青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『すべての見えない光』 アンソニー・ドーア

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第二次世界大戦前夜、パリにある国立自然史博物館に勤めるルブラン・ダニエルは白内障で急速に視力を奪われつつある娘のため、指でなぞって通りや街角を記憶できるよう、精巧な街の模型を作ってやる。しかし、マリー=ロールが模型で覚えた街の姿を頭の中に再現し、視覚以外の感覚を総動員して街歩きができるようになった時、パリはナチス・ドイツによって占領される。父娘は住み慣れたパリを離れ、大勢の避難民にまぎれ、心を病んだ大叔父の暮らすサン・マロを目指す。

同じころ、ヴェルナー・ペニヒは、ドイツの孤児院にいた。機械いじりが得意なヴェルナーは、壊れて放置されていた部品でラジオを作り、妹と二人で毎夜フランスから放送される子ども向け科学番組を聞くのを楽しみにしていた。才能を見抜いた土地の実力者の推薦で試験を受けたヴェルナーは士官学校に合格するが、そこで彼を待ち受けていたのは、優生思想を奉じ弱者を排除しようとする集団であった。

敵対する国家の下で育つ少年と少女が磁力に引かれるように、海賊が作った要塞都市サン・マロに導かれる。これは、ブルターニュからウクライナまで、第二次世界大戦下のヨーロッパ大陸を舞台に繰り広げられる壮大な規模の「ボーイ・ミーツ・ガール」物語だ。その奇縁となるのが、ボルネオのスルタンが所有していた、持ち主の命は守る代わりに、周囲の人を不幸にするという呪いのかけられた宝石<炎の海>だ。

有名な宝石を手に入れようと、癌に侵された体を引きずって、各地に散らばった本物を含む四つの石の持ち主を探すナチスドイツの上級曹長フォン・ルンペル。石を守るためにか、呪いから身を守るためにか厳重に保管場所を用意し、その錠を預かるルブラン。第一次世界大戦で心に傷を負い、家から一歩も外に出られない大叔父エティエンヌ。その家政婦で料理上手なレジスタンスの闘士マダム・マネック。個性あふれる面々がマリー=ロールをめぐって暗闘を繰り広げる。

器用な手仕事と娘に寄せる強い愛情で造られるパリとサン・マロの立体的な模型の街が、物語で重要な役割を果たしている。錠前主任の父親は毎年からくり細工の木箱の中にマリー=ロールへの誕生日プレゼントを入れる。成長するたびにからくり仕掛けは次第に手の込んだものになるが、マリー=ロールはあっさりそれを解除できるようになる。

時間の流れを自由に行き来し、少年と少女の身に起こる出来事を交互に語ってゆく自在な語りの注目すべき点は、盲目の少女の中に入った時。目の見えない少女が街の中で出会う人や動物、その他の事物をどう認識しているのかということだ。音や匂い、触覚、熱感覚、とそれこそ人間の知覚感覚を総動員して現状把握するのだが、それが何とも鮮やかに語られていることに驚き、その精神の強靭さに感動を覚える。

マリー=ロールをそう育てたのは、点字を覚えた娘に誕生日ごとに高価な点字書物を与える父であり、仕事中の父に代わってマリーに博物学を語って聞かせるジェファール博士だ。エティエンヌといい、マネック夫人といい、マリー=ロールの周りには愛が溢れている。反面、ヒットラー・ユーゲントとなったヴェルナーは、ただ一人の親友フレデリックをいじめから守れず、ナチスに批判的な妹に口を利いてもらえない。

自由フランスとナチス・ドイツの戦いの渦中にある少年、少女の成長を描くかに見えた物語は、上級曹長の出現により、宝石をめぐっての攻防戦を描くサスペンス・ドラマの様相を見せ始める。オードリー・ヘプバーンに、盲目の女性が灯りの消えた家の「暗さ」を武器に犯人と戦う『暗くなるまで待って』という映画があったが、視点は女性の側にはなかった。それでは映画にならない。ところが、小説はそれが書ける。このあたり、面白く感じた。

呪いの宝石の由来を語る物語が、入れ子状に嵌めこまれていたり、パリの一区画や城壁で囲まれた城塞都市サン・マロがまるまる精巧な模型として造られていたりすることで、その街の中にいるマリーの頭の中に都市が嵌めこまれるという、入れ子状の構造の反復が、戦勝国側の視点で描かれた、ある意味で図式的な戦争物語を辛くも平板化から救っている。

アンソニー・ドーアには『シェル・コレクター』という短篇集がある。サン・マロで初めて海に出会ったマリーは、貝殻集めに夢中になるが、ドーア自身の趣味なのだろうか。ピュリツァー賞受賞作にふさわしい誰にでもお勧めできる作品。ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』が、通奏低音のように物語の水底で静かに鳴り響く。ヴェルヌ・ファンなら絶対見逃すことのできない必読図書である。

『ジョイスの罠』 金井嘉彦/吉川信

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柳瀬尚紀氏が亡くなったのは七月の終わり頃だったと記憶する。本書の副題に「『ダブリナーズ』に嵌る方法」とあることに、ああ、近頃はもう、『ダブリン市民』とは呼ばず、『ダブリナーズ』がスタンダードになったのだなあ、とちょっと感銘を覚えたのであった。

「ニューヨーカー」がニューヨークっ子。「パリジャン」がパリっ子。だったら、ダブリンっ子は「ダブリナー」。土地っ子の名前を書名にした二誌に対抗してのタイトル名だ。当今流行りの横文字カタカナ表記の風潮に流されたものでないと『ダブリナーズ』の訳者あとがきにあったのを思い出す。

いかにも柳瀬氏らしい諧謔味あふれた解説に比べると、本書の内容はかなりの堅め。画期的新訳と評判の高かった『ダブリナーズ』が、新潮文庫から出たのが、2009年の三月。本書のもとになる『ダブリナーズ』研究会の第一回がもたれたのが、同年十月。ジョイスの『ダブリナーズ』が刊行されたのが1914年。本書は『ダブリナーズ』100周年を記念して企画刊行されたものである(実際は二年遅れの2016年刊)。

『ダブリナーズ』所収の全十五篇を、それぞれ異なる研究者が担当し、それまでの共同研究を踏まえたうえで執筆した、索引や引用参考文献も付いた歴とした研究論文集である。それでは一般読者向きでないかといえば、そんなことはない。たしかに微に入り細を穿つというか、重箱の隅をつつく、とでもいうか、よくまあ、そんなことに気がつくものだと呆れるほどの微細な点を話題にするところはある。

しかし、話題にされているのは『ダブリナーズ』だ。難解さで知られ、ピエール・バイヤールがその著書『読んでいない本について堂々と語る方法』の中で白状している通り、大学教授でもちゃんと読んだことがないと揶揄される『ユリシーズ』をはじめ、新語、造語が続出し、原語で読むことすら難しい『フィネガンズ・ウェイク』などのジョイスの作品の中では、比較的読みやすいことで知られている。

しかし、本書の執筆者の一人も言うように、読みやすいから分かりやすいというわけではない。特に、オープン・エンドといえば聞こえはいいが、解釈を読者任せにしるような結末のつけ方は、読んでいてなんとも落ち着かないものがある。その他にも謎めいた言葉が使われているなど『ダブリナーズ』は、他のジョイス作品と比べれば読みやすいだけで、決して分かりやすい作品ではない。

おまけに、従来から『ダブリナーズ』といえば、ダブリン市民の前に進むことのできない精神的な「麻痺」を描いたものだ、という定説のようなものがある。さらには、ジョイス独特の「顕現(エピファニー)」という概念がつきまとう。もっとも、これら二つについて、これが「麻痺」を表しているだとか、これが「顕現」だ、とか言っていれば、何やら分かったような気がするところもあり、通説は便利なようでいて、その実何の役にも立たないところがある。

その昔、「アンチョコ」というものがあった。「虎の巻」という呼び名もある。まあ、簡単に言えば教科書の大事なところを解説してくれる参考書のこと。今は「教科書ガイド」とか呼ぶらしい。自分で調べる方がいいのはよく分かっていても遊ぶ時間も欲しいから、結構お世話になった。『ジョイスの罠』は、『ダブリナーズ』という教科書の絶好の「アンチョコ」といえる。

言葉遊びを駆使したジョイスのこと。『フィネガンズ・ウェイク』とまではいかなくても、『ダブリナーズ』も、通常では使わない擬音の使用や、文章中に必要以上に頭韻を踏ませたり、ある種の文字に特定の意味を象徴させたり、と凝った書き方がされている。それらは、訳されるとき、翻訳者によって解釈された日本語に変換されることで、日本の読者には引っかかりのない滑らかな日本語として解されがちである。

それでは困るのだ。一例をあげると、「蔦の日の委員会」の中で酒瓶の栓を抜く音の件がある。柳瀬訳では<ポーヒョン!>という音、原文では通常<pop>とするところを<pok>と表記している。柳瀬氏の解釈では、飲みたくても飲むことのできないジャック爺さんの情けない気分が現れているというのだが。

数多ある説が紹介された後、「OEDによれば、“pok”は、“pock”の別綴りで“pox”「梅毒」を意味する」という説明になる。なんでも、この“pox”、あの『ユリシーズ』で、「市民」が、エドワード七世を愚弄する言葉として使われている、らしい。単なる擬音が、アイルランドナショナリズムを反映する言葉へと変容する解釈。スタウトの栓があけられるたびに<ポクッ(梅毒)!>と聞こえていると思うと、なんだか可笑しい。

その外、掉尾を飾る中篇「死者たち」の心霊主義的な解釈も読みごたえあり。手もとにお持ちの『ダブリン市民』でも、『ダブリンの人々』でもいい、一篇一篇はそう長いものではない。この極上のアンチョビならぬ、アンチョコをあてに、再読というのはどうだろう。いちいち原文を引きながら痒い所に手が届く『ジョイスの罠』。ぜひこの機会に『ダブリナーズ』に嵌っていただきたい。

『塔の中の部屋』 E・F・ベンスン

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夏にはぴったりの怪談、というか幽霊譚。姿の見えるのもあるし、音や部屋の中に何かいる感じがするという存在感がたよりの幽霊もいる。さすがにどの家のクローゼットの中にも骸骨がいる、ということわざが成り立つ国はちがう。とはいっても、それほど、どこの家にもいればあまり怖くはなくなってくるのが人間の心理。人が集まるクリスマス前後の炉端だとか、気候のいい夏の宵には幽霊話が何よりの話題となる。

二十世紀の初め、ようやく自動車が登場し始めたばかりのころ。何かといえば田舎にある友人の屋敷に集まって、狩猟やスポーツを楽しむ階級に属する人々にとって、天気が悪く外に出られない日や、日が暮れて夕食も終わってから寝るまでの間、客が時間をどう潰すかがホストにとって課題だった。そんな時、話上手の紳士が仲間に交じっていれば何よりの幸運。話の効果を高めるため、灯を暗くして車座になり、耳を澄ます。

幽霊譚には様式があって、まずは前置きがある。どういう経緯で、その土地、その館に出かけたか、とか当主と自分の関係だとか、直接幽霊とは関係のない諸事情の説明だ。次に幽霊を見た経験を持つ人物が語り手によって紹介される。語り手自身もその場にいて、直接あるいは間接的に体験する場合が多い。最悪の場合、当事者は命をなくしたり、恐怖から正気をなくしたりすることもある。そのため実際に見たり聞いたりしたことを伝える証人が必要となる。それが語り手である。

E・F・ベンスンの幽霊譚は実にオーソドックスで、古来の様式を踏まえ、必要以上に恐怖をあおったり、残酷に過ぎたりしないところに好感が持てる。今風のホラーとはちがって趣味がいいのだ。電気が通じ、無線も電話もある時代の怪談ということもあって、心霊体験について懐疑的な読者を意識して、科学的に説明がつくように慎重に語っているのもとっつきやすい。それでいて、最後には説明がつかない恐怖体験が待っている。

語り口が似ているだけに、怪異の種類には変化を持たせている。まずは、死者の魂がこの世に執着した結果、死んでなお姿を見せる典型的な幽霊譚。これが集中最も多い。変わり種が、「芋虫」、「猫」といった虫や動物による怪異で、特に異彩を放つのが車が立てる土煙を扱った、「土煙」。自動車を駆ってのドライブが、上流人士の新しい遊びになった時代を反映してか、田舎道をすごいスピードで走る自動車に対する恐怖感をネタにしたものだ。

聖職者の息子に生まれたベンスンの書くものに、キリスト教的な宗教観を漂わせるものが多いのは当然だ。そんな中、牧羊神が吹き鳴らすパンの笛の旋律に憑かれた男の異教的な求道生活を描く「遠くへ行き過ぎた男」が異色。ニーチェキリスト教に感じた違和感そのままに、生きる歓びを得ることに全精力を傾ける元画家の姿が熱く語られる。自分の奉じる神との出会いが思いもかけない事態を招く結末に色濃いイロニーは、ピューリタニズムによるものか。

スコットランドに狩りに出かけた一行が味わった恐怖を語る「ノウサギ狩り」は、古い館で出会う怪異というパターンを破る一篇。暑いロンドを厭いハイランド地方に出かけた「私」たちの車は、夜になってようやく目的地付近に着いた。目指すロッジまであと少しのところで、車は真っ黒で見たこともないほど大きなノウサギを轢き殺す。翌朝、ノウサギ狩りに出かけようとすると、ガイドがこの村でノウサギ狩りはできないと言う。

あくまでも契約事項にある通りノウサギ狩りを決行するというジムに、「私」は、本で読んだノウサギにまつわる民間伝承を語る。「私」の考えでは、一行は「禁忌」を侵したのだ。見知らぬ習俗を今に残す異郷で白眼視される闖入者が感じる居心地の悪さが次第に恐怖へと変化する。萩原朔太郎猫町』を思い出すアルカイックな趣のある、一風変わった変身譚。

近代怪談のおっとりとした風情を楽しむにはもってこいの一冊。怪奇小説のアンソロジーではよく見かけるベンスンだが、これだけそろった短篇集は初めてだ。本邦初訳のものも多い。イギリスの家屋敷や庭園を彩る草花、田舎の風景、独特の気候の変化、と怪異を取り巻く雰囲気づくりに意を尽くした逸品ぞろい。じっくり味わいたい。

『いちばんここに似合う人』 ミランダ・ジュライ

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ぬるい塩水を入れたボウルに顔をつけさせ、八十歳をこえた老人三人に水泳を教える話がある。いい歳をした爺さんがキッチンの中をバタフライでターンする、畳の上の水練ならぬ床の上の水練が涙が出るほど面白い「水泳チーム」。話に出てくるばかりで一向に紹介してもらえない妹目当てに出かけた友だちの家で、ドラッグでハイになり、七十近い男同士が体を寄せ合い、ヘンな気持ちに。ちょっと想像したくない関係を描く「妹」。

型破りのセンス・オブ・ヒューモア。読んでるこちらが気恥ずかしくなるほどあけすけなセックスの打ち明け話。それなのに、最後には切ない気持ちにさせられてしまうのはどうしてだろう。突き放したような乾いた視点で見つめながら、語り手には、主人公が抱いている救いようのない孤独が分かっているからにちがいない。そう、この世界にあっては誰もが孤独なのだ。

全部で十六篇。長めのものもあれば、短いものもある。読みはじめたばかりの間は、何かなじめないものを感じていたが、終わりの方に近づくにつれ、これはひょっとしたら傑作かもしれない、と思い始めていた。設定が多彩で、話に変化のあるのがいい。人物の性格づけが的確で感情移入がしやすい。初めに書いたように、かなり突飛な話が多いのに、するすると読まされてしまうのは語りが上手いからだ。

ときどき「どうしてこんなところにいるのよ?」って言いたくなるくらい裁縫が上手な女の人が、ソーイングクラスの初級クラスにいたりすることがある。わたしが思うに、そういう人たちは自己評価がすごく低いのだ。はたから見たら何もかもうまくいってて、わたしたちなんか足元にも及ばないくらい才能に恵まれてるのに、本人は病的なくらいゆがんだ自己イメージをもっている。

こんなふうに裁縫クラスに通う「わたし」の語りから始まるのが「十の本当のこと」。彼女に自分は会計士だと言ってしまったために、仕事は安い下請けに出し、その差額でしのいでいる自称会計士のリック。その秘書を務めている「わたし」は、リックの妻のエレンに興味を抱いていた。裁縫教室に通いだしたのも、エレンがそこに通っていると聞いたからだ。

「わたし」がエレンと関係を築こうとして、自分の部屋を眺め、相手の気持ちになって部屋に手を入れるところが、とてもよく書けていると思う。相手について知り得るいくつかの情報をもとに、自分がどんな人間かを分かってもらえるように部屋をしつらえる。飾ったりするのではない。素の自分が見てもらえるように上等のセーターをベッドに放り投げたり、テレビの埃を拭ったり。でも、机の上はわざと乱雑にしておく、という気の使いようだ。

「人はみんな、人を好きにならないことにあまりに慣れすぎていて、だからちょっとした手助けが必要だ。粘土の表面に筋をつけて、他の粘土がくっつきやすくするみたいに」と、「わたし」は言う。こういう何気ないひとことに、ふっと心が動く。すごく頭が切れるのは初めから分かっている。ただ、この作家にはそれだけじゃない。とても善良な心が備わっている。それがいい方向に出ているとき、ストーリーは、とてもチャーミングなものになる。

ハチャメチャな話も後味は悪くない。ただ、好みからいえば、人の心のひだの細かなところにまで入り込み、静かに寄り添いながら揺さぶりをかけて動かし、願いを一度だけかなえて終わる、ミランダ・ジュライの書く、そんな話が好きだ。岸本佐知子の訳も良い。

『海に帰る日』 ジョン・バンヴィル

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妻を病気で亡くして間もないマックスは夢を見た。夢のなかで自分は今の歳でありながら少年だった。自転車が壊れ、足を怪我し、誰もいない田舎道を歩いていた。「日が暮れかかっているのに、雪のなかをひるむことなく歩き続ける哀れなでくの坊。行く手には道路しかなく、帰っても歓迎される保証はないのに」。まさに、日暮れて途遠し。この夢は、長年連れ添った伴侶を亡くし、これからどうしたらいいのかと呆然自失する男の心象風景そのものだ。

というのも、マックスは、もともと何者でもない人間だった。彼には個性がなかった。個性の代わりに、生まれや育ちによって彼に与えられたもの――感受性や性癖や考え方や階級的な癖の寄せ集め――を彼は嫌っていた。彼の願いは何者かになることだった。彼は美術史家になった。だが、それは、結婚によって妻アンナの資産が得られたからであった。彼はアンナによって、自分自身になれたのだ。そのアンナを喪失したことで、マックスはアイデンティティ・クライシスに襲われる。

わたしたちは、もし自分自身でなかったら、だれだったのか?哲学者たちによれば、わたしたちは他人を通して定義され、他人を通して存在するのだという。バラは暗闇でも赤いのか?音を聞く耳が存在しない遠い惑星の森のなかでも、木が倒れるときには凄まじい音を立てるのか?

今のマックスは暗闇の中のバラであり、聞く耳のない森で倒れる木だった。この頼りなさは、ある年齢を経て、人生の下り坂に入った人でなければ分からないかもしれない。一生の仕事を持っていて、やるべきことが常にある人ならいいが、多くの人間はそうではない。社会から切り離され、夫婦という単位が唯一の拠り所となり、いつまでも一緒に余生を過ごすつもりでいた。その世界がある日突然崩壊してしまう。

マックスは夢に誘われるように、妻と暮らした家を売りに出し、少年の頃一家で夏休みを過ごした海沿いの町を訪れる。当時、海食崖の上に別荘が立ち、ゴルフ場を隣接したホテルの建つ町にはいろいろな人がやってきた。月単位で借りられるサマー・ハウス<シーダーの家>を借りたのは、グレース一家だった。マックスははじめ、肉感的なミセス・グレースに恋し、やがてその娘であるクロエを愛するようになる。みずみずしい少年期の性の眼ざめであった。

今はミス・ヴァヴァソーが管理する<シーダーの家>の一部屋を借りたマックスは、そこで書きかけているボナール論の原稿を前に回想に耽る。クロエとの出会い、映画館でのキス、海辺の小屋での出来事。またある時は、アナとの出会い、そして別れ、と次々に浮かび上がる過去の情景。娘クレアの言う通り、マックスは過去に生きていた。


彼女を通して、わたしは初めて他人の絶対的な他者性というものを経験した。つまり、クロエを通して、わたしは初めて客観的な他者として現れたといっても過言ではないだろう。(略)それまでは世界は一つでしかなく、わたしはその一部だったが、いまやわたしがいて、わたしでないすべてがあった。


他者性を獲得するということは、ひとくちにいえば、無垢な時代を脱したということだ。マックス少年は、自分の育つ環境を厭い、親を疎ましく思い、サマー・ハウスに長逗留するグレース家に憧れ、近づく。倦怠期にある夫婦と男女の双子、そしてまだ若い家庭教師のミス・ローズ。広場に立つ小屋を借りている自分との階級差に恥ずかしさを感じながらも、ピラミッドの上の方に上りつめたいと願うのだった。

わがままで、同じ年頃の少年たちを見下しているクロエにつきまとい、しだいにグレース家に出入り自由の位置を獲得してゆくマックス。ある日、木登りをしていたマックスは木の下に立って泣くローズとそれを慰めるミセス・グレースの姿を盗み見る。ローズはミスター・グレースに叶わぬ恋をしていたらしい。それがクロエの知るところとなり、二人の関係は以前より険悪なものとなる。そして、あの日がやってくる。

回想のなかで、少年の日の淡淡としながらもそれなりに官能的な経験を思い描きながら、ともすれば崩壊に向かおうとする自己と真摯に向き合う初老の男。こう書くと何やら格好いいが、正直なところ、いい歳をした男の正直な告白というのは読んでいて楽しいものではない。むしろ、読むほどにいやな気持ちにされる。どこがいやかといえば、自分に似ていると思わされるところだ。

美術史家といえば聞こえはいいが、要するに他人の褌で相撲をとっているわけで、自分の書くものに独創性のないことは自分がいちばんよく知っている。自分が何者でもないのは、個性の代わりに生まれや育ちによって自分に与えられた感受性や性癖その他のせい。確立した自分などなく、自分以外の何かによって再生産された自分があるだけだ、という考えは、ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオンⅠ』を読んで、文化資本という存在に気づいて以来とり憑いて離れない。

謎めいた過去の出来事に引きずられるように最後まで読んでくると、そこには思いがけないどんでん返しが待っている。謎は最後まで明らかにされることはないが、一抹の救いの残る結末は悪くない。自分を洞窟の聖ヒエロニムスに擬するマックスには微苦笑を誘われる。「ああ、そうさ、人生はじつにさまざまな可能性を孕んでいるのだ」から。

『分解する』 リディア・デイヴィス

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リディア・デイヴィスの真骨頂は、真実と嘘の兼ね合いの見事さ、の一点に尽きるといっても過言ではない。真実に拘泥し、自分の身の回りに起きたあれこれを貧乏たらしく書き記した身辺雑記に終始してそれでよしとしたのが日本の私小説。しかし、そんなもの誰が読みたかろうか。そこにはアート、技芸に対するリスペクトが微塵も感じられない。

一方で嘘も百篇つけば真実になるを地でいったものもある。ところが、これも同じで、あまりに嘘くさいものは、いくら面白おかしく飾られていても、祭りの見世物よろしくどこもかも嘘で塗り固められていては、祭りの終わった後の寒々しさに耐えられない。

人は、嘘の中に真実を求めるものなのだ。嘘と知っていればこそ、安心して生の真実を受けとめることができる。これは本当のこと、と打ち明けられて、真実を語られたら身も蓋もない。嘘だからね、と前置きされてこそ真実を聴く覚悟ができるのだ。

ある人にとっては、人である前に女や男であって、女と男が真実を語るとなれば別れ話をおいてない。別れ話を切り出されて、私のどこが悪かったの、と思わない女はいない。あなたのそういうところが云々と語る男もきりがない。身に覚えがあるからこそ、人は劇であれ小説であれ、作り物の別れ話にうつつをぬかす。

『分解する』は、作家が自分をまな板に載せて、男と暮らすことを選んだ自分の根底までを手探りしてみせる、その一方でものを書くことを生業とする者が、それをどう書けば生業たらしめることができるのかを問うた実験のようなものでもある。こう書けばわかるか、こういう形で書いても面白い。ならばいっそこういってみるか、という文体練習のようなものが、そのまま一切の飾りや誤魔化しを欠いて投げ出されてここにある。

かといって、練習にありがちな甘えやできそこないの跡はない。ためらいや、しでかしたミスはすべて、徹底的に掃除されている。そぎ落とし、削り取り、これでもかというところまで噓くささは拭いとられている。読む者はそこに自分のものでしかない感情や心理が裸で震えているのを発見する。徹底した抽象は普遍的な具象に通底するものなのだ。

一方で、赤の他人が書いたものをしれっと使って、まるで自分の日記か伝記のようにそれらしく書いてみせるのもこの作家のお家芸だ。自分と他人との間に垣根がない。人間など所詮みな同じ。自分の考えることは他人も考えるし、自分の感じる悲しみや辛さは他人も感じているはず。だからこそ、自分の感情や思考を掘り下げているのだ。

であれば、他者の書いた手紙や日記をもとにして何かを書いても、それは嘘でも何でもない。他者は自分であり、自分こそ最も卑近な他者なのだから。何をおいても自分が興味の対象というタイプの人間にとっては、リディア・デイヴィスを読むことは自分を知る最高の手がかりなのかもしれない。

 

『ほとんど記憶のない女』 リディア・デイヴィス

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最初に読んだのは、今は別の男と暮らす女が過去の失敗に終わった恋愛を回想するという小説を執筆中の作家が交互に主人公を務める、『話の終わり』だった。

abraxas.hatenablog.com

リディア・デイヴィスは、プルースト失われた時を求めて』第一巻『スワン家の方へ』の英訳で受賞経験を持つ翻訳家でもある。フーコーブランショサルトルなどを訳しているというから、その実力のほどが知れる。全部で五十一篇を収めた短篇集『ほとんど記憶のない女』の中には、「フーコーとエンピツ」と題した短篇もある。

腰をおろしてエンピツを片手にフーコーを読む。水の入ったグラスが倒れ、待合室の床が濡れる。フーコーとエンピツを置き、床を拭いてグラスにふたたび水を注ぐ。エンピツ片手にフーコーを読む。フーコーを置き、メモ帳に書きとめる。エンピツ片手にフーコーの続きを読む。

 と、まあこんな調子の文章だ。これは何だろう、と思う。小説か?これは。行分けしていない詩か?いや、ちゃんとストーリーは進行している。待合室という一語がカギになる。この後、カウンセラーと、「緊迫した関係がしばしば激しい口論に発展する状況について話し合う」。この人物は、地下鉄に乗り、フーコーを読みながら、乗客たちについてメモを取り、ひとしきり口論について考えたあと、フランス語で読むフーコーの分からなさについて考える。

「意識の流れ」の手法に近いが、ずっと言葉をそぎ落とした記法で、フーコーの翻訳に携わる人物が、一緒に旅をした相手との関係についてカウンセリングを受け、地下鉄で帰るまでを描く。カウンセリングを受けるくらいなのだから、人間関係に問題を抱えているのだろうに、思考はいつしか口論一般という抽象論に走り、思いつきをメモする。それを終えるとメモ帳をしまい、フーコーの文章のわかりにくさについて考え、メモを取る。

主語すらない、着ている服とか、髪型とか、普通の小説ならまず触れる細部は全部すっ飛ばした文章なのに、おそらくは女性と思われる人物のキャラクターがおそろしく鮮明に立ち上がってくる。きわめて知的な人物で、自分の問題さえ客観的に考えることができる。そればかりではない。スイッチを切り替えるような思考を通じて、口論と旅とフーコーの文章という無関係に思われる事象の間にある連関が見えてくる。

口論はそれ自体が一つの旅に似てくる。口論をする人々は、センテンスから次のセンテンス、さらに次のセンテンスへと運ばれていき、しまいには最初の場所から遠く離れたところにいて、移動と、相手と過ごした長い時間のために疲れはてる。(略)フランス語で読むフ-コーはわかりにくい。短いセンテンスより長いセンテンスのほうが分かりにくい。長いセンテンスのいくつかは、部分部分はわかっても、あまりに長いために、最後にたどり着く前に最初のほうを忘れてしまう。最初に戻り、最初を理解して読み進み、最後まで来るとまた最初のほうを忘れている。

困難な状況下にある人間の途切れがちな思考の前に立ちはだかり、一つの名詞が目くるめく変化を見せつつ延々と続くフーコーのフランス語。フーコーの文章については、その流麗さとともに難解さが話題に上るのが常だが、読者がそれを知っていることを前提にしないと、主人公の置かれた状況は伝えられない。英文学者で、フランス文学の翻訳をしている作家でなくては書けない種類の短篇である。

もちろん、五十一篇すべてがこんなスタイルではない。もっと短いものはわずか数行のものもある。長いものの中には、「サン・マルタン」のように、若い二人が住み込みの管理人としてフランスの田舎の屋敷に暮らした一年間をほぼ事実のままに書き連ねた、至極まっとうな、日本でいえば私小説風の一篇もある。どうでもいいことながら、ここで何度も「私たち」と記される二人は、作者リディア・デイヴィスと、当時つきあっていた、作家のポール・オースターである。

どうして分かるかといえば、食べるものがなくなった二人が、キッチンで見つけた玉ねぎでオニオンパイを作るが、一つを食べていて美味しさに夢中になり、残りのあることを忘れ、黒焦げにしてしまう切ない場面や、世話をしていた二匹のラブラドル・レトリーバーの一匹がいなくなったことなど、すべてオースターの『トゥルー・ストーリーズ』ですでに読んでいたからだ。題名通り、すべてが実話とオースター自身が書いている。

偶然手に入れた19世紀イギリス貴族の書簡集をもとに、北欧、東欧、ロシア等をめぐる旅の記録という体裁で書かれた「ロイストン卿の旅」は紀行文。北方の地の自然や交通手段等、当時の旅の様子がよく分かると同時に、英国貴族がロシアやその他の国の人々をどう見ていたかが一目で分かる。書簡をもとにした紀行文なのに、集中最も小説らしさを感じさせるのが、おかしい。リディア・デイヴィスが「私」の突出を抑え、黒子に甘んじているからだろう。

主語も動詞もなしに男女の諍いを書くという挑戦的な短篇「ピクニック」は、たったこれだけ。

道路脇の怒りの爆発、路上の会話の拒否、松林の無言、古い鉄橋を渡りながらの無言、水の中の歩み寄りの努力、平らな岩の上の和解の拒絶、急な土手の上の怒声、草むらの中のすすり泣き。

 たった二行の中に、ピクニックに出かけた男女のうまくいかなかった一日が結晶している。好きな人には、たまらないのがリディア・デイヴィスという作家だ。新刊『分解する』は、邦訳としては新しいが、作家としては出発点にあたる作品。岸本佐知子が偶然、『ほとんど記憶のない女』を手にしなければ、ここまで邦訳が続いたかどうかは疑わしい。それほど読者を選ぶ作家だ。お気に召したらぜひ手にしてみてほしい。