青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『優雅なのかどうか、わからない』松家仁之

f:id:abraxasm:20141020172958j:plain

ミア・ファローが、じっとこちらを見つめている。その右頬あたりに白抜き、横書き三段組でタイトル。同じフォントの漢字の上に小さくローマ字を添えた作者名。映画かファッション関係の雑誌のような装丁だが、著名な編集者でもある著者三冊目の小説である。なぜ表紙がミア・ファローなのかは読めばわかる。処女作が軽井沢、二作目が北海道、そして今度は吉祥寺。舞台となる町や村にある種の選択眼が働いているようだ。

岡田匡は四十代後半の雑誌編集者で、金融関係の研究所に勤める妻と離婚したばかり。息子はアメリカ留学中で卒業後も海外で暮らす。マンションは妻に明け渡し、自分は井の頭公園を見下ろす古い家を改装して住むつもりだ。優雅な独り暮らしのはずだったが、偶然、かつて愛した佳奈が近くに住んでいることを知る。着々と進む改装工事と、どうなるか予測もつかない佳奈との関係。四十代の独身男がかつてふられた女性に再会し、あれこれと妄想をふくらませるという、他の作家が書けばあられもない話が、この人の手にかかると、こういう具合になるかという小説の手本みたいな一編。

主人公は離婚で落ち込む様子もなく、古くはあるが暖炉やカンチ・レバーのあるテラスつきの一軒家という恵まれた物件を破格で手に入れ、知り合いの建築家に改装を依頼し、その計画を実に愉しそうに語る。炊事、掃除も苦にならない凝り性の男が妻の干渉から逃れての独り暮らし、おまけに愛想のいい猫まで居ついている。こんな羨ましい話はない。やれ、家具は北欧がいいだの、ワックスは蜜蝋入りだの、お得意の薀蓄が顔を出す。

この人の小説には必ずといっていいほど料理の話が出てくるのだが、今回も青唐辛子を網で焼いたり、餃子を手作りしたりと、相変わらずこまめに働いている。その合間合間に、アオバズクやらシジュウカラやら、武蔵野の森をねぐらにする鳥に、カマドウマまで顔を出し、自然のなかに季節の移ろいを感じさせる仕掛け。会社や仕事の話はほとんどなく、わずかに谷崎潤一郎とオランダの画家の話が出てくるくらい。あとは、武蔵野の名残りを残した界隈に酔狂にも古い家を借り、好みの家に改装をする歓びを淡々とつづる。このままでは国木田独歩ではないか、と思った頃に蕎麦屋での出会いが用意されている。

離婚した主人公は、佳奈への思いを隠しきれない。佳奈も過去の別れ話を忘れたように食事をともにする。このままうまくいくのかと思ったところに佳奈の父が倒れ、介護が必要になる。匡の方も、せっかく改装が進んでいる最中なのに、もとの持ち主がアメリカから帰国するので、家を出なくてはならなくなる。なだらかに流れていた曲が終盤に至るや急激な転調が次々と襲い掛かってくるといった曲調で、敏腕編集者らしく、さすがにつぼを押さえた展開である。

熟年離婚(というには少し若いが)、親の介護、子どもの結婚問題と、今の世相をたくみにとりいれたリアルな設定に、この著者ならではの都会的なセンスに溢れたインテリアや絵画、暖炉や薪ストーブといった自然志向のアイテムを配した、サービス満点の小説である。個人的には、人間なら八十歳になる、ふみという名の雌猫がいちばんのお気に入り、パンを捏ねるような前あしの仕種を、メイク・ブレッドというのだとはじめて知ったのは収穫だった。ひとり寝のベッドにそっと入ってくるところや、匂いつけをするところ、そして姿を消す場面。去年逝った我が家の猫を何度も思い出し、鼻の奥がつんとなった。罪な小説である。

自分なりの決まりごとがあり、それを通すことが心地よい男が、別のシステムに従って動く他者である女と、どう生きてゆくか。愛し合ってさえいれば、自我は抑えられるものなのか、それはずっと長きにわたって可能なのか、一度結婚に失敗した男と、愛してはいたが、妻のある男との展望のない生活を続けることのできなかった女が、再び出会うことで、新しく何かがはじまるのか。互いの思いやりや気遣いが透けて見えるおだやかな日常をおびやかす身辺の瑣事。どんなに起伏のない日常を送る読者にも感情移入をゆるす、いかにも静かな身辺小説は、松家仁之の独壇場である。四十代後半にしてはその行動や心理がいかにも若く思えるのは、こちらが歳をとっているせいなのだろう。この作家が好きなファンには前作よりも受け容れられるのではないだろうか。