『ジュリエット』 アリス・マンロー
ウィリアム・トレヴァー亡き後、未訳の新刊が出れば何を措いても読みたいと思えるのは、もうアリス・マンローのそれしかない。ノーベル賞受賞と邦訳作品が増えたかどうかが関係あるのかどうかは詳らかではないが、無関係とも思えない。そう考えると、ウィリアム・トレヴァーがノーベル賞をとれなかったのが心残りである。しかし、まああれほどの作家である。ノーベル賞は関係なく、訳されるべき本は訳されるにちがいない。そう考えておこう。
トレヴァーを引き合いに出したのはほかでもない。どちらも短編の名手であることが理由の一つだが、実はもう一つ。二人の書くものは、決して分かりやすくない、ということである。分かりやすいことが小説の値打ちではない。難解なことで知られるピンチョンやジョイスの作品が、評価を得ていることを考えてみれば分かるように難解さを売りにしている小説もあるからだ。しかし、トレヴァーやアリス・マンローの小説は、そうした難解さを売りにしている小説とはちがう。
カナダやアイルランドという自分が実際によく知る地方を舞台に、そこで、実直に生きる、市井のどこにでもいそうな人々の生活を扱っていて、難解な思想も学術用語も言語実験も出てこない、ごくごくまっとうなリアリズム小説である。それでは、どこが分かりにくいのか、といえば人間そのものである。特別な人ではない。が、人である以上、自分以外の人々とのかかわりがある。そのかかわりを通じて明らかになってくる、人間なら誰でも持つ意志や感情、理性の表出が表層的でなく、尋常ではないほど深い。それが分かりにくさの原因である。
トレヴァーと比べると、アリス・マンローのほうが、より自分自身の経験や過去を創作の基部となるものを汲みあげるための場所にしているように思う。家族、親子、夫婦といったごくごくミニマルな関係性を基本にしながら、角度を変え、立場を超え、何度でも何度でも掘り下げ、新たな側面を見つけ出してくる。その想像力の供給量は無尽蔵とも思えるが、いったいどこからそんなに湧いてくるのだろうか。思うに、自分という存在は、正気を保っている限り、いやでも死ぬまでつきあうしかない唯一の人間だということではないだろうか。
誰であれ、歳をとればとったで、それまでに見えていなかった面が新たに立ち現れてくる。子であった自分が親になるときには、あれほど権威のあった親は半ば呆けているように見える。可愛くてしかたのなかった我が子は、自分のもとを去り、他人以上に距離を置いた価値観の持ち主となっている。この理不尽さ、不条理感をどう処理すればいいのだろう。われわれ、凡人はただただ、それに驚きあきれ、憤り、抗い、悲しみ疲れては、ため息をつくばかりだ。
作家はちがう。自分以外の人物の中に分け入り、その人の視点で事態を眺めることができる。すると、それまで自明のように見えていた自分を取り巻くあれこれが、まったく異なる局面を見せるのだ。人は誰でも自分がかわいい。意志的に抑圧でもしなければ、誰でも自己愛のかたまりである。自身は客観的に分析、理解していると思っていることが、意外にも自己保身や自己弁護のせいで偏った見方になっていたりする。人生は一回きりだが、角度を変えて見てみれば人は同じ人生を何度でも異なった生として生き直すことができる。アリス・マンローを読んでいると、自分にもそんなことが可能になるのではないかという気にさせられる。
短篇集『ジュリエット』は、2004年に刊行されたマンロー七十三歳にして十一冊目の短篇集である。女を描かせて定評のあるスペインの映画監督ペドロ・アルモドバルの近作『ジュリエッタ』の原作となった、三部作の短篇を収めているため、邦題は主人公の名をとり『ジュリエット』とした。ただし、「ジュリエット」という名の短篇はない。素っ気なさの極みのような一単語を表題にした八篇は、原題でも理解可能。これでどうだ、という潔さが際立つ命名だ。原題は<Runaway>(「家出」)。
それに続いて<Chance><Soon><Silence><Passion><Trespasses><Tricks><Powers>。邦題は、「チャンス」「すぐに」「沈黙」「情熱」「罪」「トリック」「パワー」と、これも原題の意を踏襲して簡潔。「チャンス」、「すぐに」、「沈黙」が<ジュリエット三部作>になっている。
大学院生のジュリエットは、臨時職員としてラテン語を教えている。たまたま乗り合わせた長距離列車で起きた事故がきっかけで漁師のエリックと出会う(「チャンス」)。エリックと暮らし始めたジュリエットは二人の間にできた一歳のペネロペを連れて帰郷する。父は教職を辞めて野菜作りを仕事にし、母は床についている。一家の暮らしを取り仕切っているのはアイリーンという娘で、ジュリエットは様変わりした家に違和感を抱いたままエリックの待つ家に帰る(「すぐに」)。
ペネロペがキャンプで留守の晩、ジュリエットと喧嘩をしたエリックは海に出て遭難死する。今は人気キャスターとなったジュリエットは宗教施設に入所中の娘に会うため島を訪ねるが、娘はそこにはいなかった。ペネロペは以後ジュリエットの前から姿を消してしまう(「沈黙」)。理解しあえていたと思っていた父の変化を受け入られず、ジュリエットは母を看取ることもなかった。歳をとったジュリエットは、娘と会うこともかなわずに一人暮らしている。近しいからこそ距離の取り方が難しい親と子の関係を解きほごすには、「女の一生」を三部作で描く、時間のかかる手法が必要だったのだろう。
その他、夫を亡くした女性が、家を手伝ってくれる娘の涙にほだされ、家出に必要な金を貸す。ところが、自由を奪われていたはずの娘は夫の家に帰ってしまう。無事元の鞘に収まるかに見えた物語に残された仄めかしが怖い、マンローらしさの横溢する「家出」。結婚目前の娘の前に突然現れた男は、けがの治療を理由に娘を乗せた車を走らせる。何故か知らないが娘は男の言うがままに。人生を変える一瞬の判断を描いて慄然とさせる「情熱」。
自分の出生の秘密に悩む少女を描いた「罪」。ミステリの常套手段を使って勘違いの生んだ悲喜劇を描く「トリック」。虚栄心のために友人の秘めた力を紹介したことがあだとなり、取り返しのつかない運命を引き寄せてしまう「パワー」、と『ジュリエット』は、アリス・マンローとしてはめずらしく、サスペンスあふれる作品を収めた短篇集である。
歴史(history)は勝ち残った者によって著される。物語(story)も また、生き残った者の眼で見た通り語られるという点で歴史に似ている。そこには、はかなく死んでいった者や不幸にも望みを遂げることなく世に棲む人々の声は響いていない。ジュリエットの一生を眺めれば、彼女の精一杯生きた軌跡は明らかだ。知的好奇心にあふれ、ぶれない生き方を通し、それなりに満ち足りた晩年に至る。
その一方で、わだかまりを抱えたままに死んだ夫、ついに看取ってもらえなかった母、学もない家事手伝いの女性を賛美したことで教養人の座から滑り落ちた父、はジュリエットの前から姿を消した。視点人物の気持ちはわかるが、対象となった人物の気持ちは分からない。だから、下手な作家は次々と視点人物を取り換え、すべての人物の気持ちを描こうとする。アリス・マンローのすごいところは、これらの人の気持ちをあえて書かないことだ。
トレヴァーもそうなのだが、あえて書かないことで、かえって分かることがある。過去を回想する視点の多用は、今は死者となった人物からの声なき声を聴くことだからだ。知的好奇心を武器に、がむしゃらに生きてきた主人公は、自身に執することで他者を顧みず、残余の部分として切り捨ててきた。晩年の孤独は自業自得である。知的に秀でるあまり、身近な幸せを逸した人間のさみしさ、という主題は作家自身の年齢を思い合わせ、感慨深いものがある。