青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『神よ、あの子を守りたまえ』 ト二・モリスン

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少年期に負ったトラウマが、その後の人生を送る上で、人にどれだけの影響を与えるものか。登場人物のそれぞれが皆、過去に傷を負っている。傷を負いながらも、たくましく生きるタフな女性もいる。主人公の親友ブルックリンや、旅先で出会った少女レインのように。また深く傷つきながらも、そこから恢復し再生する者もいる。ただ、負った傷がトラウマになるほどの深い傷である場合、本人の意志だけではどうにもならない場合がある。主人公とその恋人の場合がまさにそれだ。

主人公はカリフォルニアの小さな化粧品会社で働く漆黒の肌をした魅力的なブライド。バリバリのキャリア・ウーマンで、今は次のキャンペーンのアイデアを練っているところ。ただ、六カ月の間うまくいっていた恋人が、昨日口げんかした後、出ていったまま帰らないことに思いがけず動揺している。よく考えれば、住まいも生活費も全部自分が面倒を見ていたブッカーのことを何も知らなかった。知っているのは、唇と肩にある傷痕を除けば、ほれぼれするほどのいい男ということくらいだ。

けんかのきっかけはブライドが小さい頃アパートの大家が児童虐待をしていた場面を目撃した話。母親に口止めされて黙っていたことをブッカーが責めたのだ。ブライドは真っ黒に生まれたが、母は白人で通るほどの色白。人種差別が激しい時代、黒人と分かれば差別を受ける。その大家は黒人の母子をかろうじて受け入れてくれていた。母親は黒い娘と距離をとっていた。ブライドは、物心ついて以来、母に手をつないでもらったことがない。母親の関心を引くためなら何でもした。たとえそれがよくないことでも。

小さい子どもに対する虐待が、この小説の核となっている。直接間接の被害者がそれによって受ける心的外傷(トラウマ)のために苦しむ。防衛機制のために退行現象を引き起こしたり、過剰に攻撃的になって他者を許せなくなったり、人によって出方は様々だが、自分ではどうしようもない。周りにいる人間には、当人の陥っている状況がのみ込めず、ちぐはぐな対応が余計にことを難しくする。

自分の過去を清算するためにとった行動が思わぬ結果を呼び、傷ついたブライドは仕事を親友のブルックリンに任せ、ブッカーの行方を追う。なぜ、「おまえは、おれのほしい女じゃない」という捨てぜりふを残してブッカーは去ったのか?荷物の中には本が残されていた。ファッション雑誌しか読まないブライドにとって、ブッカーはいったい何だったのか。ブッカーを探す旅が自分探しの旅に重なっていく。愛車の灰色のジャガーを駆ってアメリカの中西部を走るブライドの旅がロード・ムービーのように展開する。物語が動き出すここからが非常に魅力的だ。

旅の途中、自動車事故を起こして骨折したブライドを助けた中年ヒッピー夫婦と、その夫婦に拾われたホームレス少女との出会いがブライドを少しずつ変えてゆく。ブッカーは唯一心を許しているクィーンという叔母のところにいた。ブッカーの人となりが少しずつ明らかになるにつれ、彼の抱え込んでいたものの重さが分かってくる。人は一人で生きていくことはできない。いい時も悪い時も人は人と出会って、傷つけたり、傷ついたりするものだ。また、その逆に救ったり、救われたりもする。この小説は、人と人とのめぐり逢いの物語でもある。

視点人物が替わるたびに、今まで見えていた事態がひっくり返り、隠されていたことが明らかになる。しかも、章立てが短く、転換が目まぐるしい。ブライドの母親スウィートネス、ブルックリン、ブライドの告発によって囚人となったソフィア、少女レイン、と視点人物をつとめるどの女性も個性的で魅力的だ。そして、最後に登場する何人もの男と結婚し離婚した過去を持つクィーンという赤毛の女性が二人を結びつける運命的な役割を果たす。

人種問題や児童虐待といった話題を扱っているため、読んでいて辛いところもあるが、切れのある文章は生き生きとして力強い。使われている比喩は清新で、登場人物の心理とシンクロした情景描写は生気に満ちている。表題は、ほぼ原題(GOD HELP THE CHILD)通り。主人公の母親が、離れて暮らす娘のことを思って口にする言葉だ。人の親となることの悦びとおそれを思うとき、キリスト者ではない自分のような者にも共感できる祈りの言葉である。

ミステリではないが、物語の発端におけるブライドの刑務所訪問には不可思議性があり、中盤のブッカーを探す旅には、親友によるポスト簒奪の危険や人里外れた場所での事故といったサスペンスが潜んでいる。意外な結末といえるかどうか微妙だが、ブライドの行動の謎は最後には解決される。その意味では、美男美女のこじれた関係の謎を解く、ミステリ的要素を持った恋愛小説といってもいいかもしれない。

1993年にアフリカン・アメリカンの女性として初のノーベル文学賞を受賞したトニ・モリスンの長篇十一作目。一時期、ノーベル文学賞などに、たいして意味はないと思っていたこともあったけれど、アリス・マンローをはじめ、受賞をきっかけに読むことになった作家には、素晴らしい書き手がいることに気づかされた。もちろん、トニ・モリスンもその一人。今まで読んでこなかったことが悔やまれるほどに。