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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ナイン・ストーリーズ』 J.D.サリンジャー

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ジョアンナ・ラコフの『サリンジャーと過ごした日々』を読んで、久し振りにサリンジャーが読みたくなった。書棚を探すと黄ばんだ新潮文庫版の『ナイン・ストーリーズ』(野崎 孝訳)が見つかった。自分で購った記憶がないから妻の持ち物だろう。たしか柴田元幸による新訳が出ていたはず。新旧訳を比べてみるのも面白かろうと、読みはじめたところ、よく分からないところが出てきて、ついに原書まで注文する破目となった。

サリンジャーが売れ出す前に書いた習作を含む作品群のなかから自ら九篇を選び出して一冊にまとめた初期短篇集、以後この九篇以外の初期作品はアンソロジーなどに収録することを一切許さず封印してしまう。いうならば定本である。サリンジャーの作品をすべて読みたいと思ったら、初出掲載誌を探して読むしかない。人前に姿をさらすことがなく、寡作で「ハプワース」以後新作を発表しなかった作家だけに、その世界の成立過程を知る上で貴重な資料となる一巻である。

数ある初期短篇から選び抜かれただけに、なるほど完成度が高い。いかにも「ニュー・ヨーカー」の読者層が好みそうな、気の利いた会話や都会的な風俗のスケッチが続き、つい気をゆるして読んでいると、最後に切って落としたような結末が待ち受けていて、読者を凍りつかせる。感傷性を排した語り口は残酷で、自意識のない人物に対しては仮借なく、その俗物性を暴き立てる。一方、小さな子どもや弱い立場にいる者に向ける視線にはシンパシーが溢れる。

巻頭を飾る「バナナフィッシュ日和」には、グラース家の記憶の中に生き続ける伝説的な長男シーモアが、繊細な横顔を披露している。戦争後遺症から立ち直れない夫と旅行中の娘が心配性の母親と電話で交わす会話から場面は一転、渚で少女と戯れるシーモアのイノセントな姿に切り替わる。シーモアの剥き出しにされた神経が痛みを感じないのは無垢な少女を相手にした時だけらしいことが読む者に伝わってくる印象的な場面だ。しかし、透徹したシーモアの目は幼い少女の中に潜む残酷さや、妻や義母と共通する女性の嫉妬心を見てしまう。見え過ぎる目を持つ者の悲劇である。

ディンギーで」には、グラース家の長女ブーブーが母親になって登場する。幼いライオネルが桟橋に繋いだ小型ヨットから降りてこない。家出常習者の息子と懐柔策を弄する母子のやりとりが楽しい。家出の原因はユダヤ人である父を貶める家政婦の一言をライオネルが聞いてしまったこと。アメリカはWASP中心社会である。差別的な陰口を利くことで使用人は裕福なユダヤ人を見返したつもり。言葉の理解すら覚束ない幼い子どもの世界にも差別は及んでいる。小さいながらもそんな世界に否を唱える息子を母の愛が包む。グラース家の系譜がここにも。

佳篇だらけの本書だが、一篇を選べと言われたら迷わず「エズメに――愛と悲惨をこめて」を推す。大西洋を挟んだ米英二国間の距離と戦中戦後の時間軸を操作した構成の妙味もあるが、人間から人間らしい感情というものを奪ってしまう戦争のさなかにあって、なおも人間を人間らしくさせるのは、人と人との出会いに尽きる。その単純極まりない真理を、Dデイを前にした英国デヴォンの雨夜の邂逅に求めた、この作者にしては珍しく心温まる一篇。たった一度の巡りあいが心身ともに傷ついた男に恢復への希望を抱かせる。美しくも切ない物語にビターを一滴垂らさないではおかないのが、サリンジャーという作家なのだろう。そのための巧緻な構成が見事。

悼尾を飾る「テディ」は、輪廻転生説をスパイスに天才少年の孤独を描いた一篇。大西洋航路を両親と妹と一緒にアメリカへ向かって帰る船旅の途中、妹を探しに甲板に出たテディは、若い男につかまる。友人に退職を迫るアドヴァイスをした真意が訊きたいという男に噛んで含めるようにテディは語り出す。50年代アメリカは禅やインド哲学に熱い視線を送っていた。知識人の間には科学的合理主義では世界の問題は解決がつかないと感じられていたのだ。見え過ぎる目を持つ者の悲劇は、ここでも繰り返される。ただ、それを悲劇と見るのは、人の生が一度きりだと信じて疑わないからで、輪廻転生を信じるなら何のことがあろうか。このテディがシーモアの前身とされている。

作家が生涯を通じて書く作品は、処女作の中に全部埋まっている、というような意味のことをどこかで読んだ気がする。若いうちにこんな小説を書いてしまったら、後はもう何も書けなくなってしまっても不思議はない。グラース家年代記が残されただけでも感謝しなければならない。座右に置き、時々読み返してみたいと思わせる珠玉の小説集である。柴田訳は、極力意訳を避け、原文を尊重した直訳に近い訳し方という点で村上春樹訳のチャンドラーに似ている。俗語を現代風に改めたところは評価できるが、慣用句の扱いなど、野崎訳の方が意味が通ると思うところも少なくない。今は原書も簡単に手に入る。辞書を片手に読むというのも悪くない。