青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『邪眼』 ジョイス・キャロル・オーツ

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表題作のタイトルにもなっている「邪眼」というのは、<evil eye>(邪視)のこと。悪意を持って睨みつけることで、相手に呪いをかける行為を指し、世界各地に民間伝承が残る。邪視から身を守る護符のことをトルコでは、ナザールと呼ぶ。同心円状に色の違う円が描かれた、一見すると瞼のない眼のように見えるガラス細工である。

立て続けに両親を亡くした不幸から立ち直れずにいたマリアナは、勤め先の所長オースティンに慰められて生きる力を取り戻す。やがて四番目の妻となったマリアナは、ある日家具を動かしたという理由で夫の怒りの猛襲に見舞われる。職場では有能な上司ぶりを見せるオースティンは、家では自分の感情を抑制することができず、すべて思い通りにいかないと声を荒げる小児だった。

いつ機嫌が激変するかわからない夫の顔色をうかがいながら息をつめて暮らすマリアナ。別れて家を出ようにも、すでに帰る家もない。そんな時、夫の最初の妻イネスが泊まりがけでやって来る。奇妙なナザールを買ったのはイネスだった。マリアナは精一杯もてなそうとするのだが。気後れしてうまく話せない。『レベッカ』に先例が見られる、先妻に対して若い後妻が抱く恐怖感という主題。

先妻が集めたものか、美しいようでどこか醜い仮面や護符、といった不気味なモチーフを小出しにし、緊迫感をじわじわ高めていく。ジョイス・キャロル・オーツはその恐怖にさらにひねりを加え、ナザールとイネスの右眼にミステリアスな象徴性を付加する。オープン・エンドの結末、追いつめられた女の顔に浮かぶ「かすかな、消え入りそうな笑顔」は剥き出しの暴力より余程怖ろしい。

「すぐそばに いつでも いつまでも」は、ストーカーに出会った娘の恐怖を扱っている。はじめは、いかにも感じがよく、気を許したとたん、自分のすぐ近くにまで距離を詰めてくる。そのあまりの遠慮のなさに拒絶の意志を示すと、今度は執拗な嫌がらせを始めるのがストーカーだ。まさにタイトル通り。結果的にストーカー本人はいなくなるが、それでハッピーエンドという訳にはいかない。タイトルの真の意味が分かるのは、すべてが終わったと思ったずっと後のことだ。

「処刑」は、大学生が起こした殺人事件の顛末を加害者側の視点で追ったもの。クレジット・カードを止められたことに腹を立てた息子は他人の犯行を偽装し両親を殺害。ところが母親は死んでいなかった。その証言で、警察は息子を捕えるが、母親は裁判で前言を撤回する。自分勝手な男の言いたい放題を読んでいると怒りさえ覚えるが、どこか今の世の中に蔓延する犯罪者の類型のようにも思えてきて肌が粟立つ。ダブル・ミーニングが効いたタイトルがいい。

「平床トレーラー」が描くのは、心の奥底に閉じ込めていた幼少時の記憶を正視したことで、治癒した女性。いざ行為に及ぼうとすると体が拒否反応を起こすためセシリアの交際は長続きしなかった。Nはそれまでの男とは違って、時間をかけて話を聞く。そこには大家族の名門一家に生まれ、可愛がられて育ったセシリアが子ども心に誰にも打ち明けることのできなかった秘密があった。エロスとタナトスが背中合わせになったラストが衝撃的。

「うまくいかない愛をめぐる4つの中篇」と副題にある。「うまくいかない」と訳されているところは原文では<gone wrong>。「故障した」とか「間違えた」とかいう意味でよく使われる慣用句のようなものだ。たしかに、四篇のどれを読んでも、どこかで間違えてしまったのか、あるいはもともと壊れていたのか、みょうにすわりの悪い、いびつな「愛」の形が描かれている。

作家自らが「グロテスク」と呼ぶ、生々しいまでの暴力描写を絶妙な語りの裡に象嵌し、「私たちの魂の持つ原初的で本質的ななにかを呼び覚ます」、短篇小説の名手ジョイス・キャロル・オーツ。その真骨頂がここにある。

『遅い男』 J・M・クッツェー

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自転車に乗っていたポール・レマンは車に衝突されて右脚の膝から下を失う。医師は義肢をつけるよう促すが、彼は承知しない。60歳を過ぎた今、新しいことに慣れたいとは思わないからだ。離婚し、子どももいないポールは、退院後、介護士の世話を受けなくては生活ができない。しかし、やって来た介護士は、老人相手にいつもやっているのか、赤ちゃん言葉であやすような態度をとる。少し前まで、自分で何でも出来ていた男にはそれが我慢できない。

派遣の介護士が何人も交代した後、やってきたのがマリアナ・ヨキッチ。痒い所に手が届くマリアナの介護を受けるうちに、ポールは彼女を愛するようになる。ところが、クロアチアからオーストラリアにやって来たマリアナには、夫と三人の子がいた。マリアナに好かれたいポールが長男ドラーゴの学資援助を申し出たことが、夫ミロスラブの怒りを買い、仲の好かった家族に亀裂が走る。そこに謎の女性作家が介入し、話は俄然ややこしくなる。

老年に入りかけた孤独な男の妄想による奇行という点は、『ドン・キホーテ』に似る。本人は真剣だが、周りから見れば愚行でしかない、というところも似ている。ただ、三人称限定視点で語られているが、話者は主人公の中にいるため、読者もまたポールの目で周囲の人物を見て、ポールの耳を通して話を聞いているわけで、その苛立ちや焦慮を共に味わうことになる。

今まで特段、困ることも孤独感も感じることなく日を送ってきた男が、突然の事故によって一気に障碍者となってしまう。一人では満足にトイレにいくこともできない。シャワーを浴びようとして転倒し、背中を痛めて立つこともできず、そのうち湯が水に代わり、体が冷えてくるあたり、我がことのように怖くなる。そんな中で、マッサージを受け、家事の手伝いもしてくれる女性に好意以上の気持ちを感じるようになるのも無理はない。

体が不自由になったことで、今までさほど感じてこなかった性に対する欲動が刺激されるのも理解できるし、部屋に閉じこもりきりでは、毎日訪れるただ一人の女がその対象とされるのも当たり前だ。つまり、ポールの世界は事故を経過することで、ロシア・フォルマリズムでいうところの「異化」されたわけだ。一方、女の方は介護士として、これまでに何度もこういう状態は経験済みであり、男の気持ちに気づいても相手にしない。金に困らない身であるポールは、下心を隠し、代父役を申し出ることでマリアナの好意を得ようとする。贈与の応酬を期待するわけだ。

インテリっぽく回りくどいやり方が、かえって関係を悪化させ、マリアナは疎遠になる。そんなところに現れるのが、デウス・エクス・マキナであるエリザベス・コステロという老女性作家。突然やってきては、ポールのこともマリアナのことも、果ては一度病院で見て気になっていたサングラスの女性のことも言い当ててポールを驚かす。

実はこのエリザベス・コステロという人物はクッツェーの他の作品タイトルにもなっているノーベル賞作家で、言ってみれば作者の別人格。作家が自分の作品に実名で登場する手法もポスト・モダン文学の世界では珍しくもなくなったが、それまで全然ポスト・モダンっぽくなく、ゴリゴリのリアリズム小説のように見えていた『遅い男』のなかにコステロが突然顔を出して、引っ掻き回すのが笑える。とはいっても、あくまでもリアリズム的な立場は崩さない。主人公との対話を通じて、事故によって閉じてしまった男の世界を開こうと試みるのだ。

このお節介焼きのおばさんのことは、八方ふさがりに陥った主人公の状況を打開するために、作家が呼び出したアルテル・エゴと理解すればいい。そう考えれば、ポールの知っていることを知るのも、ポールの知りえないマリアナの家族事情に詳しいのも合点がいく。もともと小説は、作家が好きなように書くものだから、どんな状態で、どんな人物を出そうと、読者が知ったことではないのだ。と言わんばかりの強引な手法をしれっと使ってみせるクッツェーという作家、とんだ食わせ者である。貶しているのではない。むしろ褒めている。コステロが出てきたことで小説世界がぐっと広がる。

パソコンでも、写真でもそうだが、新しいものに対して試してみようともしないポールという男を、喧嘩してまで新しい世界に引き込もうとする、この女なかりせば事故後のポールは誰とも会わず、部屋に引きこもったままの人生を送ることになっていただろう。ポールが動き出すことで、それまでポールの目を通して見えていた世界が、いかに主観によって歪められていたかが分かる。この主人公の変容がよって立つ世界を変化拡充していくところが実に美しい。

齢六十をこえれば、自分の世界というものは、あらかた固定されてきている。そのまま人生の終焉にむかって進んでいくものと誰しも感じている。それが他者からの圧力によって思ってもみない境遇に強引に放り込まれる。その理不尽さに対する違和感たるや想像すらできない。それを小説家はやすやすと(かどうかは知らないが)やってのけるのだから凄いものだ。その寂しさ、辛さ、怒り、喜び、飢渇感、とどれも他人事とは思えない。小説というものの力を改めて感じさせてくれる一冊である。

『人生の真実』 グレアム・ジョイス

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英国はコヴェントリー郊外に暮らす女系一家の物語である。母親のマーサを中心に姉妹が七人のヴァイン家。その末娘キャシーが産んだ子を養子に出すところから話がはじまる。何か大事なことがあれば、姉妹たちとその夫がマーサの家に集まって会議を開くのが、ヴァイン家の決まり。キャシーの子の父親は大戦中のG.Iで生死も定かでない。周期的に精神の変調が起きるキャシーに子育ては無理というのが家族の出した結論だった。

ところが、キャシーは男の子を連れ帰る。自分で育てることに決めたのだ。フランクと名付けられた子は、おむつが外れるまではマーサの家で、その後は母子ともに交替で姉妹たちの家で面倒を見ることに決まった。農場を経営するトムとユーナ夫婦。双子のイヴリンとアイナ。オックスフォードのコミューンに住むビーティとバーナード。エンバーマー(死体防腐処理者)のゴードンとアイダ夫妻の家が受け入れ先だ。オリーヴと八百屋を営むウィリアム夫妻は訳あって、対象から外された。

男と女の間にあるごたごたや、姉妹の間に起こる諍い、といったドメスティックなモチーフをめぐって家族の騒動がにぎやかに繰り広げられる。個性的な姉妹とその夫たちの人物像が印象に残る。女家長の風格が漂うマーサは別格として、自由奔放なキャシー、工場で働きながら学習し、オックスフォード行きを果たしたビーティが過激でたくましい。その恋人のバーナードは、フランクのおむつ替えが大の得意。オックスフォードの仲間で上流階級出身ながら愉快なジョージらマルクス主義者と八百屋のウィリアムや農夫のトムたちのやりとりはイギリスらしいユーモアにあふれている。

世界幻想文学大賞受賞作だが、一見ファンタジー色は薄い。「ちょっとおかしな人たちが出てくる『若草物語』」という訳者の評がぴったりだ。「ちょっとおかしな人たち」というのは、ほとんど死体同然のルックスをしながらエンバーミングを仕事にしているゴードンだとか、霊能力などないのに降霊集会を開く双子のことをさしているのだろうが、いちばんおかしいのはキャシーだろう。美人で若いキャシーの破天荒な振る舞いは痛快の一言に尽きる。

実はヴァイン家の一部の者には特別な力がある。ノックする音でドアを開けると、これから起きる出来事を告げる使者が見えるマーサは千里眼。死んだはずの父の姿が見えるキャシーは、人の心を操ることもできる。そして、フランクには死者の声を聴く力があった。一昔前なら魔女扱いされ、火あぶりにされる厄介な力である。賢いマーサはこの変てこな力を抑制することを知っていた。そして、娘キャシーの持つ力が月の満ち欠けの影響か、時々暴走することを危ぶんでいた。

「どの家の戸棚の中にも骸骨がいる」ということわざが英語にはある。誰にも人には言えない秘密がある、というような意味だ。この物語の中にも骸骨がいる。すべては、コヴェントリー・ブリッツ(空襲)の夜キャシーがとった行動に端を発していた。フランクの隠していた秘密が明らかにされた時、母は憑き物が落ちたように穏やかになる。ダンケルクから生還したウィリアムは明らかにPTSD。戦争を忘れるために仕事や家庭に逃げ込むが、五年もたってから戦友との約束を果たすことで困った状況に陥ってしまう。

和気あいあいとした家族愛にあふれた物語ながら、そこらここらに死体や骸骨が顔を覗かしている。戦争の落とした暗い影だ。コヴェントリーは作者の故郷である。この物語は、ドイツによる空襲で徹底的に破壊された街と夥しい死者への鎮魂と、復興への努力を称えるために書かれたのだろう。だからこそ、美しい街を作ろうとする市民を尻目に、賄賂目当てに計画変更を企て、復興を食い物にする悪徳政治家や業者に対する憎悪は激しいものがある。

コヴェントリーは、ゴディバ・チョコレートの名の由来となったレディ・ゴダイヴァの伝説が残る地である。重税に苦しむ領民を救うため、夫である領主の言いつけ通り裸で馬に乗り領内を一周した伝説も、ファンタジーの美しい衣を着せて話の中に織り込んでいる。読み返すごとに、幻想文学の色合いが濃くなっていく。人物や小物の使い方が巧みで、初読時に読み飛ばしていた細かなところに埋め込まれていた仕掛けに改めて気づかされるからだ。自らの作風を「昔ながらの奇妙な感じ」と評し、英国幻想文学大賞を六度受賞しているというグレアム・ジョイス。他の作品も読みたくなった。

『あなたの自伝、お書きします』 ミュリエル・スパーク

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ミュリエル・スパークの最高傑作と言っていいだろう。毒のある口吻、媚びない生き方、友人とのさばけた交際ぶり、鋭い人間観察力、人生に対する肯定的な姿勢。主人公フラーの人物像は、よく知られる作家スパークのそれにぴったりと重なる。それもそのはず。この小説は、著名な作家フラー・トールポットの回想録の形をとっている。当然のことながら作中には小説家による芸術論や小説作法が度々披歴される。作家がいちばんよく知る作家はミュリエル・スパークに決まっている。

二十世紀の半ばごろのロンドン。作家志望のフラーは、友人の伝手で準男爵サー・クウェンティン・オリヴァーの秘書に採用される。サー・クウェンティンは、自伝を書きたい人が集まる自伝協会を主宰しているが、著述については全員素人で、フラーには原稿の手直しを含む仕事が待っていた。手始めに協会員の一人サー・エリックの幼少期の出来事に潤色を施すとクウェンティンは、たいそう気に入った様子を見せる。

当時、フラーは初めての小説『ウォレンダー・チェイス』に全身全霊で打ち込んでいた。協会の仕事を始めると、屋敷の住人との出会いが影響したのか、物語に不可欠な人物や状況、あるいは映像や言葉が、次々と浮かび出てくる。慇懃無礼なクウェンティン、感じの悪い家政婦ベリル、クウェンティンの母親で鉤爪を生やし、何かというと失禁する老女レディ・エドウィーナ等々。中でも、突然部屋に入ってきては息子を罵倒するエドウィーナのことが大好きになる。

フラーは親友のドティの夫レズリーと不倫中だったが、当のレズリーはほかに男の愛人を隠していた。愚痴を言いに部屋を訪れるドティのせいで小説が進まないフラーは、ドティに協会入りを進め厄介払いする。『ウォレンダー・チェイス』が書きあがり、出版の話が持ち上がるが、協会の方から横やりが入り業者が契約を解除すると言い出す。フラーの小説が協会員の秘密を暴露しているというのだ。どうして小説の内容が知れたのか、部屋を調べてみると自筆原稿が盗まれていた。

サー・クウェンティンは、ある時から会員の自伝のための資料をフラーから遠ざけるようになっていた。フラーは、クウェンティンは会員の隠しておきたい秘密をネタに強請りを企てようとしているのではないかと考える。だが、目的は金ではなかった。その頃から会員の様子が目に見えておかしくなってきていた。そして、会員の一人で元社交界の花形レディ・ギルバートが自殺する。不思議なことに、フラーの書いた『ウォレンダー・チェイス』をなぞるように。

「事実は小説より奇なり」というが、虚構が現実に力を揮うことがあるのだろうか。小説家が書いた通りに人々が動き出す。ミステリめいた謎をはらんで小説は進んでゆくのだが、デビュー作を執筆中のフラーについて書いている現在のフラー(話者)が、何かというと口を出し、物語は脇道にそれる。作家が目にし、耳にしたことがどのようにして小説になっていくのかという、いわば作家の秘中の秘を、惜しげもなく披露する部分が面白い。作家志望の読者ならむろんのこと。小説好きの読者なら、うんうん、なるほどと首肯しつつ読むこと疑いなし。

サー・クウェンティンは、自伝の執筆を名目に協会員の告白を聞くことで、相手の弱みを掌握して良心に揺さぶりをかけ、自責の念を必要以上に増大させ、相手を精神的に支配しようとする。事実を脚色した虚構の自伝がそのネタだ。世事に疎い上流人氏は手もなくクウェンティンの言いなりになる。一方、フラーは、自分の小説の登場人物に命を吹き込もうと、協会員の一挙手一投足を観察し作品中に実体化していた。二人のしていることは現実と虚構の違いはあれど、世界を創出し、その中に人間を放り出すという神の行為の模倣である。

ミュリエル・スパークならではのカリカチュアライズされた人物の巻き起こす騒動がけっさくで、次から次へと飛び出すフラーの皮肉や毒舌たるや人を人とも思っていない傲岸不遜ぶり。それでいてエドウィーナや友人ソリーのように、好きな相手にはとことん心を寄せる、その落差が半端でない。ドティとのつきあい方もかなり変だ。大体、友達の夫を寝取っておいて、愚痴をこぼされると、「時間で貸してよ」などと開き直る女がどこにいるというのだ。

デビュー作を完成し、出版にこぎつけるまでの苦労を経糸に、虚構と現実の不思議な一致という、創作にまつわる神秘を緯糸にして織り上げたタペストリーならぬ芸術家小説。訳者がいみじくも喝破した通り、スパーク版『若い芸術家の肖像』である。ジョイスお得意の顕現(エピファニー)もちゃんと用意されている。1950年の六月末日。「二〇世紀の折り返しとなったこの日は、まさにいま女性であり、芸術家であることが、いつにも増して素晴らしく思えた」。

墓地で詩作中、警官の不審尋問にあった場面から始まった小説は、同じ場面のところまできて終わる。この日を境にフラーは本物の小説家となる。人生の晩年に差しかかった作家が、煩悶に満ちた若き日々を懐かしく思い出しながらも、そこはミュリエル・スパーク、感傷や哀惜といった悪弊に陥ることなくピリッとした辛味を効かせ、極上のメタ・フィクションに仕立ててみせる。余韻の残る結末にカソリック作家ならではの感懐がにじむ。おみごと!

『イエスの幼子時代』 J・M・クッツェー

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タイトルだけ読めば、聖書に材を得た子ども向けの物語か、と勘ちがいしてしまいそうだが、いやいやとんでもない。イエスなんかこれっぽっちも出てこない。近未来の世界を舞台にしたディストピア小説の型を借りたこれは、人間と、人間が生きる社会について真正面から真剣に考えるための手がかりを与えてくれる、一種の思弁小説である。

と書くと、いかにも真面目そうで、とっつきにくいと受けとられてしまいそうだが、この小説は、とても面白い。興味深い、という意味でも面白いのだけれど、読んでいる途中で、くすっと笑えたり、にんまりしたり、という意味でフツーに面白いのだ。それでいて、語られていることは、けっこう哲学的。人はどう生きるべきか、歴史には学ぶ意味があるのかないのか、と大上段に振りかぶる。

「人はパンのみにて生くる者にあらず」という言葉も出てくる。食べ物のような物質的なことばかりに執着するのでなく、精神的なことにも心を傾ける必要がある、というような意味だ。ところが、過去を捨て、新しい言葉を覚える訓練をして、やっと新世界に来てみれば、食べることができるのは、毎日食パンと水ばかりじゃないか、と主人公が文句をたれる、その文脈でさっきの言葉が引用されるのだ。つまり、人はパンばかり食べていては生きている気がしない。たまには血の滴るようなステーキが食べたい、それでこそ人間というものだと言っているわけだ。この皮肉。

主人公の名はシモン。この名前はノビージャに来る前にいたキャンプ地でつけられた。おそらく前に住んでいたところに住んでいられなくなって、申請してノビージャに迎えられた。ここに来るために乗った船で、ダビードという少年と連れになる。ダビードはノビージャで母と会うはずだったが、首から下げていた書類の入った袋を海に落としてしまう。シモンは、少年の母親探しを手伝うことにした。

ノビージャに到着した二人は、住む所と職を探す。アナという係の女性によって当座の部屋を得るが、そこにいたるまでの官僚主義的なやりとりに対するシモンの苛立ちがビンビン伝わってくる。悪意があるのではない。少しずつ分かってくるが、ノビージャの住人たちは善意の人々であり、当座の金に困っているシモンに、港の荷役の主任アルバロはすぐに金を貸してくれる。人夫たちも何かと声をかけてくる。

それでいて、話をしているとどこか噛み合わない。まず毎日が食パンと水でもいっこうに気にしていない。性欲に対しても、その気になれば処理できる場所はあるらしいが、シモンのように親しくなった女性とそうなりたいと思う気はないようだ。女性の方も同じで、アナははっきりその行為やそれに使用する器官は美しくない、と口にするし、エレナはシモンの欲求をはねつけないが、自分はちっとも良くないようだ。

小説は、ダビードの母探しとシモンの感じるノビージャに対する違和感を軸として進んでいく。「幼子時代」とあるように、このあと「学校時代」が続くようで、これ一冊でストーリーは完結しない。シモンとダビードの母(となった)イネスは、学習不適応を理由に矯正施設送りにされそうなダビードを連れて町を離れることにする。「幼子時代」は車に乗って旅に出た一行が、ヒッチハイクの若者ファンを仲間に入れたところで幕を下ろしている。

過去の暮らしと断絶し、まったくの新世界での珍奇な見聞を語る、という設定はスウィフトの『ガリバー旅行記』を思わせる。そういう意味でこれは寓意小説の趣を持つ。シモンにとってはノビージャの人々の考え方は普通ではない。ノビージャの人々にとってはシモンの価値観が理解できない。これは、ロシア・フォルマリズムでいうところの「異化体験」である。互いに理解しがたいシモンとノビージャ人が出会うことで、どちらもが、今まで当たり前と思っていたことを括弧にくくってもう一度考え直すという作業をし始めるのだ。それは、きっと世界を更新することにつながるにちがいない。

シモンは、男と女がいて、どちらかが、あるいは双方が好感を持ったらセックスに至るのは当然のことだ、と考える人物である。また、食事に関しても腹を満たすだけでなく別の欲求をも満たしたいと考える。毎日何度も梯子を上り下りして荷下ろしをするより、クレーンを使って仕事をすれば、その空いた時間をもっと価値あることに使える、と考える。どこにでもいるごくごく普通の男性のように見える。

しかし、シモンがそれを力説しても、ノビージャの人々は、それに合意することはない。食べ物だってないわけではない。あるところにはあるようだが、アルバロはたいして欲しいとも思わない。クレーンの導入についてもその効果については懐疑的である。そもそも力仕事を蔑視するようなシモンに対して批判的である。力仕事をした後はよく眠れるではないか、という批判はある意味正しい。

ノビージャの社会は、ソフトでクリーンな管理社会である。住む所や衣服は貸与されるし、やる気があれば就業後、哲学を学ぶことも、美術コースで人物クロッキーを習うこともできる。そこでは、食べ物も無料で食べられる。セックスに対する欲望の処理のためには慰安所めいた施設まである。ただ、ダビードが担任教師に反抗的態度をとり続けると、施設行きを進められることからわかるように、管理に対する不服従は許さないという規律はある。

今ある秩序に対して必要以上に変化を求めたり、不服を言い募ったりしない限り、最低限の生活は保証するというのが、ノビージャの不文律らしい。エレナもアナも賢く優しく親切で男性から見れば魅力的な女性である。しかし、性に関しては非常に反応温度が低い。シモンでなくとも、洗脳教育にも似た教育を受けた人たちを前にしたときに感じる独特の不可侵領域の存在を感じるのだ。因みに「ノビージャ」というのはスペイン語で「若い雌牛」の意味を持つ。さらに言えば「未経産牛」。何やら意味深ではないか。

人間の数が増えればまず食糧が必要になる。何らかの理由で食糧自給が難しくなった国にあっては、性に対しての欲求が肉食系から草食系に変化することで人口調整はたやすくなり、必要な人口は難民の移住でまかなうことができる。形而下的な欲求は最低限満たし、形而上的欲求はかなりの程度満足感を与えておく。ノビージャという社会の管理者はそう考えているのではないか。

他人の子の代父となり、母親を見つけてやって共に旅に出る。処女のまま母になるイネス、母となる女性との情交なしに父となるシモン。他人には理解できない言葉を自分の言葉として語るダビード。しかもダビードは、近づく人々を自分の同行者にしたがる性向がある。この小説が聖家族をモチーフにしたものであることが分かってくる。

非才のため、多くの隠された手がかりを見逃している。なんでもそうだが、よく知っていなければ値打ちを見定めることは難しい。これはそういう書物である。ただ、それでも面白さは分かる。続篇を読めばもっとわかってくることもあるだろう。ノビージャについての視界も開かれてくるにちがいない。是非とも続きが読みたくなる。

『ホワイト・ジャズ』 ジェイムズ・エルロイ

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「暗黒のLA四部作」第四作。シリーズ完結作は意外に手堅くまとめられていた。デイヴィッド・クラインというLA市警警部補の一人称限定視点で書かれていることもあって、これまでの作品のように、個性的な主人公が何人も登場し、複数の視点から事件をながめ、互いをライヴァル視し、一人の女を競い合うという面倒な関係がないからだろう。文句をつけているのではない。「おれ」という一人の主人公が語る古典的なスタイルは、個人的には好ましいと感じている。

一方、文体はといえば、どこかの批評家がいみじくも評した、いわゆる「電文体」。短い単語で一センテンスを構成してゆく手法で、頭の中の思考が、即印字されているような感覚に襲われる。一種の「意識の流れ」的手法だが、「流れ」というよりは「意識の途切れ途切れ」。スラッシュやハイフン、等号といった記号が多用され、複数の人物が会話するときなど、人物名。「…」というまるで台本。余韻などあらばこそ、あれよあれよという間に読まされてしまう。疾走感といえば格好いいが、ついてゆくのに息が切れる。これと比べれば、一時期話題となったヘミングウェイの文体など、どうということもない。むしろ抒情的に感じるほどだ。

回想視点で書かれている。ああ、この語り手は死なずにすんだのだな、とひとまず安心。なにしろ、主人公といっていい人物が次々と殺されてしまうのがこのシリーズなのだ。事件が起きたのは1958年の秋。警視の息子の教育係を命じられ、警部補ながら風紀班班長を任されたクラインは、ステモンズ・ジュニアを引き連れ、仕事に明け暮れていた。そんな時、市警が情報のタレこみと引き換えに目こぼししていた麻薬密売人の家が侵入盗に入られる。被害者が訳ありのため、麻薬課の警部から電話があり、内部事情に通じている=悪徳警官、クラインが現場に出向く。

盗難にあったのは銀の器だけだが、犬が両眼をつぶされたり、レコード盤が割られたり、果ては娘の服が切り裂かれ、精液がかけられたりするなど、ただの泥棒とは考えられず、何かの復讐臭い。今では刑事部長となったエド・エクスリーは捜査をクラインに任せる。エクスリーには何か考えがあるらしく、毛皮強盗の件を担当したいというクラインに、その件はダドリー・スミスに任せてある、と譲らない。エクスリーは、ダドリーを抑え、刑事部長の席を奪っただけでは飽き足らず、彼の尻尾をつかもうとしているらしい。

おりしも、地方検事のボブ・ギャロデットと連邦検事ウェルズ・ヌーナンが司法長官の椅子を巡る権力争いの真っ最中。その余波で市警と連邦も対立を深めていた。事件解決が長引けば、市警の無能ぶりを言い立て、連邦が出張ってくる。クラインは過去のよく似た事件の資料を漁り、手がかりを得ようとするが空振りが続く。そんな時、ヒューズから女優の契約違反の尻尾をつかむため、監視を命じられる。いいアルバイトと思って引き受けた、その相手がグレンダだった。

女と浮いた噂がないので、選ばれたクラインがグレンダに一目ぼれ。過去に犯した殺人の証拠を破棄したり、ヒューズの家から高価な食料を盗んで老人ホームに配るのを見逃したり、とすっかり入れあげてしまう。グレンダの殺人が連邦の知るところとなり、自分との情事もヒューズに知れる。愛人の身を守りながら、ついには同じ手口で殺人事件まで起こした犯人を追い続けるクライン。そこに相棒のジュニアの奇行がからみ、事件は異様な方向に発展していく。

娼婦のまねをする妹、その妹を犯す兄、それをひそかに覗く男、と相変わらずの背徳的な世界だが、妹に執着する兄という近親相姦的関係は、クラインにも重なる。父の暴力から妹メグを守る兄、父を殺しかねない兄をなだめる妹。クラインのメグに対する感情は単なる兄のものではない。事件の捜査のため何度も現場に出向くクラインだが、監視と窃視の差は微妙で、どこからどこまでが監視で、どこからは覗きといえるのか。犯人とそれを追う者とが二重写しとなる。

しかし、事件の陰にあったのは、過去にさかのぼる、忌まわしくもねじれた人間関係だった。過去の因縁によってもつれにもつれた関係が、電話照会による人名検索でほどかれてゆくのは、少し簡単すぎるのではないかと思うものの、あまりそういうところを突くのは野暮というもの。ここはクラインの刑事としての運の強さと考えておきたい。複雑なプロットに巧みな伏線。再読すれば、犯人像を示す手がかりが小出しにされて、かなり初めの方から何度も目にしていたことに気づかされる。

過去のトラウマに苦悩する男というのはお定まりのパターン。ただ、妹に付きまとう男を始末した過去を引きずって殺人を繰り返すクラインに魅力を感じられなかった。自分が愛する者だけを守れればよし、とする行動規範になじめない。やたらと計算高いところが鼻につく。権力を持ち、自分の思うような社会をつくりあげるためには手段を選ばない冷徹なエクスリーや、悪党ながら力のある若者をスカウトするのが趣味という親分肌のダドリー・スミスの方に惹かれるものがある。シリーズを通して生き抜いてきた男たちの持つ力なのかもしれない。

迂闊なことに、今頃になってペーパーバック版をのぞいて、シリーズ名が<L.A.Quartet>となっているのにはじめて気がついた。ロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』(The Alexandria Quartet)と同じではないか。<Quartet>には四重奏(唱)のほかに、四人組、四つ揃いなどの意味があるので、必ずしも「四重奏」と訳す必要はないだろうが、全編にジャズやカントリー・ミュージックが流れるエルロイ作品なのだから、ここは<LA 四重奏>とシャレてみる手もあったのではないか。蛇足ながら、四部作の訳者が一作ごとにちがうことにも違和感がある。どういう意図があってのことなのだろうか。

 

『LAコンフィデンシャル』上・下 ジェイムズ・エルロイ

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ラメント。嘆き歌。結局これを聴きたいがために上下二巻の長丁場をひたすら耐えるのかもしれない。悪の巨魁に立ち向かい、力及ばず死んでいく者。死なないまでもボロボロになって都市を離れてゆく者。ともに戦った仲間の無念を思い、ひとり立ち尽くす未だ滅びざる者。ハードボイルドのなかでもレイモンド・チャンドラーの衣鉢を継ぐ作家たちに多くみられるセンチメント過多な傾向だが、これがなくては、ひたすら過激なヴァイオレンスや目を覆いたくなる猟奇的殺人の描写でざらざらにされたこちらの感情が浄化されない。悲劇にはカタルシスが必要だ。

暗黒のLA四部作、第三作。プロローグ。前作『ビッグ・ノーウェア』の主人公中ただ一人の生き残り好漢バズ・ミークスの死で幕を開ける。最初からショッキングなシーンが飛び出すが、本当は前作の最後に置かれて当然の一幕。これを冒頭に持ってくることで前作との関係が明らかになる趣向。往年の連続活劇を見ているようだ。しかも、バズがミッキー・コーエンから略奪した大金とヘロインがダドリー・スミスの手に渡ることが、本作の謎解きに迫る大事な伏線の役目を果たしている。

1951年のクリスマス。警官を襲撃して収監された囚人たちに酒に酔った警官が暴行を加えるという事件が起きた。堅物のエド・エクスリーは署内での飲酒に加わらなかったため、事件の供述書を提出する。その結果首謀者のステンズランドは起訴され刑に服することに。相棒のバド・ホワイトはダドリー・スミスの仲介で起訴を免れ彼の部下になる。バドは仲間を売ったエドへの復讐を誓う。事件に連座したジャック・ヴィンセンズも証言をすることで起訴を猶予され、麻薬課から風紀課へ転属する。ゴシップ誌の記者であるシド・ハジェンズから情報を回してもらい、ヤク中のミュージシャンを逮捕していた彼には痛手だった。

二年後、風紀課に移ったジャックはポルノ雑誌の摘発に励んでいた。手柄を立てれば麻薬課に戻れるからだ。そんな時、ナイト・アウルという店で六人の男女が殺される事件が起きる。刑事部全員が招集され、ジャックが容疑者である黒人の若者三人逮捕する。尋問を担当するのは真っ先に現場に駆けつけたエドだった。三人は事件当夜白人の少女を輪姦し、その後売り飛ばしたと告白した。尋問に闖入し、強引な手段で場所を聞き出したバドは見張りの男を殺し少女を救出する。バドには、父が母を殺す現場を目撃した過去があり、女に暴力をふるう男が許せない。

作家には母親を殺された過去があり、犯人は見つかっていない。その所為もあるのだろう、エルロイ作品には過去のトラウマを背負い続ける男たちがよく登場する。バドだけではない。戦争の英雄であるエドは、戦場でただ一人逃げて生き残った事実を隠すため、自刃した日本兵の死体を集め火炎放射器で焼くことで報復を果たしたように見せかけた過去がある。ジャックは、犯人逮捕時に誤って民間人の夫婦を射殺したことを悔いて、遺児に金を送り続けている。

三人が三人ともそれぞれの過去のトラウマに苦しみながら、犯人を追い続けるうちに、ジャックが追っているポルノ雑誌の事件と、<ナイト・アウルの虐殺>事件とが絡んでいることが分かってくる。しかも、何者かによって殺されたシド・ハジェンズの切断された四肢の配置はエドの父親が過去に解決したアサートン事件のそれに酷似したものだった。事件のファイルは厳重に保管され誰も目にすることはできない。だとすれば、犯人は?

スカンク草井やハムエッグ、アセチレン・ランプといった悪役が、多くの作品に顔を出す手塚治虫のマンガのように、エルロイの暗黒のLA四部作には、ギャングのボスであるミッキー・コーエンや麻薬中毒患者の治療もする形成外科医テリー・ラックスといったキャラクターが毎回顔を出す。コメディ・リリーフ的な存在であるミッキーとちがって、腕利きの整形外科医テリーの名前が出れば、重要な事件関係者が顔を変えていることがバレバレである。この手の都合のいいデウス・エクス・マキナの使用は、せっかくの作品を陳腐なものにしかけないのに、エルロイは頓着しない。

上巻と下巻の前半は、いつものように相次いでいくつもの事件が起き、その捜査線上に大量の人物が登場する。その間に三人の刑事の恋愛事情が息抜きのように挿入される。作品ごとに名前が変わるだけで、図式的に過ぎると思えるほど人物の相関関係は固定されている。一人の女をめぐって競いあう二人の男。頭は切れるが暴力行為は苦手な正義派と腕っぷしが強く悪人には暴力も辞さない武闘派の対決という紋切型の設定もまたまた使い回しだ。猟奇的殺人を行う変質者という犯人像も前作とかぶる。

新味といえるのは、元警視で今は建設会社社長というLAの大立者を父に持つエド・エクスリーの、父や兄に対するコンプレックスだろう。アサートン事件という難事件を解決しながらさっさと会社経営に転身、ディズニーを彷彿させる映画製作者ディターリングとテーマ・パーク経営に乗り出し、次期知事候補と目される父は、早くに死んだ兄に比べ、エドを顧みない。エドは、父や兄より早く出世することで父を見返したい。その思いが、仲間に嫌われてでも点数を稼ぐ行為につながる。やがてそれは、フロイディズムでいう「父殺し」にエドを導くことになる。

互いに相容れないエドとバドが、事件の陰に隠されたダドリー・スミスの悪事を暴くために手を組むうちに、相手の中にあって自分が見てなかった能力や美点を発見し、自分になかったものを獲得していく過程がこの小説の醍醐味である。それはまるで、互いに一人の人物としては完全ではなく、謂わば半身であった二人の人物が相手を受け容れることで、完全な全身を手に入れるような感じといったら分かってもらえるだろうか。

父と息子という関係がはらむ愛憎劇を軸に複雑に絡まりあった事件の謎が解かれていく。序盤の一見無造作に見えるほど、畳みかける調子に乗せられて、何気ない家族紹介や昔話を読み飛ばして目前の事件の捜査内容にばかり目をやっていると、あとで後悔することになる。因縁めいた裏話は、実は初めからすでに仕込まれている。犯人は後から唐突に登場するのではなく、最初からしっかり登場している人物でないといけない、というのは何も本格物のミステリに限ったことではないのだ。大味なように見えて、勘所はしっかり押さえてあるのがエルロイだ。

以前にも増して凄みを見せてきたダドリー・スミスの悪徳刑事ぶりだが、フィクションのお約束通り、悪は正義に敗れるのか、それとも現実の社会がそうであるように、したたかな悪の前には正義など何の力も持たないのか。いよいよ完結篇である第四作『ホワイト・ジャズ』が楽しみになってきた。