青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『泥棒はライ麦畑で追いかける』ローレンス・ブロック 田口俊樹 訳

一冊の本が、その人の人生を変えるなんてことがあるだろうか。そんなことはないなんて言えるのは、きっと大人だけだ。十七歳のころだったら、ひょっとしてそういうこともあるのかもしれない。いや、きっとあるにちがいない。だって、本人がそう語っているのだから。本人というのは、副業としてニューヨークで古書店を営む、バーナード・ローデンバー、通称バーニイ。本業は侵入窃盗(burglar)、かいつまんで云えば、泥棒だ。

泥棒探偵バーニイ・シリーズ九作目は、ニューヨークのホテルが舞台。ある有名作家がエージェントに送った手紙を取り返す、というのが盗みに入った目的だ。その作家は自分の実体を知られることを嫌い、隠遁生活を送り続けてきた。ところが、自分宛にきた手紙の所有権を盾に、かつてのエージェントが、私信をサザビーズのオークションにかけることを発表。著作権は作家にあるが、競売のカタログには、その文章が載ることになり、他人の目に触れることは必定だ。

バーニイの店を訪れた女性はアリスといい、自分とその作家、ガリヴァー・フェアボーンとの関係をバーニイに打ち明ける。なんと、十四歳のころから三年間、アリスは作家と同棲していたという。作家とは別れた後も文通していたが、最近になって苦境を知らせてきた。それが先に述べた件だ。ライ・ウィスキーと、バーのはしごで、意気投合した二人はいつものようにメル・トーメを聴きながらベッド・イン。情にほだされた泥棒は、エージェントの暮らすパディントン・ホテルに宿を取り、夜を待って六階にある部屋に忍び込む。

仕事先で殺人事件に遭遇するのがお約束のこのシリーズ。エージェントのアンシア・ランドーはナイフで刺し殺されていた。いくら探しても手紙の束は見当たらない。警察らしい足音が近づくのを聞いたバーニイは、からくもバスルームの窓から脱出し、三階の空き部屋に逃げ込む。箪笥の抽斗に隠されたルビーのネックレスに後ろ髪をひかれながらも、ロビーに降りたバーニイは、先刻、非常階段から廊下に入るところを見られた女に泥棒呼ばわりされ、警察に逮捕される。

知り合いの刑事レイの口利き、それに顔見知りのマーティンが保釈金を払ってくれたこともあって、無事留置場を出られたバーニイは、店に戻る。マーティンが気前よく保釈金を肩代わりした裏には複雑な事情があった。借りができたバーニィは、手紙の他にルビーのネックレスとイヤリングも取り返すことを余儀なくされる。そこへもってきて、フェアボーンの研究家やら、コレクター、サザビーズの関係者が、バーニイが手紙を隠し持っていると見て、多額での買取りを持ち掛ける。

本に関する蘊蓄が主眼で、謎解きは添え物のようなコージー・ミステリ風スタイルが売りのシリーズながら、よく読めば複数の伏線が張られ、きっちり回収されていることが分かる。『泥棒はライ麦畑で追いかける』は、処女作があまりに有名になり過ぎて、好きな小説を気ままに書くことすらできなくなった作家のエピソードを踏まえながら、本格的な謎解きミステリに挑もうとしているところが見どころだ。とはいえ、最後には本を愛するバーニイらしく、爽やかな解決に導くところが何よりの読みどころ。

原題は<The Burglar in the Rye>。これが<The Catcher in the Rye>を意識していないというなら、嘘だろう。世間に自分の姿を見せたくない作家のモデルはあの『ライ麦畑でつかまえて』のJ・D・サリンジャーその人だ。手紙をめぐるエージェントとの裁判沙汰も、未成年の少女との関係も、すべて実話をもとにしている。というか、その実話の方がよほど世間の耳目を引くだろう。その辺のことに興味があるなら、デイヴィッド・シールズ、シェーン・サレルノの『サリンジャー』が詳しい。

すでに語りつくされた感のある、サリンジャーだが、ローレンス・ブロックが、これを書こうとしたのは、そんな古い話をまたぞろ持ち出したかったわけではないだろう。本や作家をネタにしてミステリを書くなら、自分の好きな作家に触れないではいられない。いや、本当にローレンス・ブロックサリンジャーが好きだったかどうかは知らない。ただ、バーニイはどうやら好きだったようだ。

作家というのは、文章を書いてそれを読んでもらうのが仕事。そういう意味では、断簡零墨、どんなメモ書き一つでも値がつくのは仕方がないことかもしれない。しかし、作家にだってプライバシーはある。仕事と関係はあるにせよ、気心の知れたエージェントに書き綴った手紙まで人目にさらさなければならない理由はない。ところが、ここに落とし穴があった。競売のカタログは商品の真贋並びに価値を判断するために内容を示す必要があるからだ。今回の作品のキモはここにある。

さて、殺人事件の謎を解き明かし、みごと奪い返した手紙をバーニイはどう扱ったか。なんと、謎解きに集まった関係者一同の目の前で、そのうちの一枚、紫色の便箋を暖炉にくべてしまう。驚き慌てるコレクターや研究者の狼狽えるのをしり目に、バーニイは、それ以外の手紙は既に暖炉の中にあったと告げる。それで一件落着、と思うだろうが、そうはいかない。燃やしたのはキャロリンが打ったタイプライター練習用の一文だ。

嘘つきは泥棒の始まりというが、バーニイは嘘はつかない。ガリヴァー・フェアボーンの書いた手紙はちゃんと本物もそのコピーも、まだバーニイが手にしていた。彼は、それを欲しがる相手に相当の金額で売り、その書き手(なんと、作家その人が変装して本編に登場しているという極上のサーヴィスが用意されている)にも半分を渡している。それでは元も子もないと思うだろうが、トリックをばらすわけにはいかない。だが、なるほどとうならせるものではある。作家と呼ばれる人種の厄介な自意識というやつが、同じく作家であるローレンス・ブロックの手により、詳らかにされている。その手並をとくとご覧あれ。