青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『平家物語』 池澤夏樹=個人編集 日本文学全集09

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こういっては何だが、本人の書いた源氏物語を材にとった小説『女たち三百人の裏切りの書』より面白かった。現代語訳とはいっても、本来語り物である『平家物語』を、カギ括弧でくくった会話を使用し、小説のように書き直したそれは、もはや別物だ。加筆した部分に作家自身の小説作法が顕わで、いかにも小説家らしい訳しぶりであることが評価の別れるところかもしれない。が、そのおかげで、この大部の物語を読み通せるのだから、ありがたいと思わないわけにはいかないだろう。

読み通した人は少ないだろうが、誰でも中学や高校の教科書でその一部は読んだことがあるはず。冒頭部分の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」を暗記している人も多いだろう。那須与一の「扇の的」や、義仲の死を描く「木曽最期」など、授業で教わったことを今でも覚えている。また、歌舞伎にも『熊谷陣屋』、『平家女護島』など、熊谷次郎直実や俊寛僧都といった『平家物語』に登場する人物にスポットを当てた芝居も多い。

そうした有名な合戦の様子や武士たちの戦いぶりばかりが目に留まりがちだが、冒頭部分にあるように、『平家物語』は、諸行無常、盛者必衰といった仏教的無常観にどっぷり浸かった物語だ。また、祇王、祇女と仏御前の悲話からはじまり、後白河法王が草深い大原の里に建礼門院を訪ねる「大原御幸」で終わる、そのことからもわかるように、戦いに明け暮れる男たちだけでなく、その陰で夫や子、孫、想い人と別れなければならない女たちの物語でもある。

もちろん、「平家にあらずんば人にあらず」とまで言わせた栄耀栄華の暮らしから、清盛の死を契機に凋落、源氏の旗揚げにより、西国に落ち延び、壇ノ浦で滅びるまで平家一門の姿を追った部分が主たる筋となる。それを太い幹としつつ、幾つもの挿話が枝分かれし、時には本邦を遠く離れ、中国にまでおよぶ。項羽と劉邦、蘇武に李陵、玄奘三蔵まで登場するにぎやかさだ。おそらく、琵琶法師によって語り継がれてゆくうちに、増殖していったものでもあろうが、その雑多な物語群の入れ子状態にこそ『平家物語』の魅力があるように思われる。

数多く登場する武士や公達のなかでも特筆すべきは、頭領である平清盛ではなく、嫡子重盛。清盛が尋常ではない悪人として一目置かれながらも、高熱を発しての有り得ない死の有様を見ても分かるように、どこかカリカチュアライズされて描かれているのに対し、重盛の方は、その学識、物腰、人に対する配慮、朝廷を敬う態度、とどれをとっても申し分のない人物として最大級の扱いを受けている。平家の凋落は、重盛が神意によって病を得て、父より先に死ぬことがその遠因となっている。

しかし、聖人君子のような重盛では物語の主人公はつとまらない。そこで、登場するのが朝日将軍木曽義仲や九郎判官義経といった武人たちだ。現役バリバリの小説家による現代語訳最大の成果は、人物造形の力強さにある。特に義仲は、奔放なエネルギーを持て余す豪傑として出色の出来。「だぜい」を語尾につけるところは、どこかの芸人みたいだが、都流の雅など知らぬと言いたいばかりの無礼千万な振る舞いは、いっそ小気味よく、墨をたっぷり含ませた太筆で一気に描き切ったといった感じ。剛毅であって、稚気溢れる人物像が粟津の松原での最期のあわれをいっそう搔き立てる。

それに比べると、反っ歯で小男という外見もそうだが、奇手奇策を用いて相手の隙を突く戦法を得意とする義経は、あまり英雄豪傑らしくない。搦め手の大将という位置にありながら、功名手柄を独り占めしたがり、配下の梶原平蔵相手に先陣争いをしてやり込められるなど、梶原の言う通り将たる者の器量ではない。扇の的を射た後、船上で舞い踊る人物を必要もないのに射させるなど残虐なところもある。性狷介固陋にして子飼いの者にしか心許すことがない。後に先陣を許されなかったことを恨みに思う梶原の讒訴により兄との仲を割かれるが、あながち梶原ばかりが悪くはないと思わせる人物として描かれている。

意外に思うのは、重盛をはじめとする当時の政治家たちが自分の国をどう見ていたかという点である。幼帝の践祚や還俗しての重祚など、何かというと中国の先例を引いて、その正当性を確かめようとするところに、中華文明圏の一員としての自覚を見ることができる。自分の国は粟粒ほどのちっぽけな島であるという言葉さえ見られる。また、自分の置かれた状況を図るのに、『史記』にある蘇武や李陵の例を引くなど、中国文化をモデルにして生きていたことをうかがわせる。自分の国の小さいことや歴史の浅さをよく知り、中華文明を生きていく上での規範としていた訳だ。

多くの作者によって語られた物語群の統合としてある『平家物語』。そのなかに、何人かは知らないが、世界を俯瞰できる眼の持ち主がいたのだろう。今でこそ『平家物語』は軍記物の古典である。しかし、当時これだけのものを書こうと思えば、中国古典に習うしかない。そして、そのなかに仏教的無常観を招じ入れ、独特の語り物文学をつくり上げた。訳者は、そこに諸国放浪の琵琶法師はもとより、皇族、公家や武士、多くの女人たちの声を聴きとり、ポリフォニックな語りの文体を採用した。かなりの長さだが、単調になることなく最後まで面白く読み通すことができたのは、その工夫によること大である。古川本で『平家物語』を読んだ、という人が増えることはまちがいない。

『マカロンはマカロン』 近藤史恵

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『タルト・タタンの夢』、『ヴァン・ショーをあなたに』に次ぐシリーズ第三弾。商店街の中にある小さなビストロを舞台に、訳あり客の持ち込んだトラブルや悩みをシェフが解決するアームチェア・ディテクティブ・ミステリ連作短篇集である。店の名前はビストロ・パ・マル。スタッフは四人。フランスの田舎で料理修業をしてきた長髪に無精ひげの料理長三舟。スーシェフの志村。紅一点のソムリエ金子、それに狂言回しをつとめるギャルソンの「僕」(高築)の四人。カウンター席七つに、椅子席五つの店は小さいながら、いつも予約で埋まる人気店だ。

シリーズの人気を支えるのは、一つは料理。パリの有名店ではなく、フランスの地方を回り、郷土色豊かな各地の味を自分のものにしてきた三舟の出す料理は、気取らないが美味。さりげなく語られる蘊蓄も楽しく、それがミステリに付き物の謎を解く探偵術となっている。今回もアルザスの名物鍋や、フレンチ・アルプス地方のパンに隠された秘密が、人と人との心を結ぶ役割を果たす。どこから仕入れてくるのかは企業秘密だろうが、よく次から次へとこんなネタを見つけてくるものだ。また、その料理の仕方がにくい。ビストロもそうだが、リピーターはそこの味を楽しみに足を運ぶ。材料は目新しくとも、いつもの味でないと満足できない。

ほとんど厨房から出ることのない三舟は、カウンター越しに客の漏らすふとした言葉や、ホールで高築と客のかわす何気ない会話から、客の抱える悩みや問題をつかんでしまう。その場所から離れることなく持ち前の知識に論理的な推理力を働かせて謎を解く。椅子にこそ腰かけていないが、典型的なアームチェア・ディテクティブ(肘掛け椅子探偵)ではないか。スーシェフの志村もまた、鋭い観察眼の持ち主で、シェフの片腕をつとめる。三舟(船)と志村といえば映画『酔いどれ天使』以来黒澤組の名コンビ。阿吽の呼吸で謎解きにかかる手際は料理を捌くときと同じだ。

メニューに似せた意匠で供される料理は八品。いずれも、仕込みから力の入った逸品ぞろいだ。一品目は「コウノトリが運ぶもの」。コウノトリの絵柄の鍋が、いつの間にか離れたままになっていた父と娘の思いをつなぐ。フランス各地を渡り歩いた三舟ならではの郷土料理の知識と鋭い推理力が相俟って、かたくなだった乳製品アレルギーを持つ、かつてのパン職人の心を解きほぐす。事件解決の後の一言がしみじみと胸に響く名品。

自分の店を火遊びのアリバイ作りに使われた三舟が、いつになく厳しく客に接する「青い果実のタルト」。偏食がちの少年と新しい父になる男を結びつけるのに一役買ったのは、バレルいっぱいのフライド・チキンだった。いつまでも少年の心を失わない生物教師が少年の知的好奇心に火をつけた「共犯のピエ・ド・コション」。ヨーロッパ由来であれば豚の血のソーセージを食べるくせに、アジア人が食べる「四川火鍋」は野蛮だと感じる日本人の差別意識を突いた「追憶のブーダンノワール」。ここでも三舟の客を思う一言が人が心に立てる壁をこわす働きをする。

蝶ネクタイに口ひげの紳士、ムッシュ・パピヨンこと西田が目にとめたのは姉妹店のブーランジェリが試作したブリオッシュ・サン・ジュニ。アーモンドのプラリーヌの入ったブリオッシュで、フレンチ・アルプス地方のパン屋ではよく見かけるもの。イタリア、トリノで研修中に知り合った女性が別れるときに渡してくれたのがそれだった。その人を忘れることができず、再度訪ねたときは死んだと聞かされていたが、ブリオッシュ・サン・ジュニには、ある伝説があった。伝説に込められたメッセージを三舟が解き明かす「ムッシュ・パピヨンに伝言を」も泣かせる。

突然姿を消したパティシエールの残した「マカロンはマカロン」という言葉から、「彼女」の胸中を察した三舟は、昔なじみのレストランのオーナーに語りかける。男性優位の料理界で女性がやっていくことの難しさをサブ・プロットに生かした今日風の問題を追った表題作。友人のふりをして、相手を罠にかけたのか、と生肉を調理して出す料理店ならではの危機感を追求した「タルタルステーキの罠」。不穏な雰囲気がいつもとはちがった味わいを湛える。意表を突いた解決が鮮やか。

最後の一品は、めずらしく後味にほろ苦いものが残る一篇。人に喜んでもらいたいという一心が、かえって相手の心を傷つけていることがある。人間関係の難しさを題材にした「ヴィンテージワインと友情」は、ワインの持ち込みを扱ったレストランでの振る舞い入門にもなる一篇。飲みきったワイン・ボトルの底に澱のようなものが残る話だが、そこは近藤史恵。最後に救いの残る結末にしている。

出てくる料理がどれも美味しそうで、近くにビストロがあればすぐにでも飛んでいきたくなる。なかでも、スペシャリテの豚や鶏のレバーを使った田舎風パテは、きっと大好物。カリカリに焼いたバゲットに塗って食べれば絶対うまいにちがいない。赤ワインを飲みながら、それだけでもいいくらい。この本は、お腹が空いているときに読んではいけない。いわゆるフード・テロになりかねない。食事を済ませて、ゆっくりした気分で味わいたいもの。

『博物館の裏庭で』 ケイト・アトキンソン

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イングランド北部に位置する古都ヨーク。時は1951年。今しも、一人の女の子が母親の子宮に着床しようとしている。ユーモアたっぷりに語るのは、なんとその産まれてくる赤ん坊で名前はルビー。母親はバンティという家事に追われる主婦。父親ジョージは一階でペット屋を営んでいるが、店番を妻にまかせては、しょっちゅう家をあけている。肉屋のウォルターと飲んでいるというのだが、女好きでバンティにも色目を使うウォルターといっしょでは、何をしていることやら。そのせいもあって、この夫婦の仲は険悪。産まれてくるルビーも気が気でない。

同郷の大先輩である、スターンの『トリストラム・シャンディ』に敬意を表してか、有名な書き出しに倣って語りだされた物語は、ルビー・レノックスという女の子の半生を、時間の順序に従って物語る自伝だ。一方、各章の後につけた「補注」では、ルビーの母バンティ、祖母のネル、曾祖母のアリス、と女系一族四代の歴史を、こちらは時間順ではなく出来事に沿って紹介する。こうすることで、二つの大戦をはさんだ時代、一族を襲った運命の悲喜劇を、枝を張り巡らし葉を生い茂らせた家系図を織り上げた綴れ織りのごとき、一大叙事詩としてみせる。

そうはいっても、『戦争と平和』とはちがって、そこは庶民。大舞踏会も名誉をかけた戦いも用意されはしない。戦場に出た男たちは、突然の砲弾に吹っ飛ばされたり、死の予感にさいなまれながら生きのびたり、とロマンティックなところなどまるでない。人はやたらとあっけなく死ぬ。そのとことん非情な筆致がかえって印象的なほど。あたかも、死など人間のあずかり知らぬことであるかのようで、主人公の姉のジリアンはクリスマス・イブの夜、車に轢かれて死ぬし、父のジョージは結婚式の披露宴の最中、ウェイトレスの上に負いかぶさって腹上死する始末。

ファルス(笑劇)のような大騒ぎのドタバタがレノックス一家の休暇旅行や結婚式にはついて回るが、その底に家族の秘密が隠されている。夢遊病に悩むルビーには長姉のパトリシア、次姉のジリアンという二人の姉がいる。ルビーはしっかり者のパトリシアは信じられるが、美人だが意地悪なジリアンは信じない。母親はなぜか、子どもたちに厳しくあたる。バンティが家出した休暇旅行では、ジョージは愛人のドリーンに子どもたちの面倒を見させ、一人家で店番をするなど、家族の仲はバラバラだ。

英国には「どの家の戸棚のなかにも骸骨が隠されている」ということわざがある。どうやらその骸骨が悪さをしているようなのだが、語りを任されているルビーはそれを知らない(ことになっている)ので、冒頭から、なんか変だ、どこか引っかかるといったところが度々顔を出す。それは、作者による仄めかしであって、信用できない語り手であるルビーとともに、読者は最後までつき合うことでしか、その秘密を知ることはできない仕掛けになっている。もっとも、注意深い読者なら冒頭に記された一族の系図を見るだけで分かるようになっている。この辺りは、実にフェアでミステリ通の読者なら骸骨の正体を見破れるかもしれない。

ただし、物語を読む楽しみは単なる謎解き興味にあるわけではない。四代の女主人公それぞれの女としての生き方に焦点をあててみるとき、「間違いの人生」というテーマがそこに宿っていることがわかる。戦争や病気その他によって、男たちは女の前から姿を消してしまう時代。愛した男は戦場から帰って来ず、女はあてがいぶちの男で我慢するしかなかった。また、その男たちがどれもこれも仕方がない奴ばかりで、女を手に入れるまではそれなりの男に見せていても、自分のものにしたら、賭け事狂いだったり、飲んだくれだったり、女に手を挙げる男だったり、と化けの皮が剥げる。

女がそんな人生が間違いだと知って、逃げ出したり、不倫に走ったりすれば、そこにはまた別の苦しみが待っていた。四代の女の人生は、「間違いの人生」という一点で重なる。特に、主人公ルビーと、その母バンティの二人の人生は、二人が共有する「秘密」によって、決定的にボタンを掛け違えたまま時が過ぎる。その二人を見守る位置にありながら、利発で自意識の強いパトリシアは、母親を挑発し、自分に似て賢くなりつつある妹を横目に見やりながら、60年代を自立した女性へと駆け抜けて行ってしまう。

エリザベス二世の戴冠式からフォークランド紛争に至るまでの英国を背景にしながら、当時流行した音楽や映画、文学をためらいを見せずにたっぷりと引用したところが楽しい。因みに、パトリシアが夢中になる対象はエルヴィスからビートルズに移り、ローリング・ストーンズに変化するが、最後は仏教徒として禅の瞑想に耽るようになる。その間、ルビーは、『失われた時を求めて』をはじめ文学書を読み漁り、自分の葬式には、レナード・コーエンテレンス・スタンプマリア・カラスが参列する夢を見る。同時代を生きた者としてはニヤリとしたくなるセレクトである。

系図上に登場する多くの人物と、周縁の知人を含めると信じられないくらい多くの人名が登場する。しかも、ゆかりの名前をもらった同名異人も少なくないので、一読して理解するのは難しいかもしれない。しかし、よく読んでいくと、とんでもないところで既知の人物ゆかりの人物とめぐりあったりするので、あっさり読み飛ばすのは惜しい。昔、「一粒で二度おいしい」というキャラメルのコピーがあったが、一冊の本も再読することで、読書の楽しみが倍加することがある。これはその種の本である。

個人的には、ペット・ショップの火事を生き抜いたラッグズ(ボロ布)という名の犬と、ハンドラーであるジャックを慕って、戦場を飛び交う砲弾の間を搔い潜り、最後に被弾してしまうベップの運命が胸を打った。傷ついて塹壕に戻れなくなった犬を救いに飛び出し、自分の命をちぢめてしまうジャックと、バンティに動物愛護協会送りにされそうになったラッグズをすんでのところでポケット・マネーで買い戻したパトリシアに共感した。あまり本を読んで泣くことはないが、ここのところでは鼻がツーンとなった。本作はサルマン・ラシュディらを抑え95年、栄えあるウィットブレッド賞を受賞した作者初の長篇である。

『日本近現代史入門』 広瀬 隆

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2017年、年が改まって早々、坂本龍馬が暗殺される五日前に書いた手紙が発見された。福井藩の重臣に宛てた手紙で、謹慎中の三岡八郎(後の由利公正)を「新国家」の財政担当者として出仕させることをせかす内容である。竜馬が明治政府を「新国家」と評していることが新発見なのだが、その財政担当を薩長の武士ではなく、福井藩士にさせようとしているところが興味深い。由利は後にその任に当たり、新紙幣発行に関わることになるが、これにはどんな子細があるのだろうか。

話は簡単だ。維新の志士たちは、みな下級の貧乏侍で、その鬱憤晴らしに幕府相手に戦争を仕掛けたわけで、長崎のグラバーら武器商人によって新式の銃砲を手に入れたことにより、鳥羽・伏見の戦いに勝った。しかし、新政府の顔ぶれを見渡しても貧乏公家やら侍ばかりで財務の要職にあった人間は一人もいない。頼みとする幕府側の有能な勘定奉行であった小栗上野介はすでに亡い。そこで、松平春嶽が家臣の由利公正に資金調達を命じた。これを請けたのが三井であり、ここから財閥と明治政府との深い関係がはじまるのである。

と書いてくるとなんだか、近現代日本史にずいぶん詳しいようだが、これは全部広瀬隆著『日本近現代史入門―黒い人脈と血脈』の受け売りである。広瀬隆といえば、原発が本当に安全なら、なぜ東京に作らないのか、と突きつけた『東京に原発を!』や、ジョン・ウェインスティーヴ・マックィーンといった西部劇役者の相次ぐガン死は、当時の西部劇の撮影地が核実験場に近接していたことによる、と見抜いた『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』で知られる。原発事故の恐ろしさを訴えた『危険な話』は話題になり、「朝まで生テレビ」にも出演した。

芦浜原発反対を唱えるグループが氏を講師に呼んだ集会で直接話を聞いたことがある。そのときの話では、これからはコジェネレーションの時代。もう原発の時代ではないだろう、というものだった。幸いなことに芦浜は作られることがなかったが、福島第一原発の事故が、氏の危機感の正当性を裏打ちしたのは皮肉なことであった。その後、ロスチャイルド家の門閥についてメスを入れた『赤い楯』などを書いていたが、ここに来て、現在の政治状況に危うさを感じ、この本を書いた。一つは危機感からであり、今一つは若い人が反政府行動に立ち上がったことに力を得たためでもあるようだ。

題名は歴史の入門書のようだが、内容は副題の「黒い人脈と金脈」の方が当を得ている。私たち日本人が学校で教えられてきた近現代史は、いわば建前の歴史で、本音の歴史の方は表立って語られることがなかった。それはそうだろう。いくらなんでも、この本に書かれているように財閥が政治家を動かし、政治家は資産家や皇族、華族と婚姻関係を繰り返して、複雑にして密な閨閥を作り上げる。当初軍とは距離を置いていた財閥も、財政危機で国民が窮乏し、テロが横行し始めると、今度は軍人との間に閥を作り上げ、保身を図るとともに軍閥を利用して戦争を起こし、兵器産業でぼろもうけを図る、などということを、関係者があからさまにするわけがない。

政治家に限らず、世評を操る者たちは、ヒストリー(歴史)ではなくストーリー(物語)をつくりあげることに血道をあげる。小説や映画が歴史を作るのだ。広瀬隆司馬遼太郎の『坂の上の雲』をはじめとする「日清、日露戦までの日本人は良かった」という所謂司馬史観が特に気に入らないようだ。これを読めば分かることだが、そこに断絶はない。戦争によって金を儲け、儲けた金をまた軍備につぎ込むという動きは、むしろ連綿と続いている。財閥と軍閥によるこの動きが朝鮮の植民地化や満州国建設、大東亜戦争へとレールを敷いたのは誰の目にもはっきりしている。

少し前、明治維新についての映画を政府主導で作るというニュースが飛び込んできたが、これなどもその一つ。政府によるプロパガンダ映画製作という発表に思わずナチスを思い浮かべてしまったが、現政権ほど露骨に自分たちが戦後日本の継承者ではなく、明治維新を成し遂げた長州閥の系譜にあることを表明する政権は過去になかった。彼らにとっては、(審らかではない)ポツダム宣言も、東京裁判も、日本国憲法も、一時の気の迷いのようなものなのだろう。

なぜ財閥がここまで力を持つに至ったかといえば、下級武士が名を連ねた明治政府には財政能力にたけた人間がいなかった、というバカみたいに単純な答えが待っていた。NHK大河ドラマの『花燃ゆ』を思い出した。なるほど、松下村塾に集った連中よりは、同じNHKの『龍馬伝』における岩崎弥太郎三菱財閥創始者)の方が、よほど金については詳しかろうと思わされる。

その松下村塾で塾生を指導した吉田松陰イデオロギーが朝鮮や満州への侵略の道筋をつけたというのが広瀬の論旨だが、そういわれてみれば、なぜ産業遺産でもない松下村塾が安倍政権下で「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の名で世界遺産入りを果たしたのかという訳もわかってくる。もっとも、その多くが明治ではなく、江戸時代にできているのが皮肉だが。

身も蓋もない話の連続で、正直開いた口が塞がらないが、これはこれで一つの歴史なのだろう。視点を変えるだけで、これだけのことが見えてくる。資料に当たって論を組み立てるのが持ち味の広瀬隆の本には図表がつきものなのだが、松方正義福沢諭吉をはじめ全財閥の閨閥のリストだけでも参照する価値がある。なかでも、「長州のアジア侵略者が明治維新以来組み上げた閨閥」がすごい。もちろん最後に来るのが安倍晋三であることは言うまでもない。

「入門」とあるように、誰でも読める読み物になっている。特に、幕末から明治にかけてのところが面白い。福沢諭吉渋沢栄一がどのようにして財閥を作り上げていったかが活写されている。朝鮮・満州・アジア侵略の歴史も教科書では教えてくれない事実が記されていて貴重だ。日本国憲法がアメリカの押しつけであったかどうかも、丁寧に解説されている。ただ、時代が現代に近づいてくると公害問題など、既知の事実との差が小さくなるのは仕方のないところか。歴史上の人物の実態暴露が読ませる。吉田茂はもちろんだが、GHQに物申した男として持ち上げられることの多い白州次郎も、広瀬の手にかかると滅多切りである。

一般大衆の側に視点を置いて見れば、日本の近現代史はこう見える、というのが本書の意図するところだろう。一読後はレファレンス資料として、お茶の間(死語か?)の一角に常備されるとよい。ドラマなどに登場する有名人は、必ずどこかの閨閥に引っかかっている。それを眺めながらドラマを見るのも一興。学校図書館にも是非推薦したい。歴史好きの子には、教科書で教えられる歴史の格好の解毒剤になることだろう。

 

 

 

 

『神よ、あの子を守りたまえ』 ト二・モリスン

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少年期に負ったトラウマが、その後の人生を送る上で、人にどれだけの影響を与えるものか。登場人物のそれぞれが皆、過去に傷を負っている。傷を負いながらも、たくましく生きるタフな女性もいる。主人公の親友ブルックリンや、旅先で出会った少女レインのように。また深く傷つきながらも、そこから恢復し再生する者もいる。ただ、負った傷がトラウマになるほどの深い傷である場合、本人の意志だけではどうにもならない場合がある。主人公とその恋人の場合がまさにそれだ。

主人公はカリフォルニアの小さな化粧品会社で働く漆黒の肌をした魅力的なブライド。バリバリのキャリア・ウーマンで、今は次のキャンペーンのアイデアを練っているところ。ただ、六カ月の間うまくいっていた恋人が、昨日口げんかした後、出ていったまま帰らないことに思いがけず動揺している。よく考えれば、住まいも生活費も全部自分が面倒を見ていたブッカーのことを何も知らなかった。知っているのは、唇と肩にある傷痕を除けば、ほれぼれするほどのいい男ということくらいだ。

けんかのきっかけはブライドが小さい頃アパートの大家が児童虐待をしていた場面を目撃した話。母親に口止めされて黙っていたことをブッカーが責めたのだ。ブライドは真っ黒に生まれたが、母は白人で通るほどの色白。人種差別が激しい時代、黒人と分かれば差別を受ける。その大家は黒人の母子をかろうじて受け入れてくれていた。母親は黒い娘と距離をとっていた。ブライドは、物心ついて以来、母に手をつないでもらったことがない。母親の関心を引くためなら何でもした。たとえそれがよくないことでも。

小さい子どもに対する虐待が、この小説の核となっている。直接間接の被害者がそれによって受ける心的外傷(トラウマ)のために苦しむ。防衛機制のために退行現象を引き起こしたり、過剰に攻撃的になって他者を許せなくなったり、人によって出方は様々だが、自分ではどうしようもない。周りにいる人間には、当人の陥っている状況がのみ込めず、ちぐはぐな対応が余計にことを難しくする。

自分の過去を清算するためにとった行動が思わぬ結果を呼び、傷ついたブライドは仕事を親友のブルックリンに任せ、ブッカーの行方を追う。なぜ、「おまえは、おれのほしい女じゃない」という捨てぜりふを残してブッカーは去ったのか?荷物の中には本が残されていた。ファッション雑誌しか読まないブライドにとって、ブッカーはいったい何だったのか。ブッカーを探す旅が自分探しの旅に重なっていく。愛車の灰色のジャガーを駆ってアメリカの中西部を走るブライドの旅がロード・ムービーのように展開する。物語が動き出すここからが非常に魅力的だ。

旅の途中、自動車事故を起こして骨折したブライドを助けた中年ヒッピー夫婦と、その夫婦に拾われたホームレス少女との出会いがブライドを少しずつ変えてゆく。ブッカーは唯一心を許しているクィーンという叔母のところにいた。ブッカーの人となりが少しずつ明らかになるにつれ、彼の抱え込んでいたものの重さが分かってくる。人は一人で生きていくことはできない。いい時も悪い時も人は人と出会って、傷つけたり、傷ついたりするものだ。また、その逆に救ったり、救われたりもする。この小説は、人と人とのめぐり逢いの物語でもある。

視点人物が替わるたびに、今まで見えていた事態がひっくり返り、隠されていたことが明らかになる。しかも、章立てが短く、転換が目まぐるしい。ブライドの母親スウィートネス、ブルックリン、ブライドの告発によって囚人となったソフィア、少女レイン、と視点人物をつとめるどの女性も個性的で魅力的だ。そして、最後に登場する何人もの男と結婚し離婚した過去を持つクィーンという赤毛の女性が二人を結びつける運命的な役割を果たす。

人種問題や児童虐待といった話題を扱っているため、読んでいて辛いところもあるが、切れのある文章は生き生きとして力強い。使われている比喩は清新で、登場人物の心理とシンクロした情景描写は生気に満ちている。表題は、ほぼ原題(GOD HELP THE CHILD)通り。主人公の母親が、離れて暮らす娘のことを思って口にする言葉だ。人の親となることの悦びとおそれを思うとき、キリスト者ではない自分のような者にも共感できる祈りの言葉である。

ミステリではないが、物語の発端におけるブライドの刑務所訪問には不可思議性があり、中盤のブッカーを探す旅には、親友によるポスト簒奪の危険や人里外れた場所での事故といったサスペンスが潜んでいる。意外な結末といえるかどうか微妙だが、ブライドの行動の謎は最後には解決される。その意味では、美男美女のこじれた関係の謎を解く、ミステリ的要素を持った恋愛小説といってもいいかもしれない。

1993年にアフリカン・アメリカンの女性として初のノーベル文学賞を受賞したトニ・モリスンの長篇十一作目。一時期、ノーベル文学賞などに、たいして意味はないと思っていたこともあったけれど、アリス・マンローをはじめ、受賞をきっかけに読むことになった作家には、素晴らしい書き手がいることに気づかされた。もちろん、トニ・モリスンもその一人。今まで読んでこなかったことが悔やまれるほどに。

『ウインドアイ』 ブライアン・エヴンソン

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全二十五編の短篇集。いちばん短いものは二ページに満たない掌編。確かに短いが、それだけに恐怖感が煮凝り状に凝縮され、飴色をした琥珀の薄明りの中に蟻ならぬ恐怖の本体が閉じ込められている。エヴンソンの物語は、突然訳も知らされずに絶望的な状態の中に放り込まれ、やむを得ずそれを受けいれるところからはじまり、首まで使って身動きがとれなくなったところで、ぷっつりと切れる。読者は、終りが近づくことを怖じ恐れながらも、物語が終焉を迎えることで恐怖から解放される時を待つしかない。短篇という狭小空間にグロテスクのアラベスクを敷詰めるその手法はE・A・ポオの末裔と呼ばれるにふさわしい。

「ダップルグリム」は、馬に魅入られた若い男の逃れられない宿命を描いている点で、本家ポオのデビュー作「メッツェンガーシュタイン」を思い起こさせる。ポオのそれはドイツ・ゴシック小説の意匠を借りて、タペストリーに織り込まれた運命の馬が招く悲劇を描く。エヴンソンは、シャルル・ペローの『長靴をはいた猫』を下敷きに、末の弟に遺産として遺された仔馬が破格の出世を招き寄せる話を書いている。ペローの猫を馬に替えたわけだ。後にダップル(まだらの)グリム(陰惨)と呼ばれることになる黒いまだらのある灰色の仔馬である。

初めて見たときからその馬の人を射すくめるような瞳に見つめられると、「私」は、私の中から引っ張り出され、我を忘れて周りにいるものを殺しまわる。気がつけば「私」は血まみれで死体の中に立っているのだ。「私」が血を浴びれば浴びるほど、馬は大きくなる。馬のおかげで力を得た「私」は、遂には王の位置にまで駆け上がる。主人公の意志で王になるのではない。猫が、馬が、王にさせるのだ。所詮、王とて誰かの操り人形に過ぎないという寓話か。陰惨な話を抑制のきいた文体で記した一篇。

エヴンソンのすごさは、一様に恐怖を描きながらも、変幻自在なそのスタイルにある。古潭もあれば、SFもある。たとえば、語り手が「あなた」に物語る寓話で始まる「無数」。列車に片腕をもがれたはずの男が目覚めると腕がある。手術によって高性能の義肢を与えられていたのだ。義肢を作った技師には、自殺した統合失調症の弟がいた。「自分の身体を、複数の人間が支配権を争う一種の乗り物だと感じる」のはどういうものか、と考えた技師は、義肢の各関節に超小型脳を組み込む。初めはよかったが、腕自体が考えはじめると、男は腕の暴走に悩み眠れなくなる。

切断された腕のほうにはまた別の話がある。「想像を超えた何かを一瞬垣間見て、その後また以前の暮らしに戻らねばならない人間は何をするものだろう」というのがそのテーマだ。話を聞いている「あなた」の置かれている状態が判明すると、これまで語られていた寓話が、実は恐ろしい意味を持つものであったことが分かる。自分を構成しているのは一人ではなく、無数の人ではないか、というのは、片腕や弟といった自分の一部と感じているものが消える、という故知らぬ喪失感とともに、エヴンソンの強迫観念の一つらしく、集中に何度も登場する。

モルダウ事件」は、タイトルからも想像がつくミステリ風の一篇。複数の報告者による報告書を入れ子状に配した階層性を持つ物語である。ストラットンという金持ち階級の男が、妻と子ども二人を鉈状の刃物で斬殺し、肉と骨の断片を部屋中にまき散らした後シャワーを浴び、留守の間に家族が惨殺されたと警察に電話をする。警察は男を疑うものの弁護士への電話を許可する。ストラットンが電話したのが、報告者ハービソンの勤務する組織である。

ハービソンとストラットンは旧知の仲、というより、前者は後者に恋人を盗られた過去を持つ。しかし、相手はそれを知らない。組織は警察権力に介入することが可能らしい。ハービソンが釈放させたストラットンをどうするかはお察しの通り。ストラットンの失踪を受けて、今度はモルダウが、今やハービソン事件と呼ばれることになった事件を担当する。モルダウとハービソンの二つの報告書の存在が、地下室でこれから起きるであろうことを示唆する、追う者が追われる、監視する者が監視される、「ミイラ捕りがミイラに」という、どこかポール・オースターを連想させるサスペンスフルな一篇。

ポオのようなミステリも書けそうなエヴンソンだが、何故推理小説を書かないのか、その理由を論じたのが、遠く離れた二箇所にある二つの死体が互いに殺し合ったことを示す不可解な事件を描いた「知」だ。ミシェル・フーコー張りの言説をそこら中に点綴して、一つの事件の解決が不能であることを証明してみせる。そして、次のように不遜な言葉を書きつける。

推理小説というジャンルは、ひとつの認識体系にしか属さない。知ることは真実を明るみに出すことであり、知をめぐってほかの考え方を導入しようとしても、つねにジャンルに変調をきたす結果しか招かない。我々としてはせいぜい、ある犯罪が解決不能と見なされ、何も知られず理解もされない地点に行きつくことが望めるのみである――周りの世界を理解する上で自分の認識体系がまったく無力であるにもかかわらず、その認識体系に探偵が頑固に、執拗にしがみつく状態に。/だからこそ私は、私の推理小説をいまだに書いていないのである。

フーコー的な言葉を使って「知」の言説を書いてみるという一種のパスティーシュだろうが、結論部分は、もしオーギュスト・デュパンがこれを読んだら驚くだろう、「推理小説時代遅れ」論である。推理小説も愉しむ者としては、たとえ、ひとつの認識体系にすがる懐古趣味の持ち主とよばれようとも、いっこうに構いはしないが、アメリカではもう推理小説というジャンルは過去の遺物なのだろうか。それとも、これはまだ書かれていない、新しい推理小説についての、「ポオの末裔」からの挑戦状なのだろうか?

以前一度は手に取ってはみたものの、読まずにすませた『遁走状態』に、再挑戦したくなる出来映えの第二作(邦訳)である。

『素晴らしいアメリカ野球』 フィリップ・ロス

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このタイトル、丸谷才一の提案によるらしい。でも、どうなんだろう。確かに、内容は野球の話だけど、原題は<The Great American Novel>。そのまま訳せば、『偉大なるアメリカ小説』となる。こちらのほうもちょっと首をかしげたくなるタイトルだけれど、偉大なもの好きなアメリカ人は、小説だって偉大なものが欲しいんだよなあ、くらいは想像できる。ただ、新しくできた国であるアメリカには、ヨーロッパの国々のようにこれが古典、と誇れる文学的伝統がない。

メルヴィルの『白鯨』なんかはそれらしい風格のある小説で、「偉大なるアメリカ小説」の筆頭候補にあがるらしいが、いまだこれ、という定番はないようだ。いわば、いつか書かれるだろう理想の小説の代名詞のようなもの。そこで、ヘミングウェイをはじめ、アメリカの現代作家はいつかは自分たちの手で書かねば、と気負い立っていたわけだ。

で、あの映画にもなった『さよなら、コロンバス』の原作者フィリップ・ロスが、書いたのがこれ。いくら前々から使われている表現にしても、自分から「偉大な」と名のる馬鹿はいない。そう考えれば、これはジョーク、というかパロディだろうと見当がつく。その大事なしかけが、『素晴らしいアメリカ野球』と訳されると、映画『素晴らしきヒコーキ野郎』なんかといっしょくたにされ、パロディ臭が消えてしまう。ここは、『偉大なるアメリカ小説』という直訳でいくべきではなかったのでしょうか、丸谷先生?

その丸谷氏が、書評には本を読んでいなくても、それを読んだら、人に何か言えるくらいの内容紹介が必要という意味のことを書いている。いつもはそれを心掛けて、ネタバレしない程度のあらすじは書くようにしている。でも、これはあんまりだ。というか、何を書けばいいのだろう。濃すぎるキャラクターが招き寄せる悲喜劇のエピソードを脱線に次ぐ脱線で書き継いでいったようなストーリー展開。悪趣味の見本のような小説に仕上がっている。

もし、連合国側ではなく枢軸国側が第二次世界大戦で勝利していたら、世界はどうなっていたかという設定で書かれた歴史改変(SF)小説というものがある。フィリップ・K・ディック作『高い城の男』や、ロス自身の『プロット・アゲンスト・アメリカ』がそれだ。そういう意味で、もし、メジャー・リーグがア・リーグナ・リーグの二リーグ制でなく、三リーグ制であって、三つ目がその名も「愛国リーグ(Patriot League)」だったら、という設定で書かれた、これは一種の偽史(小説)である。

第二次世界大戦にアメリカが参戦し、メジャー・リーグの選手も戦場に駆りだされていた時代。愛国リーグのルパート・マンディーズ球団は、オーナーがホーム球場を軍に供出してしまったため、ホーム・ゲームがなくなり、死のロードに出ることに。さらに、選手層の薄さをカバーするために、往年の名選手といえば聞こえはいいが、三塁ベース上で居眠りばかりしているロートル選手や、俊足だが、まだ14歳の二塁手、義足をつけた捕手、片手しかない外野手、といった障碍を持つ選手がそろいもそろってレギュラーをつとめる。

この連敗必至チームの珍プレイ、好プレイぶりを延々描写するくだりは、泣いていいやら笑っていいやら。先日読んだリング・ラードナーの『アリバイ・アイク』も、奇妙な癖を持つ野球選手の話だったが、あれならまだ許せる範囲内。法螺話ということですむ。『偉大なるアメリカ小説』の場合、いたぶられるのは、身体障碍者だけではない。黒人、ユダヤ人、アフリカ人に小人(こびとが打席に立てばストライク・ゾーンは極端に狭い)、その他書いているときりがないが、日本人も含むWASP(ホワイト・アングロサクソンプロテスタント)でない人種すべてが、嘲笑の対象となる。

移住者が建設した国家であるアメリカは神話を持たない。そのアメリカ人にとって、国民を統合するための神話に代わるのは国技とされるベース・ボールだ。映画『フィールド・オブ・ドリームス』でも描かれている、(シューレスジョー・ジャクソンをはじめ、伝説的な悲劇の英雄にも擬せられる神話的人物に事欠かない。その創生神話を逆手にとって、ここまでやるかという無軌道振りの野球小説を書くロスの真意はどこにあったのだろう。

自身がユダヤ人であり、WASPでないことがアメリカではどういう意味を持つか、いやというほど知っていたロスは、アメリカ人がまっとうなものと信じて疑わないアメリカ人気質を、グロテスクなまでに誇張することで、アメリカ人自身に、その姿を直視させ、さんざっぱら笑いのめしてみせる。ただ、その誇張表現が極端に過剰なため、笑える状態を超えて、むしろイタい。捕球を一人で処理することが難しい隻腕の外野手がチーム・メイトの協力を得て併殺に成功するシーンを描くときは胸がすく。しかし、その選手がトレードで別のチームに行かされると誰も口にくわえた球の処理ができず、むざむざと相手に点を献上することになる。

すべてがこの調子で、ここまで書かなくてもいいだろうに、と思えるほどカリカチュアライズされたキャラクターが引き起こす、ドタバタ劇は荒唐無稽を通り越してハチャメチャ。「面白うてやがて悲しき」アメリカ野球の感が強い。ただ、徹底したスラップスティック劇に、擡頭する共産主義に脅え、何でもかでも共産主義者の仕業と決めつけてかかる議員その他の人々の疑心暗鬼を風刺する作家のシニカルな視線に同調して笑いながらも、本当のところはどうだったのか、と背中に寒いものが走る覚えがしたのも事実。

アフリカに野球の伝道師として出かけた信仰心篤い監督が、原住民の「四球で一塁に行く時も滑りこみしたい」という要求を、野球という制度を墨守するため拒否し、怒らせた相手に磔にされる挿話がある。ステレオタイプの設定の中に、いかにもアメリカ人のやりそうなことがすけて見え、案外、本質は外していないような気もする。アメリカ大統領選にロシアのプーチン大統領命令によるハッカー攻撃が仕掛けられていたなどという話が、オバマ大統領の発言として、報道されるような事態が現実に起きている昨今である。大統領選までネタにして茶化してみせた作家も、今頃、事実は小説よりも奇なり、を実感しているかもしれない。

「スミティと呼んでくれ」で始まる書き出しが、『白鯨』の冒頭をパロっているように、文学的な引用に溢れ、大量の注釈がついている。原則にこだわる主審の喉に速球を食らわせ、球界を永久追放される投手の名前がギル・ガメシュと名づけられているように、すべてにおいて伝説や叙事詩を踏まえている。注釈のついている箇所以外にも、ギルガメシュとエンキドゥの関係など、物語の背後に広がる隠喩の網は想像がつかないほどだ。表面の虚仮威しめいた意匠に騙されず、一歩踏み込んでみると案外豊饒な文学世界が広がっているのかもしれない。一度は読んでおいて損はない。ただし、常盤新平の手がどこまで入っているのかは知らないが、中野好夫訳はちょっと古めかしい。でき得るものなら柴田元幸氏による新訳を所望したい。