青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『精霊たちの迷宮』カルロス・ルイス・サフォン 木村裕美 訳

《上・下巻あわせての評です》

『風の影』『天使のゲーム』『天国の囚人』に続く「忘れられた本の墓場」シリーズ第四部、完結編。バルセロナの地下に隠された本の迷宮を知る、限られた人々を語り手に据えたこのシリーズは、内戦からフランコ独裁政権というスペインの暗黒時代を背景に、史実を大胆に脚色し、作家偏愛のマネキンや人形の並ぶ倉庫や、廃墟、墓場や地下牢を舞台に仮面の怪人が登場する異色の小説世界。作品によって訳者のいう「青春ミステリー」、「幻想ゴシック小説」、「『モンテクリスト伯』風冒険譚」と、作風が変化してきた。

シリーズの狂言回しを務めるのが、フェルミン・ロメロ・デ・トーレスと名乗る大きな鼻をした痩せた男で、スグスというソフトキャラメルが大好物。店の前の路上に倒れていたところを救われたのが縁で、今はダニエルが店主を務めるセンベーレ書店で働いている。国家警察に追われ、投獄された過去を持つが、暗さとは無縁。食欲と性欲に溢れ、饒舌で猥雑な話を愛する陽気な男だ。

そのフェルミンが冒頭に登場し、第四部の主人公アリシアと「忘れられた本の墓場」との出会いを語る。『不思議の国のアリス』から抜け出してきたような少女から、妖艶な魅力を放つファム・ファタルへ、二十年という時間は一人の女を苛酷なまでに変えてみせる。もっとも、二十年が経ち、戦後世界に復帰したとはいえ、スペインはフランコ独裁政権時の膿を出しきっていなかった。本作は、内戦から独裁に至る時代の混乱期を利用してのし上がった権力者たちの過去の闇に目を向けた、ノワール風ミステリ。

戦災孤児アリシアは泥棒の手先をしていたところをリクルートされ、マドリードで保安組織の捜査員となっていた。二十九歳になり、仕事に嫌気が差し、退職を願い出たところ、これが最後と命じられたのが、国家教育大臣マウリシア・バルスの失踪事件だった。しばらく前から人前に姿を見せなくなっていたバルスが、誰にも行先を告げずに家を出たきり帰らない。現職大臣の失踪である。公にできないと見た警察庁長官は保安組織に捜査を命じる。

アリシアと組むのは、元国家警察警部のバルガス。現政権に対する忠誠度が疑問視され、飼い殺し状態にあったが、優秀さを買われて久しぶりに呼び出しがかかる。五十がらみの銀髪の大男である。保安組織というのは、特高や公安と同じで、警察と違い法に縛られない闇の組織だ。はじめは証拠物件を勝手に持ち出し、不法侵入を厭わないアリシアのやり方に反発していたバルガスだが、空襲時に負った傷のせいで鎮痛薬がきれると立つこともできないアリシアの隠し持つ弱さを見て、次第に心を寄せていく。

失踪前夜、バルスはボディーガードと数字が並んだ何かの「リスト」について話をしていた。家を調べると書斎に一冊の本が隠されていた。黒革で装丁された本の名は『精霊たちの迷宮』第七巻「アリアドナと緋の王子」。著者の名はビクトル・マタイス。後の調べでモンジュイックの囚人であったことがわかる。アリシアは本、バルガスはリストの謎を追う。そんなとき、失踪に使われたバルスの車がバルセロナで発見され、舞台はマドリードからバルセロナへと移る。

バルスは地下牢に監禁されていた。かつてモンジュイック監獄の所長を務めていた時期に買った恨みによる復讐らしい。アリシアとバルガスは着々と捜査を進め、真実に近づいてゆくが、指を切り落とされたバルスは壊疽にかかる。そのまま死ぬか、患部を自分で切り落とすか、檻の中に指物師の使う糸鋸が放り込まれ、囚われの身の男は究極の選択を迫られる。二人は無事大臣を取り返すことができるのか、息詰まる展開を見せるサスペンス。

本作から読みだした読者は、第一部から読む方がいいのかと悩むかも知れない。だが、心配は無用。これだけで充分面白い。個人的には四部作中一番面白かった。完結編でもあり、いろいろ盛りだくさんだが、アリシアとバルガスが謎を解くバルス失踪事件の真相は今までと比べようもないほどスペインの闇に迫っている。これがお気に召したら、それまでの作品を読めばいい。そうすることで、四部作が持つ多彩な魅力がいっそう増すことだろう。

真面目一方のダニエル、何を考えているのかつかめないフェルミン、と進行役の二人が、どうにも頼りないのに比べ、アリシアの動きはさすがにプロ。隠された真実を次々と暴いてゆく。それに応じて、暴かれては困る側の動きも激しくなる。二人を追う謎の人物が姿を現し、攻撃をしかける。アリシアに思いを寄せる純情な青年フェルナンディートの活躍もあって、アリシアは難を逃れるが、古傷を傷めつけられ、動きがとれない。フェルミンたちの助けで「失われた本の墓場」に再び身を潜めたアリシアは恢復の時を待つ。

『精霊たちの迷宮』は、独裁政権下のスペインで起きたおぞましい犯罪を暴くミステリである。その一方で、本シリーズを第一部から読んできた読者は、ダニエルとイザベッラ母子のあいだに隠されていた秘密をはじめて知ることになる。入れ子状に構成された物語世界のなか、アリシアバルス失踪事件を解決することで偶然二人の秘密を知ってしまう。「ミステリ」と忘れられた作家たちが書いた本をめぐる「メタフィクション」が融合した、他に類を見ない稀書、それが『精霊たちの迷宮』なのだ。