青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『夢遊病者たち』1・2 クリストファー・クラーク

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一・二巻を通してノンブルを打つやり方があることを初めて知った。全八百ページ強。読み応えのある本だ。第一次世界大戦がどのようにして起きたかを詳細に語るハウダニットの歴史書。一口に何が原因で起きたとか。どこの国の誰のせいで起きたなどと言い切れないのが戦争というものだろう。とはいえ、それまでの戦争という概念を大きく塗り替えた第一次世界大戦が如何にして起きたのか、それはぜひ知りたい。

各国に残る関係書類、政府要人の手記、君主間でやり取りされた手紙といった厖大な資料を収集選別し、同時期に関係する国と国で、どのような話し合いがもたれ、それがどのように相手国に伝えられたかを、読み解き、刻銘に書き記したのがこの本だ。まるで映画を見ているように、戦争に至る道筋で重要な役割を果たした外交官や政府首脳が、或いは自国の威信を賭けて恫喝し、或いは敗北の予感に泣き崩れる。

1914年6月28日。サライェヴォ訪問中のオーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子フランツ・フェルディナントがセルビア人の若者の手によって狙撃される。文字通り戦争への引鉄を引いたわけだが、バルカンをめぐる情勢はそれ以前から火種がくすぶっていた。強大な力を誇るオーストリア=ハンガリー二重帝国に隣接するセルビアは、ボスニア=ヘルツェゴヴィナの領有をめぐって、オーストリア=ハンガリー二重帝国に苦い思いを抱いていた。

時あらば、ボスニア=ヘルツェゴヴィナを取り戻そうという失地回復主義者が、黒手組などという時代劇にでも出てきそうな名前の秘密組織を作ってテロ活動を画策していた。政府を率いる首相ニコラ・パシッチは、それを知りながら汎セルビア国家建設という目的のため、あえて見て見ぬふりをしていた。秘密組織を牛耳るアビスは、ひそかに銃や爆弾を手配し、暗殺集団をボスニア=ヘルツェゴヴィナに送り込み、機会をねらっていた。

帝国の世継ぎを殺されたオーストリア側が、事件の背後にある組織の摘発をはじめとする厳しい条件を最後通牒としてセルビアに突きつけるのは理解できる。しかし、自分の国の君主でさえ殺してしまうセルビアという国が甘んじてそれを飲むとも思えない。問題は、この事件で漁夫の利を得ようとしていたのが、利害関係の深いバルカン諸国だけではないことだ。ドイツはオーストリア=ハンガリー二重帝国を後押しし、セルビアにはボスポラス、ダーダネルス両海峡の航行権を狙うロシアがついていた。

帝国主義の時代、各国は版図を広げるのに必死であった。少し前には、ドイツのリビア侵攻という事件があったばかり。ロシアはロシアで、大量の兵士や兵器を輸送する手段として鉄道建設を進めていた。オスマン帝国はイギリスに弩級戦艦を発注というように、互いの国が自国の防衛と領土獲得を目指して競い合っていた時代だ。敵の敵は味方、という図式そのままに、国境を共にする隣国を牽制するため、遠く離れたロシアとフランスが同盟を結ぶなど、複雑な地政学的問題が存在していた。

簡単に図式化すれば、ドイツをバックにしたオーストリア対ロシアを味方につけたセルビアの角逐に、三国協商でロシアと協商・同盟関係にある英仏がからむ関係となっていた。ただ、ドイツと直接関わりのあるフランスとは違い、海をはさんだイギリスは、直接的に利害のないヨーロッパ大陸の争いに、当初はどちらかといえば冷淡であった。英国の介入を迫るフランス駐英大使の切羽詰まった態度に対し、外相のエドワード・グレイの言質を取らせない優柔不断な姿勢は、いかにもイギリス人らしく煮え切らない。

栄華を誇ったオーストリア=ハンガリー二重帝国にも翳りが来ており、かつてのような威信が保てない。それは、オスマン帝国とて同じ。沈みゆく帝国に対し、新しく勢力を広げてきたドイツ、フランス、イギリス、イタリアなどの国との綱引きが繰り広げられる。一つの国といっても一枚岩ではない。急進的なグループもあれば、穏健な集団もいる。どちらが力を持つかによって、ヨーロッパの勢力分布の均衡を揺るがすことになる。外相や大使といった外交にあたる人物を中心に、戦争に至るまでの駆け引きを描く。クラークは、著名な人士の人物像を巧みに描くことで、ともすれば単調になりがちな歴史的記述を、読み物を読むように楽しませてくれる。しかも、その筆はバランス感覚にあふれ、どこかの国にだけ責任を押し付けようとするようなところがない。

ディストピア小説が流行しているという。独裁者的な政治家が実権を握った国家においては、ある意味当然のことかもしれない。いつ小説が実体化しても不思議ではないからだ。自国ファーストを謳い、移民や難民を排除しようとする勢力の台頭も目立つ。第一次世界大戦前の時代を描いた史書ながら、今読むにふさわしい本である。ヨーロッパ中を巻きこむことになる戦争に対し、どちらかといえば躊躇していた君主や政府首脳を、何も知らない国民が一時の愛国的な熱狂で、一歩も引けぬところまで追い詰めていった過程が手に取るようにわかる。

歴史に「もし」はないというが、関係者の手になる自分勝手な解釈や、専横、逸脱、怠惰などのうち、たった一つが「もし」なかったら、あの悲惨な大量の犠牲者を生んだ第一次世界大戦はなかったかもしれない。あの時、あの人物を国家の舵取りに選んでいなければ、災いは避けられたかもしれない。読んでいて、何度もその考えが頭をよぎった。過去の話ではない。事態を戯画化し、想像の世界に遊ぶのもいい。鍛え上げた想像力で現実を読み解くのもいいだろう。しかし、地道に過去を振り返り、過去に学ぶこともそれに劣らない、今を生きる生き方ではないのだろうか。読みやすい本ではないが、読むに値する本である。

『襲撃』 レイナルド・アレナス

なぜか突然流行のきざしを見せはじめている、これもディストピア小説の一つ。それも生なかのディストピアではない。人間(だろうと思われる)の手は鉤爪に変化しているし、一部の者は足さえ蹄に変わっているようだ。何かの寓話だろうか。とてもリアリズム小説のように読むわけにはいかない。かといって、『モロー博士の島』のような、SFめいた設定を楽しむことを目的にして書かれたとはとうてい思えない、他者蔑視の果ての罵詈雑言、呪詛の嵐のごとき小説である。汚い言葉や残酷な描写の苦手な方にはお勧めできない。

舞台は、<超厳帥>と呼ばれる絶対権力を持つ独裁者が統べる国家。人民は囁くことさえ許されず、へたに声を出そうものなら、囁き取り締まり軍によって処刑されてしまう。逮捕後も裁判、監禁などという煩わしいことはしない。鉤爪で頭をひっかけ、逮捕した者の番号を記入したら、まずは死刑だ。ひどい話だと思うかもしれないが、とんでもない。もっと悪いのは、家族、親族、友人知人は言うに及ばず、関係した者すべてが極刑に処せられる刑もあるのだ。本人だけが死んで終わるなら、軽い量刑と言える。

<俺>という一人称で語られる人物が主人公。というより、<俺>以外に人物扱いされているのは、冒頭に姿を見せてすぐ引っ込んでしまう母親と、終わりの方で登場する<超厳帥>を陰で操る黒幕ではないかと思われる<大秘書官>くらいのもの。後はすべて、有象無象。母親でない他者はすべて何らかの罪を犯した犯罪者で、<俺>には、殺してやりたい母親しか目に入らない。殺す理由は、自分が母親に似ており、このままだとその母親になってしまいそうだから、というものだ。

ディストピア小説というのは、絶対的な権力を掌握する独裁者あるいは組織が生み出した管理社会の非人間的な側面を事細かに描き出すことで、今は気づかれていないが確実に到来するであろう近未来の危機的状況に目を向けさせようとするところがある。『1984年』も『すばらしい新世界』もそうだが、そこに描かれている社会は、カリカチュアライズされた現実社会であり、少し歪んではいるけれど、乱視矯正レンズを透して見れば、そこに見えるのは現実に自分が暮らす世界の少し先に行きついた姿である。

ところが、本作が描くのは、戯画化などというものではない。たとえば、<複合家庭>に暮らす人々は、狭い部屋をあてがわれるのだが、その狭さといったら、一人が寝ている上にもう一人が寝る、という信じられない狭さである。男女を問わず毛髪を伸ばすことを許されず、その禿頭をワックスで磨いて光らせることを義務づけれるなど、悪い冗談を飛び越して、嗜虐的。何が憎くてこうまで執拗に民衆を虐げ苛まなければならなかったのか。

ストーリーというほどのものはただ一つ。母親がいそうな社会の吹き溜まり、犯罪者が集められているようなところに行き、母親を探すこと。ただ、その繰り返し。例えば砂漠地帯では、灌漑と称して棒でつながれた者たちが一列になって地面に唾を吐きかけ続けるというのだから、想像力の極北といいたいくらいのもの。これほど人を虚仮にした扱いをしゃあしゃあと書く小説は、サドの『ソドム百二十日』くらいしか他に知らない。

母を訪ねて三千里ではないが、次から次へと訪ね歩く地で<俺>が見つけるのはいつでも母ではない。それら男とも女とも見分けのつかない者どもは、鉤爪の餌食となって屠られ、肢体は裂かれ、腐肉は膿み、惨憺たる有様はわざわざ言挙げするまでもない。おそらく、次第に過剰になる死体損壊をはじめ、人を人とも思わない獣以下の扱いの惨状を描き、読者が目をそむけたくなるところまで、表現を突き詰めてゆくために、この憎悪をエネルギーにひたすら突き進んでゆく主人公が選ばれたにちがいない。

全体主義国家のパロディとして、官職にやたらと<超>やら<大>がつき、都市の名前にも<超厳帥>が頭についた<超厳帥郷>などという個人崇拝的な名称や誇大な名づけがされている。他にも、ただ「寒い」といえば、軽い罪ですんだものが、「私は寒い」と、自分の感覚をわざわざ強調した点が個人主義的だ、と最大級の罪に処せられるなど、個人主義と言葉や文字を嫌うディストピア社会の有り様は、文化系の学問を軽視したがるどこかの国のようだ。なぜディストピア小説が流行るのかといえば、今それが一番リアルだから。物言えば唇寒し、を誰もが実感していればこそ読まれているにちがいない。明日は我が身、なのだ。

この小説を、よくある共産主義国家をモデルに、独裁者による恐怖政治を描いたディストピア小説として読むことは可能だ。ただ、最後の章、その名もタイトルと同じ「襲撃」が付加されることによって、一気に様相が変化してしまう。いわば、問題が矮小化されるというか、社会や国家を論じていたものが、家族や親子という個人的な次元の物語に収斂されてしまう側面を持つからだ。

結末はある種のどんでん返し的な効果を持つ。単線的で、広がりというものを持たない小説で、それなりの意外性によって読者を惹きつけようと思うなら、この結末しかありえない。途中まで読めば、ある程度小説を読んできた読者なら容易に想像できる、その点が惜しい。最終章に至るまで、終始一貫して主人公のモノローグで通す必要が果たしてあったのだろうか。複数の人物を登場させ、サブ・プロットを設けることもできたはずなのに、あえて<俺>の独り語りに執着した理由とは何か。

何故か、母を頭に着けて「母国」と呼ばれる。母も生国も自分では選ぶことができない。もし、そのために自分では望みもしない生がそこで営まれるとしたら、人は母や国を憎むしかないだろう。自分が肯んじ得ないものの中に吸収されそうに思えたら、人はきっと我が身を守るため、自分を同一化させようとするものから身を剥がそうとする。仮令そのために相手を殺すことになっても。一見するとディストピア小説に見えるこの小説は、もっと個人的、実存的な意味を持つのかもしれない。キューバという他に代えがたい国家に生まれ、フィデル・カストロと同時代を生きた作家ならではの異色のディストピア小説といえよう。

『ビリー・リンの永遠の一日』 ベン・ファウンテン

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これって、早い話が人格形成小説(ビルドゥングスロマン)だよね?年若い青年が周囲の人々の影響を受けて、自己を作り上げてゆくことを主題とする。ヘッセやマンとちがうのは、これがたった一日の出来事を中心に書かれているってこと。雪混じりの感謝祭の日にテキサススタジアムで行われる、ダラス・カウボーイズシカゴ・ベアーズのアメリカン・フットボールの試合会場が舞台。

で、なんで一日かというと、ビリーっていうんだけど、この主人公。陸軍の二等兵で、イラク戦争で手柄を立てて勲章を二つも貰い、ただいま仲間のブラボー分隊と一緒にご褒美の「勝利の凱旋」旅行中。二週間かけて、アメリカ各地を回ってきて、いよいよ今日が最終日。この日の試合観戦中ハーフタイムショーにゲスト出演したら、その足で基地に向かい、そこから二十七時間後には無事イラクに帰還の予定だ。

耳の穴の中まで砂が入り込んでくる砂漠の戦闘地帯から、酒と女と豪華料理に囲まれ、取り巻き連中の称賛の声を浴びる夢のようなアメリカに。そこからまた地獄の戦場に突き返されるわけだ。たしかに、息抜きにはなるかもしれないけど、よくよく考えてみれば、やっと生命を脅かす危険のない安全地帯に帰った者を、たった二週間でもとの危険地帯に送り返すくらいなら、こんな仕打ち、しないほうが彼らのためだろう。

それには訳があることくらい、ビリーにも分かっている。というか、だんだん分かってくる。アメリカ人は9.11以来、怯えているのだ。いつまたやられるのか、と。それくらいならこちらからやってしまえ、と戦争を始めたのはいいが、戦況は思わしくなく厭戦気分は強まる一方。そこへ現地で取材中のフォックステレビから、ブラボーたちの勝利を伝える映像が飛び込んできた。好戦気分を盛り上げるキャンペーンの絶好のダシとして使われたのがビリーたちだ。

自分たちは絶対に弾の飛んでこないところで、フットボールの試合など見ながら、涙を流さんばかりに英雄たちを持ち上げることで、自尊感情を高める手段にする一般大衆。しかも、ハーフタイムショーのゲストはビヨンセとディスティニーズ・チャイルド。マーチング・バンドや予備役軍人の行進までごった煮状態にしたうえで、国歌を斉唱し花火を打ち上げる。セックスを煽る振り付けと弾丸が飛び交い爆発の閃光が燃え上がる戦争をコラボさせ、会場全体を愛国感情でハイにする演出。クソだ。

ビリーが軍隊に入ったのには理由がある。美人で賢い自慢の姉が自動車事故に遭い、死ぬほどの重傷を負った。美貌を失った姉との婚約を破棄した相手のサーブをバールでぶち壊したのだ。刑務所に行きたくなかったら軍隊に入れ、というのが裁判所の出した結論だった。その結果がイラク行きだ。学校になじめなかったビリーは同じ分隊の軍曹で暇があれば本を読んでいるシュルームという上官の影響を受け、本を読み始める。

今回の叙勲は、激しい銃撃戦をかいくぐり、倒れたシュルームを救出した行為についてのものだった。自分のメンターを喪ったビリーは、あの戦闘の中で死んでいったシュルームと生きのびた自分のちがいを考えないではいられない。ミリ単位の差が生と死を分けるのだ。すべては偶然が左右する。そんな世界では何をしても意味がないのではないか。誰かそれについて教えてほしい。あれから毎日、そう思いながらビリーは生きている。

十九歳のビリーはまだ女を知らない。ただセックスがしたいのではない。この人だと思う相手と愛し合いたいのだ。戦場では望むべくもないことだが、シャバにいる二週間なら可能。それなのにまだ誰にも出会えていない。今日が最後のチャンスだった。それが、実現する。チア・リーダーの一人で金髪っぽい赤毛の子が、ビリーと目を合わせる。ビリーも目が離せない。一目惚れってやつだ。この恋がどうなるのか。なんともせわしない展開だが、あの『ユリシーズ』だって、たった一日の出来事だ。世界は一日で「永遠」になる。

さらに、難題が降りかかる。休暇で一日だけ家に帰ったビリーに姉のキャスリンがイラクに帰るな、と囁きかける。逃がしてくれる団体と話がついている。英雄を死ぬかもしれないイラクに帰すなんてまともな国のやることではない、と。仲間を置いて一人だけ逃げることはできない、と断るビリーに、キャスリンは言う。あなたが死んだら私は自殺する。イラクに行くことになったのも自分のせいだから、と。悩んだビリーは、尊敬する軍曹のダイムに相談しようとするが、そんな時ブラボー分隊にトラブルが発生する。

すべてはビリーの目を通して語られる。テキサス出身で高校卒業前に軍隊入りした青年にしては、ちょっと考えが上等すぎるようにも思えるが、自分で言うように、イラクに行って歳をとったのだろう。アメリカという国家、アメリカ人という国民についての冷静で透徹した省察はこちらの心の中にすんなりと入り込んでくる。国家の名において人を殺す経験をした者として、ビリーは他の無辜のアメリカ人とは異なる。その目に映るアメリカ人は、無自覚に自我を肥大させ、何でも欲しがるいつまでも子どものままでいる大人のようだ。

愛する姉のためにしたことが、想像もつかなかった世界に自分を放り込んだ。学校にいてはできなかった勉強を戦地で積んで、青年は一気に成長する。彼の目に見えるアメリカは、命をやり取りする現場から生きて帰った若者たちをおだて上げ、その命がけの行為をはした金と引き換えにハリウッドに売り飛ばし、別の若者を戦場に行かせる手伝いをする、そんな大人ばかりが生きている国だ。

死線をくぐってきた若者のイノセントな目が見た現実のアメリカとアメリカ人の姿。今どきこんなナイーブな十九歳がいるのか、と思ったりもするのだが、若者らしい純粋な視線がまぶしいくらいにクリアな視界を開いてくれる。ピラミッド状の構造を持つアメリカ社会の底辺近くで暮らす普通のアメリカ人青年の「永遠の」一日を、苦味を利かせたユーモアをたっぷり含ませた筆で描いたこの小説。近年まれに見る「偉大なるアメリカ小説」という評、あながち過褒とは思えない。

『わたしはこうして執事になった』 ロジーナ・ハリソン

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執事というのは奇妙な仕事だ。本人は決して高い身分ではない。ほとんどが労働者階級の出身である。それなのに、上流階級の人々にくっついていることで、時の首相や、時には女王ご本人に拝謁を賜ったりすることもある。直々に声をかけていただいたり、お褒めの言葉を頂戴したり、と傍から見れば羨ましいようなものだが、あくまでも使用人である。周囲からの高い評価は期待できない。パブの店主でも一国一城の主のほうが敬意を抱かれる。

しかし、名のある執事ともなれば、行儀作法は勿論、ワインや料理に対する知識、超豪華客船一等室での船旅を含む世界旅行の経験等々、われわれ庶民には及びもつかない世界を知っている。どこまでいっても主人と使用人という間柄ではあるけれども、大事な悩みを打ち明けられて、その相談に乗ったりすることもあり、他人には決して言うことのできない秘密を共有することもあって、長く仕えているうちに友人のような関係になることもある。

国家の運命を決定する場に立ち会うこともある。「20世紀最大の英政界スキャンダル」と呼ばれたプロヒューモ事件のようなスキャンダルの現場にだって。1962年、当時のハロルド・マクミラン政権の陸相ジョン・プロヒューモがソ連の美人スパイ、クリスティン・キーラーに紹介されたのが、ビル・アスター卿所有のバッキンガムシャーにあるクリヴデンだった。その後二人は肉体関係を持つに至り、国家機密の漏洩が疑われた。その結果マクミランは辞任、次の総選挙で労働党が政権に就くことになる。

1975年に刊行された『おだまり、ローズ』の著者が、当時アスター家で一緒に勤めた執事たち五人から聞いた話を、自伝風にまとめたのがこの本。主人とメイドという関係にありながら、互いに意見を主張して一歩も引きさがらず、丁々発止とやりあう二人の関係を面白おかしく描いた前作は、日本でも話題に上った。本の内容上、夫人に関するエピソードという枠組みからはみ出したものは、いくら面白くとも割愛しなければならず、とっておきのこぼれ話が書かれずにいた。それらを拾い集めて執事の物語にしたところがお手柄。

五人の誰もが一度は勤めることになったのが、アスター卿の館クリヴデン。ここを取り仕切る「クリヴデンのリー卿」と呼ばれる執事エドウィン・リーこそが、他の四人の男たちの教師であり、父であり、尊敬する船長、皆から「サー」と呼ばれるあこがれの対象だ。著者であるハリソン嬢もまた、このリーを「父さん」と呼ぶ。アスター夫人付きのメイドとして長くリーの下で働き、その仕事ぶりや人柄を誰よりもよく知る人である。

実はこの本、とんでもなく面白い。英国上流階級を描いた小説や映画は多いが、終始一貫して使用人の視点で描かれたものはそう多くはない。ジェイムズ・アイヴォリー監督の手で映画化され、アンソニー・ホプキンスが主演した、カズオ・イシグロの『日の名残り』くらいか。主人公スティーブンスの目から見たダーリントン卿と、世間の目から見たそれとの差が際立っていたが、あの視線に近いものは、この本にもある。

はからずもスキャンダルの場を提供することになり、正当な手続きを経ずして指弾されてしまった主人に、使用人たちは誰もが同情的だ。逆に労働党の幹部や社会主義者たちに向ける視線には冷たいものがある。労働者階級に属してはいても、自分たちがその空気を吸っていたアスター家の(女主人の時間を無視する癖と、仕事振りを素直に褒めようとしないことには辟易しながらも)今はなくなってしまった英国上流社会の活気に溢れた優雅な暮らしぶりとそこで働く自分たちの仕事を愛していたからだ。

男たちは一つ仕事を覚えると職場を変える。下働きの使い走りから始め、第二下男、第一下男、そして副執事、執事、とステップを踏んでいく間に何度も勤務先を変える。上司とそりが合わず、どうしようもなくて辞める場合もあるが、いい雰囲気の勤務先であっても、最後までそこに勤めようとはしない。ある程度その世界で生きていこうと思ったら、場数を踏むことが大事だと知っているからだ。また、仕事ぶりが認められた者には、好条件で雇ってくれる家が必ずあるのがこの世界なのだ。

一方的に雇ってもらうというのではない。こちらも相手を選んでいる。その駆け引きの面白さ。新しい勤務先で出会う上司や同僚の奇矯な振舞いや、酒癖、女癖の悪さといった下世話な話も話し手が労働者階級出身だからこそ。年代物のワインの空き瓶やコルク栓が、結構な値で売れる仕組み(食堂の給仕が中身を安物のワインと入れ替えて、相手にヴィンテージと信じさせるための小道具)等の業界の裏話もあれば、信じられない手さばきで燕尾服の裾に隠したワインを二本も取り出して見せる水際だった給仕ぶりの紹介もある。

狐狩りで着用する赤い燕尾服の汚れ落としのテクニックもあれば、主人のお付きでアスコット・ウィークの大晩餐会に招待された時の晴れがましい感想もある。食事中も無言で通す作法、長時間をかけての銀器の手入れ、夜明け前から午前三時まで働き詰めの生活は、自分では経験したいと思わないが、そういう労働で支えられていた、かつての上流階級の暮らしぶりを知るには、とっておきの一冊。読み物として面白いのは保証するが、英国小説を読んだり、映画を見るときの参考資料としての価値も高い。

第一次世界大戦勃発の引き金を引いたオーストリア皇太子暗殺事件の直前、急用ができ、渡英した皇太子を迎えに行けないアスター卿の代りに車に乗った父君。いつもの癖で、開いていると思った窓に痰を吐いてガラスを汚してしまった。これに腹を立てた運転手は興奮のあまり車をぶつけてしまう。幸か不幸かフェンダーをこすっただけで済んだが、大事故でも起こしていたら、第一次世界大戦は起きなかったのでは、と語る執事は歴史の証人でもある。

ドイツ軍の爆撃を逃れて週末だけチャーチルが身を隠すことになった。身近で暮らしぶりを見た者だけが知るその実像とは。酒浸りだと噂されていたが、そうでもなかったらしい。好きな酒はウィスキーで、トレードマークの葉巻も一口吸ったら灰皿に置いていたとのこと。帽子とコートを渡したチャップリンに握手を求められ、礼儀から無視をしたら、かえってご不興を買ってしまったという。この種の有名人の逸話には事欠かない。

第一次世界大戦前から、第二次世界大戦後までを扱う。時間の経過とともにさしもの英国上流階級の暮らしにも変化が生じる。大人数の使用人を抱え、大勢の客を呼んで食事会を開く家も少なくなり、執事たちも変化を認めざるを得なくなる。時代の趨勢から見て、そういうものだとは思いながらも、物心ともにゆとりのあった時代を惜しむ気持ちもよくわかる。今は昔の英国上流階級の暮らしを、執事部屋から覗く貴重な体験のできる一冊である。

『侍女の物語』 マーガレット・アトウッド

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トランプ大統領就任以来、アメリカではジョージ・オーウェルの『1984年』が、突如として爆発的に読まれ出したという話を聞いた。今さら、オーウェルやハクスリーでもないだろうと、『1984年』の姉妹版と言われているマーガレット・アトウッドの『侍女の物語』を読んでみた。なるほど、世界のあちこちで排他的、独裁的な人格の持ち主が権力を掌握する今のような時代、この手の本を読みたくなる気持ちがよく分かった。

放射能や化学薬品その他の影響による環境汚染の結果、出生率が極端に低下したアメリカでクーデタが起きる。法律は改変され、女性は従属的な性として出産のための奴隷労働を課される。主人公はクーデタ後、資産を凍結され、仕事は解雇される。行く末に不安を感じて偽造旅券を手配し、出国しようとしていたところを一家は逮捕され、家族と引き離され、主人公は、政府高官の家で侍女として働くことになる。

赤い色をした踝までの長さのドレスと顔を隠すための白い翼とヴェールを身に着けた「侍女」とは、生殖能力をなくした妻の代わりに夫と性交し、妊娠することを目的とする代理妻である。快楽のためではなく単なる生殖器扱いだ。ただ、それでも、この時代において、妊娠可能であることは重要な意味を持っており、それができない女たちの嫉妬の視線を浴びねばならない。

長く高い壁に囲まれているところや、極端な食糧品不足、「目」と呼ばれる組織によって常に盗聴・監視されているところなどから、主人公が暮らすギレアデという社会は、位置的にはアメリカだが、かつての東独を思わせる全体主義国家となっている。もっとも、国是とされているのは共産主義ではなく、キリスト教原理主義であり、国内にいた資産家のユダヤ人は国外に脱出し、戦争相手はクエーカー教徒その他のキリスト教徒たちだ。

侍女たちは、本名ではなく、誰々の所有になる、という意味で頭に<オブ>をつけた名で呼ばれる。主人公は位の高い司令官の侍女となり、オブフレッドと呼ばれる。買い物に出る時は、いつも決められた相手と組まされ、互いに監視者となって行動しなければならない仕組みで、挨拶の言葉すら決められている。息の詰まるような毎日だが、反逆者は処刑され、壁にある鈎に吊るされ、見せしめにされる国では、面従腹背で生きるより仕方がない。

一貫して主人公の一人称視点で語られる。顔を隠す羽根は外部を見る範囲を狭め、視界は限られる。また本音を語れば密告される危険性のある環境では、会話から情報を得ることも難しい。したがって、小説世界は極端に限られたものとなる。ただ、かつて図書館員をしていた主人公は知的で、語彙や文章力にも秀でている。主人公の置かれた制度や儀式が客観的に冷静に叙述されることで、非人間的な制度の持つ、個人を押しひしぐ圧迫感がひしひしと伝わってくる。

独りでいると、クーデタ以前の友達や母親との自由で開放的なウーマン・リブフェミニズムの運動が盛んだった時代のアメリカを思い出す。主人公の母は活動家で、親友はそんな母を称賛したが、自分はそんな母に反抗していた。現状に違和を感じながらも、恐怖心から逃げることも反抗することもできない主人公だったが、雇用者である司令官と、妻の目を盗んで密会するようになったことから、話は一挙に滑りだす。

司令官のしたいこととは、覚悟していた変態プレイなどではなく、単語作りを競うボードゲームスクラブル」だった。ファッション雑誌や華麗な下着は人間を堕落させると、すべて焼き尽くされた野蛮な時代にあって、ゲームもまた人目をはばかるプレイだったのだ。侍女の中から知的な女を見繕って秘かな愉楽の相手をさせるのがこの高官の道楽だった。やがて、秘密の共有は次第にその階梯を上り、華美な衣装を着けてのクラブ通いにまで及ぶ。

慎重に見えた女が次第に変貌を遂げ、抑圧していた感情を露わにしだすに連れ、秘密が露見する危険度は高まる。夫以外の男への欲望に自身の堕落を認め、葛藤を抱く主人公だが、抑えれば抑えるほど、反発の度合いは高まる。それまで受動的に生きてきた主人公の変化に、読者は応援したい気持ちに駆られるものの、いつばれるのかという不安もあってディレンマに襲われる。このあたりのサスペンスは、凡百のスリラーなど足元にも及ばない。

ゆでガエルの法則というのがある。ビーカーに水を入れ、中にカエルを放す。ゆっくり水温を上げてゆくと、カエルは気づかないままにゆだってしまうという。人間も同じで、緩慢に変化する政治状況を顧みずにいると、気がついた時には致命的な状態に陥っている。気がついた時には遅いのだ。自由だったころを回想している自分が、気づいた時にはすでにそのころの自分ではなくなっている恐怖を描いて、この小説は際立っている。

寓意的な物語であるのに、まるでエンタテインメントであるかのように面白い。これは、ありきたりのディストピア小説とは次元がちがう。思惟する存在として、感情に支配されながらも、意志を持ち続けている人間。家族を持ちながら、一人の女としても生きざるを得ない。錯綜し混乱した存在が、自分ではどうしようもない社会体制の中に放り込まれ、異常な事態をどう生き抜くのかを当事者目線で描いた極上のスリラー小説なのだ。

他人ごとではない。権力を握る者が法を恣意的に解釈し、国家を誤った方向に導きつつあるのに、報道機関は見て見ぬふりを決め込んでいる。民衆は危険極まりない状態を知らされることなく、ことは進められていく。共謀罪が成立したら、この国もまたギレアデと変わらない。かつて読んだSF小説にあった「Ignorance is fatal(無知は致命的である)」という文句が文字通りの意味を持って迫りつつある。こんなに危機感を持って小説を読んだことはない。今からでも遅くない、と言いたいのだが、そう言い切る自信がない。文学がここまで未来を予見するものだとは思わなかった。

『特捜部Q-檻の中の女ー』 ユッシ・エーズラ・オールスン

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テレビをつけたら流れていた映像がちょっと気になるので、しばらく見ていた。知った顔の俳優もいないのに妙に引き込まれ、最後まで見入ってしまった。タイトルが『特捜部Qー檻の中の女ー』。その後、これがデンマーク発の警察小説シリーズ第一作だと知った。映画化によって原作が改変されていない限り、自分の中ではネタバレしているわけで、どうかな、と思ったけれど杞憂に終わった。純然たる謎解きミステリではないこともあるが、本筋の事件解決以外の部分に味があって、小説ではその部分が読ませどころになっているからだ。

警部補カール・マークは、皮肉屋で横紙破りなところが災いして同僚間で不興を買っている。事件の捜査中に撃たれ、腹心の部下の一人が死に、もう一人が全身麻痺で病院のベッドに寝たきりになったことから立ち直れないでいるのだ。殺人捜査副課長は、一計を案じる。警察改革を利用してカールを昇格させ、厄介払いをしようというのだ。過去の未解決事件専門に操作する「特捜部Q」の設置がそれだ。

何のことはない。態のいい窓際族。やる気をなくしていたカールは、人目のないのをいいことに、ネットサーフィンを続けていたが、課長に進捗状況を訊かれ、一人では手が回らないから助手をつけてくれと言ったばっかりに、アサドが現れた。妙な男で、捜査権限もないのに事件に口をはさみたがる。また、それが結構いい線をいっているのだ。部下の目があっては昼寝もできない。ついに、カールも重い腰を上げ、捜査を開始する。

積み重なったファイルの中からアサドが見つけてきたのが、ミレーデ・ルンゴー事件。五年前、民主党副党首だったミレーデがフェリーから消えてしまった事件だ。事件当時姉と一緒だった弟は重い障害を持っていることもあって事件について証言することができず、死体は上がらなかったが、水死ということで処理され、事件は迷宮入りとなった。

プロローグに、暗い部屋に監禁されている女性の話が出てくるので、読者はすぐにこの女性がミレーデだと分かる。つまり、2007年(現時点)と、事件が起きた2002年が、並行して語られる構成になっている。五年というハンデを負って、カールとアサドは事件を解決しなければならない。一方、その間ミレーデは脱出不可能な檻の中で、生き延びるために闘い続けなければならない。或いは、悲惨な死に方を避け、自死するかのどちらかだ。

サイコパスによる女性の監禁事件を描くミステリは掃いて捨てるほどあるが、これは一味ちがう。何しろ被害者は、三十半ばで有力政党の副党首。しかも美人で論戦にもたけている。そう簡単にはへこたれない。しかし、トイレ用と食事用のポリバケツが一日一回交換されるだけで、外部と完全に接触を断たれた状態で正常な精神状態でいるのは難しい。しかも、彼女が監禁されている場所は与圧室といって、気圧を上げる装置なのだ。時間をかけて高い気圧に慣れた体は、通常の気圧にさらされると爆発してしまう。

カールたちは、アサドの信じられないような機転や記憶力の助けもあって、過去の捜査で見落とされていた事実を明らかにしていく。押しの強いカールのハードボイルド調の捜査もいけるが、シリア人助手アサドの天才的なひらめきと、脅威的な集中力が凄い。捜査の主導権を握っているのは、カールなのだが、役割的には奇矯な振舞いをするアサドがホームズで、カールのほうがワトスン役をつとめている。この組み合わせが新鮮だ。

正体不明のシリア人で、その名も現職大統領と同じ、というからまずは偽名だろう。同じ成分のインクで上から塗り潰された部分を剥がし、下に書かれた文字だけ残すという神業をやってのける知人を持つ、この人物只者ではない。独訳からの重訳のせいか、砂糖をたっぷり入れたハッカ茶と訳されているが、メンテ(ミント・ティー)のことだろう。イスラムの国では何かというと口にする飲み物だ。香をたいたり、お祈り用のマットを敷いたり、デンマークでは滅多にお目にかかれないものを署内に持ち込む天然ぶりが痛快だ。部下のことが気がかりで心の晴れないカールが、この陽気なシリア人助手によって、どれだけ助けられていることか。

日本の警察小説がつまらないのは、主人公の刑事たちが権力に対して服従するのが当然視されているところだ。警察は国家権力の手足に過ぎない。手足は頭に文句は言わない。カールはちがう。平気で政権担当者の批判もするし、冷笑もする。予算を勝手に横取りして特捜部に回さない殺人捜査課長には、強請りまがいなこともして、プジョー607や新品のコピー機を手に入れる。昇任のための研修を迫る課長の度重なる要請にも頑として首を縦にはふらない。権力者には強いのだ。

シリーズ物を面白くさせるには、脇を固める登場人物が多彩であることが必要だ。カールには別れた妻がいるが、いまだに何かと電話をかけてきては金を引き出そうとする。妻の息子が、母親との同居を嫌って何故かカールの家に転がり込んでいる。フィギュアオタクで料理上手な下宿人もいる。カールは、カウンセリングを担当する心理学者に一目ぼれ状態だが、相手はどうやら既婚者らしい。二人のこれからの関係が気になるところだ。

ミレーデが『パピヨン』や『モンテ・クリスト伯』を思い出して自分を励ましたり、『クマのプーさん』を諳んじて、精神状態を正常に保とうとするところなど、「文学など何のためになるのか」と言ってはばからない連中に読んで聞かせてやりたいところだ。人は、理不尽な状況にあるとき、強靭な肉体があるだけでは生き抜くことはできない。生き抜くためには、そことは異なる好ましい世界を自分の中に持っていることが必要になる。文学はそれを可能にする。ミステリを読んで感動することはあまりないが、この小説には人を鼓舞する力がある。サイコパスの登場するミステリには珍しく後味のいい終わり方にも好感が持てた。

『タイガーズ・ワイフ』テア・オブレヒト

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診療所の上層部とぶつかって無期限の停職処分となったナタリアは、ボランティアとして国境の向こうにある孤児院で予防接種をするため、機材を積んでトラックに乗り込む。かつてオスマン帝国に支配され、その後はオーストリア=ハンガリー二重帝国、さらに第二次世界大戦ではナチス・ドイツに、と戦禍の絶えることのないバルカン半島。最近では、コソボ紛争が記憶に新しい。作家の郷里旧ユーゴスラビアを思わせる架空の国が舞台。

国境の検問でのやり取りから、若い女医が直面しているリアルな状況が伝わってくる。度重なる紛争による国民の疲弊や、異なる宗教・民族間の軋轢、検問によって起きる物流の停滞が、彼女たちの活動を難しいものにしているのだ。さらに、首都から離れた僻遠の山村では、昔ながらの迷信や因習が勢力を保ち、貧困と無知が医療活動への理解を妨げている。

小国でありながら、大国に囲まれた戦略的に重要な位置にあることにより、様々な民族が出入りし、異なる宗教を信じる人々が入り混じる。そんな国に住む人々が常に直面してきた受難の歴史に裏打ちされた大きなストーリーが横たわる。その傍らに、やはり医師として長年働いてきたナタリアの祖父にまつわるサイド・ストーリーの系譜がある。

国境地帯から家に電話したナタリアは、孫の奉仕活動を手伝うと言い残して家を出た祖父が旅先で死んだと聞かされる。遺体は送られてきたものの身の回りの品々が一つもなく、祖母は怒り悲しむばかりだ。とりあえず現地に行ってみる、と言い置いて電話を切った。悪性腫瘍で余命いくばくもない祖父は、何故病を押してまで旅に出たのか。祖父の真意がわからないナタリアは、詳しくは知らなかった祖父の過去を追い始める。

章の変わり目、段落の切れ目で、ナタリアが現地で立ち向かう困難と祖父が話してくれた過去の物語とが、映画のカット・バックのように入れ代わり立ち代わり現れる。しかも、祖父の話に登場する人物や、器物それぞれの来歴が一つの短編小説のように語りだされる。まるで、話の中にわき役として顔を出した人物が次の主役となって冒険譚を語りだす『千夜一夜物語』のように。

「トラの嫁」の話は、祖父が幼い頃過ごしたガリーナ村で体験した実話だ。戦禍にあった動物園から逃げ出したトラが餌を求めて村に現れる。トラを見たこともない村人は悪魔だと騒ぐが、『ジャングル・ブック』を愛読していた祖父は、村人が見たのはトラだと気づく。肉屋のルカは年若い妻を虐待していた。トラの出現と同時にルカは姿を消し、残された少女は妊娠していた。恐れた村人は少女のことを「トラの嫁」と呼んだ。

不死身の男の話はまるで怪奇譚。銃で頭を打たれたガヴラン・ガイレは、棺桶の中から祖父に「水をくれ」と声をかける。蘇生した男は、自分は死ぬことを許されない身なのだ、と身の上話を始める。信じない祖父に男は賭けを申し出る。足に錘をつけて池に沈めよというのだ。息をのんで見守る祖父の目に歩いて向こう岸に出る男の姿が見える。その後も男は、一度といわず祖父の前に現れる。祖父が賭けた『ジャングル・ブック』は、まだ持ち歩いているのか、と確かめるように。

二つの奇譚とナタリアの直面する子どもたちの医療問題とが、いつのまにか結びついてくるところが、この小説のミソだ。この地方では、死後四十日間の間、その霊は天国に行かず地上に止まると思われていて、四十日目に十字路からあの世に旅立つことになっている。ナタリアの宿泊先に泊まっている集団は、昼夜を問わずブドウ畑の下を掘り続けている。リーダー格の男の話では、戦争中一人の男をこの辺に埋めたが、男はそれが原因で成仏できずに集団が暮らす村にたたっている。子どもたちが病気なのもそのせいだ。医者の手は借りずとも、死体を見つけたらそれでみな快癒するのだ、と。

死体を始末した灰を四つ辻に埋める役を引き受ける代わりに、子どもたちの治療を認めさせたナタリアは十字路に行き、地面に穴を掘って瓶を地中に埋め、夜半それを掘り起こしに来るという魔物を待ち受ける。もしかしたら、それが祖父の話してくれた不死身の男ではないか、と想像しながら。待つことしばし、ナタリアの前に現れたのは…。

因習的な村人と科学的な考え方に立つ医者の間に立ちはだかる壁を、ナタリアはどう越えるのか。また「トラの嫁」に心を奪われた祖父が、どうして医療の道に進むことになったのか。それが話を前に進めてゆく推進力なのだが、それにも増して、わき役の来歴の方に読みごたえがある。肉屋のルカはなぜ虐待男になったのか。その理由を知ると、その仕業は許せなくても一抹の悲哀が心に湧く。オルハン・パムクの『僕の違和感』の主人公メヴルトがはまった陥穽に、ルカもまた落ちたのだと。

剥製づくりのために獣を狩るようになったクマ狩りの名手ダリーシャ、或いは何種類もの薬草その他の薬効によって、村人の信頼を取り付けた「薬屋」の遍歴も、ルカに劣らぬ悲しさを湛えている。主筋にあたるナタリアや祖父の話もいいのだが、これらのわき役が醸し出す、名もなき人々が背負うその人固有の物語に心動かされる。もとより、それが今はアメリカに暮らすテア・オブレヒトその人の故郷の人々に寄せる思いでもあるのだろう。これが二十五歳の筆になるものだということが、読み終えた後でもまだ信じられない。史上最年少オレンジ賞受賞作。