青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ウッツ男爵』 ブルース・チャトウィン

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副題にある通り、ある蒐集家の物語。かねがね北方ルネサンスに興味を抱いていた語り手の「私」は、雑誌編集者からルドルフ二世――アルチンボルドが野菜と果物で肖像画を描いた、錬金術に関する厖大な蒐集でも知られる神聖ローマ皇帝――について書くように依頼され、プラハを訪れたことがあった。一九六七年というから、ソ連軍の戦車が「プラハの春」を押しつぶす一年前のことだ。誰か専門家を知らないかと尋ねる「私」に、紹介者は即座に言った。「ウッツがいいでしょう。ウッツは現代のルドルフだ」。

ウッツ男爵も蒐集家であった。集めていたのはロココ調の優雅な磁器として知られるマイセン。爵位の方はいささかあやしいが、蒐集は質、量とも一級品だった。幼い頃祖母の家で目にして以来、蒐集し続けたアルレッキーノをはじめとする磁器の人形たちがシロカー通りにある小さな家の二部屋を埋めつくしていた。時代の動きを読むのに長け、第二次世界大戦スターリン主義の時代も巧みに蒐集を守り通した。ところが、その蒐集が消えた。

一九七四年三月にウッツが死に、遺贈先となっていた美術館の館長が部屋を訪れたとき、残された家具類の棚からは一切の蒐集品が姿を消してしまっていたのだ。蒐集品はどこへ行ったのか。骨董蒐集に関するペダンティックな論議を愉しむ洒落た小説『ウッツ男爵』は、この謎を解くミステリという一面を持っている。探偵役の「私」は、生前のたった一日、蒐集を見ながら本人に聞いた話と、その死後何年か後にプラハを再訪した折に関係者を訪ねて訊き集めた情報をもとに推理し、行動する。

訳者をはじめ、多くの読者が、この物語をウッツ個人の、或は蒐集家と呼ばれる人々にありがちな、数奇な人生を描いたものと受け止めているようだ。けれども、それはちがうのではないだろうか。評者も一度目は、ウッツの物語として読んだ。しかし、再読して印象が変わった。この物語は最初から最後まで、下女のマルタの物語ではないのか。

小説の冒頭は、ウッツの友人で「私」とも面識のあるドクトル・オルリークの視点からウッツの葬儀の様子を描いているが、参列者が二人という侘びしげな葬儀は、マルタの嘲笑を含む乾杯で終わっている。そして、その最後はといえば、「私」が未亡人の家を訪ねる場面で終わっている。最後の言葉は「ええ、私が、ウッツ男爵夫人です」だ。初読時、謬見を持たない読者は寂しい葬儀の様子に、ウッツに同情こそ覚えるもののマルタに特別の印象を持たない。しかし、最後まで読み終わってもう一度冒頭を読み直して気づくにちがいない。この小説の真の主人公に。

祖母の遺産を糧に蒐集に血道を上げるウッツは恵まれた身分である。機を見るに敏で、革命や騒乱は、貴重なコレクションが世に出る好い機会と割り切っている。ドレスデンの爆撃で磁器が壊滅状態になると、それまでの英国贔屓を宗旨がえするなど、政治やイデオロギーには無縁で、世の趨勢を見ては蒐集品を安全な場所に移動させては難を乗り切る、蒐集に関する限り徹底的なリアリスト。そんな男が何故大事なコレクションを消え去るままに放置してしまったのか、というこちらの謎の方がコレクションの行方より気になる。

ウッツが結婚せざるを得なくなるのは、独身者は二部屋を保有してはならないという指令書のためで便宜上の結婚だった。オペレッタの女性歌手の喉仏にフェティッシュな嗜好を持つウッツは結婚後も女を家に引き連れてきてよろしくやっていた。妻は見てみぬふりをしていた。もちろんベッドは別だ。ウッツが自分の歳に気づいてから関係が変わる。事実上の夫婦になったのだ。そして、立場が逆転する。「私」が出会った頃のウッツは娼婦と会うために夜の町に出向かねばならなかった。
自由に過ごせる外国に度々出かけながら、蒐集を守るために結局チェコに戻らざるを得ないウッツは、人形の所有者ではなく、その囚われ人だと「私」に自嘲していた。どうだろうか、ウッツはどこへ行っても、俗人たちの振る舞いに辟易し、美食にも満足を覚えることがない。ウッツが最も生き生きして見えるのは、蝋燭の火影の下でコンメディア・デッラルテの人形たちを動かせているときである。彼にとってはそれがほんとうの世界なのだ。

蒐集と暮らすための二部屋を守るためにした結婚がまちがいのもとだった。生身の女はポーセリンとは違う。いつまでも自分の手の中で踊ってはくれない。庇を貸して母屋を取られるのことわざどおり、ずるずると女の言いなりになった挙句が結婚式、初夜、それに続く頽落の日々。ウッツが背後に退くと同時に妻が前面に出てくる。もともと暮らし向きの差配はすべてこの女がやっていた。そしてそれは葬儀の時間の些細な変更で完結する。

 <小さな人形たちの世界が彼にとって、ほんとうの世界であった。この人形たちと比べれば、ゲシュタポや秘密警察といった悪の連中も、かりそめの姿であって、この歳月を彩った数々の事件――爆撃、電撃作戦、蜂起、粛清――といえども、このウッツに関するかぎり、「舞台裏の音響効果」といったものにすぎない>

「私」にそうまで言わせた男が、たった一人の、それも美しさゆえに愛したのでも、知性ゆえに魅かれたのでもなく、ただ憐憫の感情を抱いただけの女との結婚ですっかり変わってしまう。辛い話である。男と女という存在の一面の本質を突いているだけになおさらやりきれない。「生活?そんなものは召使に任せておけ」くらいのことは言えないと、ボヘミアン暮らしは続けられない。こんな小説を早々と書いてしまう作家は長くは生きられないに決まっている。ブルース・チャトウィンは四十八歳で死んだ。