青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『橋の上の天使』ジョン・チーヴァー

f:id:abraxasm:20190124173340j:plain

村上春樹が新しく訳したジョン・チーヴァーの『巨大なラジオ/泳ぐ人』がよかったので、「訳者あとがき」の中で紹介されていた川本三郎訳の『橋の上の天使』を探してきた。村上訳と、どこがどうちがうとはいえないのだが、いかにも川本三郎らしい文章で語られるチーヴァーの短篇は、村上訳のそれとはどことなく色あいが異なるのが面白い。それにしても忙しいお二人が自らの手で訳してみたいと思うほど、チーヴァーには魅力があるのだなあ、とあらためて思った。

「作家が好む作家(Writer’s writer)」といわれる、大人好みの小説を書くチーヴァーが、これまで書いてきた短篇六十一篇の中から選りすぐられた、当時本邦未訳の十五篇。村上氏は『巨大なラジオ/泳ぐ人』の「訳者あとがき」で、川本氏の訳と重ならないように考慮した、と述べていたが「さよなら、弟」と「父との再会」の二篇は川本氏の本にも採られている。どうしても外すことができなかったのだろう。訳しぶりの違いを読み比べてみるのも面白いかもしれない。

チーヴァーの短篇の特徴を川本三郎は「サバービアの憂鬱」とまとめている。<suburbia>とは、郊外居住者、もしくは郊外型の生活様式という意味だ。具体的には勤務先のニューヨークに電車で通勤可能なハドソン川沿いの郊外に住む白人のミドルクラス、あるいはその人々の生活様式を指す。さほど大きくはないが清潔な家に住み、芝生のある自宅にプールを持ち、週末はホーム・パーティーを開いて友人を招待しあうそんな人々である。

しかし、傍目には何不自由ない生活を楽しんでいるように見えるそんな人々も、人しれない疎外感や孤独に悩んでいる。自分も同じ境遇に育ったチーヴァーは、恵まれた立場にいる人々の心の奥底に潜む孤独や憂鬱を抑制のきいた文体で静かに語りかける。抑えの利いた筆致で剔抉されるその心の深淵は、アメリカの白人のミドルクラスの生活に縁もゆかりもない我々日本の小市民をも共感させずにはおかない。

八年前に楽しい時を過ごしたスキー場に再びやってきた一家を描く「小さなスキー場で」には、これっぽっちも救いがない。夫一人が空元気を装うが、娘は父から離れるとぐったり疲れているし、妻は妻で休暇を楽しんでいない。一度壊れてしまった家庭を再び取り繕うために、昔の思い出の場所を経巡る巡礼に出ているのだ。言い争う両親をよそにスキーに出かけた娘を惨劇が襲う。これほどまでに容赦のないチーヴァーはめずらしい。

「父との再会」は、良心の離婚以来、久しぶりに父に会う少年の姿を追う。息子を酒場に誘った父は、遜った態度を装いつつ、給仕に高飛車な物言いをする。それが災いして注文を忌避されると悪態をついて店を替える。どこへ行ってもその繰り返し。こういう輩はどこにでもいる。客なのだから、金を払うのだから文句があるか、という横柄な態度は、ふだんの鬱屈の裏返しだ。少年の視点で描かれているため、読んでいていたたまれなくなる。

定番の「クリスマス・ストーリー」も、チーヴァーの手にかかるとこうなる。「クリスマスは悲しい季節」の主人公チャーリーは高級マンションのエレベーター係。「メリー・クリスマス」と話しかける住人に「私には祭日ではないんです」と愚痴る。すると、同情した住人たちは、プレゼントやご馳走をチャーリーにくれる。彼は贈り物や酒や料理を下宿の女主人に持ち帰る。女主人はそれをもっと貧しい人々に持って行く。「最初は愛が、次に慈善の心が、さらに自分には力があるという自信が彼女を行動にかりたてた」とチーヴァーは書く。さらに勤務中の飲酒のせいで、チャーリーはクビにされる落ちまでつく。

「クリスマスは悲しい季節」などは、皮肉が効いてはいるものの、苦いユーモアも加味されている。エッセイや映画の評論では貧しい人々や底辺で生きる者に優しい眼を注ぐ川本氏だが、それ故にというべきか、ほとんどがアメリカに置ける支配階級であるWASP(ホワイト・アングロサクソンプロテスタント)を主人公にしたチーヴァーの作品の中から、かなり辛辣な作品が選ばれている。

家事に追われる妻に安心して頼り切っている夫が、突然妻に好意を寄せる男が現れたことに慌てる様子をシニカルに描いた「離婚の季節」や、たった一度の躓きに生涯責め立てられ、故国を追われることになる女性の悲劇を描いた「故郷をなくした女」。スポーツ万能だった男が寄る年波に勝てず、ハードルに躓くことで、自分のアイデンティティを喪失する「ひとりだけのハードル・レース」。ミステリアスに思えた人妻が自分の考えを口にしたとたん幻滅を覚えてしまう男の身勝手さを嗤う「貞淑なクラリッサ」等々、どれもチーヴァーならではの苦さが口に残る。

そんな中、突然橋を渡ることに恐怖を感じるようになった男の焦りと葛藤を見事に描写してみせる表題作「橋の上の天使」は、世界を喪失してしまったような不安と絶望の中に、まるで天使のように橋上に降り立つ女の子の出現が、一挙に世界を回復させる奇跡のような出会いを描いて、心温まる一篇になっている。女の子がフォーク・ソングを歌うときに奏でるハープは「厚紙のスーツケース」に入っているくらいだから、「五つの赤い風船」が使っていた、あのオート・ハープなんだろうか。弦の響きが耳に蘇るような気がして、とても懐かしかった。これを最後に持ってきた川本三郎の優しさに安堵した。

『何があってもおかしくない』エリザベス・ストラウト

f:id:abraxasm:20190119212031j:plain

しっかり二度読み返した。とはいえ難しい話ではない。各篇に一人の話者がいて、ほとんどモノローグで、自分とそのすぐ近くにいる人々について語る、ただそれだけの話だ。特に何があるというわけでもない。貧しい暮らしを送ってきた中西部、イリノイの田舎町の人々の話である。田舎町の常として、人々はほとんどが知り合いで、一族の昔のことまでよく知っている。中には、人に知られたくないこともあるが、田舎人の楽しみというのは、他人に噂話をすることだ。それもひとかけらの遠慮もなく。

全九話。ひとつひとつが互いにどこかでつながっている。ひとつの話の中で話題に上る人物が、次の話の語り手を務めている。そうやって、多くの視点で多層的に語られることで、トウモロコシ畑と大豆畑とがどこまでも続く中西部にある田舎町アムギャッシュの佇まいや、そこに生きる人々のつましい生活が、鮮やかに、というのではない、薄汚く、わびしく、嫌らしく。それでいて、泥水の中にきらりと光る滑石のような、悲哀の底に沈む救いのようなものが最後に顔をのぞかせる。やりきれない話の集積の中、それが唯一の救いとなる。

九つの短篇をつないでいるのは、若い頃に町を出て行き、今はニューヨークに住む作家ルーシー・バートンその人である。立志伝中の人物というのは、こういう人のことをいうのだろう。子ども時代は相当貧しかった。父はベトナム戦争から帰って来ておかしくなった。いわゆるPTSDである。母親は仕立物をして一家を養った。子どもは三人。長男がピート、長女がヴィッキー、末っ子がルーシーである。

学校でもいじめられた。それでもルーシーは学校から帰りたがらなかった。その頃のことを用務員をしていたトミー・ガプティルは今もよく覚えている。巻頭を飾る「標識」は、そのトミーが語り手をつとめる。トミーは自分の酪農場が火事になり、借財を返すため土地を売って学校の用務員になった。トミーは時々一人暮らしのピートの家を訪れるが、ピートはそれを喜ばない。トミーの酪農場の火事は父の仕業で、トミーはそれを思い知らせるためにやってくるのだと思い込んでいる。

実は、トミーはずっと自分が搾乳機の電源を切り忘れたせいだと思っていた。ピートの父は仕事中手淫をしているところを雇い主のトミーに見とがめられたことを疎ましく思っていたのだ。トミーは火事に遭ったことを悔やんでいない。何が大切なのかを教えてくれた神の啓示だとさえ思うほどに。トミーは笑われると思って誰にも言っていなかったそのことをピートに話す。根っから善良なトミーの存在は、この田舎町の救いであり、この小説を静かに照らす灯りでもある。

人物相関図が必要と思えるくらい関係が入り組んでいる。まず、ルーシーの同級生でナイスリー姉妹の末娘パティは、高校の進路指導を担当していて、ヴィッキーの娘ライラに、子どもがいないことを性的な経験がないせいだと揶揄される。実は、夫は継父に性的虐待を受けて不能になり、パティはパティで母親が他の男と寝ているところを目撃して以来、性行為を嫌悪しており、夫婦仲はよかったが子どもはできなかったのだ。勢いでライラに汚い言葉を吐いたパティは翌日謝罪し、ライラもパティに心を開くようになる。

小説の深部で常に響いているのが、戦争後遺症であり、児童虐待であり、性的少数者の問題であることは論を俟たない。それが表面上に浮び上ることはないが、様々な要因が相乗的に積み重なり、とんでもないところで問題を起こす原因になっている。戦争にさえ駆り出されていなければピートの父もチャーリー・マコーリーも、性に溺れたりせずにすんでいただろう。すっかり変わってしまった夫の扱いに疲れた妻は子どもに辛くあたり、ルーシーたち兄妹は虐待に近い扱い受ける。

パティの姉のリンダや、パティの同僚で仲のいいアンジェリーナの家族の話も挿まれ、ルーシーたち兄弟と同じく貧しい暮らしをしていたメイベルとドティー兄妹も立派になった姿を見せている。ゴミ箱の中に入り、まだ食べられる食べ物を漁っていたメイベルは今では空調会社の社長に収まっている。ドティーはB&Bの経営者だ。二人の逸話も味わい深い。ルーシーとの距離の遠近により、語られる内容の深さや軽さに変化があって、深刻になりがちな話の中で程よいバランスを保っている。ただ、その中にもやはり性的抑圧は姿を覗かせている。どこまでいってもそれはついてくるのだ。

アムギャッシュに久しぶりにルーシーが帰ってきて、三人兄妹が再開する話が「妹」。視点人物は兄のピートである。有名人になった妹を出迎えるために、ふだんしたこともない掃除をし、ラグまで買いに走る兄が微笑ましい。しかし、兄や姉の昔話を聞くうちにルーシーはパニック発作を起こしてしまう。会いたくて帰っては来たが、帰郷は蓋をして覆い隠していた過去を一挙に引きずり出してしまう。作家となった今でも、ルーシーは真実に向き合うことができない。ルーシー・バートンの思いもかけない脆さが痛々しいが、ピートやヴィッキーの真情が垣間見え、読んでいてうれしくなる。読者にとって、ルーシーが実在するようにピートもヴィッキーも生きているのだ。

ニューヨーク・タイムズ』紙の書評がうまいことを書いている。「なぜストラウスを読むかと言うと、その理由はレクイエムを聴くのと同じだ。悲しさの中にある美しさを経験する」。そういう小説世界が好きなら絶対にお勧めである。いうまでもなく『私の名前はルーシー・バートン』の続編、いわば姉妹編である。『史記』でいうなら「本紀」に対する「列伝」。短篇集ながら、フォークナーのヨクナパトーファ・サガにならって「アムギャッシュ・サガ」の誕生と呼びたい。『私の名前はルーシー・バートン』を読んでから読むと面白さは倍増する。

 

『ライオンを殺せ』ホルヘ・イバルグエンゴイティア

f:id:abraxasm:20190116111358p:plain

この国は今や独裁国家である。ちょっと前まではラテン・アメリカ文学によく登場する独裁者小説を面白がって読んでいたけれど、今では面白がってなどいられない。何もちがわないからだ。日本は民主主義国家で、人権が保障されている先進諸国の仲間入りを果たしていると思っていたのは、つい昨日のような気がするが、報道の自由度を見れば一目瞭然。クーデターを起こした連中がまず最初にやるのは報道機関を押さえることだ。現政権はそれを銃ではなく、寿司や焼き肉で可能にしたのだからたいしたものだ。

マスメディアさえ押さえてしまえば、あとは御用学者や幇間タレント、三文文士を使って、嘘をばらまけば、大衆は為政者の言うことを嘘ではないかと疑いながらも周りを見ながら、皆信じているのだからそれが本当なのだろうと思うようになる。一度そうなったら自分を守るために、そっちの側に加担する。批判者が出れば皆で叩く。そうして、真実でないものが大勢を占め、独裁政権は盤石となる。それが独裁国家というものだ。

一度そうなってしまえば、政府側の人間のやることをいくら批判しようが、独裁なのだから三権分立などないわけで、いくら悪いことをしようがおとがめなし。以前なら新聞やテレビが騒いで、世間を鎮めるために泣いて馬謖を斬る必要もあったが、今では頬冠りして時を待てばいい。ほとぼりが収まったところで、減税で恩を売った企業に天下りさせたり、政府に都合のいい事実を提供する名ばかりの第三者機関の長にするなどやりたい放題だ。

そうなってしまえば、いくら国会で追及しようが数の力で押し切られ、何の解決にもならないのはここ数年で嫌になるほど知らされた。選挙でどうにかなるのは、独裁国家となるまでのこと。選挙も金次第でどうにでもなる。一度箍がはずれた桶からは、水は駄々漏れだ。いろいろなところで信じられない不正や汚職、文書の改竄が起きるのも、漏れだした汚水と考えればよく分かる。さて、こんな国をどうすればいいのか。

表題の「ライオン」は独裁者のことである。我が国のようなソフトな独裁国家では独裁者は必ずしもカリスマ的なマッチョである必要はないが、マチスモが一般的なラテン・アメリカ諸国では、軍事的独裁者は強くなければならない。その点、独立戦争における活躍で「英雄少年」と称された現大統領、陸軍元帥ドン・マヌエル・ベラウンサランは、まちがいなしの「ライオン」であった。なにしろ、沖合の燧石島にある砦に立て籠るスペイン軍を急襲するのに、マチェーテ(山刀)一振りを口にくわえて裸で海を渡り、敵を全滅させたくらいだ。

アレパの現行憲法では再選が禁じられているベラウンサランは大統領選に右腕のカルドナを出馬させた。その対立候補である穏健党のサルダーニャの死体が海から引き揚げられるところから話は始まる。殺ったのはベラウンサランと分かっているが、その本人から捜査を命じられた警察は別の犯人を仕立てて銃殺する。権力者が無理を通せば、周辺にいる者がその無理を通すために、その何倍もの無理を通さなくてはならぬのはこの国に住む者ならよく知っているはずだ。

希望を断たれた穏健党の同志は、海外に移住して一流大学を出たペペ・クシラットを次の候補として選ぶ。三か国語を話し、乗馬もゴルフもすれば、鹿も撃ち、飛行機も持っている。三十五歳という若さも魅力だ。「飛行機で来てくれれば、選挙戦の勝利は間違いない」というのが笑わせる。アレパでは誰も飛行機を見た者がいないのだ。狭い島国である点でアレパは日本に似ている。国民は広く世界を知らず、また知ろうともしない。自分たちにないものを持っているというだけで憧れは賞賛に替わるのだ。だからあんなに外遊ばかりするのか。

お祭り騒ぎで待ち受ける島民の前に姿を現したクラシットだが、大統領と会ってみて、立候補は見送ると決める。国民は大統領を選ぶと踏んだからだ。クラシットに期待していた穏健党のシンパで富裕層のベリオサバル家の妻アンヘラは落胆する。クラシットはアンヘラに真意を打ち明ける。大統領を殺す、と。そう、たとえ、どんな悪党であろうと民意をつかんだ現職を相手に落下傘のように舞い降りた候補者が勝てるはずもない。しかし、法を改悪してまで現職にしがみつく独裁者を放置できない。ならばできることは、殺すことだ。

この小説は、大統領暗殺の計画が、何度も挫折するのをコミカルかつアイロニカルに描いてみせる。肥って来てはいるが、ベラウンサランは今でも燧石島陥落記念日にはかつてのように泳いで海を渡って見せる。民衆はその姿に歓喜する。それに比べ、穏健党の同志たちは、口ばかりの日和見主義で全く頼りにならない。頼みのクラシットもせっかくベラウンサランに弾を撃ち込みながら、防弾チョッキのせいで、傷を負わせることもできない。その挙句、かえって追われる身になる。

地の文の文末が現在形で終わっているので、戯曲のようだと思ったら、もともと映画の脚本として書かれたらしい。それもあるのだろう。三人称客観視点で通されていて、話者は登場人物から等間隔の距離を置き、特定の人物に寄り添うことがない。人物は突き放され、舞台の上で右往左往しているのだ。そんな中、意外な人物が最後に脚光を浴びる。颯爽と登場した貴公子然としたクラシットを助けたのは、貧乏教師のペレイラだった。

金にも教養にも恵まれた一流人士がなしえなかったことを、ヴァイオリンが弾けることだけが頼りの全くマッチョらしからぬ貧乏教師が最後に思いもよらぬ働きをしてみせる。この結末には強烈なアイロニーがある。政治的なイデオロギーも、選ばれた階級であるエリート層の使命感も、そんなものは何の頼りにもならない。事を起こすのは一人の人間に突然降りてきた何かをしなければという思いである、というのが結論なのだから。

ラテン・アメリカ文学というと途方もない奇想や奔放な出来事が次々と襲いかかるマジック・リアリズムを期待するかもしれないが、これはそういう種類の小説ではない。むしろ、端正な戯曲のような小説だ。それでいて、映画の脚本らしく、急ごしらえの飛行場に着陸するブレリオや、ベリオサバル家のパーティーの場面、闘鶏場に向かう大統領の車を襲撃する場面など、映画的な興趣に富む場面もふんだんに用意されている。後に映画化されてもいるようだ。独裁政権とどう立ち向かうか、我が身と引き比べながら読むと一段と味わい深い。

『鐘は歌う』アンナ・スメイル

f:id:abraxasm:20181025154929j:plain

旅の土産にその街のランドマークになる建築をかたどった小さなモニュメントを買って帰ることにしている。ロンドンで買ったそれはロンドン塔をかたどったもので、ビーフイーターや砲門に混じって、ちゃんと大鴉(レイヴン)もいた。言い伝えには「レイヴンがいなくなるとロンドン塔が崩れ、ロンドン塔を失った英国が滅びる」とある。それで、今でも塔内には一定数のレイヴンが飼育されている。飛んでいかないように羽先が切られているという。

この物語は、その言い伝えをもとに書かれている。舞台は言うまでもなくロンドンとその近郊。時代は定かではないが、荷馬車が交通手段になってはいても地下には鉄道の跡もあるし、電話線も敷かれているところから見て、そう昔のことではない。しかるに主人公のサイモンを馬車に乗せてくれた御者台の男は「徒弟奉公をするのかい」と尋ねている。まあ、ファンタジーで時代をどうこう言うのも間が抜けている。何かがあって、時代が逆行してしまっているらしい。

後で分かることだが、ここで描かれているロンドンは、大崩壊後のロンドンであって、それ以前のロンドンではない。大洪水に遭って、ロンドンの街は崩壊した。塔から最後に逃げ出した二羽のレイヴンは記憶と言葉を司っていたため、人々は記憶を保持し続けることができず、その日その日を唯いたずらに生きていた。人々は話すことはできても文字というものを覚えていないので書き留めることはできない。文字は昔の記号としか理解できていない。

しかし、人々には慰めがあった、朝課や晩課として鳴らされる教会の鐘の音(カリヨン)には「一体化のストーリー」が巧妙に織り込まれていて、人々はそれを毎日定時に聴くことで、大きなストーリーに身をゆだね、自分個人に関わる記憶や、それにまつわる心配事とは無縁の、安逸な日々を貪ることができるのだった。

ところが、そんな人々の中にあって記憶を保持し続ける人々がいた。「記憶物品」という記憶を呼び戻す縁となる物を手にとると、その人の記憶を読むことができるのだ。そういう人々を「記録保持者」という。サイモンの母はそのメモリー・キーパーだった。日々記憶を失う人々は「記録保持者」に「記憶物品」を預けることで、欲しいときに記憶を読んでもらえる。母の手には多くの人から預かった「記憶物品」が集まってきていた。死の近づいた時、母は同じ力を持つサイモンに後を託す。しかし、サイモンはその使命について何も知らされていない。

読みはじめると最初から戸惑う。ソルフェージュのハンドサインだの、カリヨンだの、やたらと音や音楽に関する記述ばかりが続くからだ。しかも、主人公はどうやら徒弟奉公に出られそうになったばかりの田舎育ちの若者に設定されている。視点は一人称限定視点で貫かれているから、サイモンは一日だけの記憶と文字代わりに使う旋律だけを頼りに、母から聞いたネッティという人を探してロンドンを彷徨う。

何も知らない主人公が、故郷を後にして、新しい土地に向かい、そこで仲間を見つけ、敵対者に追われながら、次第に自分の秘めた力に気づいてゆく。そして、隠された使命を理解し、葛藤の果てに協力者と力を合わせて、使命を果たし、やがて帰還する、というファンタジー御用達の、ウラジーミル・プロップのいう昔話の基本的な構成要素がここでも踏襲されている。

気になるのは、オーウェルの『1984』に代表されるディストピア小説をなぞっている点だ。主人公とその協力者であるリューシャンは、カリヨンを用いた「一体化ストーリー」による人民支配を続ける「オーダー」という組織に敵対する。その「オーダー」に敵対する組織が「レイヴンズギルド」と呼ばれる対向組織。彼らの目指すのは、個々の記憶の回復と同時にもっと大きな、例えば都市や国家というものの歴史の記録を残すことである。

「オーダー」は、人々から文字を奪うため「焚書」を行うし、人々の統治を完遂するため「一体化ストーリー」の定着に余念がない。こうまであからさまだと、近年かまびすしい、フェイク・ニュースという言葉の蔓延や権力によるマス・メディアの支配に、誰であれ思いが及ぶ。寓意の底が見えすぎるのだ。

主人公のサイモンは抵抗組織に属する母を持つ特殊能力保持者で、その協力者であるリューシャンはもとは「オーダー」側の人間で、ゆくゆくは修楽師から、カリヨンの旋律を作曲する大楽師を目指していた、いわばエリート中のエリートだ。ストーリーが単線的で紆余曲折に乏しく、人物の出入りも少ない。必然的に、真実に目を向けることなく惰眠を貪り、安逸な日々にのうのうとするもの言わぬ人々に対する覚醒者の焦慮がそこここに透けて見える。

いずれにせよ、ただの人々に活躍の余地はなく、世界は一部の人々の手に握られているのではないか、という疑念が胸から離れない。それともう一つ、音楽に堪能な読者には頻繁に記される音楽用語は自明であるのかもしれないが、一般の読者にとっては、近づき難い壁となってそこにある。作品世界に入りきれないもどかしさが残る。さらには、文字を知らないサイモンの独り語りにしては、描写も説明も流暢すぎる。世界が回復してから後に記された文章であることをどこかで書いておかないと不親切ではないか。そんな疑問が残った。

 

『巨大なラジオ/泳ぐ人』ジョン・チーヴァー

f:id:abraxasm:20190109161525j:plain

ジョン・チーヴァーの作品は読んだことがなかったが『泳ぐ人』というタイトルには見覚えがあった。バート・ランカスター主演の映画ポスターを見た記憶があるのだ。1968年の映画だ。たしか、次々と他人のプールを泳いでいく話だった。奇妙な話だという印象を持った記憶がある。水着一つを身につけた男が、そのままの格好で他人の家にある私用プールを泳ぎ渡る映画を見たいと思うほど、当時の私は成長していなかった。

だから、ネディー・メリルに会うのは初めてだった。なるほど、こんな日なら家まで八マイルの距離をジグザグにつながれた水路を泳いで渡りたくもなろうか、という美しい夏の日のプールサイドの情景から話は始まっていた。チーヴァーが作品の舞台によく使う郊外の住宅地には、プールとメイドがついている。日曜日で多くの家ではパーティーが開かれていて、ネディーはどこでも歓迎され酒に誘われる。ところが途中から雲行きが怪しくなる。

嵐に遭い、体力は急に消耗し、パーティーで冷たくあしらわれ、ネディーは心身とも疲れ果て、ようやく自宅に帰り着く。そこで彼を待ち受けていたものとは…。意表を突いた幕切れに、それまでの情景描写とネディーの心身の変化がシンクロしていたことに改めて気づかされる。見事なテクニックである。しかし、これを映画化しようなどとよく考えたものだ。機会があったら映画の方も見てみたいと思った。

もう一つの表題作「巨大なラジオ」はニューヨークの高級アパートメント・ハウスに住む中年夫婦の話。クラシック音楽が好きな二人はよくラジオで音楽を聴くのだが、そのラジオが壊れ、新しいラジオを買うことに。雑音がするので修理してもらうとラジオから人の話し声が聞こえるようになる。聞き覚えのある声から、それが同じアパートの人々の声であることに妻は気づく。

よくパーティーやエレベーターで顔をあわせる素敵な人々が、みな部屋では罵りあったり、金のことばかり気にしていたりすることがだんだん分かってくる。しかし、悪いこととは知りながら妻は盗み聞きをやめられない。それを知った夫は妻をなじる。夫の話から、二人の暮らしも周りにいる人々と変わらないことを読者は知らされる。高級アパートに住む「中の上」に属する人々も一皮むけばこんな程度、という話を上から目線を廃し、内側から描いているところがこの人の持ち味か。

長篇もあるが、ジョン・チーヴァーの本質は短篇作家だ。六百篇もあるその中から村上春樹が小説を十八篇、エッセイを二篇厳選してくれている。どれも、読みごたえのある作品である。「ニューヨーカー」のような雑誌が発表の舞台である、チーヴァーのような短篇作家はアメリカでは量産しなければ食べていけない。そのため軽い読み物といった扱いを受けたようだが、日本のような短篇を好んで読む国でなら受け入れられるのではないだろうか。

郊外の住宅地に住むWASP(ホワイト・アングロ-サクソン・プロテスタント)の生活を描くことが多いが、表面的には何不自由のない人々の中にある、階層を維持するための焦燥や、落ちていくことへの不安を、あくまでもリアリズムの手法で、時にはユーモラスに、時にはアイロニカルに、優れた人間観察力を十二分に発揮して短い枚数にきっちりまとめてみせるその力量は大したものだ。何より、同じ土地を舞台にし同じ階層の人々を描きながら、マンネリズムに陥らないところが素晴らしい。

ほぼ時代順に並んでいる小説の最後に置かれた「ぼくの弟」という作品だけは時代順にはなっていない。というのも、その次に置かれたエッセイ「何が起こったか?」に、この小説の成立過程が明らかにされているからだ。エッセイを読むことで、作家がどのようにして小説を書きあげるかが手にとるように分かる。少なくとも、チーヴァーという作家が、どこからその材料を集めてきて、どのように組み合わせるかはよく分かる。

「ぼくの弟」は、夏休み、海辺に建つ母の暮らす家に家族が集まる話である。仲のいい兄弟姉妹の中で、末弟のローレンスだけが、どちらかといえば享楽的な家族と打ち解けない。彼の目には家族のすることなすことが文句の種になる。酒を飲んだり、博打をしたり、仮装パーティーに打ち興じたりする家族を弟がどう見ているかを兄である「ぼく」は、あれこれ想像する。そして「ぼく」と弟はついに衝突してしまう。

こう紹介すると、作家は「ぼく」の側に立っているように思えるが、事実はそう簡単なものではない。詳しいことは「何が起こったか?」を読んでもらうとして、読めばなるほどと思うにちがいない。ところで、日本におけるチーヴァー紹介として、既に川本三郎氏に『橋の上の天使』という短篇集があり、村上氏は今度の短篇集を出すにあたって、重複を避けることを心がけたが、この作品だけは川本氏の本に「さよなら、弟」として載っているらしい。川本三郎ファンとしては、是非探し出して読み比べてみたい。

 

『自転車泥棒』呉明益

f:id:abraxasm:20190105120440j:plain

作家自身を思わせる男が台湾の中華商場界隈に生きる日常を描くリアリズム部分と、訳者が「三丁目のマジック・リアリズム」と呼んだ非日常的で不思議な出来事が起きる物語部分とが違和感なく融けあって一つの小説世界を作っている点が呉明益という作家の特長だ。たしかに『歩道橋の魔術師』では、その物語は限定なしでマジック・リアリズムといえるほどのものではなかった。

それが今回はかなりレベル・アップしている。単なる古道具やがらくたを積み上げた倉庫の通路が洞窟となり、廃屋の地下室にたまった水は異世界と通じる地下の通路となる。松代大本営と同じく空襲を恐れ、地下に設けられた空間に殺処分を命じられた象が隠れて飼育される。土の下に隠された自転車がガジュマルの枝に抱かれて中空に上るなど、どれもこれもマジック部分の規模が大きくなっている。

落語に三題噺というのがある。客からお題を三つ頂戴し、その場で一つの話に纏め上げるという噺家の腕の見せ所を示す芸の一つだが、その伝で行けば『自転車泥棒』は差し詰め「父の失踪」、「自転車」、「象」の三つの題で語られた三題噺といえるかもしれない。あまりにも三つの主題のからまり具合の造作が目について、リアリズム小説の部分がやや後ろに引っ込んで感じられるくらいだ。

軸となるのは、盗まれた自転車をめぐる「ぼく」の捜索譚である。「ぼく」の父は中華商場が崩壊した翌日、自転車で出かけてそのまま消えた。働き手である父を失った家族は苦労して今に至る。ところが、ある日失踪当時父が乗っていた自転車が「ぼく」の目の前に現れる。部品は変えられていたが車体番号が同じだった。「ぼく」は、時間をかけて関係者に近づき、自転車の来歴を探る。おそらくその果てに父にたどり着けるにちがいないと考えて。

呉明益自身がかなりの自転車マニアらしい。それも、古い自転車を「レスキュー」し制作当時の姿にする自転車コレクターなのだ。作家は小説における虚と実の割合は七対三くらいがいいと考えているという。その三の一つに今回は自転車が使われている。以前に発表した作品の中で中山堂で自転車を乗り捨てる話を書いたところ、読者から「あの自転車はその後どうなったのか」というメールが届く。

小説は小説であり、その中で終わっていると答えてもいいのだが、作家は読者と同じ世界に入って考えてみた。その解答が、この盗まれた自転車をめぐる小説である。台湾のエスニック・グループをめぐる小説であり、日本に支配されていた時代と現在の因果を巡る小説である。それは必然的に、日本によって統治されていた時代、日本や台湾その他の民族がどのような目にあわされたかという話に及ぶ。

「ぼく」は狂言回しの役に徹し、多くの登場人物が過去の物語を伝える。それは直接語られることは稀で、カセット・テープに残された音源のテープ起こしされた原稿であったり、小説であったり、時には象を話者として語られたりもする。手紙やメール、小説という形式の昔語り、と多彩な表現形式が駆使されているのも特徴だ。ある意味で、これは失踪した父の手がかりを求める「ぼく」という探偵の捜査を綴ったミステリとも読める。

ただし、そこに明らかにされているのは父の個人情報ではない。大量死を遂げた日本兵の成仏できない魂が、傷を負った半ばヒト、半ばは魚となって水の中で群れる姿。その賢さと強さのせいで、荷駄を背負って戦場を行く道具として使役される象と象使いの心のつながり。自転車に乗ってジャングルを疾駆する「銀輪部隊」等々、戦時中の台湾やビルマに生きた人々のあまり知られることのなかった生の記録である。

過去を語る物語だけがこの小説の主役ではない。「ぼく」が自転車について調べ始めるにつれて芋づる式に巡り会う個性的な人々のことを忘れてはいけない。インターネットを通じて古物商を営むアブーがそもそものはじまりだ。アブーから自転車のダイナモを買った「ぼく」は直接会うことになり「洞窟」のような倉庫に足を踏み入れる。それから交友が始まり「ぼく」の探してる「幸福」印自転車の情報がアブーからもたらされる。

コレクターのナツさんが喫茶店に貸し出した自転車の持主は別にいた。「ぼく」は喫茶店に何度も出かけアッバスという戦場カメラマンと出会う。自転車はアッバスは昔の恋人アニーが見つけてきたものだという。カセットテープの声はアッバスの父のものだ。この小説は主人公も舞台も異なる十の短篇を自転車という主題でつないだ連作短編集としても読める。それぞれの篇と篇は「ノート」という、自転車に関する歴史や「ぼく」の家族の歴史を語る部分でつながれている。

単なる短篇集ではなく連作短篇集だというのは、一つ一つの章が巧妙に関係づけられ、過去と現在を自在に往還し、見知らぬ同士を手紙やメールを通じて結びつけ、果てはビルマの森で敵同士であった象を扱う兵士をすれちがいさせ、長い時間をかけて音信のなかった父との出会いを経験させるという、上出来のドラマを見ているような気にさせるからだ。なお、訳者の天野健太郎氏は昨年十一月、四十七歳の若さで病没された。ご冥福をお祈りする。

『淡い焔』ウラジーミル・ナボコフ

f:id:abraxasm:20181226154008j:plain

旧訳の『青白い炎』は筑摩書房世界文学全集で読んだことがある。例の三段組は読み難かったが、詩の部分は二段組で、上段に邦訳、下段に原文という形式は読み比べに都合がよかった。新訳は活字が大きく読みやすいが、英詩は巻末にまとめてあるので、註釈と照合するには使い勝手がよくない。詩の部分四十ページ分コピーするか、註釈者が勧めるようにもう一冊用意するといい。

というのも、この本は「まえがき」に続いてジョン・シェイドという詩人の九百九十九行に及ぶ四篇からなる長詩が記され、その後にチャールズ・キンボートによる註釈が記される構成になっている。キンボートはまず註釈を読んでから詩を読むように示唆しているが、いずれにせよひっきりなしに頁を繰ることを要求される。それというのも詩だけでなく、註釈を参照せよと命じる註釈が存在することもあって、頁を繰る手が止まらなくなるのだ。

『淡い焔』は、ナボコフプーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』の英訳に大量の註釈をつけて出版したことが執筆の契機となっている。厖大な注釈の中でナボコフは自分の考えを思う様披瀝しているが、おそらくそこに註釈者の自由を感じたのだろう。註釈者は、たった一行の詩に対して何ページもの註釈をつけることが可能なのだ。敷衍すれば牽強付会な解釈をすることすらできる。キンボートがやろうとしているのはつまるところそれである。

シェイドの詩「淡い焔」は、自分の人生、愛娘の死、愛する妻、死後の生に関する考察といった、いわば極めて個人的な主題が、英雄詩体二行連句(ヒロイック・カプレット)で弱強五歩格(アイアンピック・ペンタミター)の押韻を踏んで書かれている。一見すると、そこには註釈に出てくるようなキンボートの故国ゼンブラに関することなど書かれていないように思える。

ところが、ゼンブラからアメリカに亡命したキンボートは同じ大学に勤務し、以前から知る詩人シェイドの隣に住むこととなり、夕刻など一緒に付近を散歩するおり、詩人にゼンブラの話をしていた。詩人ははっきりとは書いていないが、ゼンブラやその王チャールズについてそれとなく仄めかしている詩行が多くあると思い込んでいる。

註釈は、はじめこそ註釈らしい体裁をとっているが、次第にゼンブラという王国に起きた政治的な紛争と、囚われた王の脱走劇、王の暗殺を命じられた刺客の追跡、といったストーリーが増殖してくる。しかも、シェイドが四篇の詩を完成するまでの日数と刺客の探索から暗殺に至る日数までがぴたりと符合する。もっとも、ひどい下痢に悩まされていた刺客はあろうことか急ぐあまりキンボートではなく後ろにいたシェイドを殺してしまう。

自らの素性を明かしていないが、誇大妄想でなければ、キンボートが国を追われたゼンブラの国王チャールズらしい。キンボートは夫の死で取り乱す未亡人を言いくるめ、詩の出版の権利を我が物とする。無論報酬はすべて妻のものになる約束で。かくして、輪ゴムで束ねた詩を清書した八十枚のインデックス・カードと別にクリプ留めされた草稿を手に入れ、「淡い焔」はキンボートの註釈をつけて出版されることになる。

ロリータやプニンといったナボコフの作品に登場する人物名がかくれんぼしたり、ポープやシェイクスピアの詩が引用されたり、ナボコフ自ら書き起こした四篇からなる長詩「淡い焔」は、言葉遊びを多用した、それだけで充分楽しめる押韻詩になっている。そこに、大量の註釈が付けられる。原稿を秘匿し、果たしてあるのかないのか定かでない草稿や加筆訂正箇所を自在に使うことで、キンボートの妄想は肥大し疾走する。

もちろん一つ一つの註釈はまず詩についての記述から始まる。しかし、すぐに逸脱をはじめ、アメリカに来てからのシェイドとの交際、さらに、ゼンブラ時代の思い出へと話はそれる。偏執病的パーソナリティの所有者チャールズ・キンボートの理想郷、ゼンブラの物語には、王の城から劇場の楽屋に通じる秘密の通路や少年愛、変装等、偏愛のギミックが惜しげもなく浪費される。

知っての通り、ナボコフロシア革命で殺された政治家を父に持つ。その後ヨーロッパを経て最終的にアメリカに腰を据え、大学で文学を講じながら小説を書くことになる。故郷喪失者であるナボコフアメリカという異郷にあって、少年時代を過ごしたロシアを強く懐かしんでいたにちがいない。キンボートのゼンブラに寄せる思いはナボコフが今は亡きロシアに寄せる思いが過剰に重ねられている。

しかも、ナボコフアメリカで、英語で執筆するようになる。『エヴゲーニイ・オネーギン』でプーシキンの韻文を英訳する際、はじめは脚韻を踏むことを考えたが、文脈に沿って訳すことを優先する目的で後にそれを放棄している。シェイドの詩は、その時置き去りにされた情熱の照り返しではなかろうか。

「読書とは再読のことだ」というのはほかならぬナボコフの有名な言葉だが、『淡い焔』こそは、その再読を読者に強いる目的で著された最強の書物だろう。まえがき、「淡い焔」──四篇からなる詩、註釈、索引で構成されるこの書物は、註釈から詩、詩から索引へと、さながら枝から枝へと飛び移る連雀のごとく、読者を絶えず使嗾してやまない。