『誰もいないホテルで』 ペーター・シュタム
「凡庸さの連続が豊饒な生の厚みに変わるその一瞬を、シュタムは逃さない」という堀江敏幸の評に引かれて手にとった。ペーター・シュタムはスイス生まれの作家で、十篇のうち一篇を除いて、故郷である、ドイツ国境近くのボーデン湖を望む丘陵地帯を舞台としている。そこに住む人やそこを訪れた人が出会う些細な出来事が主たるモチーフ。静かな湖面に小石が放り込まれた一瞬の動揺と、それが呼び起こした波紋を眺めているような印象の残る短篇集。
誰にも邪魔されないところで論文を書き上げたいと思った「ぼく」は、同僚の教えてくれた湯治場に電話で予約を入れた。バスは夏しか運行しないので、徒歩でようやくたどり着いたホテルには電話に出たアナという女性しかいなかった。水も電気もないことに嫌味を言うと「あなたはそれ以上のものを得ている」と、なじられる。缶詰のラビオリをワインで流し込むのが唯一の食事だというのに。
巻頭に置かれる一篇は、その短篇集を代表する。短篇の取柄は短さにある。可否を判断するのに時間がかからない。本屋でぱらぱらっと立ち読みをして買うかどうかを決める時、まず目に入るのが最初の一篇。その意味で、表題作「誰もいないホテルで」は合格。奇妙なホテル管理人の言動には主人公でなくとも興味を覚え、続きが読みたくなる。買って帰ろう、ということになるからだ。
客を泊めておきながら、ベッドメイクもなし。原稿を書こうにも電気が来てないので、バッテリーが切れたらコンピュータも使えない。それでも「ぼく」が、別のホテルに変わろうとしないのはアナが気になるからだ。食事の時以外は姿を見せず、相手との間に距離を置く。話だって、相手の気に障るような言い方しかしない。たぶんアナにとって「ぼく」は邪魔者なのだ。この自分を愛そうとしない者に寄せる「ぼく」の愛したいという感情は、他の作品にも共通する主題だ。
「自然の成りゆき」は、倦怠期にある夫婦がある事件をきっかけに危機を脱する話。休暇で借りた貸別荘が気に入らない妻と何でもそういうものだと甘受してしまう夫。夫は妻の機嫌を取り結ぼうと努力するが報われない。ニクラウスは思う。「アリスは自分の人生にも違った期待をしていたんじゃないかな」と。そんな夫婦の隣に子ども連れの夫婦がやって来る。
ニクラウスは寝椅子に寝そべる隣家の妻のビキニが気になるし、アリスは子どもの喧嘩する声に悩まされる。子どものいない夫婦が感じる子ども連れの一家に対する違和感はやがてある事件に出遭うことで解消される。危機的な事態から脱すると性欲が高まるという。「自然の成りゆき」とは皮肉な題をつけたものだが、確かに言いえて妙だ。
三年間というもの、夜の時間を森で過ごした少女が、やがて妻となり、母となる。誰も理解できないその心理を自らの声で語ったのが「森にて」。愛されたい相手には気づかれたいが、近づいて来れば逃げてしまう自分。愛してくれる相手には、近づくこともできるし、結婚や妊娠さえできる。けれど、心はいつも森で暮らしていたときに戻ろうとする。
周囲の人は、喧嘩の絶えない夫婦による育児放棄が原因だと説明したがるが、アーニャ自身そうは思わない。ただ森の中で眠ることがいちばん心にも体にも適っていた。子どもを持つ身になっても、一人になると遠くを見つめてぼんやりとしている自分がいる。ごくごく当たり前の生活に違和を感じる人がいてもいい。ただ、ここは私のいる場所ではない、という本人の感情は誰にもどうすることもできない。センシティヴな意識が先鋭に描かれた一篇。
聖餅をパンに、ワインをブドウジュースに、礼拝式の伴奏をオルガンでなく妻の弾くギターに変えたことが信徒に受け入れられず、孤立していた新任司祭が出会う奇跡を描いた「主の食卓」。有機野菜を栽培する農家の若者の、隣家の草地で開催されるロック・フェスでの女の子との出会いを、若者に寄り添いあたたかく見つめた「眠り聖人の祝日」。どちらも、いつまでも続く静かな余韻に浸っていたいと思わせる佳品。
他に、念願のカナダ移住を目前にして妻を亡くした男の悲嘆を描く「氷の月」。コンサート・ピアニストを目指すピアノ教師の挫折を描いた「最後のロマン派」。妻の入院に呆然とする夫の困惑を描いた「スーツケース」。二人で暮らし始めたばかりの若い女性の揺れ動く心理を描いた「スウィート・ドリームズ」。海辺を散歩する男のある日ある時の一瞬をスケッチして見せる小品「コニー・アイランド」を所収。短篇小説好きなら、試してみる価値のある一冊。