青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ユリシーズを燃やせ』 ケヴィン・バーミンガム

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これは、ジェイムズ・ジョイスのではなく、『ユリシーズ』という一冊の本の伝記である。ジョイスその人については、有名なリチャード・エルマンの『ジェイムズ・ジョイス伝』をはじめ、八冊の評伝がある。『ユリシーズ』について書かれた本に至っては数えきれない。だが、出版当時、猥褻であるという理由で焚書にされた書物が、現代の古典と呼ばれるに至るまでの出版事情について、このように詳しく書かれた本は多くない。

いうまでもなく、『ユリシーズ』を一冊の本という形で世に出したのは、シェイクスピア・アンド・カンパニー書店の店主シルヴィア・ビーチである。パリ左岸の店は店主の居室も兼ねた貸本屋という形式で始まったが、すぐにパリ在住のモダニストたちのたまり場となった。ジョイスを世に広めるために尽力したエズラ・パウンドをはじめ、パリにやってきたヘミングウェイやF・スコット・フィッツジェラルドなどのアメリカ人作家も常連になった。

優れた文学者ではあっても、生活者としてはほとんどダメ人間で、金が入れば飲んで大散財してしまうジョイスは、シルヴィア・ビーチ以外にも多くの女性に援助を受けている。まず、『ユリシーズ』は本になる前に、マーガレット・アンダーソンという女性の主催するアメリカの雑誌『リトル・レビュー』誌に連載されることで日の目を見た。「ナウシカア」の章が猥褻だとして裁判になった時も、マーガレットはひるまなかった。

ユリシーズ』の英国版を出版してくれたのは、ハリエット・ショー・ウィーヴァーという女性で、パトロンとして多額の資金を援助している。出版には素人で、敬虔な一家は猛反対したが、ウィーヴァーは何とか出版にこぎつける。ところが、その初版は一部が、第二班はすべて焼却処分となった。ウィーヴァーは、直接見知っていたシルヴィア・ビーチとはちがい、トリエステチューリヒ、と各地を転々とするジョイスと面識がなかった。どうして、ここまで援助しようという気になるのかが不思議。『ユリシーズ』という書物の持つ力としか考えられない。

シルヴィア・ビーチは『ユリシーズ』を品質別に価格の異なる三つの版で出した。オランダ産の手漉きの紙にジョイスのサインが入った豪華版、上質な紙を使用した版、それに廉価版だ。ゲラが上がるたびに新たに何度も章句を書き加えるジョイスに印刷工が難儀した話や、青地に白の装丁はギリシア国旗の青でなくてはいけないと言い張るところなど、いかにもジョイスらしいしたい放題をシルヴィア・ビーチは、よくゆるしたものだ。最後には口契約だったことを理由に版権をジョイスに奪われてしまうというのに。

著者がアメリカ人であるため、猥褻裁判の経緯についてはアメリカの裁判が中心。アメリカの当時の法律では郵便を使って猥褻な書物を送ることが罪とされていた。そのため、フランスで刊行された『ユリシーズ』は、一度カナダに送られ、協力者のズボンの中に隠されて船に乗り、アメリカに上陸したという。当時のズボンは幅が広かったとはいえ、ただでさえ分厚い『ユリシーズ』を二冊隠しながら歩くのはさぞ大変だったろう。

ユリシーズ』は、非常に高価な本だったが、評判を聞いて本を求める顧客の所に到底いきわたらず、不正確な海賊版が横行した。ランダムハウス社の創始者ベネット・サーフは、裁判で無罪を勝ち取り、海賊版より先に『ユリシーズ』をアメリカで出版するため、弁護士と協力し、無罪を勝ち取ることに成功する。この裁判劇が小説を読むように面白い。

裁判を担当したのはウルジー判事だが、暖炉のある自室の肘掛け椅子にすわり、関連書物を何冊も用意して『ユリシーズ』を読み込んでいく。バック・マリガンの登場する第一章の叙述は苦も無く読め、共感を持てたものの、次第に叙述方法が変化してくるにつれ、わけが分からなくなってくる。それでも最後まで読むところに感心した。裁判の中で、弁護側のアーンストに「君、本当にすっかり読み通したのかね?大変だっただろう?」と訊ねるところが愉快だ。

ジョイス自身については、マリガンのモデルであるゴガティとの交友など、『ユリシーズ』に関連する事実については書かれているが、網羅的ではない。もっぱら言及されているのは、表紙の絵にもある通り、アイパッチに隠された眼のことである。ジョイスは、周期的に起こる虹彩炎に生涯悩まされる。痛みがひどくなると失神するほどで、手術は十一回も受けたという。ただ、回復はせず、最後には両眼ともほとんど視力をなくしていた。それでも、綴り字にこだわりのあるジョイスにしてみれば、口述筆記に頼るなど不可能で、最後は大きな紙に自筆で原稿を書いたという。

ひとくちに表現の自由というが、誰かが試みるまで、その自由は無きに等しい。国際的には評価の高い浮世絵の春画が美術館で公開されたのはついこの間のことだ。『ユリシーズ』が、猥褻でないと認められ、出版が許されたことは、その後に続く表現をどれだけ生み出したことか。

自分では印刷どころか価値を認めようともしなかったヴァージニア・ウルフにさえそれは影響を与えた。ウルフは書評にあった「三人のまったく異なる人物の意識から紡ぎ出された」という言葉を頭にとどめた。当時短篇を書いていたウルフは後に、それを長篇に作り変え、「ロンドンでの一日を舞台に、三人の意識に分け入る小説」を完成させる。『ダロウェイ夫人』である。この指摘には、虚を突かれた。「意識の流れ」という手法にジョイスとの関係を見てはいたが、ともにダブリンとロンドンの一日の出来事という類似には気がついていなかった。

ヘミングウェイがシルヴィア・ビーチにたのまれて『ユリシーズ』の密輸を手伝ったことや、飲みつぶれたジョイスを家に連れ帰って、ノーラに皮肉を言われた件など、お気に入りの作家のエピソードにも事欠かない。ジョイスファンにはもちろん、モダニズム文学に興味のある人にはお勧め。あと、猥褻裁判に興味のある人にも。

『ラスト・チャイルド』 ジョン・ハート

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事件が解決され、犯人が誰か分かった後、もう一度はじめから読み返すのが好きだ。張られた伏線も、ミスディレクションも、手に取るようによく分かるから。しかしながら再読したくなる小説はそう多くない。大抵は犯人の隠し方に無理があったり、語り手が重要な手がかりを充分明らかにしていなかったりして、不満が残る。しかし、なかには再読可能な作品もある。ミステリとしては瑕瑾があっても、それを問題にしたくないほど読ませる力を持つ作品が。 

これもそういう作品の一つである。『終わりなき道』、『川は静かに流れ』に次いで、ジョン・ハートを読むのはこれで三作目。それまで読んだ二扁は再読しなかった。アメリカ探偵作家クラブ賞をとった『川は静かに流れ』は、『終わりなき道』よりは良かったが、人間の描き方に不満が残った。この作家は、殺人という罪を犯す人間は、外見はどう見えていても、実のところはみな異常者だと思っているのではないだろうか、という疑念がぬぐえず、三度目の正直を期待しながら読んだ。 

ジョニーは十三歳。双子の妹アリッサは一年前に誘拐された。母キャサリンは、娘が戻らないのは迎えに遅れたあなたのせいだと父を責めた。優しかった父は家を出た。働き手を失い、家庭は崩壊する。貸家に移った母子を家主である町の有力者ケンが蹂躙した。母はドラッグと酒で心と体を支配され、息子は絶えず暴行を受けた。ジョニーは神に祈った。母が薬をやめ、家族が戻り、ケンが死ぬことを。神は答えなかった。聖書を焼き捨て、ジョニーは犯罪常習者を監視する。 

一方、担当刑事のハントもすべてを犠牲にしてアリッサの行方を追っていた。そんな夫に業を煮やした妻は離婚。一人息子は心を閉ざしていた。父と子という主題は、この作品でも大きな役割を果たしている。事件から一年後、ジョニーは一人の男が何者かに殺されるところを目撃する。男は、死ぬ前に「あの子を見つけた」、「連れ去られた少女」、「逃げろ」とつぶやく。必死で逃げるジョニーの前に巨漢の黒人が現れる。男は逃走中の服役囚だった。男の耳には声が聞こえた。「少年をつかみ上げよ」という神の声が。 

少年の冒険活劇という側面がこの作家にはめずらしく作品に明るさを呼び込んでいる。親友ジャックとつるんで学校をサボり、酒やタバコをやり、無免許で車を転がす少年像は、トム・ソウヤーとハックルベリー・フィンの系譜に連なるものだ。不良っぽいが、知識欲があり、図書館の本は延滞せず、何度も借り直すという律義さも持っている。インディアンの儀式に必要な羽をとるために鷲と格闘する勇気もあれば、餓死する運命にある雛鳥に心を痛める優しさも併せ持つ。 

一つの事件を追うのではなく、一見関係のない複数の事件が起き、それらがからみ合うプロットがよくできている。少女誘拐事件はジョニーの活躍もあって意外な展開を見せるが、妹は依然として見つからない。組織力のある警察機構より、十三歳の少年が一歩前を行くというのは、どう考えても無理があるが、ハントはことごとく少年たちの後手に回る。そんなハントに代わり、事件解決に力を発揮するのがネイティヴ・アメリカンと黒人の混血、リーヴァイ・フリーマントルという大男。 

アメリカという国の歴史や宗教を背景に取り込むのは、この作家のよく使う手だが、今回は奴隷解放の先駆者であった一人の男と彼が救った黒人奴隷の子孫(ラスト・チャイルド)がキー・パーソンになっている。神の前の平等は奴隷制度には都合が悪い。白人は自分たちの信じる神を黒人が信仰することを禁じた。白人に隠れてキリスト教を信奉した人々は、ハッシュ・アーバー(隠れ教会)と呼ばれる森の奥や湿地に集っては祈り、神を讃える歌を歌った。ゴスペルの始まりである。 

救った側と救われた側のラスト・チャイルドの遭遇が奇蹟を起こす。今さらノックスの十戒ヴァン・ダインの二十則を持ち出すと笑われるかもしれないが、超自然的な力や、妹の事件の解決の仕方についてミステリとして気になるところはある。ただ、そこが小説のミソなので、結果論になるが、英国推理作家協会賞最優秀スリラー賞を受賞しているのだから、問題ないということにしておこう。個人的にはジョン・ハートの作品では、今まででいちばん面白く、後味もいい。ミステリという狭い枠にとらわれることなく、楽しんで読める作品になっている。

 

『執着』 ハビエル・マリアス

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ボブ・ディランノーベル文学賞をとって話題になっているが、このハビエル・マリアスも候補に挙がっていた一人。ノーベル賞は政治的な意味合いが強いので、ボブ・ディランにいったのだろうが、今さらという気もする。それよりは、もっと読まれてしかるべきなのに、世界的にはあまり知られていない作家に光を当ててほしいものだ。オルハン・パムクパトリック・モディアノノーベル賞を受賞していなかったら、日本でこんなに翻訳されることはなかったろう。

ハビエル・マリアスを読んでみようと思ったのは、候補に名が挙がっていることを知り、どんな小説を書くのだろうという興味を持ったからだ。なかなか個性的な作家で、特にその文体が特徴的だ。もっともこの一作しか読んでいないので、ほかの作品がどんなスタイルで書かれているのかは知らない。『執着』に関していえば、ページが黒々とした印象を持つほどに、改行が極端に少なく、会話であってさえ、まるで演説かと思えるほどながながと続く。

主人公マリアは三十代の編集者。出勤前に立ち寄るカフェで、<完璧なカップル>と名づけた夫婦を眺めるのを楽しみにしていた。ある日その男性ミゲルが殺されたことを知る。何日かたち、カフェで妻ルイサにお悔やみを告げたことをきっかけに家に誘われ、そこでミゲルの友人ハビエルに紹介される。その後、街で偶然再会したハビエルとマリアはつき合うようになる、というお決まりの展開。ところが、ハビエルには秘密があった。

自分と寝ていても、ハビエルが好きなのはルイサだとマリアは知っていた。そんなとき、寝ていたマリアは、隣室のハビエルと客との話を偶然耳にしてしまう。男はハビエルが誰かにミゲルを殺させるために選んだ仲介者だった。日頃シェイクスピアの『マクベス』やバルザックの『シャベール大佐』、デュマの『三銃士』を引用しながら、「不処罰の不条理」について語るハビエルの説は、自分がやったことについての婉曲的な告白だったわけだ。

愛する男が、間接的にではあるが人を殺したかもしれない。自分はどうするべきか。凄いサスペンスだ。普通のミステリなら、ヒロインがこの難局をどう切り抜け、部屋から逃げ出して警察に駆けつけるか、男はそれをどう阻止するのかという展開になるのだろうが、そうはならない。こんな漠然とした話を警察が信じるかどうか疑問だし、憔悴しきっているルイサが真実を知ったらどう思うだろう。それに何よりマリアはまだハビエルを愛している。

ここまで読んできたあなたは、これではネタバレではないか、と思うかも知れない。心配御無用。これはそんな簡単な話ではないのだ。先行する文学作品や辞書の例文まで使って、訳者の言を借りれば「恋愛と不処罰の不条理」という二大テーマを追った一種の思弁小説だからだ。ミゲルを刺した男は、娘に売春させているのはミゲルだと電話で何者かに使嗾されたという。しかし、寝起きする廃車に置かれた携帯に出るかどうか、ナイフで刺すかどうかは成り行き次第。殺人教唆にあたるかどうかすら疑わしい。

私はじっと時の過ぎるのに任せていた。うやむやに雲散霧消させるか粉々になるのかを待つかするのが、現実世界ではいちばん無難なのだ。頭と心の中では永遠に消えずに居座り、息が詰まりそうな腐臭を放ちつづけるのだとしても、それならなんとか耐えていくことができる。そういうものを抱えていない人がいるだろうか。

全編が「内的独白」を多用したマリアの一人称視点で語られている。「意識の流れ」に倣ったのか、主人公のモノローグは、しばしば脱線し、時には対話する相手に成り代わって、ハビエルの苦しい胸中も吐露すれば、ミゲルやルイサの口にするであろう言葉も自在に駆使する。もともとこのハビエル・マリアスは翻訳家で、ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』の翻訳ではスペイン国民翻訳賞を受賞している。『トリストラム・シャンディ』なら、脱線はお手の物である。

すべて、マリアがハビエルから聞かされた話でしかない。マリアがそれをどうとるかで、これから先のマリアとハビエル、ハビエルとルイサの人生が左右されることになる。最後のどんでん返しである、ハビエルの語るところによる、ミゲルを死に至らしめた真実の理由も、伝聞である以上マリア同様、読者も疑わずにはいられない。ハビエルの言う通り、この世の中には処罰されない犯罪など、いくらでも転がっているのかもしれない。

非常に知的で論理的。この目眩くような堂々巡りを、晦澁とまではいえないものの長広舌であることはまちがいない文体で読まされるのは、かなり被虐的快感であり、嫌いな人なら投げ出したくなるだろうが、好きな人にはくせになる。少なくとも評者は、はまった。近いうちにノーベル文学賞をとってもらいたい作家のひとりである。残る唯一の邦訳『白い心臓』もぜひ読んでみたくなった。

『川は静かに流れ』 ジョン・ハート

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親友のダニーからの電話でアダム・チェイスは故郷に帰ることにした。五年前、妹の誕生パーティの夜、男が殺され、継母によってアダムの仕業だと証言された。判決は無罪だったが、父は再婚相手の言葉を信じ、アダムに家を出るよう命じた。五年ぶりに帰った故郷は原発誘致の騒ぎの渦中にあった。賛成派と反対派とは敵対し、農場を売ろうとしないアダムの父は賛成派の恨みを買っていた。ダニーのモーテルを訪ねたアダムは、誘致を迫るダニーの父にからまれ、大けがを負う。

町中から総スカンにあっている男が久しぶりに帰郷すると、待っていたのは電話をしてきた親友の死体。ただ一人無罪を信じてくれた昔の恋人ロビンは刑事に昇進していた。そんな時、妹のようにかわいがっていたグレイスがアダムとの再会後、何者かによって暴行される。事件を担当する刑事は、当然のようにアダムを疑い、その元恋人ロビンと対立する。

最新作『終わりなき道』と限りなく似た構図だ。もちろん、こちらの方がもとで、新作がその焼き直し。それにしてもよく似たシチュエーションを何度も使うものだ。アメリカ探偵作家クラブ賞を受賞したこの作品のファンなら、新作を読んで、既視感を抱くにちがいない。結果的には、よく似た設定ながら『川は静かに流れ』の方がすぐれている。家族の歴史に隠された秘密に触れた伏線が、ストーリー展開の中で自然に回収されていて無理がない。

息子の自分より、再婚した妻を信用されたら、実の息子としてはたまったもんじゃない。ただ、それより前に息子と父は問題を抱えていた。アダムが五歳の時、母は自殺をしている。しかも、コーヒーを運んで行った息子がドアを開けると同時に自分の頭に向けた銃の弾きがねを引いたのだ。良い子だったアダムはそれ以後変わった。ダニーとつるんで喧嘩三昧に明け暮れ、成績は下落。父は息子を見放していた。

継母のジャニスにはジェイミーとミリアムという双子の連れ子がおり、母を忘れられないアダムとの間はうまくいっていなかった。一方、家の近くに父の右腕を務めるドルフが孫のグレイスと住んでいた。グレイスはアダムを慕っていたが、五年前に黙って家を出たことを今でも怒っている。二十歳になったグレイスは今ではローワン郡一の美人に育ち、男たちの注目を集めていた。

ダニーが自分を呼び戻した理由は何だったのか。なぜ殺されねばならなかったのか。ダニーの死は三週間前にさかのぼるが、その当時、アダムは仕事をやめ家に引き籠もっていてアリバイがない。アダムの視点で一貫しているので、読者は無実を知っているだけにやきもきするが、刑事でないアダムには捜査権はないので、場当たり式に事件を追うしかない。少しずつ隠されてい事情が明らかになり、アダムが疑われた殺人事件とダニーを殺害した犯人にたどり着く。派手などんでん返しはないが、犯罪に至る動機の説明は納得がいく。

作者自身もいうように、これはミステリであるとともに家族の物語である。問題を含んだ家族の在り方に、歪みが生じ、ひいては人の命にかかわる事件へと発展してゆく。すべては過去に起因していて、時は何の解決にもならない。南部という国柄のせいか家族というものに対する比重のかけ方がかなり重い。これで、ジョン・ハートは二作目だが、個人的に相性が悪いのか、今一つ好印象が持てない。それでいて、けっこう読まされるから力量は感じている。あと一作読んでみて評価を定めたい。



『谷崎潤一郎』 池澤夏樹=個人編集日本文学全集

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姓の上に「大」一字を冠して「大谷崎」と称される谷崎潤一郎を一巻本全集に収めるとしたら何をとって何を捨てるべきかはまず迷うところだろう。さすがは池澤夏樹。よりによって『乱菊物語』をトップに持ってくるとは考えたものだ。新聞連載という縛りを逆手にとって、まさに大衆小説のノリで、面白いのは保証付き。そこへもってきて文章がうまい。流れるような語り口調にリズムがあって、読んでいて心地よい。今ならさしづめ辻原登あたりが手掛けそうな小説になっている。

 

室町時代末期、室津に美しい遊女がいた。その女を争って領主と執権の息子が角突き合わす。そこへ、二寸二分四方の函に収められた十六畳吊りの蚊帳という宝物を携えて中国から客がやってくる。かぐや姫の婿選びに倣ったか、それを持ってきた者に身を任すというのだ。海賊に襲われて宝の函は海中に落ちる。誰がそれを手にするか。海龍王と名乗る謎の男やら幻阿彌という幻術使いやら、不敵な輩の活躍、主人の側室探しに京に遣わされた家来二人の駆け引きの面白さにページを繰る手が止まらない。

 

初めて読んだのだが、今までに読んだ谷崎の作品とは全く毛色が違う。アシカと馬を交配させた海鹿馬(あしかうま)という珍奇な怪獣まで登場する。海賊の男がそれに乗って海をゆくところなどまさにマンガだ。と、ここまで来て、まてよ「アシカ馬」?昔何かで読んだような、と思い出した。花田清輝の『室町小説集』巻頭の「『吉野葛』注」がそれだ。

 

なによりわたしは、かれが、誰よりも多く、未完のまま途中でほうり出してしまった小説や、とにかく、まがりなりにも完結しているとはいえ、とりかかったさいに考えていたものとは、およそ似ても似つかない小説を――つまりひとくちにいえば、失敗作を、次々に発表していった大胆さに感心している。(中略)そういえば、その前年にも谷崎潤一郎は、収拾がつかなくなったためか、ばかばかしくなったためか知らないが、「アシカ馬」と称する、アシカと馬との混血である両棲動物の活躍する『乱菊物語』という歴史小説を、新聞連載の途中で打ち切った。

 

 

お分かりの通り、『乱菊物語』は未完の小説である。おそらくは、一大伝記ロマンの主人公になるはずだった海龍王が派手に登場したところで、「前編終わり」。九郎判官似の美剣士の正体は明かされぬまま。これがなぜ未完に終わったか、池澤は佐藤春夫との妻女譲り渡しの一件で、連載どころではなかった、と判断しているが、辻原登説によると、舞台になった島が海賊の島と喧伝されることに抗議して、住民が新聞の不買運動を起こしたことが原因だという。

 

ところで、花田が「とりかかったさいに考えていたものとは、およそ似ても似つかない小説」といっているのが、次に収められている『吉野葛』だ。つまり、この全集は花田のいう「失敗作」を二作まで所収しているわけだ。もっとも、作家の意図がどうあれ、『吉野葛』は失敗作とはいえない。南朝の子孫である自天王を主人公にした小説を書くため、吉野まで足を運び、大台ケ原の山中にまで分け入りながら、最後はそれをあきらめ、友人の母恋の話に終わる、というひとくちには言えないような形の小説である。

 

花田は失敗作と断じている『吉野葛』だが、事前調査で訪れた吉野では着物姿に下駄履きだったらしい。自天王の宮のあったと伝えられている三の公は、入之波温泉のまだ先にあるという。入之波温泉には何度も行ったが、現在でもかなりの山のなかだ。着物に下駄履きで、杣道などたどれるはずもない。おそらくはフィクションであろう。そう考えたら、自天王を主人公にした小説を書く、というのも自前の主題に引き込むための前フリではなかったか。

 

吉野あたりの風物を紹介しながら、風情の残る家並の美しさや柿のうまさを賞味し、紙漉きの労働の厳しさに触れ、歌舞伎の「妹背山女庭訓」や「義経千本桜」、果ては葛の葉の子別れといった伝承を引きながら、次第次第に主題を展開させ、若くして死に別れた母によせる追慕の情という自身に重なる、いわばお得意の主題に収斂させていくテクニックは、誰にでもできるものではない。読者はそれこそ狐につままれたような気持ちで読み終えることになる。

 

そして、それに続く『蘆刈』は、水無瀬を訪れた「わたし」が、船で月見としゃれこんで橋本近くの中州に下り立ち、酒を飲んでいるところへ現れた男の話を聞く、という話。男の話す父と母、そして母の姉である「お遊様」との奇妙な三角関係は『卍』にも似て、いかにも谷崎らしい男と女、女と女の被虐嗜虐の愛の奥深さが極端に句読点の少ないかな書きの文章でつづられている。語り終わった男の姿が見えなくなるあたり夢幻能に似てひときわあわれが深い。

 

なるほど、あまり谷崎を知らない読者を『乱菊物語』でキャッチし、『吉野葛』という変化球で、谷崎ワールドに引き入れ、『蘆刈』でその魔力に痺れさせようというのが、この配列の魂胆だったのだ。そういう点で見ると、なかなかよく考えられている。これで谷崎にハマる読者は少なくないだろう。他に『小野篁妹に恋する事』、『西湖の月』、『厠のいろいろ』の三篇を含む。



『ヌメロ・ゼロ』 ウンベルト・エーコ

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薔薇の名前』で一躍世界中で知られることになったウンベルト・エーコは、今年二月に亡くなったばかり。つまり、これが最後の小説ということになる。博識で知られ、一つの物語の背後に膨大な知識が蔵されていて、それらのサブ・テクストを読み解き、主筋に折りこみながら物語の森と化したテクストを追うことが必要となるため、読むにはそれなりの時間と体力を要した。さすがに、最近は『バウドリーノ』や『プラハの墓地』のように、よりエンタテインメントを意識した作風に変わってきていたが、『ヌメロ・ゼロ』は、さらにその傾向を強め、誰でも楽しく読める小説になっている。

1992年のミラノ。コロンナは、シメイという男にデスクとして雇われ、新しい日刊紙『ドマーニ』の発刊に向け、準備作業に追われていた。出資者はコンメンダトール(イタリアの勲位)・ヴィメルカーテという業界では名を知られた人物。真実を暴く新聞を作りたいというのが表の理由だが、本音は業界の裏話を書くぞ、と脅せば関係者が手を回し、自社株を安く回してくれたり、名士仲間に入れてくれたりするだろう、というのが読みだ。つまり、新聞は日の目を見る前に発刊取りやめになることが予想される。

そこで、シメイは発刊準備から発刊中止に至るまでを小説に書いて売り出すことを思いつく。前評判をあおっておけば、いざ中止となった時の保険になる。自分には本を書く力はないので、ゴーストライターとしてのコロンナの腕を見込んでの抜擢だ。他に六人の記者を雇うが、彼らには本当のことは伏せておき、見本として作る創刊準備号の編集会議を開く。会議の内容がそのまま本になるわけだ。パイロット版の名前がタイトルの『ヌメロ・ゼロ(ゼロ号)』。

ジャーナリズムを舞台に、その内幕を暴くのがエーコの狙いだ。労働騎士勲章を叙勲し、支持者にはイル・カヴァリエーレと呼ばれるベルルスコーニ元首相を髣髴させる、コンメンダトーレが考える新聞だから、左翼やインテリ向けではない。ふだん本など読まない読者が興味を持つような記事の作り方を話し合う毎日の編集会議はぶっちゃけ抱腹絶倒の怒涛の展開。エーコの饒舌が乗り移ったかのように、どの記者もトンデモない話をぶちあげる。それに駄目出しをしてシメイの言うのが…。

新聞の役割は、真実から人々の眼をそらすことだ。重要な事件が起きたときは煽情的な記事を一面に載せ、人々の目に留まらない紙面にその記事を載せる。また、正義の告発をした人物をひそかにつけねらい、彼が公園で何本もタバコを吸って足下に吸い殻を落としているところや、中華料理屋で箸を上手に使って食べているところ、テニス・シューズにエメラルド・グリーンの靴下を履いているところなどを撮影し、それを発表する。そうすると読者はその人物を信用できない人物としてみるようになる等々。

訳者あとがきによれば、靴下の色や中華料理の箸云々のエピソードはエーコ自身の実話だそうだ。語り口調は、いかにもあり得ない話をしているようで、随所に(笑)マークが入りそう。しかし、ことはイタリアに限らない。下っ端のやっている白紙領収書問題はテレビや新聞も採り上げるが、大臣クラスになると、ほとんど採り上げない。それでいて、政府や政権与党に不都合な人物だと、終わった事までほじくり出しては騒ぎ立て、ついには政治的生命を終わらせる。

つまり、裏返しなのだ。不真面目に見えるように書きながら、実は大真面目。それは、もう一つのテーマである「陰謀論」にも当てはまる。編集者仲間のブラッガドーチョは、何かというとコロンナを飲みに誘っては自分がずっと追いかけているネタを延々と話すのがくせである。そのネタというのが、ムッソリーニ替え玉説だ。背後に秘密組織があり、時機を見て南米あたりに隠しておいたムッソリーニを擁し、クーデターを起こそうとしていた、というもの。

現代イタリアに起きた数々のテロ事件や法王の暗殺騒動など、実際にあった事件を列挙しながら、それらすべてに関係するのが、ステイ・ビハインド、CIA、NATO、グラディオ、ロッジP2、マフィア、諜報部、軍上層部、大臣、大統領だと説く。この手の陰謀論は掃いて捨てるほどあり、いちいち本気にしていると頭がくらくらしてくるが、一つ一つの事件を子細に検討していくと不審な点が多く残っているのも事実。それでは、なぜ追及されずに放置されてしまっているのかといえば、我々の記憶が、そうは長持ちしないからだ。

「記憶こそ私たちの魂、記憶を失えば私たちは魂を失う」とエーコは言う。事実、主人公とその周辺の人物は架空だが、話の中に出てくる事件、組織、かかわった人物はすべてイタリア史に残る事実である。エーコは、ともすれば忘れてしまうことを本に書くことで記憶に残そうとしている。ブラッガドーチョの仮説が事実なのか、それともただの妄想なのか、エーコのすることだから、これが本当ですよと力説するはずもなく、真偽については読者が自分で考えるしかない。

どう考えてもおかしい事件が、まともに取り上げられることなくうやむやに終わってしまっている事は今のこの国にいくらもある。正常な判断力をなくしてしまったような国に、ほとんど絶望しかかっている者としては、小説の最後、危険を感じて逃げようとした主人公が恋人の言う、中南米のようにすべてが白日に下にさらされている国ならかえって安全かも、というのに答えて返す言葉が心に響いた。文中のイタリアを日本に入れ替えてみて、そこに何の不都合があるだろう。

イタリアも少しずつ、君の逃亡したいという夢の国になりつつあるんだよ。(略)汚職にはお墨付きがあり、マフィアが堂々と議会に入り、脱税者も政府にあって統治する。(略)良心的な人たちは悪党たちに投票し続けるだろう。(略)あとはどうにでもなれだ。待てばいいだけだ。この国が決定的に第三世界になれば、住みやすいところになるよ。まるでコパカバーナさ。歌にもある。女は女王。女は君主って

 

『終わりなき道』 ジョン・ハート

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まあ、確かに償いや贖いに終わりはないのかもしれないが、ずいぶんと突き放した邦題になったもんだ。原題は<REDEMPTION ROAD>。ここは、あっさりと『贖い(贖罪)への道』と訳した方が、作者が意図した主題に沿っている気がするが、あまりにも露骨すぎるので、より文学的なというか、情緒的な表題を採ったのだろうと推察する。けれども、主人公の父親は牧師であり、彼女は幼いころから厳格な宗教教育を受けてきている。さらに、犯罪現場には教会が使われている。宗教的な意味を持つ単語を使用しているのは、意図してのことだろう。その意は酌まなくてもいいのだろうか。

<redemption>には、買い戻し、質受け、償還、身請け、救済、(キリストによる)(罪の)贖(あがな)い、救い、(約束・義務などの)履行、補償などの意味がある。Wikipediaによると、旧約聖書の「贖い」には

  1. 人手に渡った近親者の財産や土地を買い戻すこと
  2. 身代金を払って奴隷を自由にすること
  3. 家畜や人間の初子を神に捧げる代わりに、生贄を捧げること。犠牲の代償を捧げることで、罪のつぐないをすること。

等の意味があるらしい。この三点ともに小説の主題に深くかかわっているのは明らかで、評者が題名にこだわるのも、それが重要だと思うからである。

主人公が敬愛する警察官エイドリアン・ウォールは、殺人罪で十三年を刑務所で暮らし、小説冒頭で釈放される。主人公のエリザベス(リズ)は少女の頃、レイプされ自殺しようとしたところをエイドリアンによって未然に察知され、結果的に救われる。リズが警官になろうと決めたのはそれがあったからだ。リズはエイドリアンに大きな借りがある。債務の返済を意味する「償還」という表題はリズにとって重い意味を持っている。

冒頭でリズ自身も苦境に立たされている。監禁レイプされていた少女を独りで救助した際、十八発もの銃弾を黒人兄弟の二人に発砲したことが問題になっているのだ。白人警官による黒人への過剰な暴力は喫緊の社会問題である。少女は助かったが、そのためにリズは人に指弾される立場に陥った。これは新約のイエスの贖いの解釈にあてはまる行為といえる。本当は、ここに書けないもっと深い意味があるのだが、ネタばれになるので、これ以上は書けない。

エイドリアンは、刑務所内で生きていく術を教えてくれた同房者のイーライが所長の拷問によって死ぬ前に、ある秘密を聞いている。原題にも<redemption>が共通しているように、『ショーシャンクの空に』(原題:The Shawshank Redemption)によく似た話で、金がからんでいる。エイドリアンは、所長の拷問によく耐えて刑務所を出るが、所長は釈放後も看守に命じて彼を見張らせている。

そんな中で事件が起きる。かつて、エイドリアンが罪に問われた事件と同じ現場、同じ手口で殺人事件が起きる。警察はエイドリアンを疑い、彼を別件で逮捕。リズは何とかエイドリアンを助けようとするが、自身も内部調査中でバッジを取り上げられている。おまけに、どうしたことか頭脳明晰で優秀な警官だったリズは、レイプ事件以後、人が変わったように神経を苛立たせ、集中力を欠いている。相棒のベケットはそんな彼女に忠告するが何を言っても聞く耳を持たない。

エイドリアンの無実を晴らすためには真犯人を突き止めねばならない。しかし、自身が裁判を受ける側になるかもしれないリズは思ったように事件を捜査することができない。信用できそうなのは、ベケットと古参のランドルフくらい。ほとんどの警察官を敵に回しながら孤軍奮闘する女性警官の活躍を描く警察小説のはずだったのに、途中から様子が変わる。

冒頭から字体を変えた文章が挿入されるのは犯人の視点で描かれていることを示している。エイドリアンの釈放を妨害し刑務所に送り返すために行われた殺人なら一度でいいはずなのに、犯人は何度も同じ現場、同じ手口で執拗に女性を殺し続ける。これはもう、サイコパスによる殺人事件だ。疑わしい人間が少なくとも三人読者にも想像できる。ただ、サイコパスはふだんは善良な市民の皮をかぶっているので、手がかりは字体の変わった文章だけだ。

手がかりは与えられているので、鋭い読者なら犯人を当てるのは難しくないかもしれない。評者はまさかこれはないだろう、と思ったが。犯人が分かっても事件は終わらない。例の秘密を追って所長たちが迫ってくるからだ。手に汗を握る展開をしっかり描き切るあたり、この作者の筆力を感じる。ただ、主題である「贖い」を意味づける終わり方は本当にこれでいいのか。刑務所やレイプ事件が人間を変えてしまうこともあるだろうが、エイドリアンもリズも他と比べようがないほど優秀で模範的な警官だったはずだ。意外な犯人のサイコパスへの豹変ぶりとご都合主義的な結末に不満が残った。