青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『アメリカン・タブロイド』上・下 ジェイムズ・エルロイ

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<上・下巻併せての評です>

その情景は私の目に焼きついている。通信衛星を使った日米間初のテレビ宇宙中継の実験放送中に飛び込んできたからだ。中学一年生だった。人気のヘア・スタイルをまねようと髪を伸ばし始めていたころだ。当時、ジョン・F ・ケネディ大統領は、その清新なイメージによって世界中で人気を集めていた。その大統領が白昼、衆人が環視する中で殺されたのだ。あの時の衝撃は忘れることはない。

実行犯としてリー・ハ-ヴェイ・オズワルドが逮捕されたが、二日後ジャック・ルビーによって殺されており、真相は闇に葬られたままだ。アメリカという国家の闇の部分を描くとしたらまさにうってつけの題材で、狂犬の異名を持つジェイムズ・エルロイが放っておくはずがない。『アメリカン・タブロイド』(上・下)は「暗黒のL.A.四部作」に続く「アンダーワールドUSA三部作」の第一作。舞台はL.Aからアメリカ全土に広がる。

大男のピート・ポンデュラントは素手で人を殴り殺し、手錠を引きちぎるという化け物である。労働界のボス、ジミー・ホッファ、大富豪のハワード・ヒューズという権力を後ろ盾に、殺しも請け負えば、副業の探偵業で不倫亭主を強請りもする、強面の便利屋だ。男を殴り殺した事件を担当したのが、当時FBIにいたケンパー・ボイドとウォード・J・リテル。今回はこの三人が章が変わるたびに語り手役を交代し、その視点から事件を、心中を語る。

ケンパー・ボイドは、FBI長官エドガー・フーヴァーにスパイとしての力量を買われ、形式上はFBIを辞職したことにし、労働組合の年金基金不正を暴くマクレラン委員会で働くことになる。委員会を率いるのはロバート・ケネディ。裕福な家に生まれたボイドだったが父の自殺で一家は没落。これを機会にケネディ家に近づき、失地回復を夢見る。野心家で、女にもて、服装やホテルには金を惜しまない高級志向の色男ながら、自在に訛りを操るなど、頭も切れ、腕も立つ。

ウォード・リテルは、盗聴などの汚れ仕事に長じるFBI特別捜査官。イエズス会出身で弁護士資格も持つ理想家肌で、ボビーに共感し近づこうとするが相手にされない。任務の上ではボイドには頭が上がらず、腕力ではピートを怖れている。小心で緊張をほぐすためについ酒に頼るところがある。しかし、いったんどん底まで落ちたことで、腹をくくり、マフィアの弁護士を引きうける。それ以降、リテルは一段と凄みを見せるようになる。

三人の悪党の眼から見たアメリカの裏面史である。表の世界を動かしているのは政治家だが、実際に動くのはその手足となって働く下っ端の連中である。上には上の思惑があるが、下には下の思案がある。政治家、金持ち連中は裏でマフィアとつながっているし、それを監視する立場のFBIは盗聴で得た情報を使い政治家やマフィアを牛耳ろうとする。当時キューバではカストロの勢いが増しており、麻薬とカジノの利権をめぐり、マフィアのボス連中はキューバ対策で頭を悩ませていた。

CIAは、反カストロの亡命キューバ人による部隊を作り、米軍とともにピッグス湾に侵攻する作戦を立てる。ピートとボイドは、上から密命を受け、キューバ人部隊を訓練することになる。その一方で彼らはそれとは別にカストロ暗殺を企て、狙撃手を募り、秘かに訓練を繰り返していた。その狙撃手が、カストロではなく、大統領暗殺に転用されることになろうとは、このとき二人は知る由もない。

南部の名門出身でイェール大卒のボイドはジャック・ケネディに自分を重ねていた。もし、父の死がなければ自分が大統領になっていたかもしれない、という思いである。しかし、ジャックは、ボイドなど眼中になかった。盗聴テープでそれを知り、傷ついたボイドは、自暴自棄のような作戦にピートを引き入れる。マフィアの麻薬を横取りすることに成功はするものの、二人はその後、報復怖れて疑心暗鬼に陥り、頭痛に悩まされ、それまで手を出さなかった薬に頼るようになる。

フーヴァーに失策を咎められ、FBIを追われたリテルは、マフィアのボスの一人に弁護士として雇われ、その後ハワード・ヒューズの下でも働くことになる。ピッグス湾事件が完全な失敗に終わり、カストロ暗殺の目も消えた。ピートとボイドは、麻薬強奪の件がばれ、マフィアに生殺与奪の権を握られてしまう。そんな二人に挽回策を見つけてきたのはリテルだった。二人の使命はジャックを殺すことだった。

「電文体」が影を潜めた硬質な文章から伝わってくるのは、男たちの悲しさだ。人の命などこれっぽっちも気に留めない男たちだが、何故か妙に心に残る。ジャックに追いつこうと、精一杯虚勢を張る見栄っ張りなボイド。同じカトリックとしてボビーの力になろうと身を粉にして働きながら一顧だにされないリテル。豪勢な部屋をあてがわれていても番犬にとっては犬小屋だと自嘲するピート。

三人の男は、危険の中に身を置いていないと、生きる実感が得られない、内的衝動を抱えている。エルロイ自身の衝動の反映だろう。ヒューズ、フーヴァーといった大物連は徹底的に戯画化される反面、自分一人の才覚で生きるしかない男たちは、意思も感情も知力もある等身大の人間として描かれている。ただ、組織を背負って生きてきた男たちは後ろ盾をなくすと脆い。自分の魂を売って組織を乗り換えた男だけが強かに生き残る、その非情さに胸蓋がれる。エルロイはチャンドラーが嫌いだそうだ。たしかに、チャンドラーにこんな男は書けない。シリーズは続く。

『イタリアン・シューズ』へニング・マンケル

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スウェーデンの冬は寒い。海まで凍りついてしまう。毎朝、島の入り江に張った氷を斧で叩き割って穴を開け、その中につかるのが「私」の日課だ。寒さと孤独と闘う、と本人はいうが、自分に課した懲罰のような行為だ。元医師のフレドリックは六十六歳。昔はストックホルムを臨む、この群島に五十世帯もの家族が暮らしていた。今は七人だけだ。自ら望んで島流しのような暮らしをするにはどんな理由があるのだろう。

ある日、水浴を終えて家に帰る途中、歩行器に頼って雪の上を歩く女の姿を見つける。どうやら、この島を訪れる唯一の訪問者である郵便配達夫ヤンソンがハイドロコプターに乗せてきたらしい。近づくにつれ、それが昔捨てたハリエットであることが分かる。元恋人は癌に侵され余命いくばくもなかった。死ぬ前に昔の約束を果たせと言いに来たのだった。

刑事ヴァランダー・シリーズで知られる北欧ミステリの雄、へニング・マンケルによる新作。つかみはばっちりという発端だが、これはミステリでもサスペンスでもない。いや、もちろんドキドキハラハラはさせられる。秘されている事実があるからだ。「私」はなぜ、こんな孤独な暮しを自分に強いているのか。ハリエットは、なぜ別れて四十年も経つ今頃になってフレドリックに会いに来たのか。

孤独な隠遁生活を送る老人という設定だけで、読みたいと思わされる。他人事ではないからだ。我が身を振り返れば、主人公と同い年の今も、妻や子に囲まれてひとつ家に暮らしてはいるものの、これは単なる偶然に過ぎない。もともと、家族を持とうなどとは考えてもいなかった。もとより自分から動くタイプではない。出会いというものがあり、相手の意思というものがなければ、どうなっていたかは分からない。

家族を持てば、責任がついて回る。自分勝手な生き方を送りたいと思っているものには、それは桎梏でしかない。おまけに、現に生きている世の中は自分が生きていたいと思うものでもなければ、自分の子を住まわせたいと思う世界でもなかった。主人公は何故、絶海の孤島で孤独な人生を送ることにしたのか、その訳が知りたいと思った。

この歳になると、結婚も二度や三度の経験があるのが西欧の常識らしい。この前読んだデニス・ジョンソンの『海の乙女の惜しみなさ』にも、別れた元妻が死ぬ前に電話をかけてくる話があった。人の死を前にすると、誰しも敬虔な気持ちにさせられる。振り返りたくもない過去を振り返る気にさせられるのだ。

ミステリではないので、ネタバレを心配することもないのだが、これから読む読者のことを考えると内容を詳しく書くことはできない。主人公が外科医で、自ら孤島に引きこもっているというなら、その原因は自分がおかした誤診のせいでは、と推察できる。足の不自由な老女が、連絡もなしに、突然氷に閉ざされた絶海の孤島にまで足を運ぶのは、有無を言わさず、相手をそこから引っ張り出す目的があるからだ。

主人公は過去の不幸な出来事を「大惨事(カタストロフ)」と呼んでいる。被害者意識から自分の行為に対して直面することを避け、病院を飛び出して外国に逃げた。故国に舞い戻ってからは祖母の家があったこの島に世間から逃げるようにして隠れ住んでいる。四十年ぶりに突然現れた元恋人が、彼を世界に引っ張り出し、連れまわることで、結果的にフレドリックは世界との関係を作り直すことを迫られる。

帯に「孤独な男の贖罪と再生、そして希望の物語」とあるが、それは主人公の側に立った視点でしかない。客観的に見れば、主人公の行為は利己的で、無責任。それ以上に他者に対しての思いやりというものを徹底的に欠いている。捨てた女のいうことを聞いて、旅に出たのはいいが、過去を責められると、また女を振り捨てて島に逃げ帰る。古傷に向き合いはしたが、相手が責めないのをいいことに、再び傷つけるような行為に及ぶ。

どうにも救いようのない男なのだ。犬や猫、鳥を相手にしている時だけ人間らしさが垣間見える。そう考えて、思い至った。三十年以上、誰ともつきあって来なかったのだ。人間とのつきあい方などとうに忘れていて当然ではないか。そんな「人でなし」が、死を前にした昔の恋人の手で、人の世の中に連れ戻され、情けない目や、怖い目にあわされ、しだいに人間性を回復してゆく。これはそういう物語なのだ。

「贖罪」というのは、まだ納得がいかないが、「再生」の物語というなら、なるほど、と思わされる。ミステリの大家らしく、読者を物語世界に誘い込む手立ては巧いものだ。イタリアの名工の注文靴に対する蘊蓄など、枝葉末節と見誤りがちだが、冒頭から結末に至るまで、ちゃんと主筋にからみついていて、最後にきちんと回収される。どれだけ逃げ回っていても、最後には勘定を合わせるために、見たくない真実に直面させられるのが人生というものなのだろう。たまには自分の人生について振り返ってみるのも悪くない。そんな気にさせられる物語だ。

『ウェルギリウスの死』ヘルマン・ブロッホ

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大学時代、同じゼミにいた友人が、岩波文庫版の『アエネーイス』について話すのを傍で聞いたことがある。ギリシアを代表する詩人、ホメーロスの代表作が『イーリアス』、『オデュッセイア』だとすると、ローマでそれにあたるのが、神々の血を引く英雄アエネーアスが、ローマ帝国の礎を築くまでの遍歴を描いた長編叙事詩アエネーイス』である。そんな話だった。本の選び方に偏りがあり、古典に疎い学生には得難い友であった。

書名を耳にしても、手にとってみるほどの興味は持てず、長い間ご無沙汰をしていた。実際に読んだのはずっと後で、映画『トロイ』に触発されてというのが本当のところだ。もちろん、ブロッホに『ウェルギリウスの死』という作品があることも知らなかった。それを読んでみようと思ったのは、ある日突然ネット上に書影が流れて来たからで、理由は分からないが、何故か気になった。

ジョイスの『ユリシーズ』が、ダブリンの街を行く、レオポルド・ブルームの一日を「意識の流れ」の手法で追ったものであるように、『ウェルギリウスの死』は、ローマ時代の詩人ウェルギリウスが、死の床に就こうとする一日を、詩人の内面に湧き起こる心的葛藤や幻想の叙述、友人との対話という形式を通して、今まさに死んでいこうとする芸術家の魂の揺れを克明に描いた芸術家小説といえよう。

アウグストゥスの船団とともにアテーナイから帰る途中、病に倒れたウェルギリウスを乗せた船は、カラブリア海岸にあるブルンディシウムの港に停泊する。詩人はアテーナイで『アエネーイス』を完成させた後は彼の地で哲学にいそしみ、余生を過ごすつもりでいたところを思いもかけずアウグストゥスに帰国を共にするよう要請され、やむなく帰国の途に就いた。もとより、『アエネーイス』は未完であり、本人としては不本意の旅である。

おまけに、炎暑がたたって詩人は病みつき、帰りの船でも床に就いたままとなってしまう。病を得た者の常として気は弱まり、畢生の大作の帰趨に対する展望が見えないこともあり、ウェルギリウスは死を覚悟し、未完の『アエネーイス』を他人の手に渡すよりは、いっそ夜明けを待って自分の手で焼いてしまおうと決意する。

ウェルギリウスの死』は、死期が迫ったウェルギリウスに次々と襲いかかる幻想、それに焼却の運命にある『アエネーイス』を守ろうとする友や皇帝アウグストゥスと詩人との対話で成り立っている。その主題の一つが、芸術作品はその作者の所有物なのか、それを受容する無数の人々のものであるのか、という問いである。もとより、二者択一ができるような問いではない。それだけに、双方の情理を尽くしての対話、論戦が白熱するのは当然である。

そもそも、何故ウェルギリウスは草稿を焼いてしまわねばならないのか、その理由が第三者である友人プロティウスやルキウス、それに、完成した暁には『アエネーイス』を捧げられるはずの皇帝アウグストゥスには分らない。完成はしていないまでも、完成途上の詩は本人の朗読により何度も耳にしている。ローマの宝ともいえる傑作であることは多くの者が知っている。病気を治して、完成させればいいだけのことではないかというのが、三人の一致する見解だ。

それに対するウェルギリウスの考えは、冒頭から明らかにされている。まず、ウェルギリウスは根っからの宮廷人ではない。農民の子で、父親は陶工をしていた。長じて都会に来るようになり、実学に励んでいたが何の因果か今は詩人としてもてはやされている。周囲の期待に応えているうちに何となくここまで来ただけで、本人の中では詩人である自分に納得が行っていないのだ。

ウェルギリウスは、自分の詩は万人向けに受けの好い「美」を謳ったものであり、現実や正しい認識を取り上げていない、と思っている。何故そうしたかといえば、現実や認識をうたったところで、それを喜ぶ者はいないからだ。船中や市中で目にする群衆の姿、その浅ましさを目にすることで、詩で大衆に働きかけ、世の中の何かを変えることなどできない、という実感が強まってくる。そこに、自分の乗った輿を担ぐ捕虜である奴隷の惨状が追い打ちをかけ、無力感は高まる一方である。

宿舎に入った詩人は微睡みの中で夢を、熱のせいで幻覚を見る。そこにいるはずもない少年や奴隷、過去の恋人が眼の前に立ち現れて詩人に語りかける。その幻視、幻聴はすべて詩人自身の裡より生じる、自己内対話であろう。自分の資質にない仕事をし遂げ、名誉を得るも、自分が本当にしたかったことは何ら成し遂げていない。人生が終わりに近づいた時に、多くの人が感じる焦慮、悔恨が様々な想念となって、弱った魂に追い打ちをかけるのだ。

特に「死」のイメージが強烈だ。アエネーアスやオルフェウスに導かれ、黄泉の国を訪れる幻想をはじめ、間際に迫った死に対する強迫観念の強さに圧倒される。幻想文学好きとしては、イメージが奔騰する幻想の描写に迫力を覚える。ただ、このイメージの寄って来たるところが、ユダヤ人であったブロッホナチスの手によって捕えられ、五週間という長きに渡って収容所に投獄され「死」と直面していたことにある、と知ると唯々イメージの豊かさに感心しているわけにはいかない。

結果的に作家は死を免れることになるが、詩人はローマへの帰還は叶わず、旅先で死んでいる。四大に基づく四部構成の「第四部 灝気―帰郷」は、詩人の導き手である少年リュサニアスと過去への執着の象徴である恋人プロティアが一体化した存在に導かれ、死の世界に分け入る詩人の最期を描く。人間から動物へ、そして植物へと形相を変化させながら、次第に自と他の区別を離れ「言葉の彼方」へ旅立つ。人が死に至る場面を描く小説は多いが、これほど執拗に変化してゆく自分を追いつづける文学は珍しい。余りにも西欧的な死生観に違和感がないでもないが、いずれは死ぬ身。一読の価値がある。

めったに目にすることのない漢語(倏忽、灝気など)が頻出し、久しぶりに辞書の厄介になったが、詩を意識した荘重な叙事、いかにもローマというべき弁論術を駆使した対話、めくるめく幻想が奔出するイメージ、とただでさえ大部の著作を場面によって訳し分ける苦労は並々ならぬものだったろう。二段組四百ページを超えるボリュームではあるが、読み終えた後の達成感は保証する。

『海の乙女の惜しみなさ』デニス・ジョンソン

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表題作「海の乙女の惜しみなさ」を筆頭に「アイダホのスターライト」、「首絞めボブ」、「墓に対する勝利」、「ドッペルゲンガーポルターガイスト」の五篇からなる短篇集。「私、俺、僕」と作品によって異なる人称に訳されてはいるが、英語ならすべて<I>。一人称視点による語りで全篇統一されている。もっとも、内一篇はアイダホにあるアルコール依存症更正センターに入所中の「俺」が外部にいる家族、知人にあてた手紙という形だ。

「私」の語りで語られる「海の乙女の惜しみなさ」は、掌編と言っていい短いスケッチのような章も含め、十の断章で構成されている。現代アメリカで広告代理店に勤める六十代の男が、自分の見てきたいろいろな人生の瞬間を思い出すままに語り出す。若い友人二人が結婚するきっかけになった夜のこと、自尊心が高価な絵を灰にしてしまう話、夫を亡くしたばかりの妻と出会った知人二人の話、美術館で知り合った絵描きとの交流と彼の自殺に纏わる話、等々。

それらが、互いに共通する要素を接点として、まるでしりとりのようにたいした脈絡もなく語り継がれてゆく。どうやら「君」に語り聞かせているようで、八十年代のゴールデンタイムのテレビ番組を見ていたなら、という問いかけがなされていることから考えると、自分より若いが、さほど歳の離れていない人間を想定しているようだが。

CMが受賞するのだから、それなりに成功を収めている。住んでいる地区もバスローブに房飾りのついたローファー履きで夜出歩けるというから高級住宅地だろう。若い頃に二度の離婚を経験し、今の妻とは二十五年続いている。すでに自立した、美しくも賢くもない娘が二人いる。人生に特に不満はないが、記憶が薄れつつある過去に未練もない。ときおり、静まりかえった近所を歩きに出る。民話に出てくる魔法の糸や剣、馬を求めて。あの『煙の樹』のデニス・ジョンソンも、枯れた境地にたどり着いたものだ、と思わされる。

「アイダホのスターライト」は、破格の一家に育ったキャスという男が、リハビリ施設で行われるカウンセリングの様子や、家族の集いに出てくれた婆ちゃんの武勇伝、それに抗アル中薬の副作用のせいで襲われる幻覚を手紙形式で訴える話。はたから見たらとんでもなく悲惨な境遇なはずだが、ジョンソン独特の乾いたユーモアのせいで、面白く読ませる。が、それでいてやはり、地獄の底を覗いたような暗澹たる気分にさせられる。

「俺」が十八歳のとき、盗んだ車で電柱にぶつかって逮捕され、四十一日間、郡刑務所に入れられた。そのときの同房者が「首絞めボブ」だ。周りにいた囚人とのトランプや喧嘩沙汰が語られる。そこで出会った囚人仲間の何人かは、刑務所を出た後も何度も「俺」の人生に気まぐれな天使のように立ち現れては「俺」をヘロイン中毒にし、使い回した注射針で病気に感染させた。血を売って飲み歩く路上生活者になってしまった「俺」の凄惨な思い出話。どん底の人生に落ち込みながら、悔悛のかけらもないのがすごい。

「墓に対する勝利」もまた「君」に語り聞かせる物語。「僕」は作家。LSDによる幻覚作用の中で受けた右膝の診察をまるで他人事のように語るところからはじまり、一人の作家の死を看取る話に横滑りしてゆく。今回の短篇集には友人の死が多く登場するが、なかでも本作が最も凄絶。ひとつ家に死者と同居する幻覚というのが妙にリアルだ。しかもそれでいて、不思議な安らぎに満ちてもいる。ある年を越えると、過去を振り返ることが多くなり、先のことを考えるとすれば、それは「死」のことになる。近頃、私もそうなりつつある。誰もが病気になり、世を去る。「大したことではない。世界は回り続ける」。そうなのだろう。早くそんな境地に達したいものだ。

掉尾を飾る「ドッペルゲンガーポルターガイスト」は、それまでのプロットに頼らない気ままな語り口とは大いに異なる、小説らしい小説。よく知られていることだが、あのエルヴィス・プレスリーには双子の兄弟がいた。死産とされているが実は生きていて、悪名高いパーカー大佐によって陸軍入隊時にすり替えられたのではないか、という大胆過ぎる仮説が話の骨子になっている。もみあげを剃り、GIカットにしたエルヴィスは双子の兄弟の方で、本物は殺されていた、というのだ。

コロンビア大学で詩のワークショップを教えていた「私」は、学生のマーカスの詩の才能を高く評価していた。授業でエルヴィスのことをしゃべったのがきっかけになり、「私」は、マーカスにエルヴィスの墓を荒らして捕まった話を聞かされる。マーカスはエルヴィスが双子の兄弟にすり替えられたという仮説に執着していた。マーカスはその後、アメリカを代表する詩人に登りつめるが、あるとき以来本を出さなくなる。長年にわたる二人の友情と、エルヴィスの謎の解明が、双子(ツィンズ)という主題によって、アメリカを揺るがしたあの事件と重ねられる。墓荒らしに執着し、ドッペルゲンガーに振り回される、マーカス・エイハーンという呪われた詩人がエドガー・アラン・ポーを彷彿させ、鬼気迫る。

ジーザス・サン』に次ぐ第二短編集。再読、三読するたびに、一つ一つの文章が忘れ難い味わいを持って心に響いてくる。「これを書いているのだから、僕がまだ死んでいないことは明らかだろう。だが、君がこれを読むころにはもう死んでいるかもしれない」というところを読んで、巻頭から話者に「君」と呼びかけられていたのが、自分であることに思い至った。長年、本を読んできたが、こんなにも心に沁みた話者の言葉は初めてだ。

『路地裏の子供たち』スチュアート・ダイベック

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古い日本映画を見るのが好きだ。外国映画も好きだが、出てくる風景に見覚えがない。日本の映画なら別に名作でなくても、背景になっているちょっとした風景が、まるで記憶の中にある少年時代のそれと重なって見える。ごくふつうのどこにでもある田舎町の何でもない家並や路地から、当時の自分や遊び友だちが駆け出してきそうな気がする。

少年時代は誰にでもあるだろうが、戦後育ちの者には懐かしく思い出すことのできる現実の風景は、周りにそれほど残っていない。高度経済成長期を通じて、町の風景は一変した。それと時を同じくするようにして人々の生業にも変化が起き、それまで目にしていた人々の姿が町から消えた。たとえば、ポン菓子屋、紙芝居屋といった人々。どこからかやってきて、空き地や路地裏で店を開き、子ども相手の小商いが終わるとまたどこかへと去ってゆく。

小さいながらも店を持つ駄菓子屋などとちがって、その素性の知れないところが子ども心に魅力に溢れていて、ついつい後について行きたくなったものだ。ところが、当時は、夕暮れ時に知らない町をうろうろしていたりすると「子取り」が子どもをさらいにくるという話が囁かれていた。売られた子の行き先がサーカスで、酢を飲まされて柔らかくなった体で曲芸をさせられるというのだ。くわばら、くわばらだ。

大きな道なり、川なりを一つ越えるとそこはもう町外れで、顔見知りの人はいない。日の高い間はまだいいとして、日が暮れかかると一気に心細くなって、あわてて自分の町内に帰って来たものだ。ラジオから流れてくる音楽や夕飯の煮炊きの匂いがいつもと同じであるだけで一安心する。その一方で、知らない町からやってきて、どこへともなく去ってゆく行商の人々への興味、関心は高まるばかりだった。

『路地裏の子供たち』は、作者であるスチュアート・ダイベックが子ども時代を過したシカゴの、貧しい労働者や移民たちが住みついた界隈を舞台にして書かれた短篇集である。そんな町にやってくるのがパラツキーマン。「彼は小さな金色の鈴を鳴らしながら、白い荷車を押して近所を回る老人だった。四つ角に来るたびに立ちどまると、お金を握りしめた子供たちが寄ってきて、細かいナッツをまぶした糖蜜アップルや、尖ったスティックに刺した赤いキャンディアップル。あるいはまた、白い荷車のガラスの下に並んだパラツキーをじっくり吟味した」。

パラツキーとは、パリパリのウエハースを二枚、蜂蜜で貼りあわせたお菓子のことだ。ジョンとメアリの兄妹が、パラツキーマンの後を追って町外れにある、空き地で開かれている見慣れぬ人々の集会を目撃してしまうという話が、巻頭に置かれた「パラツキーマン」。誰もが子ども時代に感じる郷愁を、子どもから大人に変わりつつあるアドレッセンス期の危うい心のバランスを接点に一瞬にして幻想の中に引き入れる離れ業をやって見せている。

原題が<Childhood and Other Neighborhoods>。脚韻を踏んでは訳せないが、「子ども時代とその界隈(の物語)」といったあたりだろう。ポーランド系移民の出自を持つ作家が住んでいた界隈は、ロシアその他の東欧からの移民が多く暮らしていたようで、ロマを思わせる人々の集う様子や、血のスープという名前の料理など、国際色豊かな人々の暮らしが展開し、貧しい暮らしの中で力を合わせて逞しく生きる人々の姿が描かれている。

個人的には「パラツキーマン」ともう一つ「バドハーディンの見たもの」が心に残った。段ボールでこしらえた耳や掃除機のホースで作った鼻を持つ象の中に入ったバドハーディンが草ぼうぼうの空き地に現れる。今は大きくなったバドハーディンは昔、太っちょのいじめられっ子だった。彼は何のために象になって現れたのか。たった一人の大事な友達はわだかまりを残したまま二度と会えなくなった。象となったバドハーディンはその元凶である教会に乗り込んで、めちゃめちゃに暴れ回る。

他者に見せている自分の外皮の寓意なのだろう、まだらな灰色に塗られた大きなつくり物の象が効いている。その中でペダルを踏み、ハンドルを回している自分は小さい頃の少年のままなのだ。駄菓子屋のミスター・ガジーリにはお見通しだった。彼は失くした友情を回復するつもりでやってきたのだ。プレゼント用に準備したのだろう。鼻からこぼれ出る銀貨や腕時計、宝石が哀しい。ピュアな子どもの魂を持ったまま大人になってしまったバドハーディンの孤独がしみじみと心に迫る。

全十一篇。巻末に付された日本版特別寄稿エッセイ「『路地裏の子供たち』を書いたころ」の中で、この物語が生まれるきっかけにコダーイ音楽との出会いがあったことを語っている。音楽について行った作家はその中で迷子になり、自分の想像力の中にあるそれまで訪れたこともなかった場所に行き着く。「シカゴを舞台とはしていても、リアリズムから離れて、想像の都市へと通じている物語」に。読んでいる間、自分もまた見覚えのある風景の中を歩いているような気がしてならなかった。

『翼ある歴史-図書館島異聞』ソフィア・サマター

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前作『図書館島』をすでに読んでいたとしても、本作を読むのにあまり役には立たないかもしれない。聞きなれない名前が矢継ぎ早に登場し、あらかじめ何の情報も知らされていない人物が突然行動を起こす。あれよあれよという間に、事態は戦闘状態に入ってゆくのだ。不親切きわまりない幕開けである。もっと、余裕のある展開にしてもよかったのではないか、と初読時は思った。ところが、再読しはじめてその意味に思い至った。これは何度も繰り返し読むことをはじめから期待されている書物なのだ、と。

「剣の歴史」、「石の歴史」、「音楽の歴史」、「飛翔の歴史」の四巻からなる物語は、各巻ごとに語り手が交代する。「巻の一・剣の歴史」は、オロンドリア帝国に属するネインの貴族の娘タヴィスが語り手。次の王との結婚を期待される身でありながら、タヴィスにその気はない。周囲の期待を裏切り、名をタヴと変えて軍隊に入り、男達にまじって訓練を受ける。馬に乗り剣を振るうのが得意な、今でいう戦闘美少女。巻の四の語り手、シスキの妹でもある。

「巻の二」は『図書館島』にも出てきた「石の司祭」に纏わる物語。語り手は司祭の娘ティアロン。王子の戦争により父の司祭は殺され、娘は幽閉される。その王子アンダスヤ(ダスヤ)はタヴィスたちのいとこにあたる、オロンドリア帝国の王テルカンの息子である。ダスヤとシスキは互いに愛し合っており、二人が結ばれればネインの血を引く王が生まれることになる。それこそが辺境レディロスの城で虎視眈々とネインの血統による帝国の支配を目論む娘たちの大叔母マルディスの思うつぼとなる。

それというのも「言語戦争」におけるラスの勝利でオロンドリア帝国が誕生する前は、ネインやケステニヤといった小国が分立し、フェレドハイのような遊牧の民は、自由に各地を行き来することができ、国や部族によって言語も風習も信仰する神もちがっていた。帝国の支配は、それらを一つにしたが、谷の民や、砂漠の民にとって不自由をかこつもととなり、反乱の火種ともなるものであった。

タヴはフェレドハイの氏族の長であるファドヒアンやダスヤと手を組み、反乱を起こす。その原因のひとつが現テルカンが、民の信仰するアヴェレイではなく、「石」の教団に取り込まれ、司祭イヴロムが王に代わり帝国を牛耳る現状に対する不満だった。石に彫り込まれた古代の文言を研究し、それに則って王を導くイヴロムだが、それは信仰というよりも一種の否定神学ともいうべきカルト色の強いものであった。

「音楽の歴史」の語り手は、フェレドハイの歌い手でタヴの恋人セレン。彼女の歌う歌をタヴが鉛筆で書き記したものが「巻の三」である。四つの巻は、時間の順序に従ってはいない。鞍鳥と呼ばれる大きな怪鳥イロキに乗って空を駆ける女剣士タヴによって四つの巻は糾われてはいるが、視点もちがえば時間も異なる。しかも、回想視点が何度も挿入されるので、読者は支配する者と支配される者、勝者と敗者、それぞれの観点で、戦いのはじまりから終わりに至るまでを行きつ戻りつしながら眺めることになる。

「翼ある者」という呼び名は、怪鳥イロキに乗るタヴを意味するのは勿論だが、古い書物に残る吸血鬼ドレヴェドのことも指している。帝国が平和理にあるときは姿を見せないが、不穏な状態に陥ると、どこかで頭に角のある者の噂が口の端に上るようになる。しかも、「ドレヴェドの歴史」という書物によるとドレヴェドは王家の祖ということになる。女神アヴェレイの持つ負の側面こそ肩甲骨に翼の生えるドレヴェドが生まれる所以であった。

「巻の四」の語り手はシスキ。王子と結ばれ帝国を治めることを期待されていた。ところが、反乱の失敗で傷ついたダスヤを見守りシスキは七年ぶりに二人きりで暮らすことになる。愛し合っていた二人がなぜ離れ離れになったのか、世継ぎと決まっていた王子がなぜ無謀な反乱に加わったのか、思いもかけぬ理由が最後に明らかにされる。ミステリでいえば謎解きにあたる最終章のあっと驚く展開は、それまで封印していたファンタジー色が一気に躍り出て、読者を別世界に連れだすこと必定。

二度読めば、伏線にも気づくが、初めて読んだときは、巻頭に付された家系図とオロンドリア帝国の地図、そして巻末に置かれた用語集と首っ引きで、何とか話の筋道を理解するのに必死で、言外に匂う仄めかしなど気づくはずもない。ただただ四人の女性の境涯を追うのに夢中だった。それでも、最後まで読んでから初めにもどると、なるほど、あんなに面妖だった事態の進展が手にとるように呑み込めるから不思議である。

核となるのは、ケステニヤという小国の独立を目指すナショナリズムの動きだ。ネインの貴族の娘ながら、遊牧の民フェレドハイに加わって放牧生活に馴染んだタヴは、彼らがジプシーのように粗略に扱われることに義憤を抱く。部族の民が誇り高く生きていくためにはケステニヤはオロンドリア帝国から独立するほかはない。英国から独立を目論んだスコットランドやスペインのカタルーニャのように、独自の文化、風習を持つ民族の分離、独立にかける情熱が物語の底流にある。

しかるに、戦闘場面は多くない。話者が女性ということもあるが、戦いの終わった時点から語られる傷ついた者の哀歌の趣きが強い。独立を夢見て戦いを始めたタヴは多くの者の命を奪うことになり、司祭の娘はただ一人の父親の命を奪われる。セレンは兄や仲間を殺され、シスキもまた戦に敗れたダスヤと取り残される。女は政略結婚の道具でしかなく、書かれた歴史の中で女の占める位置など無きに等しい。ならば、女の手で書きとめられる歴史が必要となる。『翼ある歴史』は、その試みではないか。

ダスヤとタヴが起こした反乱の犠牲者であるティアロンの語る物語は、その中ではいわば外伝。ティアロンの父イヴロムの物語は、貴族階級の姉妹や王子の物語とは大きく色あいが異なる。ルサンチマンの色濃い野望を果たすために、友人や弟子の解釈を異端と切り捨てるだけでなく、遂には死に追いやる、イヴロムの暗い情念の奔出は読んでいて空恐ろしい。カルト集団の持つ力が権力と結びついた時、そこに待っているのは終末的な世界である。とても他人事とは思えない。

指輪物語』や『ゲド戦記』でお馴染みの物語の舞台となる地図を巻頭に置きながら『翼ある歴史』は、ファンタジーというより稗史小説めいている。しかし、結末に至り、ファンタジー色が一気に強くなる。トールキンル=グウィンに影響を受けたというソフィア・サマターは、言語に関する関心が高く、民族によって異なる言葉や伝説、風習を厳密に創造し、詳細に言語化する。そのため、用語集を引かなければ、初めは何が何やらさっぱりわからない。いや、最後に至っても充分呑みこめたとはとても思えない。

ファンタジーにおける異世界の創出は、作家が描きたい世界を思うがままに作り出すための仕組みである。物語を追う過程で、読者は様々な主義主張、思惑を無意識の裡に受け止めることになる。世界の中での女性性について、文字文化と無文字文化の世界の葛藤、定住と移住、その他、挙げだせば枚挙に暇がないが、それが主ではない。まずは作者によって精緻に作り上げられたこの物語世界をじっくり楽しむことだ。話はそれからである。前作をはるかにしのぐ物語世界が読者を待っているのだから。

『ピュリティ』ジョナサン・フランゼン

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記憶が定かでないのだが、すべての小説は探偵小説であるという意味の言葉をどこかで読んだ覚えがある。すべてかどうかは知らないが、たしかに面白い小説に探偵小説的興趣があるのはまちがいない。ページターナーと称される作品には、読者の前に必ず何らかの謎が提出されている。馬の鼻先に吊るされた人参のように。それを手にしようとして読者は我知らずページを繰らされるのだ。

カリフォルニア州オークランドに住む若い女性ピップは、奨学ローンで苦しんでいた。母親はシングル・マザーでレジ係の職に就いているが、うつ気味でフェルトン郊外セコイアの森に建つキャビンに引きこもっている。ピップはときどき母の家を訪ねる。主人公の名前と境遇から、ある小説を思い出した。ピップなる人物が定期的に隠遁生活を送る女の家を訪ねる設定はディケンズのそれを踏襲している。ピップはどんな父親であれ、資金援助が得られれば有難いと考え、父について尋ねるのだが、ピップを愛することでは誰にも負けない母も、それについては頑なに口を閉ざすばかりだ。

アパート代にも事欠くピップは核軍縮勉強会で知り合った知人の家に居候していた。そこで会ったドイツ人女性に、あるプロジェクトのインターンシップを受けることを勧められる。プロジェクト・リーダーのアンドレアスは、つい先日逮捕されたばかりのジュリアン・アサンジエドワード・スノーデンの同類で、インターネット上に情報を流して社会悪を暴く<リーカー>。女性はアンドレアスにピップが優れた資質を持つ女性だと売り込んでいた。

容易に他人を信じることができず、周囲にとげとげしい態度をとるために変人だと思われているピップは、自分にそんな価値があるとは信じられなかったが、アンドレアスからのメールで、父親捜しを手伝えると示唆され、その気になる。<サンライズ・プロジェクト>の本拠地は南米ボリビアの山間にあるシャングリ・ラを思わせる地上の楽園。そこには、世界中から様々な能力を持つハッカーが集まっていた。特に美しくもなければ、何の資格もないピップは明らかに場違いだったが、アンドレアスとの相性はよかった。

結果的にアンドレアスはピップに資金援助を約束する。ピップに与えられる恩恵は、どこからきているのか。また、父親は誰なのか、七章からなる長篇の第一章「オークランドのピュリティ」を読むだけで、わくわくしてくる。しかも、辛辣な皮肉や歯に衣着せぬ毒舌が飛び交う会話はアイロニーに充ち、どこかずれてるピップの行動は哀切なユーモアにあふれている。ページを繰る手は止まらない。

ところが、次章「悪趣味共和国」で視点人物をつとめるのはアンドレアスで、時代もベルリンの壁の崩壊前夜。舞台となるのは東ドイツ。若き日のアンドレアスがシュタージの監視の目を逃れ、小説の核となる事件を起こすに至った顛末が本人の心理を含め、詳細に描かれる。本作で、アンドレアスの役どころはディケンズ作品における囚人マグウィッチ。小説自体は現代アメリカの陽光溢れる西海岸を主な舞台にしていながら、物資が乏しく自由のない東独時代を対比的に配することで、ゴシック小説的な怪奇味を演出している。

それ以後も、ピップが勤めることになる<デンバー・インディペンデント>の主筆トムをはじめ、章がかわるたびに視点人物がころころ変わる。それらの人物はみなピップを軸にしてつながっている。ピップの数奇な人生をめぐる物語を角度を変え、時間をさかのぼり、多視点的に眺めることで、めぐり合わせの奇矯さが立体視できる仕組みである。綿密に仕組まれたプロットといい、深く掘りさげた人物造形といい、完成度は高い。

しかも、主たる話題は独立系報道機関による秘密情報の暴露という、極めて今日的なものである。オバマに落胆したアメリカ人の心理がそこかしこに顔を出し、ハリウッド映画や女優の名前が会話の中に出てくる、リアルタイムな世界を描いた小説が、最も力を入れているのが人間関係の愛おしさと厭わしさであるのが興味深い。男と女、男と男、女と女、夫と妻、父と娘、母と娘、母と息子、血のつながらない父と息子、と対になる関係を網羅して、その二律背反する愛と憎しみの深さをここまでえぐるかというほど突き詰めている。

情景描写も巧みである。セコイアの落葉の降り積もるカリフォルニア州フェルトン郊外の森の描写に始まり、ル・カレの小説を原作とするスパイ映画を思い出させる息詰まるような東ベルリンの闇、そして様々な色彩の鳥が飛び交うボリビアのエル・ボルカネスの南国的、官能的な自然描写。書かれた文字を読んでいるだけなのに、色やら匂いやらが五感を襲う。

登場人物のほとんどが人並み外れた知性と教養の持ち主なので、会話にはシェイクスピアの引用が挿まれ、時には激しい心理分析の応酬となり、思弁的な洞察が混じる。深く愛し合いながらも、一緒に暮らすと傷つけ合わずにいられないトムとアナベルを描いた場面など、既婚者なら他人事とは思えない。昔を思い出し身につまされた。脇役ながらピップの家の家主で統合失調症を病むドレイファスの感情を一切排したもの言いの底にある切情、或いは車椅子生活を送る小説家が韜晦気味に漏らす不埒なユーモア等々、なかなか読ませてくれる。

そうきたか、と思わず膝を打つことになる奇手、突拍子もないようでいてそれしかないと思わせる解決策、とミステリやサスペンスの向こうを張ったハラハラドキドキ感も半端ではない。それでいて「潔白」を意味するピップの本名「ピュリティ」の字義通り、この世の中がいくら汚濁に満ちているとしても、人間はまだまだ捨てた物ではないという気にさせてくれる。外国文学好きを自称しながら、こんな作家を知らずにいたとは。また一人好きな作家を見つけることができてうれしくなった。