『紙の動物園』 ケン・リュウ
アメリカにおいては評価されにくいと聞く短篇を主体とするからか、本国では単独著作は未刊行。翻訳によって外国で作品集が刊行される珍しい作家である。これも訳者によって編まれた日本独自のオリジナル短篇集。表題作「紙の動物園」は20ページたらずの短篇だが、史上初のヒューゴー賞、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞の三冠に輝く。ただ、この一篇を取り出して読ませたら、これがSFだと思う読者はいないだろう。
「ぼく」は、コネチカットに住む中国系アメリカ人。自分につきまとう弱みの出所である中国人の母を憾みに思い、あるときから口を利かなくなった。母の死後、小さい頃母が作ってくれた折り紙の虎の裏に書かれた手紙を見つける。そこには自分の知ろうとしなかった母の数奇な人生が書かれていた。後悔の涙と母への愛が、一度は死んだ魔法を蘇らせる。この作品に幻想文学の要素を探すとすれば、母が折り、その息を吹き込んだ折り紙の動物は、吼えることや走ることはおろか、翼あるものは空を飛ぶことさえできるところ。
貧しい農家の娘が唯一授かったのは、古くから村に伝わる折り紙に命を吹き込む魔法だ。清明節の日に祖先にメッセージを伝えるための工夫であり技術である。日本の陰陽師が使う式神を思わせる、いかにも東洋的な呪術が、伝承遊びである折り紙と結び付けられることで、母と子を結ぶよすがとなる。この折り紙のモチーフが効いている。クリスマス・ギフトの包装紙で折られた老虎(ラオフー)に赤い棒飴と緑のツリーの模様がついているところや紙の水牛が醤油皿で水遊びをしたために毛細管現象で脚がだめになってしまうところなど、ほのかなユーモアが湛えられ心和む。
紙は水や火に弱い。破れてしまえばゴミ扱いされる。そんなはかないものにしか自分の愛を託せない持たざる者として運命づけられた母の悲しみ。その一方で、どこにでもある紙を折るだけで、そこに命を宿らせることのできる魔法のような手わざがあり、紙であればこそ、文字を書くこと、つまり自分の思いを相手に伝えることができる、という秘密がある。ここに覇権大国アメリカに移住した中国人という出自を持つ小説家の自負が現われていると見てもあながち牽強付会のそしりは受けないだろう。
ロケットや宇宙船といったいかにもSFらしいガジェットを用いた作品ももちろん多く収められている。古典的なSFを思わせる王道をゆくスタイルはSF好きにはたまらないのだろうが、永遠の若さや不死、過去の地球人対未来の人間を主題にした作品などにはいささか図式的とも思える二項対立的思考がうかがわれる。現実にある着想からヒントを得たアイデア・ストーリーは独創的なひらめきを感じさせるが、特にSF好きでもない読者としては、アジア系作家としての独特の持ち味を生かした作品の方に興味を引かれた。
ミャンマーの奥地で麻縄を結ぶことで文字に代える結縄文字文化を残すナン族の最後の一人ソエ=ボと複雑なタンパク質の折りたたみ技術を探すプラント・ハンター、ト・ムとの出会いをもとに、バイオパイラシー問題を描いた「結縄」。ソエ=ボの手を使うリテラシー能力をコンピュータに取り込むという発想の新鮮さに驚いたが、無邪気なプラント・ハンターと思われたト・ムがソエ=ボに対してみせる態度のなかにグローバル資本が山間の地に残る米作りまで搾取してしまうあくどいやり方が露わな結末には後味の苦さが残る。
同じアジアにある日本においても詳らかではない中国、台湾といった隣国の歴史に材を採った作品には教えられることが多かった。所謂「ありえたかも知れない世界」を扱った「太平洋横断海底トンネル小史」も読ませるが、台湾を舞台にした「文字占い師」が心に残った。アメリカ情報部に属する父に従って台湾の学校に転校してきた少女が新しい土地になじめないなか老人と少年に出会い友人となる。老人は文字占い師であり、いくつかの漢字を使って少女の未来を占ってみせる。次第に親しくなってゆく三人だったが、少女が父に漏らした一言が悲劇を招きよせる。日本や中国共産党といった大きな力に飲み込まれ、翻弄される「このうえなく美しい」島フォルモサ(台湾の旧称)の歴史を背景に、水牛がゆったりと泥田の中を歩む湿潤なアジア的風土のなかで成長してゆく少女の姿を追った佳篇。SFという枠を外しても、充分読者を獲得できる作家ではないだろうか。
長篇に手を染めたと解説にあるが、広くアジアをカバーして、西洋的な視点一辺倒でない小説が書ける才能の持ち主である。未訳の作品も残されているし、これから書かれる作品も楽しみである。訳者には是非オリジナル邦訳短篇集の続篇を期待したい。