『塔の中の部屋』 E・F・ベンスン
夏にはぴったりの怪談、というか幽霊譚。姿の見えるのもあるし、音や部屋の中に何かいる感じがするという存在感がたよりの幽霊もいる。さすがにどの家のクローゼットの中にも骸骨がいる、ということわざが成り立つ国はちがう。とはいっても、それほど、どこの家にもいればあまり怖くはなくなってくるのが人間の心理。人が集まるクリスマス前後の炉端だとか、気候のいい夏の宵には幽霊話が何よりの話題となる。
二十世紀の初め、ようやく自動車が登場し始めたばかりのころ。何かといえば田舎にある友人の屋敷に集まって、狩猟やスポーツを楽しむ階級に属する人々にとって、天気が悪く外に出られない日や、日が暮れて夕食も終わってから寝るまでの間、客が時間をどう潰すかがホストにとって課題だった。そんな時、話上手の紳士が仲間に交じっていれば何よりの幸運。話の効果を高めるため、灯を暗くして車座になり、耳を澄ます。
幽霊譚には様式があって、まずは前置きがある。どういう経緯で、その土地、その館に出かけたか、とか当主と自分の関係だとか、直接幽霊とは関係のない諸事情の説明だ。次に幽霊を見た経験を持つ人物が語り手によって紹介される。語り手自身もその場にいて、直接あるいは間接的に体験する場合が多い。最悪の場合、当事者は命をなくしたり、恐怖から正気をなくしたりすることもある。そのため実際に見たり聞いたりしたことを伝える証人が必要となる。それが語り手である。
E・F・ベンスンの幽霊譚は実にオーソドックスで、古来の様式を踏まえ、必要以上に恐怖をあおったり、残酷に過ぎたりしないところに好感が持てる。今風のホラーとはちがって趣味がいいのだ。電気が通じ、無線も電話もある時代の怪談ということもあって、心霊体験について懐疑的な読者を意識して、科学的に説明がつくように慎重に語っているのもとっつきやすい。それでいて、最後には説明がつかない恐怖体験が待っている。
語り口が似ているだけに、怪異の種類には変化を持たせている。まずは、死者の魂がこの世に執着した結果、死んでなお姿を見せる典型的な幽霊譚。これが集中最も多い。変わり種が、「芋虫」、「猫」といった虫や動物による怪異で、特に異彩を放つのが車が立てる土煙を扱った、「土煙」。自動車を駆ってのドライブが、上流人士の新しい遊びになった時代を反映してか、田舎道をすごいスピードで走る自動車に対する恐怖感をネタにしたものだ。
聖職者の息子に生まれたベンスンの書くものに、キリスト教的な宗教観を漂わせるものが多いのは当然だ。そんな中、牧羊神が吹き鳴らすパンの笛の旋律に憑かれた男の異教的な求道生活を描く「遠くへ行き過ぎた男」が異色。ニーチェがキリスト教に感じた違和感そのままに、生きる歓びを得ることに全精力を傾ける元画家の姿が熱く語られる。自分の奉じる神との出会いが思いもかけない事態を招く結末に色濃いイロニーは、ピューリタニズムによるものか。
スコットランドに狩りに出かけた一行が味わった恐怖を語る「ノウサギ狩り」は、古い館で出会う怪異というパターンを破る一篇。暑いロンドを厭いハイランド地方に出かけた「私」たちの車は、夜になってようやく目的地付近に着いた。目指すロッジまであと少しのところで、車は真っ黒で見たこともないほど大きなノウサギを轢き殺す。翌朝、ノウサギ狩りに出かけようとすると、ガイドがこの村でノウサギ狩りはできないと言う。
あくまでも契約事項にある通りノウサギ狩りを決行するというジムに、「私」は、本で読んだノウサギにまつわる民間伝承を語る。「私」の考えでは、一行は「禁忌」を侵したのだ。見知らぬ習俗を今に残す異郷で白眼視される闖入者が感じる居心地の悪さが次第に恐怖へと変化する。萩原朔太郎『猫町』を思い出すアルカイックな趣のある、一風変わった変身譚。
近代怪談のおっとりとした風情を楽しむにはもってこいの一冊。怪奇小説のアンソロジーではよく見かけるベンスンだが、これだけそろった短篇集は初めてだ。本邦初訳のものも多い。イギリスの家屋敷や庭園を彩る草花、田舎の風景、独特の気候の変化、と怪異を取り巻く雰囲気づくりに意を尽くした逸品ぞろい。じっくり味わいたい。