青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『怪奇文学大山脈Ⅲ』荒俣宏編纂

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このシリーズも三巻目。副題に「西洋近代名作選 諸雑誌氾濫篇」とあるとおり、二十世紀の西洋怪奇文学を広く雑誌に渉猟したものである。70年代に日本でも怪奇幻想文学がブームを呼び、夢野久作久生十蘭小栗虫太郎などの作品が次々と復刊され、読み漁ったものだ。もっと他にないのか、という思いで雑誌「新青年」の復刻本にまで手を伸ばしたが、ここに集められたのは、その種本にあたる本家本元の西洋の雑誌に寄せられた刺戟的な娯楽小説が中心である。

二巻目が、教養に恵まれた富裕層に向けられた作品の系譜をたどったものとすれば、本書は大衆向けの興味本位の扇情的な、俗にいうパルプ・マガジン等から拾い集めたものである。編者である荒俣宏が前書きにそう書いているのだからまちがいない。もともとこのシリーズ、世に埋もれた傑作、快作を紹介しようという編者の意図から編まれたもの。知ってのとおり、荒俣は該博な知識と資料の蒐集にかけては現代日本において他の追随を許さない第一人者である。

怪奇幻想文学と一口にいっても、上はヘンリー・ジェイムズの幽霊譚から、下はエロ・グロ・ナンセンスに溢れた大衆娯楽小説まで、その範囲は広い。ゴシック・ロマンスやE・A・ポオのように定評のある作品は、すでに紹介済みで、今更編者が手がけるまでもない。そこで、彼が目をつけたのが、安価で大量に流布され、使い捨てられた大衆誌に載った作家、作品である。ネーム・バリュウのある作家もいれば、日本では無名といっていい作家もいる。ただ、それらの果たした役割は大きい。

どんなジャンルであっても、それが世に出て、認められるまでには時間がかかる。淘汰され、名作、傑作と称される作品が掬い取られるまでに、目の荒い網からこぼれ落ちた銘品、佳品も数あるにちがいない。それを紹介せずにはおかない、という心意気が感じられるこのシリーズである。粗悪な紙質のパルプ雑誌を現地で買い漁るだけでなく、時間をかけ欠本を探し集めることで、発表当時の表紙画や挿絵、イラストまで大量に紹介できる強みが荒俣にはある。全巻所収の丁寧な前書きと手厚い作品解説が今後の研究者に寄与する何より貴重な資料となるだろう。

前置きにあるように、作品自体の質はそう高くない。フランスのグラン・ギニョル劇の戯曲や、そこから起こした小説、アメリカのパルプ・マガジンで量産された小説が中心なのだから、そこは仕方がない。そんななか、ヒッチの映画にもなった『三十九階段』の原作者ジョン・バカンの「アシュタルトの樹林」は、さすがに風格がある。南アフリカに邸宅を構えた旧友を訪ねた語り手が、変わり果てた旧友の秘密を探り当てると、小さな樹林の中に古い神を祀った神殿があった。ジンバブエの円錐神殿を完璧にしたような石造りの塔。キリスト教以前の太古の神々といえば、ラブクラフトが有名だが、それとは一味ちがった繊細な趣きに心惹かれるものがある。

アメリカのパルプ・マガジン系にもなかなか読み応えのある作品が選ばれているが、なかで一つ選ぶとすれば巻末に置かれたM・E・カウンセルマンの「七子」か。黒人奴隷の一家に生まれた七番目の女の子は、なぜか皮膚の色が白かった。悪魔の子といわれ、納屋に放置され、名前もただの「七子」とされていたところを、雇い主が知り、それがアルビノであることを教え、普通の暮らしに戻るが、彼女には他の子にはない力が備わっていた。アフリカン・アメリカンのルーツを感じさせるブードゥーの呪いがとんでもない悲劇を捲き起こす。幼い少女を主人公とするなら、これしかないだろうという「ひねり」と、静かな癒しを湛える結末が余韻を残す佳品である。