『名もなき人たちのテーブル』マイケル・オンダーチェ
人は、いつ何をきっかけにして大人になるのだろうか。マイケルは11歳。セイロン(今のスリランカ)のコロンボから二つの大洋を越えてイギリスに向かう汽船の客となる。幼い頃に分かれた母親がイギリスの港で待っているはずだ。たった一人で三週間の船旅を過ごした後はイギリスの学校に入学することになっていた。
あてがわれた船室は喫水線より下にあり、窓もなかった。食堂での席は七六番と決まっていて、船長たちのテーブルからもっとも離れた位置にある。同席する九人のうちの一人、ミス・ラスケティに言わせると、その席は俗にいう<キャッツ・テーブル>で、「もっとも優遇されてない立場ってこと」らしい。「名もなき人たちのテーブル」という邦題はその意訳。
七六番テーブルには同じ年頃の少年が二人いた。喘息持ちでおとなしいラマディンと、学校の一年上で悪名高き反逆者カシウスだ。他にも、落ち目のピアノ弾きに植物学者、元・船の解体業者に無口な仕立屋といった面白そうな大人が何人もいた。親と離れ、一人で大人たちの中に交じって過ごす日々は、少年たちにとって刺激的だった。乗客の中には恐水病の治療のため本国に向かう貴族もいれば、鎖につながれた囚人もいた。子どもを使って盗みを働く偽男爵やら、旅芸人の一座といった曰くありげな人々の秘密を盗み見ては想像をたくましくする少年たちは、いつしか、その冒険の渦中に入ってしまうのだった。
自称男爵にスカウトされ、盗みの手伝いをするくらいのことは、そのスリルを味わっていられたのだったが、高僧を馬鹿にしたせいで呪をかけられた貴族の死にはラマディンが絡んでいた。殺人罪で捕らえられた男を父に持つ娘の悲運には皮肉屋のカシウスさえ胸を傷めた。果ては、同船していた従姉のエミリーが殺人事件に巻き込まれてしまうなど、少年の目に映る大人の社会は危険に満ちていた。
今は、テレビ番組にも呼ばれるほどの有名作家となったマイケルが、少年のころの船旅を回想しつつ、二人の旅の仲間のその後、テレビを見たミス・ラスケティからの手紙に触発されたエミリーとの再会を語ることで、当時の自分には計り難かった大人の世界の秘密が解き明かされてゆく。少年時の胸躍る冒険の回想譚と思わせながら、じわじわとミステリ小説仕立ての大団円に向かってゆく、その手際はなかなかのもの。
少年の眼から見ることで、キャッツ・テーブルの仲間はもちろん、それ以外の乗客たちがいかにも魅力に溢れて描き出されている。大人になったマイケルの目を通して描かれる同じ人物の評価の差に、実人生を知った物書きの視線が感じられ、その温度差に幾許か人生の悲哀を感じずにはいられない。少年時代の自分を視点人物とした児童文学風の物語と、回想視点を用いて描き出された大人の男女の出会いから恋愛関係、そしてその崩壊に至る人生模様の対比が鮮やかである。
人は、いつから何をきっかけにして大人になるのだろうか。それは、幼いながらも自分以外の誰かを守ろうと決意した時点からではないだろうか。少年たちは、二十一日間の旅のなかで、その経験を得る。しかし、当然のことに、その時はそれに気づかない。彼らは、それを胸中に抱えながら知らず知らず日を重ねそれなりの歳になるのだ。
三人は船を下りたときから別々の道を歩き始め疎遠になっている。マイケルは、かつてラマディンが自分を見つけ出してくれたように、今度はカシウスが自分を見つけられるように、あの船での出来事と、その後日談を書いてみようと思う。それが、この小説なのだ。
主人公の名前や経歴が作家自身のそれと重なるため、自伝と読まれることを恐れ、末尾にフィクションであることを強調する一文が置かれている。もちろん、そうにちがいなかろう。嵐の晩、甲板にロープで身体を縛りつけ、波に呑まれるシーンをはじめ、キプリングの小説よろしく身体にオイルを塗りたくられ、ドアの上の隙間から他人の部屋に侵入する場面まで、あまりに冒険小説的エピソードに溢れすぎている。しかし、だからこそ、案外、細部は事実に基づいているのではないかと想像したくなる。わざわざ一頁を割いて、こう記してさえおけば、その筋で働いていた登場人物にも、いらぬ迷惑のかからぬ道理である。