青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『私たち異者は』スティーヴン・ミルハウザー

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スティーヴン・ミルハウザーの短篇集。ほぼ中篇といっていい表題作を含む七篇所収。これまでのミルハウザーの物語世界と地続きでありながら、どこか新味を感じさせる作品が揃っている。どれも粒よりであることはいうまでもない。どこまでも手を抜かず精緻に組み上げた精巧な細工物のような世界は健在である。それでいて、造り物めいた手触りが控え目になり、より地に足がついたようで、古くからのファンは物足りなさを感じるかもしれない。

舞台となるのは、アメリカ映画によく出てくる、堂々とした街路樹が陰を作り、道路から程よく距離を置いた瀟洒な家が芝生を前に建ち並ぶ郊外都市。都会に近く電車等で通勤可能でありながら、静かで落ち着いた環境に恵まれている。治安もよく、人々も親和的。これまで何度もミルハウザー作品の舞台となってきた町であるだけでなく、平均的なアメリカ人が夢見る暮らしができそうな町である。

「平手打ち」はどこからともしれず突然現れた男が町ゆく人に平手打ちを食らわせ、そのまま姿を消す事件に見舞われたスモールタウンの話。シリアル・キラーならぬ、連続平手打ち犯(シリアル・スラッパー)はタン色のトレンチ・コートを着た男というだけで、被害者には犯人の心当たりがない。場所もちがえば相手も異なる複数の人間が被害に遭うことで、住民は疑心暗鬼に陥る。

そんな目に遭う見当がつかないとはいうものの、誰にでも過去はある。胸に手を当てて考えれば、思い当たるふしもない訳ではない。しかし、被害者の数が増えるにつれ、個人的な怨恨説は消え、住民全員への嫉みや憾みではないか、と論調に変化が現れる。新しい被害者が出るたび、新しい論議を生む。命にかかわる危険ではないものの、訳の分からない事件に巻き込まれた町の人々の間に高まってゆく不安な空気感。外見に変化はないのに、事件を境にかつては平穏だった町が、不穏な変貌を遂げる、ざわざわする恐怖感が半端ではない。

ミルハウザーの短篇が巧いのは、狙いを一つにしぼり、読者の眼をその一点からそらさないことである。「白い手袋」はまさにその好見本。仲のいい二人の高校生がいる。「僕」は学校の帰り、エミリーの家を訪ねては、彼女の家族と食事をし、スクラブルをして過ごしていた。ところが、ある日、エミリーは学校を休む。電話をしてもエミリーは出ない。それ以降、エミリーの左手はいつも白い手袋に被われている。

「僕」は、その白い手袋が気になって仕方がない。好奇心が募り、ついには深夜、勝手知ったるエミリーの家を訪れ、彼女の手から手袋を外そうとまでする。どうにかしてそれは思いとどまるものの、二人の間には以前とは違って壁のようなものが立ちふさがる。白い手袋は、エミリーが明かそうとしない秘密となって、二人の間に立ちふさがる。果たして、白い手袋の下に隠されたエミリーの秘密とは。何の変哲もない白い手袋を効果的に使った古典的スリラー。

モールの隣の広場に突然出現した<The Next Thing>と名乗る店はちょっと変わっていた。入口に大きなオフィスがあり、人が一人入っているブースがたくさんあって、通路が四方八方にのびている。店自体は地下にあった。初めは無視していた「私」だったが、次第に急拡大していく店舗にひきつけられてゆく。それは他の住民も同じで、高収入につられて社員となり、元の家を売り払い、地下にある最新設備つきの社員住宅に転居する。

新しい生活が始まる。空調と照明のせいで地上の世界と変わらない地下の暮らしに次第に慣れてゆく。しかし、収入がよくなれば、仕事はそれにつれて増える。仕事がこなせないと職を追われ、今や住む場所のない地上に帰るしかない。ノルマに追われ、息つく暇もない地下の暮らしは、作家にすれば空想の産物なのだろうが、兎小屋に住む働き過ぎのエコノミック・アニマルと揶揄された当時の私たち日本人のそれを嫌でも思い起こさせる。地下に住む大勢の奴隷労働者が、地上に暮らす一握りの上級国民の暮らしを支えるディストピア。そのモデルは日本なのかもしれない。

掉尾を飾る「私たち異者は」は、中篇と言っても通る長めの一篇。コネチカットに住む「私」は父の跡を継いだ五十二歳の医師。妻には去られ、再婚を考えていた矢先、軽い眩暈に襲われ、重い気分で寝床に入る。翌朝、私は「重みが胸からのみならず体じゅうから下りたような気」分で目を覚ます。そして、ベッドに寝ている自分を見つける。「私」は、その日を境に「異者」たちの仲間入りをした。

ふつう怪談は、古い邸に棲みついた幽霊を、そこに住む生者が見るものだ。「私たち異者は」は、それをひっくり返し、幽霊となってしまった「異者」の眼から、この世界を描いてみせる。死んだら自分はどうなるのだろう、というのは洋の東西を問わない問いなのだろう。医師という科学的な考え方をする人種だからか、キリスト教徒の国であるアメリカにあって、この「私」はかなり異端ではないだろうか。

しかし、ほとんど信仰というものを持たない、われわれ日本人にはなんだか馴染みのある死後の世界である。一人の独身女性の家に居ついた「私」と、どうやら「私」の存在に気づいたらしい、その女性と、その家を訪れた姪との間に繰り広げられる何とも奇妙な三角関係。幽霊の眼で見た死後の世界、という斬新なアイデアが光る、ちょっとユーモラスな異色怪談である。子の死後の世界をどう受け留めればいいのか、妙に気になる一篇。他に、ごく短いショート・ショート風の「刻一刻」、「大気圏空間からの侵入」、「書物の民」の三篇を含む。

『七つの殺人に関する簡潔な記録』マーロン・ジェイムズ

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おちょくってるのか。簡潔な記録だと。A5版七百ページ二段組。厚さ五センチ。重さ一キログラム超。まさに凶器レヴェル。放ったらかしにしてあった妻の実家の庭の草刈りをした後で手にしたら、手首が震えて床に落としそうになった。『JR』以来、厚手の本を読むときいつもやるように、机の上に足を載せ、椅子を後ろに倒して膝の上に置いてページを繰った。久しぶりの大物である。しかし、長大さに恐れをなすことはない。一つ一つの章は確かに簡潔で要を得ている。

ボブ・マーリィが逝っちゃった」と歌ったのは加川良だった。ボブ・マーリーが死んだのは一九八一年五月のことだから、おそらくその年の秋から冬にかけてのことだろう。町の小さな居酒屋の隅で額に汗を浮かべて歌っていた。当時、レゲエなる音楽には無縁でジャマイカが生んだ国民的歌手にして、カリスマ的な人気を誇るボブ・マーリーの曲を聞いたことはなかった。後にクラプトンがカバーした「アイ・ショット・ザ・シェリフ」などを通じて、その独特のリズムと生々しい詩の世界を知ることになる。

本書は、そのボブ・マーリーが襲撃された実際の事件を核に、何かの理由で事件に関わることになった複数の人物の、当時とその後の人生を追ったものである。「七つの殺人に関する簡潔な記録」というタイトルは、ミック・ジャガーをスクープするよう『ローリング・ストーン』誌からジャマイカに派遣されたライター、アレックス・ピアスが、後に当時の関係者にインタビューして、ジャマイカ人関係者たちの動きを追った記事につけた題名である。

「アイ・ショット・ザ・シェリフ」という物騒な歌詞からも分かるように、ジャマイカキングストンは緊張感に溢れていた。当時民衆の大半は貧しく、複数のギャングのボスが牛耳るゲットーに別れて暮らしていた。政治家がやくざを使って選挙民を操るというのは、何も現代の日本に限られたことでなく、低開発国ではよくあることだ。ジャマイカもご多聞に漏れず、社会主義的な現政権が率いるPNPと、より保守的なJLPが鎬を削っていた。

糞尿が下水を流れる劣悪な環境。身体を洗うためには共同で使う裏庭で衆人環視の中で水浴びせざるを得ない。政治家は自分たちに投票するゲットーだけに上下水道を配備、そうでない地域は無視するという、どこかの政府のような政策を露骨にとっていた。対立するゲットーのボスは配下のギャングたちを使い抗争に明け暮れていた、そんなとき、「歌手」がピース・コンサートを持ちかける。不毛な対立をやめ、力を合わせようというメッセージにボス二人は歩み寄りを見せる。

ところが、コンサートを二日後に控えた一九七六年五月三日。リハーサルに余念がない「歌手」の自宅がマシンガンやピストルを手にした集団に襲われるという事件が勃発する。不幸中の幸いで、弾丸はわずかに「歌手」の心臓を反れ、命は助かる。純然たるミステリなら、犯人は明かさないのが定石だが、本書は倒叙形式で書かれている。襲ったのはコペンハーゲン・シティのドン、ジョーズィ・ウェールズ、とその手下の若い者たちだ。

コペンハーゲン・シティを牛耳るドンはパパ=ローだったが、寄る年波には勝てず、対立するゲットー、エイト・レインズのドン、ショッタ・シェリフと獄中で和解し、ことを穏やかに進めようとしていた矢先だった。パパ=ローが右腕とも頼るジョーズィ・ウェールズはCIAから送り込まれたコンサルタントと気脈を通じ、パパ=ローを通さず勝手に事を起こそうと、薬漬けにした若手を鉄砲玉として送り込む。

麻薬の密輸ルートをめぐるギャングたちの勢力争いは、ジャマイカだけを見ているパパ=ローたちの頭上をはるかに越え、アメリカのマイアミ、ニューヨークまでその勢力圏を広げていた。同じ頃、アメリカは、ピッグス湾の失敗以来、キューバの勢力が強まり、カリブ海諸島の国々やラテン・アメリカ諸国の左傾化がドミノ倒しのように広がっていくことを恐れ、政府への露骨な介入を進めていた。また、その裏側ではCIAをはじめとする裏の機関が各種勢力と手を結びつつあった。

ケネディ暗殺に始まるアメリカの裏面史を麻薬の密輸をめぐって暗躍するマフィア、翻弄されるFBI職員、謀略を張り巡らせるFBI長官フーヴァーなどの実相を、これでもかというほど暴いて見せたのがジェイムズ・エルロイの「アンダー・ワールドUSA三部作」だった。これは、差し詰めそのジャマイカ版。暗黒描写もギャングたちの使う独特の言い回しも負けてはいない。しかし、過激な描写の裏に色濃く悲哀がのぞくエルロイとは異なって、この小説に哀歌は似合わない。

主要な登場人物として、先述のパパ=ロー、ジョーズィ・ウェールズ、同じくウィーパーやギャングの面々がいる。それぞれの目論見から、襲撃に加わったり、その後始末に追われたりする。その裏で、ジャマイカ社会主義化を阻もうと動くCIAジャマイカ支部チーフ、元調査官、コンサルタントなど、アメリカ側の男たち。さらに、「歌手」と一夜だけの関係を持ったことがあるニーナ・バージェスがいる。襲撃事件の現場で犯人と目を合わしたことで国にいられなくなり、アメリカに逃げるが、相手はどこまでも追ってくる。

事件の中心に位置するジョーズィ・ウェールズとCIAコンサルタントの対話や、擡頭してきた新勢力のユーピーの周りを読み解く冷静な分析はさすがに説得力がある。ただ、惜しむらくは人間的な魅力という点で、これら確信犯には迷いがなさすぎる。ジャマイカ脱出に賭けて身も世もあらず涙ぐましい奮闘ぶりを見せるニーナや、刑務所でカマを掘られて以来、自分の中に発見した性的嗜好と格闘しつつ、遂には身を亡ぼすことになるウィーパー(泣き虫)といった等身大の人物の方に共感したくなるからだ。

大部な作品だが、主要な人物からほんの脇役に至る多種多様な人物が、入れ代わり立ち代わり、多視点的に事件を語る。事件に関わった者は、その後の地獄のような復讐劇の顛末を。また、事件に至る経緯を知る関係者は、偶々現場に遭遇した第三者には知る由もない、麻薬ビジネスの裏表を語る。テープ・レコーダー片手に証言を求めて監獄を訪ねるのは、今は「ローリング・ストーン」誌を離れ、一ジャーナリストとして事件を追うアレックス・ピアス。このピアスやニーナといった偶然事件に巻き込まれることになる人物の視点を重視することで、小説のノワール色が薄まり、別種の読者を獲得することができたのではないか。二〇一五年マン・ブッカー賞受賞作。

『夢見る帝国図書館』中島京子

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題名に「図書館」と入ってるだけで、読んでみたくなる。その前に「帝国」とある。「大英帝国」のことかな、と考える。まだその上に「夢見る」とついている。ユメ子さん? シャンソン人形? 図書館はふつう夢を見ない。見ないだろう? いや、見るのか? まあ、どちらでもいい。こうまで不可解なものは中身に目を通すしかない。

「私」が喜和子さんにあったのは上野である。国際子ども図書館を取材して一息ついて大噴水前のベンチに座っていたら、隣に座った人がいた。それが喜和子さんだ。古い着物をパッチワークしたコートを着、粋な手つきで煙草を吸い始める六十代の小柄な女性。煙草の煙にむせた「私」に「きっと、あれだよ、花粉症」なんて言って、すましている。身勝手なようでいて、人は悪くない。突き抜けた感じが当時の「私」には新鮮で、すぐに仲良くなった。

それからちょくちょく二人で会って、ランチをしたり、甘いものを食べたりするようになる。谷中の路地の奥にある大正時代に建てられた長屋が一軒だけ残ったような喜和子さんの小さな家にお呼ばれもする。上野界隈をこよなく愛する喜和子さんは上野の図書館を主人公にした小説が書きたい。その題名が「夢見る帝国図書館」。書きたいのだが文章を書くのは苦手。で、作家である「私」にそれを書くように勧め、ぼつぼつと構想を語り出す。

この「夢見る帝国図書館」のエピソードが、小説本編とは別仕立てで、話の合間に挿入される。賢治の同性の友に寄せる気持ち、宇野浩二が震災時に遭遇した自警団の恐怖、ハッサン・カンのモデル等々。帝国図書館に通った明治・大正・昭和の文士の逸話、これがべらぼうに面白い。永井荷風の父、久一郎の奮闘に始まる帝国図書館の歴史だけでも図書館通になれる。「お金がない。お金がもらえない。書棚が買えない。蔵書が置けない。図書館の歴史はね、金欠の歴史と言っても過言ではないわね」と喜和子さんは言う。

本編となるのは、なんだか不思議な喜和子さんの「女の一生」の謎解きだ。本人は自分の過去を詳らかにせず、話半ばで早々とあの世に逝ってしまう。「夢見る帝国図書館」は「私」が書くしかない。それが喜和子さんの遺志でもあった。そんな訳で「私」は喜和子さんの昔のことを人づてに聞いて回ることになる。戦後の上野にまだバラックがあった時代、三、四歳だった喜和子さんは、そこで「お兄さん」と慕う男の人と一緒に暮らしていたという。

「夢見る帝国図書館」は、復員兵のお兄さんが書こうとしていた小説だった。ちっちゃな喜和子さんはお兄さんの背嚢に入って、図書館に通い、夜はそこで眠ったりもしたらしい。夜になると、隣の動物園から動物たちもやってくる。そんな夢のような話を書いた童話「としょかんのこじ」が国立国会図書館に残っていた。作者の名は城内亮平。手がかりを一つ一つ調べていくうちに、「私」は喜和子さんの数奇な人生に巡り会う。

喜和子さんの愛人の元大学教授やインテリのホームレスが語る喜和子さんの身の上話にはどこか絵空事めいたものがある。だいたい、幼い少女がなぜ一人で上野で暮らしていたのだ。アナグラムやら、暗号やらが繰り出され、喜和子さんの少女時代を探るところは、ちょっとしたミステリ仕立てになっている。ネタバレになるので詳しくは明かせないが、「私」が出会った頃の喜和子さんは過去の生を生き直している最中だった。そのテキストが「夢見る帝国図書館」だったのだ。

お兄さんの影響もあるのだろう、何もない部屋に全集を揃えるほど一葉好きの喜和子さんが「私」に遺した書きかけの原稿が、一葉女史が書きそうな、なかなか句点が出てこない文体で、もちろん、作家中島京子による文体模倣なのだが、一葉に憧れた一人の女が、おそらく暗記するほど身に染みついた筆致で、幼かったころの上野の、徳川様由来の紋所から「葵部落」と名づけられたバラック小屋で暮らす日々を振り返る文章の洒脱さったらない。

いつの時代、誰の前にも平等に開かれているのが図書館だ。世の中が怪しくなると、まず本当のことを書いた本が図書館から消える。本や図書館がいかに戦争と折り合いが悪かったか。金欠、本の焼失の元凶は、明治以来大日本帝国が次々と引き起こしてきた戦争である。都合の悪いことは人の目から隠され、あったことがないことにされる。戦争から生きて帰った者には、死者に代わってやるべきことがあった。お兄さんの場合、それは小説を書くことだった。「としょかんのこじ」の「後記」に詩のようなものが付されている。

とびらはひらく
おやのない子に
脚をうしなった兵士に
ゆきばのない老婆に
陽気な半陰陽たちに
怒りをたたえた野生の熊に
悲しい瞳を持つ南洋生まれの象に
あれは
火星へ行くロケットに乗る飛行士たち
火を囲むことを覚えた古代人たち
それは
ゆめみるものたちの楽園
真理がわれらを自由にするところ

「真理がわれらを自由にする」は国立国会図書館の図書カウンター上部に、今もギリシア語原文と並んで刻まれている。





 

『回復する人間』ハン・ガン

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周囲四キロに満たない小さな島で暮らしていたことがある。そこの子どもたちは年上の子の名前の下に兄(にい)や姉(ねえ)をつけて呼んでいた。初めは島中が親戚なのかと思っていたが、血縁とは関係なく、年長者への敬意を表すためのもので、大人の間でも親しい間柄ではそう呼び合うのだ。お隣の韓国にもそういうことがあるらしい。

表題作を含む七篇からなる短篇集である。その冒頭に置かれた「明るくなる前に」の「私」は、同じ雑誌社の先輩をウニ姉さんと呼んでいる。過失ともいえない不幸な巡り合わせで弟を亡くしたその人は、雑誌社を辞めてから、一年の大半をネパールやチベットの山地やタクラマカン砂漠ゴビ砂漠で過ごすようになった。

そのウニ姉さんの唐突な死を受けて、作家である「私」が彼女とのそれまでの会話を思い出す。二人が抱えていたそれぞれの悪夢について。ウニ姉さんが弟の死について自分を責め続けているように「私」には娘を連れて家を出るに至った経緯がある。怪我や病気、別離の経験を通して、大きな何かを失った者の、もがくような苦悩を潜り抜けての回復が全篇を貫く主題になっている。

表題作は未来から過去と現在を語る二人称回想視点で語られる。「あなたは」と語る話者は未来の「私」。ある喪失を起因として疎遠になった姉妹の妹が主人公。その姉の死が「あなた」を追い詰める。両親にも言えない秘密を共有した結果、姉は妹に心を開かなくなる。過去は変えることができない。ましてや相手が死者である場合には。過去と現在と未来、三つの時系列を往還して、二人にとって桎梏となった取り返しのつかない確執が語られる。生きる喜びに溢れた過去の「あなた」に語りかける未来の「私」の言葉が辛い。

エウロパ」は、恋人関係にない男女の捻れた関係を描く。会社勤めの「僕」には、イナという女友だちがいる。なぜ、恋人になれないか。それは「僕」が女の子になりたい男の娘(こ)だからだ。「僕」にとってイナは自分がなりたい女の子だった。男として女に欲情はするものの、女のなりをしたい男。たぶん「僕」を愛しているが、過去の何かがそれに蓋をして、一歩を踏み出せない女。イナの歌う「エウロパ」の歌詞が二人の緊張感を孕んだ関係を象徴する。

フンザ」は、非常勤の大学教師の夫と一人息子との暮らしを支えるため、睡眠を削って働く女の物語。「私」は通勤に使っている高速道路上でパキスタンにある桃源郷のような村、フンザについて考えている。逃げられない現実からの束の間の現実逃避。しかし、時が経つにつれ当のフンザが変貌してゆく。最早「私」が夢見るフンザは存在しない。二進も三進もいかない暮らしの中で夢見ることすら許されない「私」を圧し拉ぐ絶望的な状況。

年の離れた画家への思慕を、同い年になった「私」が、先に逝ってしまった「あなた」に優しく語りかける「青い石」。しみじみとした語りであるのに、ここにも日常の中に待ち受けている暴力の陰が潜んでいる。血が止まらない病気を持つ「あなた」が怪我をしないように気をつける所作をそっと見つめる「私」の中にもある残忍な心。死とは何か、生とは何かを静かに問う一篇。

「左手」は、この短篇集の中では異色作。平凡な会社員である「彼」は、ある日執拗に自分を罵る上司の口を押えていた。左手が勝手に動いたのだ。左手の暴走はそれだけにとどまらなかった。かつて憧れていた女性との出会いも、左手がお膳立てした。どうやら「彼」の左手は心の裡に押し隠されていた内的欲求の発露らしい。人は衝動に従って生きれば身の破滅を招く。だから誰もが内心を秘し隠し、社会通念に従って生きている。しかし、果たしてそれが本当に生きるということなのか、と逆説的に問いかけている。

掉尾を飾るのは回復の主題に正面から迫る「火とかげ」。「私」は、交通事故で左手が動かなくなる。それをかばって無理をした右手も傷めてしまう。家事のできなくなった妻に夫は冷たい。そればかりではない。腕の動かない画家など幽霊と同じ。そんな時、昔の友人から、写真館で「私」の写真を見た、との電話。身に覚えのない写真が気になって、写真館を訪れた「私」は、その写真を撮ってくれた男のことを思い出す。過去との思いがけない遭遇が「私」を蘇らせる。蜥蜴の尻尾が切られても元通りに生えてくるのを思い出した。

主人公は女性。誰もが現実の生活の中で傷つき、苦しんでいる。個人的な原因の背後に子どもを生み、家事をするのは女性だという考えがある。家庭内暴力の影も見え隠れする。年上の相手を呼ぶときに「姉さん」をつけるという習慣は年長者を敬う「美風」なのかもしれない。しかし、社会的な慣習は当事者が望む望まないにかかわらず一方的に服従を強いるものにもなる。それは韓国に限らない。教育勅語をありがたがる日本にも根強く残っている。

恢復期というのは、病や傷が癒えてくるころのことで、さすがに痛みも薄れ、熱も退いてくる。しかし、まだ本復には遠い、けだるいような日々の、あの原状復帰を待つ日の楽しさを期待すると裏切られる。『回復する人間』という表題には、むしろ、人間は回復するはずであり、回復されなければならない、という祈りにも似た強い思いが込められている。絶望的な状況の中、必死に生きる者たちの語られない闇にどこまで近づけたのか、と厳しく問われている気がする。

『終焉の日』ビクトル・デル・アルボル

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病室のテレビは国会が襲撃されたクーデター事件を放送している。一九八一年のスペイン。弁護士のマリアは三十五歳。バルセロナの病院で死にかけている。複数の事件に関わっているらしく病室には監視がついている。事件は一応終っているのだが、逃亡中の容疑者がいて、刑事が時折訪れて尋問めいた話をしていく。マリアは脳腫瘍の手術後で、しかも腫瘍はまだ取り切れていない。髪の毛は剃られ、身体にはチューブがつながれている。

多視点で語られる。遡行したり、現時点にもどったり、行きつ戻りつを繰り返しながら、絡み合う人物同士のもつれあった関係を一つ一つ解きほぐし、一本の筋の通った物語に纏め上げてゆく。親の因果が子に報い、というのは見世物小屋の口上だが、まさに、それを地で行く因果応報の地獄絵図だ。拷問、暗殺、監禁、調教とこれでもかというくらい救いようのない残酷さに満ち溢れている。

三年前、マリアはある事件を担当した。セサル・アルカラという警部がラモネダというたれ込み屋を拷問し瀕死の重傷を負わせた、とその妻が訴えた。証拠も証言も揃っていた。警部は投獄され、マリアの仕事はそれを機会に倍増した。しかし警部の暴行には理由があった。彼はプブリオ議員の悪行を暴く証拠を握っていたが、逆に娘を誘拐され、事実を話せば娘を殺すと脅されていた。ラモネダを傷めつけたのは娘の居所を吐かせるためだったのだ。

一九四一年、セサルの父マルセロは、フランコ独裁政権下のファランヘ党バダホス県支部長を務めるギリェルモ・モラの次男アンドレスの家庭教師に雇われていた。プブリオは当時貰の私設秘書としてすべてを掌握する片腕だった。そんなとき、モラが共産党シンパに襲撃される事件が起きた。暗殺を計画したのはモラの妻だった。イサベル夫人に惹かれていたマルセロは夫人の逃亡に手を貸して逮捕された後、夫人殺しの罪で処刑されてしまう。しかし、真犯人は他にいた。

第二次世界大戦中、スペインは参戦に積極的ではなかった。余力がなかったのだ。ただ、ヒトラーの支援を受けていたフランコは「青い旅団」をロシア戦線に派兵した。父による母の虐待を指弾した長男フェルナンドを、モラはその一員に加えることで罰した。アンドレスは守り手の母と兄を失い施設に放り込まれてしまう。イサベラの処刑を目撃してしまった兵士ペドロも、プブリオの手で同じくロシア行きとなる。

愛する者や自分の人生を奪われた者たちの復讐劇の幕が切って落とされる。三十五年という時間は、人をその容貌だけでなく精神の根底から変えてしまう。ましてやシベリアの強制収容所(グラーグ)という地獄を経験すれば、変わらない方がおかしかろう。死んだものと思われていたのを幸いに時間をかけて計画された復讐手段は手が込んでいた。

一方で権力を得たプブリオは議員職だけに飽き足らず、クーデターを計画し、権力の掌握を狙っていた。自分の邪魔になる警部の娘を誘拐し、口を封じたが、マリアという弁護士が獄中のセサルに接見し、証拠を嗅ぎ出そうと動き出したことに気がつき、マリアの元夫を使って脅しをかけるが、マリアには通じない。そこで、ラモネダをマリアに付き纏わせる。マリアとセサルは、娘のマルタを取り戻すことができるのか。夫人を殺した真犯人は誰か。

スペイン現代史を背景に、父の犯した罪によって人生を狂わされる子どもたちの悲惨極まりない人生を描く圧巻のミステリ。とはいえ、謎解き興味は薄い。あまりに多くの人間が視点人物となって事件を異なる角度から語りはじめるので、謎がいつまでも謎でいられなくなるのだ。そうなると、興味は人間ドラマの方に移るわけだが、今のこの国の現状と変わらず、悪は追及をすり抜け、運命に翻弄された弱者ばかりが憂き目を見ることになる。どこまで行っても霧の晴れない世界に放り込まれた者たちが互いに傷つけあうのを傍で見ているようでいたたまれなくなる。

小説の中で日本刀が大事な役割を果たしている。ただし、日本で作られたものではない。ピレネー近くの村で鍛冶職人をしているマリアの父が作ったものだ。日本人読者からすれば、それはちょっと、と思ってしまうのだが、鞘は泰山木と竹、鍔には龍が彫られているというから本物の拵えのようだ。原題は<La Tristeza del Samurái>(侍の悲しみ)。西洋人から見た武士道に対する憧憬は感じられるものの木に竹を接いだような違和感が残る。

バルセロナを舞台にしたミステリといえば、カルロス・ルイス・サフォンの『風の影』を思い出すが、スペインの近代史を背景にしている点以外にも、グラン・ギニョールを彷彿させる血塗れの残虐さや醜悪さの追求といった点に共通するものを感じる。裏切りとそれに対する報復に寄せる執着も並々ならぬものを感じる。国民性などという言葉で簡単に括りたくはないが、美観地区にちなんで、バルセロナ・ゴシックとでも名づけたいような独特の雰囲気がある。人にもよるが残酷描写が嫌いでなければハマってみるのも悪くないかもしれない。

 

『モスクワの伯爵』エイモア・トールズ

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書名からロシア文学だと思うかもしれないが作者はアメリカ人。原作は英語で書かれている。原題は<A Gentleman in Moscow>(モスクワの紳士)。邦題は主人公アレクサンドル・イリイチ・ロストフが帝政ロシアの伯爵であることに由来する。小説が扱うのは一九二二年から一九四五年まで。小説が始まる五年前の一九一七年、ロシアでは二月革命十月革命が起きている。貴族には、亡命、流刑、投獄、銃殺など、悲惨な運命が待っていた。

暗い予感に躊躇するかもしれないが、早まってはいけない。主人公のロストフ伯爵は銃殺刑を免れる。革命前に書いた詩が人民に行動を促した事実が認められたのだ。従来どおり、モスクワの超一流ホテル、メトロポールに住むことを許される。ただし、部屋は最上級のスイートから屋根裏部屋に変わる。ホテル外に一歩でも出たら銃殺刑という処分。貴族のプライドを傷つけ、自由を奪う、見せしめの刑である。

伯爵は意気消沈したか、それとも自分をこんな目にあわせた相手に復讐を誓っただろうか。自暴自棄になっただろうか。とんでもない。名づけ親である大公の「自らの境遇の奴隷となってはならない」というモットーに従い、新しい境遇を受け入れ、第二の人生に足を踏み出してゆく。伯爵は逆境を前向きにとらえ、新生を愉しむ。その姿はむしろ明るく颯爽としている。

この伯爵という人物が実に魅力的だ。小説の魅力の大半はこの人物にかかっている。当意即妙の話術。文学や音楽に関する教養。人を惹きつける態度物腰。人間観察力による客の差配。料理の選択とそれに合わせるワインに関する蘊蓄を含め、貴族として持ち合わせている資質に加え、主人公だけが持つ人間的魅力に溢れている。

貴族とか紳士とかいう人々はこんなふうに生きているのか、とその優雅さにため息が出る。何しろ、父が作らせた時計は一日二度しか鳴らない。紳士たるもの時間に縛られてはならぬのだ。朝起きたら、コーヒーとビスケット、果物を摂り、昼の十二時に時計が鳴るまでは読書。<ピアッツァ>で昼食を楽しんだ後は好きなことに時間を費やす。晩餐はレストラン<ボヤルスキー>でワインを伴に、食後はバー<シャリャーピン>でブランデーを一杯。そして夜十二時の時計の音を聞く前に眠るというもの。

机の脚に隠された金貨の力もあり、欲しいものは取り寄せる。外に出ずとも暮らし向きに不自由はない。午前中は読書で時間がつぶれるが、午後の無聊をどうしたものか。主人公を退屈から救うのが少女ニーナとの出会いだ。仕事に忙しい父親に放っておかれたせいで、ニーナはホテルを遊び場にしていた。伯爵はニーナに案内されホテルのバックヤードに通暁する。秘密の通路や隠し部屋は単なる遊び場所ではなく、後に出てくるスパイ活劇での出番を待つ。伯爵と少女との会話がチャーミング。

貴族にロマンスはつきものだが、外出の自由を奪われた男は女とどう付き合うのか。密室物のミステリ同様、軟禁状態での色恋は不可能に思える。伯爵はコース料理はメインディッシュから逆算してオードブルを選ぶ。同様に作家はストーリを組み立てる時点で、後から起きる事件の原因を先に置く。綿密に練られたプロットがあって、多くの伏線が張られている。二度読みたくなる。ああ、これはこのためだったのか、と膝を叩くこと請合い。

ホームズ張りの観察眼の持ち主である伯爵は、レストランで客をどの席に案内するのが最適か一目でわかる。その特技を生かして給仕長となる。マネージャーのアンドレイ、料理長のエミールと互いの力量を知る者同士の間に友情が芽生える。その一方で、伯爵の前に一人の男が立ちふさがる。給仕のビショップだ。党の実力者にコネがあり、権力の階段を上ってゆく。この男が伯爵の宿敵となる。

敵がいれば味方もできる。グルジア出身の元赤軍大佐オシブがその一人。外交上の必要から伯爵に英仏語会話やジェントルマン・シップを学ぶうち肝胆相照らす仲になる。もう一人がバーの相客リチャード。アメリカ人ながら育ちの良さや学歴、と共通項のある二人はすぐに打ち解ける。リチャードがプレゼントした蓄音機とレコードも大事な伏線のひとつ。

革命時、パリにいた伯爵は身の安全を図るなら帰るべきではなかった。祖母の国外脱出を援けるためなら自分も一緒に逃げればいい。戦いに加わらないのに、なぜ国内にとどまったのか。それには深い理由があった。新しい友との出会いの中で、過去の経緯が語られる。伯爵の衒気が敵を作り、最愛の妹を傷つけたのだ。王女をめぐる軽騎兵と貴族の恋の鞘当て。ツルゲーネフの小説にでも出てきそうな過去の逸話が伯爵の人物像に陰翳を添える。

貴族であることを理由に処分されながら、伯爵は一概に革命後のソヴィエトに対して批判的な立ち位置をとらない。むしろ、時代というものは動いてゆくものだ、と冷静に受け止めている。しかし、スターリン独裁による粛清やシベリアの収容所という現実は、自分の友人知人の運命と直接関わってくる。ニーナに代わり、その娘を育てることになるのもニーナの夫のシベリア送りがからんでいる。

三十代から六十代までの人生を、伯爵はホテルの外に出ることなく、友達に恵まれ、女性を愛し、「娘」を授かり、子育てを経験し、やがて立派に成長した娘を外の世界に送り出す。どんな時代にあっても、どんなところに暮らしていても、人と人とは邂逅する。階級差やイデオロギー、国籍を超えて、人は人と生きてゆく。近頃珍しい人間賛歌が謳いあげられる。

ひとつの街のように、まるで異なる人生を生きてきた人と人が、ひと時のめぐり逢いを生きる、ホテルという場所を生かして、魅力的な登場人物を配し、ここぞというときに動かす。それまで軽い喜劇調で進んでいた話が、最高潮に達すると、ル・カレのスパイ小説のようなシリアス調に変化する。はじめに張っておいた伏線が次々と回収され、見事に収斂する。

格式あるメトロポール・ホテルの調度は勿論のこと、大きなフロアを泳ぐように動き回る給仕たち。様々な食材をさばくレストランの調理場。林檎の花咲きこぼれるニジニ・ノヴゴロドライラックの蜜を求めて蜜蜂が群舞するアレクサンドロフスキー庭園、と魅力溢れる風景が眼の前に浮び上る。まるで映画の一シーンを見るようだと思っていたら、映画化も決まっているという。アンドレイのナイフ四本のジャグリング、エミールの包丁さばき、と見どころは多いが、演ずる役者もさぞ大変なことだろう。

『アメリカン・デス・トリップ』上・下 ジェイムズ・エルロイ

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<上・下巻併せての評です>

アメリカが清らかだったことはかつて一度もない。悪党どもに幸いあれ―

「電文体」が帰ってきた。一文が短い。まるで電報。一文に単語が五つ以上使われることは滅多にない。新聞の見出しが躍る。電話の録音の書き起こし。マフィアのボスのバカ話。ハリウッドのスキャンダル。ときどき無性に読みたくなるジェイムズ・エルロイ。シリーズ中残る一作は「アンダーワールドUSA」三部作の第二作。アメリカ史に影を落とす要人暗殺の連鎖を背景に、男たちの報われることのない闘いを描く。

前作で死んだケンパー・ボイドに代わり、ウェイン・ジュニアが登場。ラスヴェガスの富豪、ウェイン・テッドロー・シニアの一人息子。ウェイン・シニアはクー・クラックス・クラン。子は父を憎んでいる。憎悪がウェイン・ジュニアの糧だ。ピート・ポンデュラントはそんなウェインを弟のように見守る。三人の主人公が交代で視点人物を務める。もう一人はウォード・リテル。懐かしい友に再会した気分だ。

ジャック・ケネディの死に始まり、マーティン・ルーサー・キング、ボビー・ケネディの死に終わる。アメリカの暗黒史を暴くクロニクル。一九六三年十一月二十二日、ラスヴェガス市警刑事、ウェイン・テッドロー・ジュニアのダラス到着に始まる。以後、ラスヴェガス、ロサンゼルス、メンフィス。さらにキューバ、ヴェトナム、ラオス国境のケシ畑。舞台は太平洋をまたぐ。時はヴェトナム戦争の真っ最中。

ピートにとってヴェトナムはもう一つのキューバだ。ピッグス湾で仲間を見捨てたケネディが許せない。軍から横流しされた武器をキューバに送る。夢よもう一度だ。イデオロギーではない。金儲けも関係ない。ハヴァナには夢があった。カジノがあった。そこにピートの生きる場所があった。ケネディは腰が砕けた。カストロはハヴァナを奪った。ピートは夢を忘れられない。

ウェインはダラスに送り込まれた。指令は黒人のヒモの殺害。ウェインは殺せなかった。逆にダラスの刑事を殺してしまう。ピートの助けを得て死体を処理。辛くも罪を免れる。ところが、ヒモ男はウェインの妻を惨殺する。復讐に狂ったウェインは仲間の黒人三人を殺し、刑事を辞める。化学専攻のウェインはヘロイン精製に通じていた。ピートはウェインをヴェトナムに誘う。ウェインは見る。ヴェトナムを。ヘロインに群がる男どもの姿を。ウェインは見続ける。見ることは知ることだ。ウェインは強くなる。

ウォードは孤独だ。理想や主義を捨てた堕落したインテリ。誰も彼を理解できない。権力者の黒子となって相手を援ける。相手は誰でもいい。大富豪でも、マフィアのボスでも、FBI長官でも。イデオロギーも信仰も介入する余地はない。相手に合わせて仮面をかぶり、カメレオンのように色を変える。盗聴し、強請り、人を動かす。帳簿を誤魔化し、金を動かす。ウォードが動く方に世界は動く。人が殺される。ウォードは怖れる。

シェルシェ・ラ・ファム。女を探せ。犯罪の陰に女あり。エルロイの女たちは魅力的だ。顔やスタイルは当然のこと。会話が弾み、機転が利き、歌が歌え、ダンスが踊れ、数字に強い。腕が立つのは男も同じだが、男は女に勝てない。エルロイの男たちは女に弱い。ノワールのヒーローなのに。惚れっぽい。人間臭い。そこがいい。

男たちの見果てぬ夢が終わる。夢は美しすぎた。ヴェトナムはキューバに代わる楽園ではなかった。ボビーの目指すアメリカの正義は潰える。マフィアが潰す。フーヴァーが潰す。組織は一度握った権力を離さない。そのためには裏切る。裏切りに次ぐ裏切り。大義は国家に裏切られ、男は愛した女に裏切られる。ドラッグが見せる束の間の美しいトリップ。夢の終わりはいつも切ない。

オズワルドは、何故ジャック・ルビーに殺されたのか。マーティン・ルーサー・キングを殺したかったのは誰か。ボビーの死を願ったのは。史実と虚構をつき混ぜ、どこまでが本当でどこからがフィクションなのか、そのあわいを判然とさせないエルロイ・マジック。これが事実である必要はない。しかし、これが事実であってもよい。そう思わされるだけの重さが宿る入魂のノワールである。今のこの国の報道など、この小説一文ほどの重さもない。