

実は、呉張のモデルは作家自身。戯曲がが上手く書けなくて、このままでは駄目だと思いながら、街歩きをしているうちに、推理小説の構想が浮かんできた、と訳者あとがきで紹介されている。「書き終わってみたら(略)実は推理小説の形で、日記を書いていたんだ」とも書かれている。俗にいう「中年の危機」もあったのだろう。ある程度、やるべきことをやり、それなりのところに来ると、自分を高い位置に置き、周囲の至らなさが目に付きはじめ、苛立ちを覚える。それでも何とか抑えつけるが、そのうちそれが手に負えなくなって、いつか爆発する。

呉張の場合、それが「亀山島事件」だった。それを契機として、自分の人生や台湾人の性向、物の考え方などにもう一度目を向け、再考を始める。その経緯が、この一作に思う存分詰め込まれている。普通ハードボイルド小説は一人称のモノローグだから、作家が自分の思いを吐露するにはうってつけの設定だ。ところが、先にも述べたように、呉張のモデルは大学教授の劇作家だから、所謂インテリ。日本人と台湾人を比較したり、サイコパスとソシオパスのちがいをあげつらったり、およそハードボイルド探偵らしからぬことを喋り散らす。

この小説の妙味はそこにある。実のところ、正味は全然ミステリなどではないのだ。行列の出きる社会には連続殺人事件が多い。秩序があるからこそ、それを乱す殺人が行われる、などといった比較社会学めいた物言いが随所に展開され、それがいちいちツボにはまって面白い。また、台湾ならではの伝統的な風習や、家族関係はじめ濃厚な人間関係がぎゅう詰めで、台湾好きでなくても一度は現地に行ってみたくなる。それもあって、欧米を舞台にしたミステリや、それを手本にした日本のミステリ、とは一口も二口もちがう、アジアン・テイスト満載の推理小説になっている。

呉張の棲む「臥龍街」だが、中国に「伏龍鳳雛(ふくりょうほうすう)」という熟語がある。「臥龍(伏龍)」は、池の中に伏して、昇天の機会をねらう龍のこと。そこから、世に知られずにいる大人物を指す言葉だ。ならば、呉張を助ける警官の陳や助手の添来たちは鳳雛鳳凰の雛)、つまり将来が期待される若者ではないか。原題の<Private Eyes>にはその辺の意図があるのかもしれない。小説の末尾、呉張に新たな事件以来の電話がかかってくる。シリーズ物にする気あり、と見たがどうだろう。