青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『虚実妖怪百物語 破』 京極夏彦

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これを読んでいるということは、「序」はもう読み終わっているということだろうか。そうだとしたら、前回までのあらすじは、省いてしまえるのだが。『虚実妖怪百物語 破』は、同じく『虚実妖怪百物語 序』の続きである。完結編『虚実妖怪百物語 急』を結びとする三冊セットの真ん中。さすがに真ん中から読みはじめる人はいないと思うが、もし、わけが分からないようだったら、面倒をかけますが、『虚実妖怪百物語 序』について書いた文章を読んでから、こちらを読んでください。

富士の樹海の中心に空いた孔。地に伏したスーツ姿の男を見下ろしている加藤保憲の前で死者の肉体を借り、邪悪なものがよみがえりつつあった。ヤハウェに邪悪な存在とされ、砂漠の地下深くに封印されていたものを、加藤が掘り出して連れてきたのだ。その邪悪なものが乗り移った死体は仙石原賢三郎という男のもので、都知事となることが決まっていた。加藤は仙石原を手足として使い、妖怪騒ぎを利用して、この国を滅ぼそうとしているのだ。

京極作品おなじみの、直接本編につながらない階層の異なるテクストを挿入するスタイルはここでも踏襲されている。読者は知っているが登場人物は知らない、という物語の構造である。さて、その頃、神田神保町の地下にある料理店薩摩太郎では、京極夏彦をはじめとする妖怪専門誌の関係者が、妖怪バッシングに対する対策を練るため集まっていた。妖怪騒ぎに右往左往する連中相手に京極夏彦が、中禅寺秋彦よろしく憑き物落としをしているところに武装集団が乱入してくる。

その集団、日本の情操を守る会とは、妖怪撲滅を掲げる過激な市民会議で、「妖怪が出現した建物はすべて焼き払い、取り憑かれた人間は捕獲して隔離幽閉、抵抗する者は徹底的に弾圧するという恐ろしい市民団体」である。どこかで聞いたような名前だが、警察も自衛隊も民間組織であるこの団体のやることは見て見ぬふりの高みの見物を決め込んでいるらしく、この日も妖怪シンパの浄化を叫び、地下のアジトを襲撃。レオは早速ぐるぐる巻きにされてしまう。

一方、杉並にある荒俣宏のマンションでは、榎木津平太郎が収蔵品の引っ越し作業に追われていた。荒俣は、例の呼ぶ子の研究に必要な機械類を入れるスペースを確保するために、自他の妖怪関係コレクションを上階にある空き部屋に移動する作業の現場監督に平太郎を雇ったのだ。そこには、妖怪コレクションを持つ博物館の学芸員古書店主の山田老も大量の蒐集品とともに避難してきていた。見かけは古ぼけたマンションだが荒俣は蒐集品保護のため耐火倉庫に改造していた。しかし、ここにも日本の情操を守る会の手が回り、マンションは焼き討ちに合う。

異変は他でも起こっていた。例のしょうけらはファミレスから神奈川にある黒史郎の家についてきたようで、今では黒の頭の上から離れない。しょうけら見物に現れた平山夢明らと話すうち、見る者によってしょうけらの形がちがうことが分かってきた。しょうけらの名と姿を覚えた本がちがっていたのだ。見えている姿を語り合ううち、黒が「い、いやあ、そんなのもうクトゥルーですよね」と口に出してしまった。その途端、頭の上に触手を持った邪神が降臨したではないか。

どうやら、今回各地で見られている妖怪は、人間が概念として抱いている妖怪像が具現化しているもののようだ。それは、見ることも触ることもできるが、質量はない。しかもデジタル変換され、それぞれのデータが集まるデータベースにおいてデータは勝手に改竄されて広まってゆく。その結果ネットにアップされた邪神は次第に禍々しいものに成長し、黒は便所に入ることもままならなくなる。

日本の情操を守る会によって殲滅させられそうになる妖怪の大本である荒俣や京極がどのようにしてピンチを切り抜けるか。ゾンビのようにわらわらと襲い掛かる群衆の手から、貴重な妖怪関係コレクションを守り通すことができるか。レオは『ダイ・ハード』を思い浮かべているが、まさにアクション映画のノリで展開される。なかでも、『帝都物語』にも登場する西村真琴博士が作った日本のロボット第一号、學天則が、再び登場するシーンにはファンのひとりとしてゾクゾクさせられる。

ネタバレにならない程度でやめておくが、ジャイアント・ロボを思わせる學天則の活躍は、この小説中の白眉である。さらに、後に百鬼夜行絵巻と呼ばれることになる絵巻に出てくる付喪神のオン・パレードがある。どこかで見たような、というデジャヴュに襲われたが、既視感ではない。『平成狸合戦ぽんぽこ』に、よく似たシーンがすでに登場していたのだ。ただ、こちらはアニメ風にデフォルメされていない絵巻そのままの姿の3D映像化だ。迫力がちがう、とはいっても脳内変換で図像化したものだが。

京極夏彦荒俣宏その他の世相批判はますます激しくなり、今の世の中がいかに酷いものになっているかが舌鋒鋭く語られる。ほとんどこれが言いたいためにこの小説を書いたのではないかと思うほどだ。以下にいくつか引く。文中の「妖怪」という語を何かに替えても成立することにほとんど恐怖すら覚えるではないか。

「妖怪だけじゃあないですけどね。今や、何から何までいけないでしょう。フザけるのもいけない。くだらないのもいけない。だらしないのもいけない。アニメも漫画もいかん。もちろんエロもグロもダメ。いけないものだらけで、その最底辺が――妖怪です」「だから、その妖怪を叩く連中は、どんだけ過激でも放っておく――ということですね。ホントは警察が妖怪狩りをしたいんだけど、ただ逮捕したって妖怪はどうにもならないし、だからといって流石に警察が殺しちゃう訳にはいかないから、非合法に誰かにそれをさせて、それからそいつを取り締まると、そういうことですか?」

 



さて、「破」の最後では水木大(おお)先生が登場して鬼退治を宣言するが、完結篇である「急」は、加速度的に激しい展開が予想される。今までは冒頭にちょっと顔を出すばかりであった加藤保憲も本編に姿を表すことになるだろうし、いよいよ『妖怪大戦争』の始まりである。待たれよ次巻。

『虚実妖怪百物語 序』 京極夏彦

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のっけから加藤保憲登場ということは『帝都物語』、もしくは『妖怪大戦争』だろう、と見当はつけたものの、このノリの軽さは何だ?まあ、連載されていた雑誌『怪』については全くの無知なので、そこではこういうノリだったのだろうなあ、と推測するしかない。「序」、「破」、「急」の三冊セットで計1900枚ということだが、京極史上最大と銘打っては見ても、句点を打つたびに改行するスカスカの文体では、「百鬼夜行シリーズ」のような読みではない。もともと、そういう読み手を想定していないだろう。

ファンジンのような特定の読者層を意識して書かれたもののように見える。というのも、妖怪、怪談、怪談実話関係のライター、研究者、編集者といった業界人が大挙登場するからだ。京極夏彦がらみでよく登場する水木御大や荒俣宏氏のような超がつく有名人はともかく、ほぼ実名で登場する有名無名の作家、ライターについてはほとんど名前を知らないので、その方面に不案内な読者には面白がりようがない。とはいえ、こうして単行本として出す以上、そういう読者も想定しているのだろう。

そこで、「百鬼夜行シリーズ」など京極作品でおなじみの、想定される読者よりレベルが劣る狂言回し役が必要になる。この作品では妖怪専門誌『怪』のバイトで、あの榎木津を大伯父に持つらしい榎木津平太郎や、逆さに読めば、「バカハオレ」となる、駆け出しライターレオ☆若葉といったいじられキャラがその役目をよく務めている。特にレオのダジャレ尽くしの突っこまれ芸は堂に入ったもので、馬鹿らしいとは思いながらも、ついつい爆笑させられた。

ストーリーは、『妖怪大戦争』のそれで、まずシリア砂漠に加藤保憲らしき人物が目撃されたことを前フリしておき、すぐに話題は現在の日本に移る。水木邸を訪れた平太郎が目にしたのは「妖怪や目に見えないものがニッポンから消えている」と、憤りテーブルを叩く水木しげるの姿だ。妖怪は目に見えない。が、それは確かにいるので、水木のように感度の良い人間には感じられるのだが、それが全然感じられなくなった、というのだ。

しかし、その言葉とは裏腹に、その後、妖怪の可視化がはじまる。まずは、村上健司の取材旅行に同行したレオが信州の廃村で遭遇したのが「呼ぶ子」。山中にいる絣の着物を着た童子で、口真似をする妖怪だ。水木マンガでもおなじみのキャラクターのひとりだがその名前と姿格好には要注意だ。なぜなら、妖怪というのは目には見えないもののはずで、我々が思い込んでいる妖怪の姿は、鳥山石燕水木しげるの描いた絵によって名前とともに記憶されているからだ。

その後、浅草に「一つ目小僧」が現れたり、小説家黒史郎の目の前にあるファミレスの窓ガラスに張り付いた「しょうけら」が見えたり、と妖怪を目撃した話が続出する。新幹線の線路上に「朧(おぼろ)車」が出現したり、会場に海坊主が現れたりすると世情は騒然とし、妖怪関係者は白い目で見られるようになる。もともと、好きな者は別として、妖怪は世の中に必要なものではなかった。人の心に余裕があるうちは、妖怪も大目に見てもらえていたのだが、この頃のように世間が何かといえばギスギスしはじめると、妖怪に目くじらを立てる連中が跋扈しはじめる。妖怪苦難時代の幕開けである。

三冊揃いで完本となる小説の「序」だけ読んで、何かを書くというのも難しいものだ。とはいえ、これであたりをつけて、この後読むかどうか決めようと考える読者もいるだろうから、何とか評の一つも書かねばと考えたのだが、話ははじまったばかりで、これからどうなるか全く見当がつかない。まあ、大騒ぎになるのだろうということ、と妖怪好きには住みにくい世の中になるのだろうということくらいは分かる。というのも、水木大先生のご託宣にある通り、これは、『妖怪大戦争』の姿を借りた世相批判の書らしいからだ。

全部読んだら全然ちがっていたということになるかもしれないが、今のところ、近頃の世の中はどうも変だ、いや、絶対におかしい、このまま黙っていたら大変なことになる、というよりもうかなりヤバいところに来ている、といった危機感が、文章の端々に現れているからだ。同様の危惧は多くの人に共通するものではないだろうか。妖怪でも何でもいい、というと妖怪好きに怒られるかもしれないが、この見えないところで起きている事変に立ち向かえる力が欲しい、というのはこちらも強く願っていることである。「序」は、大勢の登場人物紹介が少々まだるっこしいけれども、これから先の展開に目が離せなくなるだけのインパクトはある。

『ジュリエット』 アリス・マンロー

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ウィリアム・トレヴァー亡き後、未訳の新刊が出れば何を措いても読みたいと思えるのは、もうアリス・マンローのそれしかない。ノーベル賞受賞と邦訳作品が増えたかどうかが関係あるのかどうかは詳らかではないが、無関係とも思えない。そう考えると、ウィリアム・トレヴァーノーベル賞をとれなかったのが心残りである。しかし、まああれほどの作家である。ノーベル賞は関係なく、訳されるべき本は訳されるにちがいない。そう考えておこう。

トレヴァーを引き合いに出したのはほかでもない。どちらも短編の名手であることが理由の一つだが、実はもう一つ。二人の書くものは、決して分かりやすくない、ということである。分かりやすいことが小説の値打ちではない。難解なことで知られるピンチョンやジョイスの作品が、評価を得ていることを考えてみれば分かるように難解さを売りにしている小説もあるからだ。しかし、トレヴァーやアリス・マンローの小説は、そうした難解さを売りにしている小説とはちがう。

カナダやアイルランドという自分が実際によく知る地方を舞台に、そこで、実直に生きる、市井のどこにでもいそうな人々の生活を扱っていて、難解な思想も学術用語も言語実験も出てこない、ごくごくまっとうなリアリズム小説である。それでは、どこが分かりにくいのか、といえば人間そのものである。特別な人ではない。が、人である以上、自分以外の人々とのかかわりがある。そのかかわりを通じて明らかになってくる、人間なら誰でも持つ意志や感情、理性の表出が表層的でなく、尋常ではないほど深い。それが分かりにくさの原因である。

トレヴァーと比べると、アリス・マンローのほうが、より自分自身の経験や過去を創作の基部となるものを汲みあげるための場所にしているように思う。家族、親子、夫婦といったごくごくミニマルな関係性を基本にしながら、角度を変え、立場を超え、何度でも何度でも掘り下げ、新たな側面を見つけ出してくる。その想像力の供給量は無尽蔵とも思えるが、いったいどこからそんなに湧いてくるのだろうか。思うに、自分という存在は、正気を保っている限り、いやでも死ぬまでつきあうしかない唯一の人間だということではないだろうか。

誰であれ、歳をとればとったで、それまでに見えていなかった面が新たに立ち現れてくる。子であった自分が親になるときには、あれほど権威のあった親は半ば呆けているように見える。可愛くてしかたのなかった我が子は、自分のもとを去り、他人以上に距離を置いた価値観の持ち主となっている。この理不尽さ、不条理感をどう処理すればいいのだろう。われわれ、凡人はただただ、それに驚きあきれ、憤り、抗い、悲しみ疲れては、ため息をつくばかりだ。

作家はちがう。自分以外の人物の中に分け入り、その人の視点で事態を眺めることができる。すると、それまで自明のように見えていた自分を取り巻くあれこれが、まったく異なる局面を見せるのだ。人は誰でも自分がかわいい。意志的に抑圧でもしなければ、誰でも自己愛のかたまりである。自身は客観的に分析、理解していると思っていることが、意外にも自己保身や自己弁護のせいで偏った見方になっていたりする。人生は一回きりだが、角度を変えて見てみれば人は同じ人生を何度でも異なった生として生き直すことができる。アリス・マンローを読んでいると、自分にもそんなことが可能になるのではないかという気にさせられる。

短篇集『ジュリエット』は、2004年に刊行されたマンロー七十三歳にして十一冊目の短篇集である。女を描かせて定評のあるスペインの映画監督ペドロ・アルモドバルの近作『ジュリエッタ』の原作となった、三部作の短篇を収めているため、邦題は主人公の名をとり『ジュリエット』とした。ただし、「ジュリエット」という名の短篇はない。素っ気なさの極みのような一単語を表題にした八篇は、原題でも理解可能。これでどうだ、という潔さが際立つ命名だ。原題は<Runaway>(「家出」)。

それに続いて<Chance><Soon><Silence><Passion><Trespasses><Tricks><Powers>。邦題は、「チャンス」「すぐに」「沈黙」「情熱」「罪」「トリック」「パワー」と、これも原題の意を踏襲して簡潔。「チャンス」、「すぐに」、「沈黙」が<ジュリエット三部作>になっている。

大学院生のジュリエットは、臨時職員としてラテン語を教えている。たまたま乗り合わせた長距離列車で起きた事故がきっかけで漁師のエリックと出会う(「チャンス」)。エリックと暮らし始めたジュリエットは二人の間にできた一歳のペネロペを連れて帰郷する。父は教職を辞めて野菜作りを仕事にし、母は床についている。一家の暮らしを取り仕切っているのはアイリーンという娘で、ジュリエットは様変わりした家に違和感を抱いたままエリックの待つ家に帰る(「すぐに」)。

ペネロペがキャンプで留守の晩、ジュリエットと喧嘩をしたエリックは海に出て遭難死する。今は人気キャスターとなったジュリエットは宗教施設に入所中の娘に会うため島を訪ねるが、娘はそこにはいなかった。ペネロペは以後ジュリエットの前から姿を消してしまう(「沈黙」)。理解しあえていたと思っていた父の変化を受け入られず、ジュリエットは母を看取ることもなかった。歳をとったジュリエットは、娘と会うこともかなわずに一人暮らしている。近しいからこそ距離の取り方が難しい親と子の関係を解きほごすには、「女の一生」を三部作で描く、時間のかかる手法が必要だったのだろう。

その他、夫を亡くした女性が、家を手伝ってくれる娘の涙にほだされ、家出に必要な金を貸す。ところが、自由を奪われていたはずの娘は夫の家に帰ってしまう。無事元の鞘に収まるかに見えた物語に残された仄めかしが怖い、マンローらしさの横溢する「家出」。結婚目前の娘の前に突然現れた男は、けがの治療を理由に娘を乗せた車を走らせる。何故か知らないが娘は男の言うがままに。人生を変える一瞬の判断を描いて慄然とさせる「情熱」。

自分の出生の秘密に悩む少女を描いた「罪」。ミステリの常套手段を使って勘違いの生んだ悲喜劇を描く「トリック」。虚栄心のために友人の秘めた力を紹介したことがあだとなり、取り返しのつかない運命を引き寄せてしまう「パワー」、と『ジュリエット』は、アリス・マンローとしてはめずらしく、サスペンスあふれる作品を収めた短篇集である。

歴史(history)は勝ち残った者によって著される。物語(story)も また、生き残った者の眼で見た通り語られるという点で歴史に似ている。そこには、はかなく死んでいった者や不幸にも望みを遂げることなく世に棲む人々の声は響いていない。ジュリエットの一生を眺めれば、彼女の精一杯生きた軌跡は明らかだ。知的好奇心にあふれ、ぶれない生き方を通し、それなりに満ち足りた晩年に至る。

その一方で、わだかまりを抱えたままに死んだ夫、ついに看取ってもらえなかった母、学もない家事手伝いの女性を賛美したことで教養人の座から滑り落ちた父、はジュリエットの前から姿を消した。視点人物の気持ちはわかるが、対象となった人物の気持ちは分からない。だから、下手な作家は次々と視点人物を取り換え、すべての人物の気持ちを描こうとする。アリス・マンローのすごいところは、これらの人の気持ちをあえて書かないことだ。

トレヴァーもそうなのだが、あえて書かないことで、かえって分かることがある。過去を回想する視点の多用は、今は死者となった人物からの声なき声を聴くことだからだ。知的好奇心を武器に、がむしゃらに生きてきた主人公は、自身に執することで他者を顧みず、残余の部分として切り捨ててきた。晩年の孤独は自業自得である。知的に秀でるあまり、身近な幸せを逸した人間のさみしさ、という主題は作家自身の年齢を思い合わせ、感慨深いものがある。

『アリバイ・アイク』 リング・ラードナー

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話芸というものがある。早い話が噺家の語る落語のようなものだ。面白いにはちがいないが、そんなものは小説ではない、という声が聞こえてきそうだ。小説のどこがそんなに偉いのかは知らないが、なんとなくただ面白い話や、法螺話を喜んで聞く文化というのが、一昔前はあったが、とんと最近では聞かなくなった。もちろん、寄席に足を運べば、今でも聞くことができる。そうではなくて、床屋だの、湯屋だの、人が集まってくる場所で、「まあ、お聞きよ」と口を開く、話し上手と呼ばれる人がめっきり減ったってことだ。

近頃では、本を読むということさえ稀になったらしいから、世に珍しい話や奇人変人の噂話は、ネット上に流れる何文字かの文章で処理されることになるのだろう。まあ、時の流れには逆らえない。それはそれとして、一昔前の与太話や法螺話を、一応そういうもんだとのみ込みながら、いいじゃあないか、急ぐわけでもないんだから、ここはひとつゆっくり聞いてやろうじゃないか、という聴く側の料簡が狭くなったから、話し上手も腕を揮えないってことがある。

逆に言えば、そういう気持ちでかかるなら、何も目の前に話し上手を連れてこなくっても事はすむ。圓朝に口演筆記があったように、語り口調のうまさをペンに乗せて書くことのできる作家というのがいる。マーク・トウェインなんかがその代表だが、このリング・ラードナーもその一人。なにしろ、一人語りで最初から最後まで語りっぱなし、というスタイルの小説が何篇もある。さすがに、そればっかりというわけにもいかないから、話し手を替えてみたり、会話を多用したりするが、語りが主体であることは変わらない。

ジャーナリスト出身で、自身を作家だと認識していたかどうかも怪しいところだ。売文業というと何だか賤しく響くが、腕さえあればどれだけでも書いて売ることができるわけで、いっそ潔いくらいのものだ。そのかわりと言っちゃあ何だが、話の面白さとオチのつけ方、それと語り口調のうまさは外せない条件だ。いわゆる名人芸というやつ。リング・ラードナーの短篇を読んでいると、読書をしているというより、めっぽう話し上手な男のごく近くにいて、語り聞かせてもらっているような気になってくる。

スポーツ・ライター出身ということもあって、野球選手の話、ボクシング・チャンピオンの話に精彩がある。タイトルになっている「アリバイ・アイク」もその一つ。どんな選手でも撃ちそこなったり取り損ねたりしたときは、言い訳はつきものだ。ところが、アリバイ・アイクに至っては、ファイン・プレイをした時も、とんでもない打率を挙げたときも、一言言訳(アリバイ)を呟かなくっては終わらない、というのだから厄介だ。

打っても、取ってもうまいので、アイクのおかげでチームは優勝候補に。ところが、そんなアイクに彼女ができる。婚約したことを仲間に話すとき、ついいつもの癖で言い訳めいたことを口にする。それを聞いていた彼女はアイクに腹を立て婚約を解消して帰ってしまう。意気消沈したアイクは全く打てずチームは苦境に陥る。彼女を取り戻すためにチームメイトが立てた策とは?なんにでも一言言訳をしないではいられない男という設定がいい。プライドが高過ぎるのか、うまくやった時でさえ、本当はもっとできるのだが、と言いたいのだ。どこかにいそうな困ったさんではないか。

逆に、こんなに酷い男はいない、と思わせるのが「チャンピオン」の主人公、ミッジ・ケリーだ。極悪非道にして冷酷無比。四字熟語のオン・パレードでしか形容できないワルのチャンピオン。しかもめったやたらと強い。あれよあれよという間にチャンピオンの座に上りつめながら、故郷で待つ家族や妻子に金は一銭も送らないという無慈悲さ。この悪党を取材しに来た記者にマネージャーが話して聞かせる美談は全くの嘘ばかり。それが記事として成立していることを皮肉る視線がミッジに負けず冷徹で、ラードナーがただのユーモア作家ではないことを証している。

金婚式を迎えた老夫婦が、避寒地に長期滞在するうちに起きたあれこれを夫の一人語りで聴かせる「金婚旅行」も、辛口のペーソスが効いていて後口に苦い味わいが残る一篇。人あしらいがうまく、交通違反を犯した違反者にも嫌な気をさせないでさばくので有名な交通巡査が、飛びっきりの笑顔の持ち主ながら、無免許で暴走を繰り返す女性ドライバーと顔を合わすのを楽しみにしている「微笑がいっぱい」は、「おもしろうてやがて悲しき」を地でいった話。

「散髪の間に」は床屋が語って聞かせる地元の人気者ジムの話。どこがおもしろいのか、というほどはた迷惑で、自分勝手な男なのに、床屋に集まる男たちには面白がられているジムは、少し頭の弱い少年をからかったり、騙したりしては仲間受けをねらっていた。ある時ジムは、ハンサムな医者に片思いをした娘のことが好きになり、医者の声色を使って誘い出し、笑い物にする。そのジムが鴨猟の最中銃の暴発に合う。ラードナーにはめずらしく読後スッキリする話。

ラードナーは、おそらく人間が好きでたまらなかったにちがいない。ところが、その人間ときたら、いつも善意にあふれたり、公正であったりばかりはしない。人前では立派な姿を見せていても、一歩裏に回れば真実の姿は醜かったり悲しかったりするものだ。その両面を兼ね備えているのが人間というもの。その真実の姿を、めったに世に出ない珍しい材料を準備したり、ありふれた素材にはピリッとした香辛料を効かせて目先を変えてみせたりして、存分に腕を揮って見せたのが彼の短篇小説だ。口に合うかどうかは客しだい。さて、あなたのお気に召すかどうか?

『第三帝国』 ロベルト・ボラーニョ

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物騒なタイトルだと思ったら、ボード・ゲームの名前だった。ウォー・ゲームというから、やはりナチス・ドイツがらみであることに変わりはない。主人公ウドは、ボード・ゲームのドイツ・チャンピオン。会社で働く傍ら雑誌にゲーム評などを書いている。次回のイヴェントでは、「第三帝国」というウォー・ゲームのヴァリアントについて報告するべく、現在検討の真っ最中のはずなのだが、なぜか彼女のインゲボルクとカタルーニャ地方の海辺のホテルに滞在中。

夏のヴァカンス・シーズンのこと、ホテルはドイツやフランスからの避暑客でにぎわっていた。「僕」は、隣のホテルに宿泊中のチャーリーとハンナのカップルと知り合う。四人は連れ立って、ビーチに行ったり夜はディスコに繰り出したりして遊ぶ。チャーリーは地元の若者<狼>と<仔羊>とも仲良くなり、行きがかり上行動を共にするものの、「僕」はゲームのことが気になり、仲間から外れホテルに留まることが多くなる。ホテル経営者の妻フラウ・エルゼは、まだ少年だったころから憧れの美しい女性で、「僕」は彼女のことが忘れられなかった。

ヨーロッパからの避暑客でにぎわうスペインの海浜ホテルを舞台とするひと夏のヴァカンスもの。若い男女と年上の美しい人妻との三角関係の恋の行方を追うものかと思われたのだが、そこはボラーニョ。遺稿の中にあった初期長篇とはいえ、そんなラブ・ロマンスであろうはずはない。視点人物の「僕」が、一人ホテルに残ってフラウ・エルゼの気を引こうとはかない試みに現をぬかしている間に、バルセローナに出かけた一行は酒癖の悪いチャーリーがトラブルを起こしていた。

物書きを目指す「僕」は、せっかくビーチに来ても、インゲボルクをビーチに残してホテルにこもりがちな、今でいうゲームオタク。彼女との関係は次第にうすれ、フラウ・エルゼとはキスを交わす仲に。ハンナに暴力をふるったチャーリーは、ひとりウィンド・サーフィンをしているうちに姿を消してしまう。捜索隊によってサーフボードは発見されるがチャーリーは見つからない。ハンナは恋人の死が信じられず、帰国してしまう。「僕」はインゲボルクだけ先に帰し、自分はチャーリーが発見されるまでホテルに残る。

うっすらと死の影が漂い出したところで前半は終わる。九月に入り、ホテルから避暑客の姿が消えてゆく。ビーチにも町のレストランにも閑古鳥が鳴き、「僕」はドイツ人の自分が周囲から憎まれているのでは、という思いを抱くようになる。というのも、彼がホテルで特別に用意してもらったテーブルに広げたウォー・ゲームは、夏の避暑地には不似合いな代物で、客室係の女からは「あなた、ナチなの?」と訊かれるくらい目立っていたのだ。

チャーリーの遺体が発見されるまでの無聊を慰めるため、「僕」はビーチで貸ボート業をやっている<火傷>という男に「第三帝国」のゲームを教え、相手をさせることを思いつく。仕事を終え、夜になるとやってくる<火傷>には、仇名の通り、顔から胸にかけて醜い火傷の跡が大きく残っている。ネルーダやバジェホの詩を愛する<火傷>は南米生まれのようで、ひょっとするとその火傷は拷問のせいかも知れなかった。

チャーリーは死体で発見されるが、「僕」はホテルを去ろうとしない。フラウ・エルゼの夫の病は重く、彼女をものにするチャンスだからだ。暇つぶしに始めたゲームだったが<火傷>はゲームの腕を上げ、今や勝敗は予断を許さない。しかも、夜のビーチで<火傷>にゲームをコーチしている男はフラウ・エルゼの夫のようだ。女を争う男二人は、代理人を立てて賭け試合を行っていたことになる。ホテル経営者は「僕」に、<火傷>には気をつけよ、と脅しの言葉を口にする。「僕」はゲームをドイツ側で闘っていた。<火傷>にとって、ドイツの勝利だけは許せないことだというのだ。

昼間の現実の恋愛ゲームの進行ともつれあうように、夜のホテルの一室で、<火傷>と「僕」による第二次世界大戦における連合国側とドイツ軍との戦いが並行して進行してゆく。昼の恋愛ゲームは、「僕」のほうに分があるようだが、夜のウォー・ゲームのほうは、今や敗色が濃い。刻々と戦況が不利に傾く中、もし、このゲームに敗れたら、「僕」は<火傷>にどんな目に合わされるのか、という恐怖が徐々に募ってゆく。この辺のサスペンスの盛り上げは、読んでいてドキドキさせられる。

ついこの間も、アイドルがナチの軍服によく似たユニホームを着ていることが海外で問題になったばかりだが、たかが歌手の衣装くらいに目くじらを立てるなんて、という考え方は、ことナチス・ドイツについては通用しない。この小説でも、初めは愛好者といっても限られているウォー・ゲームのことだから、「僕」は少しも気にしていないが、夏が逝き、秋が訪れるころになると、ヨーロッパからの避暑客がすっかり去った海浜ホテルや町の人からの視線を気にするようになる。

ホテル従業員から慕われるフラウ・エルゼに横恋慕するドイツ人であり、トラブル・メーカーの死に関係した人物で、ウォー・ゲームでドイツ軍を率いるプレイヤーでもある「僕」は、望まれない客なのだ。自分は何もしていないつもりが、周囲からは邪魔者であり、闖入者であり、平穏な日常を脅かす不穏な人物となり果てる。世界は自分が考えているほど単純でも寛容でもない。周囲に自分と同質な群衆がたむろしている間はそれが感じられないだけで、保護色となっていた色彩が消えてしまえば、自分本来の色は周囲のそれから浮き上がって見える。単一民族だと思い込まされ、島国に暮らす日本人には分かりづらい感覚かも知れない。

一部はタイプ化されていたものの、後半部分は手書き原稿のまま残されていたというから、これが決定稿かどうか分からない。結末にはまだ手が入った可能性は残る。とはいえ、これはこれで完結している。才能に自信を持ちながらも、未来を扱いかねている若きクリエイターの鬱勃とした思いと年上の美しい女性に寄せる思慕とをみずみずしい筆致で描く一方で、世に隠れた悪に向けられた冷徹な視線の存在を仄めかす、その目配りは後の傑作を予言している。一人称限定視点による日記の体裁をとり、時系列に則ったシンプルな記述は平明で読み易い。ボラーニョ入門にふさわしい一冊といえよう。

『能・狂言/説教節/曽根崎心中/女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/義経千本桜/仮名手本忠臣蔵』 池澤夏樹=個人編集日本文学全集10

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我が家から五十メートルばかし行ったところに「口の芝居跡」という碑が立っている。その昔、京・大阪の芝居小屋にかける前、全国から伊勢参りに来る旅人目当てに、ここで演じて評判が良ければ大受けまちがいなしとして、試演される芝居小屋だったと聞く。有名な歌舞伎役者もこの芝居小屋の舞台に立ったこともあって、古市は歌舞伎とは縁が深い。『伊勢音頭恋寝刃』の舞台となった油屋跡では町の若い衆によって小屋掛けの地芝居も演じられた。父は坂東庄雀という名を持つ立女形で、「伊勢音頭」ならお紺、七段目ならお軽というのが役どころだった。

芸事の好きな人も多かったのだろう、歌舞伎衣装や大道具小道具を扱う道具方や浄瑠璃義太夫を語る人もいなければ幕は開かない。ほんの子どもの頃、父に手を引かれて夜道を歩き一軒の家を訪れたことがある。小さい頃のことで、覚えているのは老人が何か唸っていた記憶があるだけだ。浄瑠璃義太夫か、どこぞのご隠居の趣味につき合わされたわけだが、おぼろげに首実検の話だったと記憶しているのは、幼心に気味悪かったからだろうか。

そんなこともあって、小さい頃から父につき合ってテレビの歌舞伎番組を見るようになった。地方公演があれば劇場にも足を運んだが、『仮名手本忠臣蔵』なら七段目、『義経千本桜』なら鮨屋、『菅原伝授手習鑑』なら寺子屋と、限られた場面しか目にすることができないのが常。有名な場面ばかりをぶつ切れで見せられても、今一つよく分からないのが歌舞伎のお約束、吉野下市の鮨屋の弥助、実は平維盛、といわれても何のことやら。

もともとは通し狂言で演じられてきた演目が、見た目の美しさや、歌舞伎らしいスペクタクル性、人情の機微に触れる口説き場面の有無などから、ひんぱんに演じられる場面とそうでない場面の差が生じ、現在ではいくつかの場面に限って上演される形態が普通になった。国立劇場などでは、現在でも通し狂言がかけられることもある。ただし、全部見ようと思えば一日がかりの観劇になるので、見る方にもそれなりの覚悟が必要になる。

ところが、この巻では人気の高い『仮名手本忠臣蔵』、『義経千本桜』、『菅原伝授手習鑑』の浄瑠璃を初めから終わりまで通して読むことができる。それも人気作家による現代語訳で。何というありがたい企画だろう。通して読めば、吉野の鮨屋が平家の跡継ぎという設定も、それなりにではあるがのみ込むことができる。なにしろ、維盛だけではない。知盛も能登守教経も、実は死んでおらず、生きて潜伏していたという設定なのだ。この辺のいい加減さというかアヴァンギャルドさが歌舞伎(浄瑠璃)ならでは。SFでいうパラレルワールドである。

橋本治がその著『浄瑠璃を読もう』のなかで『仮名手本忠臣蔵』を論じ、お軽という腰の軽い女と、それにすっかり夢中の勘平という若侍の、時と場所をわきまえぬオフィスラブが原因で起きた悲劇と説いている。本を読んだとき、それが今一つよく分からなかったのだが、今回『仮名手本忠臣蔵』を通して読んで、初めてその言わんとするところがよく分かった。

年末になると、テレビでもよく取り上げられる忠臣蔵だが、忠義の臣が主人の恨みを晴らすため、艱難辛苦に耐え、晴れて仇討に成功するという、日本人大好きのストーリーは、小説、映画をはじめ、講談や浪曲などのサイドストーリーを入れてふくらませたもので、『仮名手本忠臣蔵』そのものは、まったくの別物。お軽、勘平、加古川本蔵の娘小浪と大星力弥、天河屋義平とその妻園らの男女の愛が物語の中心になっている。吉良邸ならぬ高師直邸内への討ち入りなどもあっさりとしたもの。

討ち入りの合言葉といえば、「山」「川」だが、実は天河屋の義に感じ入った由良之介が「天」と「河」にしたところ、後世誤ってと伝えられたとか。地名尽くしやら、掛けことば、地口、洒落、かなり際どい性的なくすぐりも入れた浄瑠璃は語り物。それを読み物として読むのは、目からウロコの体験だった。儒教倫理にからめて、あたかも忠義がメインテーマのように持ち上げられがちな忠臣蔵も、浄瑠璃で読んでみると、その内実はもっとおおらかで、猥雑さすら感じさせるエンタテインメント性に溢れている。また、そうでなくては町人に喜ばれるわけもなかったろう。

義経千本桜』も、「鮨屋」や「寺子屋」では、自分の妻や子の首を切り、主人の身代わりとする場面にばかり目を止めがちだが、空気の読めない弁慶のキレッキレの暴れっぷりに義経主従が閉口する場面や、渡海屋銀平実は平知盛や横川の覚範実は能登守教経の胸のすくような奮闘ぶりがふんだんに用意されていて、明暗のバランスもよく考えられている。

浄瑠璃は他に『曽根崎心中』と『女殺油地獄』を含む。特に後者における主人公与兵衛の描き方は、義理や忠孝といった観念的な倫理観に縛られた当時の浄瑠璃に登場する模範的人物像とは異なり、どうしようもない大阪商人の次男坊を描いて、駄目人間のかなしさをこれでもかとばかりに追求している点で瞠目に値する。真面目に生きようと思ってもそれができない与兵衛のような男は、現代でもそのままで通用しそうだ。人間観察のリアルさが半端ない。

他に能、狂言、説教節を収録する。説教節『かるかや』は、これも小さい頃、高野山の土産にもらった『石堂丸』の絵本を思い出し、当時の切ない気持ちが改めて胸に迫った。大衆に仏教を信心することの大切さを宣伝する目的があっての説教節だが、突然、道心を発した父親のせいで、妻や子の一生が左右される、その理不尽さ。まさに宗教とは阿片だ。伊藤比呂美の訳も出色の出来。文学というと書かれたものにばかり目が行きがちだが、こうして語り芸に光を当ててみたとき、日本文学の底流を成すものとして、その果たしてきた役割の大きさを改めて感じる。

『わかっていただけますかねえ』 ジム・シェパード

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このタイトルはどうだろう?謙遜しているようでいて、とにかく自分はこう書いた、あとは貴方が理解できるかどうかだ、と言われているみたいで、ちょっと書き手である自分の責任を丸投げされたような気がする。表紙はテレシコワその人と思える微妙な笑顔を浮かべたソ連の女性宇宙飛行士のアップ写真。その上にこのタイトルをのっけると、シニカルなジョークが売りの短篇集の趣きだ。ところがどっこい。読んだ印象は全くちがう。まるで、ノンフィクション。秘境探検の過酷な毎日を日記の体裁で記録した「最初のオーストラリア中南部探検隊」の圧倒的な迫力はどうだ。羊頭狗肉ならぬ狗頭羊肉。まずは、その違和感に頭をガツンとやられる。

「事実は小説より奇なり」というのは、『ドン・ジュアン』のなかにある<Fact is stranger than fiction>からきているらしいが、へたな小説家がない知恵をひねり出した凡百の奇想より、世界のどこかに埋もれている生の史実のほうが、よっぽどおもしろい、というような意味でもあろうか。いくら珍しくても多くの人が目にした事実は既知なわけで、あまり奇とは思ってもらえない。その意味では、埋もれた事実を拾い上げる眼力と、それを読物に仕上げる筆力が必要となる。

<Like You’d Understand, Anyway>という原題には、「とにかく(私は)材料を見つけて、ここまで加工してみました。あとは、貴方流に理解してください」というようなニュアンスが感じられる。「述べて作らず」というほどではないが(というより多分に作っている)それをそれと感じさせないところに、この作家の力量があるのではないか。ノンフィクションに似ていると感じるのは、そのせいだ。

「ヤー・チャイカ」は、当時「私はカモメ」と訳された。ロシア人が「かもめ」といえば、チェーホフを思い出すのはロシア文学好きの日本人の悪弊で、実はテレシコワが無線を使うときのコールサインが「カモメ」だったというだけのこと。ちなみにランデヴー相手のボストーク5号に搭乗していた飛行士のほうは「タカ」だったという。このタカとカモメ、文字通り宇宙空間でのランデヴーを楽しみにしていたという暴露風味の短篇が「エロス7」。

女性初の宇宙飛行士、テレシコワはソ連だけでなく世界中で人気者となったが、その爽やかな笑顔とは裏腹になかなかしたたかな女性であった、というのがジム・シェパードの見立てらしい。おそらく残された記録から組み立てられたのだろうが、選ばれるまでは優等生的発言で競争相手を出し抜き、大気圏を抜け出して宇宙に飛び出してしまった後は、あらかじめ決められていたミッションは無視して、その体験を満喫していたという、ロシアの田舎娘らしいふてぶてしいまでの人物像の造形が見事である(事実は、一種の宇宙酔いでパニック症状を起こしていたらしい)。

巻頭に置かれた「ゼロメートル・ダイビングチーム」は、チェルノブイリ原発事故を扱う。主人公は、原子力エネルギー局の技術主任で、弟はチェルノブイリ原子力発電所四号炉を担当するタービン上級技術者。1986年4月26日の夜は勤務中だった。兄弟のもう一人の弟はその近くの川で釣りをしていたところを事故に巻き込まれる。作家が固執する兄弟という主題と原発事故をからませ、ノンフィクション風に仕上げた一篇。制御できない力を前にした人間の無力さを描いて秀逸。

ミハイルが死んだ一週間後、僕は父に対して、手紙を書いた。僕は父に対して、他人の人道的怒りを引き合いに出してみせた。あの大惨事を引き起こした底知れない自己満足と自賛を、腐敗と保護主義を、頑迷さと私利的な特権を非難する切り抜きを、父にタイプした。置き去りになっているバックホーの側面に書かれているのを見た落書きを、父にタイプした。一部の者たちの怠惰と無能を他の者たちの愛国心で隠すべきではない、と。僕はそれをもう一度タイプした。「一部の者たちの怠惰と無能を他の者たちの愛国心で隠すべきではない」誰が書いたのであれ、僕など及びもつかないほど雄弁だった。僕は自分に宛てて書いていた。父からは、自分自身から貰ったほどの返信は貰わなかった。

津波の凄さを、これでもかといった筆致で描き切り、まるで大画面でハリウッドの特撮映画を見せられているような気にさせられる「リツヤ湾のレジャーボート・クルージング」も鮮烈だ。しかし、この小説の凄さはそこだけにあるのではない。一度その洗礼を浴びた人間を一生捉えて離さないトラウマの深さを描いている点こそが賞賛に値する。心身ともに激しく愛している妻の、もう一人子どもが欲しいという希望を理解しながら、独断でパイプカット手術の日付を決めてくる主人公の孤独の深さが読む者の心をつかまえて離さない。

実体験を踏まえているのだろう、男兄弟の関係を主題に置くことが多いジム・シェパードだが、時代や地理を遠く離れた地点にとった作品が多い中、まるで等身大の少年時代を描いたのではないかと思わせる「初心者のための礼儀作法」が読ませる。アメリカの小説や映画によく出てくる、子どもたちだけが参加するサマー・キャンプの今まで書かれたことのない実態を克明に描き出している。

大人ではなく年上の少年が指導者となるため、目も当てられないような陰惨ないじめが横行するサマー・キャンプの実態を、自身も経験者であったはずの父親が知らぬわけもなかろうに、毎年子どもを預け、自分たちはヨーロッパに出かけてしまう。教育的配慮の美名のもとに、いじめ体験が成長のためのステップとして黙認されてるマッチョなアメリカ白人社会の闇を白日の下に引きずり出し、その闇に放り込まれた主人公と障碍のある弟の美談ではない心の交流を描く。施設に送られてしまう弟に、適切な言葉をかけてやれなかったことを悔いる兄の心情が胸に迫る。

膨大な資料の山を博捜したのであろう緻密な作業の上に、いきいきとした想像力が生身の人間を生み出す。「俺のアイスキュロス」や「ハドリアヌス帝の長城」は、ギリシア・ローマの時代をまるで直接生きているかのような気にさせる。あたかもその時代の人物が憑依したかのような迫真の記述に尋常ならざる作家の筆力を見せつけれる。「作家のための作家」と称されるジム・シェパードの実力が遺憾なく発揮された短篇集である。