青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『まわり舞台の上で 荒木一郎』 荒木一郎

f:id:abraxasm:20161207141203j:plain

新聞広告で見つけて、ああ、こんなの出たんだと懐かしくなって読んでみた。自伝かと思ったのだが、三人のインタビュアー相手に荒木自身が語った肉声を書き起こしたものだった。無論編集はされているだろうが、小説家の顔も持つ荒木自身が書いたものより、歌と同じで、どこか力を抜いた語り口調に独特のライブ感があってかえって良かったと思う。

と、書きながら、気になった。コアなファンはともかく、今どき荒木を覚えている人がいるだろうか。「空に星があるように」でレコード・デビューしたのが、1966年。その年のレコード大賞新人賞を受賞している。その後、「今夜は踊ろう」、「いとしのマックス」といったポップス調の曲を立て続けにヒットさせ、シンガー・ソングライターの先駆けとなった矢先の1966年、強制猥褻致傷容疑で逮捕拘留後、不起訴処分で釈放されるという事件を起こす。

NHKの人気番組「バス通り裏」にも好青年役でレギュラー出演。東映のヤクザ映画でも批評家から注目されていた役者でもあったが、これを境に芸能界の表舞台から消えてしまう。もったいないなあ、というのが当時ファンだった者の印象である。同じころ登場した加山雄三も自作曲を歌っていたが、荒木の曲作りは、大橋巨泉が「日本で初めてマイナーセブンス・コードを使った」と評したほど素人離れしていた。それに何より、歌詞といい声といい、いつまでも心に残る歌だったのだ。

しかし、本人はそれほど歌手にこだわっていたわけではない。「空に星があるように」も、昔ひどい別れ方をした女の子のことが気になって、その子の気持ちになって作った曲だという。家で歌っているところを聞いた知人が、いつ来てもその曲を歌えとせがむので、ギターで弾き語りを聞かせていたところ、荒木一郎をパーソナリティにしたラジオ番組を作る話になった。そのオープニング曲となり、人気に火がついてのレコード化だった。

荒木自身には、何かになりたい気持ちなどなく、話を持ってくる人の意に沿うようにやっていると、いつのまにか評判になるというパターンだ。役者にしても母親である文学座荒木道子が離婚し、女手一つで育てられたせいで、スタジオに顔を出していたところを子役に使われて始めただけのこと。本人はジャズが好きで、高校の仲間とバンドを組んで、ドラムを担当していた。なんと、当時役者に転向したばかりのフランキー堺からもらったドラムだというからスゴイ。

独特の鼻にかかったクルーナー唱法は、ドラムを習うつもりで入ったジャズ教室の先生が、歌が専門だったので身についたものだという。アフター・ビートを効かせた歌い方はジャズからきていたのだ。一年間で265本も見たという洋画は、女の子と話すきっかけ作りのために通ったのがもと。本当はチャンバラ映画が好きだったが、相手の子はジェイムス・ディーンが好きな洋画ファン。一年見続けた結果、「荒木君にはかなわない」と言わせるまでの映画通になっていた。

何でもこの調子。学校の成績は悪く、ジャズ喫茶に通い、ハイミナール(睡眠薬)をやるという、まあ不良学生。小さい頃から女優業の母は不在がちで、学校は自宅から遠い青学に通っていたため、近所に友だちがいない。小学生の時、遊び相手を集めるため、女の子に「ストリップしない?」と誘いかけ、それをダシに男の子を集めた。女の子は断らなかったというから女心というものを当時からよく知っていたのだ。後に「夜の帝王」と異名をとるだけのことはある。

いつでも、相手の側に立って考える、というのが荒木一郎のやり方だ。表舞台から干されていたとき、東映ポルノの看板女優だった池玲子や杉本美紀を扱う現代企画という事務所を構えるが、これも行きがかり上頼まれたからという理由。しかし、いつのまにか大勢のポルノ女優を抱えることになる。一世を風靡した芹明香がつき合っていた男の影響で薬漬け、酒漬けになっていたのを男を説得して別れさせたのも荒木だという。

芹明香のときなんかは、男っていうよりも、麻薬絡み。東映京都は危ないんだよ。ほんとに。人が麻薬漬けになっていくんだよ。危なくてしょうがない。(略)京都は、そういう所が、ちょっと裏に入るとあるんだよ。それはやっぱり俳優絡みで入ってくる。表面だけ見てると、面白そうに見えるかもしれないけど、裏側ではそういうことも考えてかなきゃいけない。

そんななか、芝居には思い入れがあったようで、駆け出し当時から台本や演出に口出ししていたというから周囲には迷惑がられていたにちがいない。ただ、腕はよかったのだろう。荒木の手で台本が書き換えられるところをみんながシーンと見守っていたという。本のなかでもからんだ相手に演技をつけるところが何度も出てくる。渡瀬恒彦なども、荒木にかかるとまるで小僧っ子扱いだ。

日本に果たしてどれだけ本物の演出家がいるか、ほんとに少ないと思うんですよ、僕なんかは。新劇でも限られていたと思うけど、ましてや、テレビや映画になると、演出をできる人っていないでしょ。だから、渡瀬たちが出てくるときに、一体誰がその芝居を教えたり演出をするのかっていうと、いないんだよね。芝居っていうものを覚えられないと思うんだよ。

伊佐山ひろ子の天然ぶりに桃井かおりが嫉妬した話が出てくるが、荒木一郎桃井かおりをプロデュースしていたのも初耳。扱いが難しい女優のようで、現場が止まることもよくあった。そういうときは、荒木が出て行って、桃井を説得するのではなく、演出家のほうに、これこれじゃないかとやる。すると機嫌を直して撮影が再開するのだ。荒木には桃井の気持ちが分かる。演出云々というより女優の気持ちを慮るというところに荒木一流のマネージャー術があるようだ。ただ、最後の方は距離を置く形になっている。限界だったのだろう。烏丸せつこをプロデュースするのはその後だ。

あるとき、NHK-FMが管理している僕のレコードを見せてくれたんだよ。「荒木さんのレコードがどうなってるか見る?」って。すごいよ。シングル盤の表面を全部マジックとかで真っ黒に塗ってあるわけ、もう変質者としか思えない。シングル盤のジャケットを、ただ、「使用禁止」とかいうんじゃなく、黒く塗りつぶしてるの。どのレコードも、顔も見えないように、全部だよ。びっくりしたもん、それを見て。なんでそこまでやるのって。

日陰を歩かされたからか、正統派よりアウトロー好みだったのはまちがいない。ショーケン松田優作にはシンパシーを感じていることが伝わってくる。反面、『悪魔のようなあいつ』の沢田研二は優等生で会社の言いなりだったとか、『夕暮まで』に伊丹十三が出ることになったのは私生活での恐妻家ぶりを知って監督に推薦したのに勘違いして二枚目でやろうとしたから駄目だったとか、この手の話を紹介しているときりがない。

ヤクザ相手の武勇伝を含め、すべて本人の言ったことをそのまま書き起こしたもので、それについて裏をとることはしていないから、事の真偽は分からない。ただ、事件を起こした後、当人は神経症を患って自宅から五百メートル圏内から出られなかった。『仁義なき戦い』で川谷拓三が鮮烈デビューを果たしたあの役、本当は荒木にオファーが来たのだが、とても広島には行けないというので下りたのだ。他にもずいぶん仕事を棒に振っている。充分罰は受けているのではないだろうか。

レイモンド・チャンドラーが好きだという荒木が当時入り浸っていた渋谷のジャズ喫茶を舞台にして書いたという『ありんこアフター・ダーク』などの小説も一度読んでみたくなった。

『虚実妖怪百物語 急』 京極夏彦

f:id:abraxasm:20161205144554j:plain

水木しげるが亡くなったのは、2015年11月30日。ちょうどこの間一周忌を迎えたばかりだ。一周忌といえば、親戚や知人、友人が集まって、法要を行う。しめやかに法要が終わった後は、お斎がふるまわれる。故人をしのんで、思い出話に花が咲くのもこのあたりだ。いくら法事だといっても、一年もたてば、そうそうみんな悲しみに耽ってばかりはいない。お酒も入れば、にぎやかに騒ぐ連中も出てくる。ましてや、水木しげるである。

みなに慕われた大先生のことだ。家族、親せきはもとより友人、知人の数も半端ではない。ファンだってもし許されるものなら駆けつけたいと思うだろう。実際の法事がどう行われたかは知らない。しかし、大先生を慕っていた人が全部集えるようなそんな法事の実現は難しい。でも、できるんじゃあないか、紙の上なら。出版社に編集者、妖怪関係の作家仲間、いっそのこと水木大先生のお世話になった妖怪連中にも声をかけて、ここは盛大に一周忌の法要を紙上で開催しよう、というのが京極の考えたことではなかったか。

それが、この『虚実妖怪百物語』序・破・急の三巻本出版の目的だった。11月に発行されているのは、一周忌に合わせてのことにちがいない。と、まあそんなことに遅まきながら気づいたわけだ。京極夏彦の小説というところにばかり目が行っていたが、初めから水木大先生の一言ではじまったのが、この京極版『妖怪大戦争』ではなかったか。これは京極夏彦による水木しげるに捧げる鎮魂曲(レクイエム)なのだ。

傷痍軍人として生還した水木しげるは、折に触れ、二度と戦争などというバカなことをしてはいけない、というメッセージを日本国民に発してきた。それは作品を通じてのこともあれば、直接に語りかける形をとることもあった。しかし、近頃の日本の様子はどうだろう。書店に足を運べば嫌韓・反中の本が棚にあふれ、テレビは日本礼賛の番組ばかり。そうしたマスコミの援護射撃を受け、政府は自衛隊の海外派遣を容易にする法を通すばかりか、ついには憲法にまで手を伸ばしてきた。

これでは泉下の水木しげるが安らかにねむれるわけがない。残された者としては、なんとか大先生の魂を安んじるために何かできないものか。とはいえ、直接反戦のメッセージなどを出したところで、今の世の中に届こうはずもない。しかも、そういう大上段に振りかぶったやり方ほど水木しげるの精神から遠いものはない。そこは、搦め手から行こう、というのが京極夏彦の考えだ。同じく親しくしていた荒俣宏の協力も得ながら、『帝都物語』、『妖怪大戦争』という映画にもなった人気アイテムを使うことで、メッセージの直接性をカムフラージュしつつ、物語の中に取り込んだ読者の胸には響くように繰り返し訴え続けた。最終巻の「急」なら、次のような言葉。

大体、ルールがあっても都合が悪けりゃ変えちゃうというのなら、ないのと同じだろうに。そこに武力なんか持ち込んだなら、もうどうもこうもないじゃないか。もう誰得(だれとく)なんだか判りゃしない。オールリスク・ノーリターンじゃん。

この世相ですからね。いつの間にか戦争に反対している人なんか我々くらいになっちゃったのよ。右翼も左翼もないのね。でも、護るったって何の術(すべ)もないですよ。軍備があったって、もう護るべき国がガタガタで、ないに等しい訳ですよ。軍備なんてものはどんだけ増強したって何の役にも立ちゃせんのですよ。

国を護るために戦争をするっていうのは、そもそもおかしい訳ですよ。国が護れなくなったからこそ戦争になるんじゃないですか。外交だって経済だって、文化だって技術だってそのための手段ですよ。戦わないためのカードをどれだけ持っているか、どれだけ作れるかつうのが政治でしょうに。それが真の国防ですよ。

水木先生の口ぶりをまねて語られる言葉の熱いこと。世の中がおかしくなっているといっても、その大本が何か、誰によるのかはよく分からない。しかし、事実世の中はゆとりをなくし、ギスギスしている。互いが互いを監視し、告げ口し、糾弾するそんな空気が今の世の中を支配している。それは見えないけれど、確かにある。見えない<虚>が<実>に戦いをしかけ、<実>は余裕をなくし、互いを傷つけ自滅しはじめているのだ。

嘘も百回言えば真になる。フィクションを生業にしている者なら、その力を熟知しているはず。フィクションによって追いつめられた日本という国を救い出すために、今回はなんと夢枕獏まで、陰陽師の軍団を連れて登場する。昔話や伝承で事態を打開するときに用いられるものに「呪宝」がある。今回、それにあたるのが平太郎が持ち帰った石であり、山田老所蔵の絵巻物だ。石からは呼んだものが具現化し、絵巻からは妖怪が抜け出している。加藤保憲操るダイモンが、日本人から心の余裕を吸い取ろうとする行為とどう関係しているというのか。

富士の裾野で繰り広げられる「妖怪大戦争」は、ガメラから3D版の貞子まで現れるハチャメチャな展開になるが、クライマックスはあっけない幕切れ。まさに膝カックンの脱力ぶり。あれほど荒ぶるクトゥルー神が、なんと、言わんこっちゃない『平成狸合戦ぽんぽこ』かい、と突っ込みたくなるが、広げた風呂敷が大きければ大きいほど、ほどいてみれば幽霊の正体見たり枯れ尾花。夢オチではないが、まさかそんなという解決法。文句の一つも言いたくなるところだが、そこはそれ、最初にも言った鎮魂曲である。まあるく収めたいではないか。雲の上から、「京極君、ありがとう。おもしろかったよ」と語りかける大先生の笑顔が見えるようだ。

『方法異説』 アレホ・カルペンティエール

f:id:abraxasm:20161204102626j:plain

冒頭の舞台はパリ。凱旋門近くにある部屋に吊ったハンモックの上で第一執政官は眠りから覚めたところだ。昨夜、娼館でたっぷりと楽しんだせいか目覚めは遅い。身の回りの世話をしてくれるマヨララ・エルミラは<向こう(傍点三字)>に置いてきているので、スリッパも自分で履かなくてはならない。コーヒーを飲み、新聞を読み、部屋に呼びつけた理容師に髪を整えさせ、洋服屋に仮縫いをさせる優雅な暮らしぶりだ。

新聞の記事からは当時の世界の動向が分かる、と同時に部屋にかけられた絵画を紹介する文章の中にエルスチールの名を発見することで、この小説が事実と虚構を綯い交ぜにしたものであることが分かる。いうまでもなく、エルスチールはプルーストの『失われた時を求めて』の中に出てくる画家の名である。同じ小説の登場人物、ヴァントゥイユの名も後に出てくるから、小説家の目配せと受け止めておこう。

マリオ・バルガス=リョサの『チボの饗宴』の訳者あとがきで知ったのだが、ラテン・アメリカ諸国には「独裁者もの」と呼ばれるジャンルがあるといわれている。なかでもアレホ・カルペンティエールの『方法異説』は、時を前後して相次いで発表された、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『族長の秋』、アウグスト・ロア=バストスの『至高の我』と並ぶ、ラテン・アメリカ文学の「三大独裁者小説」と呼ばれている。前二作はすでに邦訳されているのに、『方法異説』は今回が初訳。頻出する芸術関係の固有名詞の多さが敬遠されたのかもしれない。

『方法異説』というタイトルは、西欧における理性的思考の代名詞であるデカルトの『方法序説』をもじったもので、およそそれにふさわしくないラテン・アメリカ世界の現状を揶揄したものととれる。ジャンル分けをすれば、ラテン・アメリカ文学の範疇に入れられることになるが、フランス人の父とロシア人の母の間にスイスで生まれたアレホ・カルペンティエールは、生粋のラテン・アメリカ人とはいえない。教育を受けたのはハバナだが、パリ留学も経験している。

そういう経緯もあって、ラテン・アメリカを描くときもアンビヴァレンツな感情に支配されているようなところがある。主人公の第一執政官にしたところが、大統領として本国の政務をとらねばならないはずなのに、特に政局に問題が生じない時はパリにある別邸で遊び暮らしている。電話をかける友人もパリ在住の学者や芸術家、社交界の人々で、娘のオフェリア(何という名だ!)はバイロイトワーグナーを聴いたり、ストラトフォード・アポン・エイヴォンシェイクスピア劇を観たり、とすっかり西洋風な暮らしがしみついている。

同じ独裁者といっても、ガルシア=マルケスの『族長の秋』で描かれる、いかにもラテン・アメリカらしい独裁者とは様子がちがうのだ。ラテン・アメリカ文学独特のぶっ飛んだ独裁者を期待すると裏切られる。鳥なき里の蝙蝠というとたとえが悪いが、無学で文字も読めないような国民があふれる国にあって、パリで西欧風の教養を必死で身に着け、一生懸命背伸びをしている第一執政官の姿は滑稽である、とともに西洋に追い付け追い越せと必死でやってきた国民の目から見ると同病相憐れむ、という感慨もわく。

そのパリで楽しんでいる第一執政官のところに決まって反乱軍の蜂起を知らせる電報が届く。あわてて帰国し、演説をぶち、正規軍の士気を鼓舞して前線に出ると圧勝というのがいつものこと。反乱を企てる相手というのが、大体において信用していた部下というのが皮肉である。この構造は最後まで揺るがない。つまり。政治的手腕としては第一執政官を超える人材はいないのだ。それなのに、反乱は繰り返される。

この芸術好き、ラテン崇拝の第一執政官の頭にあるのは、国民の暮らしをよくするという喫緊の課題より、本家にも負けない建築物カピトリオの建設である。キューバハバナにある旧国会議事堂をモデルにしたカピトリオ建設のてんやわんやは、学生がまともに大学にも行けない状況下で、オリンピックスタジアムの設計が二転三転し、いまだに聖火台の位置すら決まらない、この国の現状を併せ見るにつけ、笑うに笑えない。

どう考えても実務能力に欠ける学者あがりの政治家をアメリカが推すのは、コミュニズムを信奉する学生のリーダーに力が集中するのを恐れるからだ。コミュニズムが力を伸ばし、ゼネストによって第一執政官の政権が脅かされるなど、さすがに時代状況の変化によって、設定に古めかしさが感じられ、今読むとリアリティに欠けるように感じられるところが惜しい。とはいっても、発表は70年代なのだから仕方がない。むしろこんな時代もあったのだなあ、という感慨の方が強い。

あれほど、西洋かぶれ、フランス贔屓であった第一執政官が、国を追われ命からがらパリに逃げてくると、マヨララ・エルミラが市場で調達してきた材料でこしらえる<向こう>風の料理に舌鼓を打つという場面が人間心理を突いていて頷かされる。もはや、無知蒙昧な国民を率い、西洋列強に相対する責任はないのだ。好きな料理を食べ、好きな酒を飲めばいい。指導者の孤独から解かれた第一執政官のこわばりの解けた姿に読者もほっとする。

改行がほとんどなく、活字も小さいので通常の小説に馴れた読者には読み辛いかもしれない。しかし、視点は第一執政官に寄り添い、叙述は時間の順序にしたがっている。語りのリズムに乗れば、この特徴的な人物の中に潜り込み、太平洋と大西洋側の両海岸を領土に持つ国の砂漠や沼沢地を検見することもでき、壮大なカピトリオ建設現場も謬見できる。この架空の国家のどこが、実在のどの国から抜き出してきてモンタージュしたのか考えてみるという楽しみも残されている。

『虚実妖怪百物語 破』 京極夏彦

f:id:abraxasm:20161130174146j:plain

これを読んでいるということは、「序」はもう読み終わっているということだろうか。そうだとしたら、前回までのあらすじは、省いてしまえるのだが。『虚実妖怪百物語 破』は、同じく『虚実妖怪百物語 序』の続きである。完結編『虚実妖怪百物語 急』を結びとする三冊セットの真ん中。さすがに真ん中から読みはじめる人はいないと思うが、もし、わけが分からないようだったら、面倒をかけますが、『虚実妖怪百物語 序』について書いた文章を読んでから、こちらを読んでください。

富士の樹海の中心に空いた孔。地に伏したスーツ姿の男を見下ろしている加藤保憲の前で死者の肉体を借り、邪悪なものがよみがえりつつあった。ヤハウェに邪悪な存在とされ、砂漠の地下深くに封印されていたものを、加藤が掘り出して連れてきたのだ。その邪悪なものが乗り移った死体は仙石原賢三郎という男のもので、都知事となることが決まっていた。加藤は仙石原を手足として使い、妖怪騒ぎを利用して、この国を滅ぼそうとしているのだ。

京極作品おなじみの、直接本編につながらない階層の異なるテクストを挿入するスタイルはここでも踏襲されている。読者は知っているが登場人物は知らない、という物語の構造である。さて、その頃、神田神保町の地下にある料理店薩摩太郎では、京極夏彦をはじめとする妖怪専門誌の関係者が、妖怪バッシングに対する対策を練るため集まっていた。妖怪騒ぎに右往左往する連中相手に京極夏彦が、中禅寺秋彦よろしく憑き物落としをしているところに武装集団が乱入してくる。

その集団、日本の情操を守る会とは、妖怪撲滅を掲げる過激な市民会議で、「妖怪が出現した建物はすべて焼き払い、取り憑かれた人間は捕獲して隔離幽閉、抵抗する者は徹底的に弾圧するという恐ろしい市民団体」である。どこかで聞いたような名前だが、警察も自衛隊も民間組織であるこの団体のやることは見て見ぬふりの高みの見物を決め込んでいるらしく、この日も妖怪シンパの浄化を叫び、地下のアジトを襲撃。レオは早速ぐるぐる巻きにされてしまう。

一方、杉並にある荒俣宏のマンションでは、榎木津平太郎が収蔵品の引っ越し作業に追われていた。荒俣は、例の呼ぶ子の研究に必要な機械類を入れるスペースを確保するために、自他の妖怪関係コレクションを上階にある空き部屋に移動する作業の現場監督に平太郎を雇ったのだ。そこには、妖怪コレクションを持つ博物館の学芸員古書店主の山田老も大量の蒐集品とともに避難してきていた。見かけは古ぼけたマンションだが荒俣は蒐集品保護のため耐火倉庫に改造していた。しかし、ここにも日本の情操を守る会の手が回り、マンションは焼き討ちに合う。

異変は他でも起こっていた。例のしょうけらはファミレスから神奈川にある黒史郎の家についてきたようで、今では黒の頭の上から離れない。しょうけら見物に現れた平山夢明らと話すうち、見る者によってしょうけらの形がちがうことが分かってきた。しょうけらの名と姿を覚えた本がちがっていたのだ。見えている姿を語り合ううち、黒が「い、いやあ、そんなのもうクトゥルーですよね」と口に出してしまった。その途端、頭の上に触手を持った邪神が降臨したではないか。

どうやら、今回各地で見られている妖怪は、人間が概念として抱いている妖怪像が具現化しているもののようだ。それは、見ることも触ることもできるが、質量はない。しかもデジタル変換され、それぞれのデータが集まるデータベースにおいてデータは勝手に改竄されて広まってゆく。その結果ネットにアップされた邪神は次第に禍々しいものに成長し、黒は便所に入ることもままならなくなる。

日本の情操を守る会によって殲滅させられそうになる妖怪の大本である荒俣や京極がどのようにしてピンチを切り抜けるか。ゾンビのようにわらわらと襲い掛かる群衆の手から、貴重な妖怪関係コレクションを守り通すことができるか。レオは『ダイ・ハード』を思い浮かべているが、まさにアクション映画のノリで展開される。なかでも、『帝都物語』にも登場する西村真琴博士が作った日本のロボット第一号、學天則が、再び登場するシーンにはファンのひとりとしてゾクゾクさせられる。

ネタバレにならない程度でやめておくが、ジャイアント・ロボを思わせる學天則の活躍は、この小説中の白眉である。さらに、後に百鬼夜行絵巻と呼ばれることになる絵巻に出てくる付喪神のオン・パレードがある。どこかで見たような、というデジャヴュに襲われたが、既視感ではない。『平成狸合戦ぽんぽこ』に、よく似たシーンがすでに登場していたのだ。ただ、こちらはアニメ風にデフォルメされていない絵巻そのままの姿の3D映像化だ。迫力がちがう、とはいっても脳内変換で図像化したものだが。

京極夏彦荒俣宏その他の世相批判はますます激しくなり、今の世の中がいかに酷いものになっているかが舌鋒鋭く語られる。ほとんどこれが言いたいためにこの小説を書いたのではないかと思うほどだ。以下にいくつか引く。文中の「妖怪」という語を何かに替えても成立することにほとんど恐怖すら覚えるではないか。

「妖怪だけじゃあないですけどね。今や、何から何までいけないでしょう。フザけるのもいけない。くだらないのもいけない。だらしないのもいけない。アニメも漫画もいかん。もちろんエロもグロもダメ。いけないものだらけで、その最底辺が――妖怪です」「だから、その妖怪を叩く連中は、どんだけ過激でも放っておく――ということですね。ホントは警察が妖怪狩りをしたいんだけど、ただ逮捕したって妖怪はどうにもならないし、だからといって流石に警察が殺しちゃう訳にはいかないから、非合法に誰かにそれをさせて、それからそいつを取り締まると、そういうことですか?」

 



さて、「破」の最後では水木大(おお)先生が登場して鬼退治を宣言するが、完結篇である「急」は、加速度的に激しい展開が予想される。今までは冒頭にちょっと顔を出すばかりであった加藤保憲も本編に姿を表すことになるだろうし、いよいよ『妖怪大戦争』の始まりである。待たれよ次巻。

『虚実妖怪百物語 序』 京極夏彦

f:id:abraxasm:20161129111143j:plain

のっけから加藤保憲登場ということは『帝都物語』、もしくは『妖怪大戦争』だろう、と見当はつけたものの、このノリの軽さは何だ?まあ、連載されていた雑誌『怪』については全くの無知なので、そこではこういうノリだったのだろうなあ、と推測するしかない。「序」、「破」、「急」の三冊セットで計1900枚ということだが、京極史上最大と銘打っては見ても、句点を打つたびに改行するスカスカの文体では、「百鬼夜行シリーズ」のような読みではない。もともと、そういう読み手を想定していないだろう。

ファンジンのような特定の読者層を意識して書かれたもののように見える。というのも、妖怪、怪談、怪談実話関係のライター、研究者、編集者といった業界人が大挙登場するからだ。京極夏彦がらみでよく登場する水木御大や荒俣宏氏のような超がつく有名人はともかく、ほぼ実名で登場する有名無名の作家、ライターについてはほとんど名前を知らないので、その方面に不案内な読者には面白がりようがない。とはいえ、こうして単行本として出す以上、そういう読者も想定しているのだろう。

そこで、「百鬼夜行シリーズ」など京極作品でおなじみの、想定される読者よりレベルが劣る狂言回し役が必要になる。この作品では妖怪専門誌『怪』のバイトで、あの榎木津を大伯父に持つらしい榎木津平太郎や、逆さに読めば、「バカハオレ」となる、駆け出しライターレオ☆若葉といったいじられキャラがその役目をよく務めている。特にレオのダジャレ尽くしの突っこまれ芸は堂に入ったもので、馬鹿らしいとは思いながらも、ついつい爆笑させられた。

ストーリーは、『妖怪大戦争』のそれで、まずシリア砂漠に加藤保憲らしき人物が目撃されたことを前フリしておき、すぐに話題は現在の日本に移る。水木邸を訪れた平太郎が目にしたのは「妖怪や目に見えないものがニッポンから消えている」と、憤りテーブルを叩く水木しげるの姿だ。妖怪は目に見えない。が、それは確かにいるので、水木のように感度の良い人間には感じられるのだが、それが全然感じられなくなった、というのだ。

しかし、その言葉とは裏腹に、その後、妖怪の可視化がはじまる。まずは、村上健司の取材旅行に同行したレオが信州の廃村で遭遇したのが「呼ぶ子」。山中にいる絣の着物を着た童子で、口真似をする妖怪だ。水木マンガでもおなじみのキャラクターのひとりだがその名前と姿格好には要注意だ。なぜなら、妖怪というのは目には見えないもののはずで、我々が思い込んでいる妖怪の姿は、鳥山石燕水木しげるの描いた絵によって名前とともに記憶されているからだ。

その後、浅草に「一つ目小僧」が現れたり、小説家黒史郎の目の前にあるファミレスの窓ガラスに張り付いた「しょうけら」が見えたり、と妖怪を目撃した話が続出する。新幹線の線路上に「朧(おぼろ)車」が出現したり、会場に海坊主が現れたりすると世情は騒然とし、妖怪関係者は白い目で見られるようになる。もともと、好きな者は別として、妖怪は世の中に必要なものではなかった。人の心に余裕があるうちは、妖怪も大目に見てもらえていたのだが、この頃のように世間が何かといえばギスギスしはじめると、妖怪に目くじらを立てる連中が跋扈しはじめる。妖怪苦難時代の幕開けである。

三冊揃いで完本となる小説の「序」だけ読んで、何かを書くというのも難しいものだ。とはいえ、これであたりをつけて、この後読むかどうか決めようと考える読者もいるだろうから、何とか評の一つも書かねばと考えたのだが、話ははじまったばかりで、これからどうなるか全く見当がつかない。まあ、大騒ぎになるのだろうということ、と妖怪好きには住みにくい世の中になるのだろうということくらいは分かる。というのも、水木大先生のご託宣にある通り、これは、『妖怪大戦争』の姿を借りた世相批判の書らしいからだ。

全部読んだら全然ちがっていたということになるかもしれないが、今のところ、近頃の世の中はどうも変だ、いや、絶対におかしい、このまま黙っていたら大変なことになる、というよりもうかなりヤバいところに来ている、といった危機感が、文章の端々に現れているからだ。同様の危惧は多くの人に共通するものではないだろうか。妖怪でも何でもいい、というと妖怪好きに怒られるかもしれないが、この見えないところで起きている事変に立ち向かえる力が欲しい、というのはこちらも強く願っていることである。「序」は、大勢の登場人物紹介が少々まだるっこしいけれども、これから先の展開に目が離せなくなるだけのインパクトはある。

『ジュリエット』 アリス・マンロー

f:id:abraxasm:20161128234434j:plain

ウィリアム・トレヴァー亡き後、未訳の新刊が出れば何を措いても読みたいと思えるのは、もうアリス・マンローのそれしかない。ノーベル賞受賞と邦訳作品が増えたかどうかが関係あるのかどうかは詳らかではないが、無関係とも思えない。そう考えると、ウィリアム・トレヴァーノーベル賞をとれなかったのが心残りである。しかし、まああれほどの作家である。ノーベル賞は関係なく、訳されるべき本は訳されるにちがいない。そう考えておこう。

トレヴァーを引き合いに出したのはほかでもない。どちらも短編の名手であることが理由の一つだが、実はもう一つ。二人の書くものは、決して分かりやすくない、ということである。分かりやすいことが小説の値打ちではない。難解なことで知られるピンチョンやジョイスの作品が、評価を得ていることを考えてみれば分かるように難解さを売りにしている小説もあるからだ。しかし、トレヴァーやアリス・マンローの小説は、そうした難解さを売りにしている小説とはちがう。

カナダやアイルランドという自分が実際によく知る地方を舞台に、そこで、実直に生きる、市井のどこにでもいそうな人々の生活を扱っていて、難解な思想も学術用語も言語実験も出てこない、ごくごくまっとうなリアリズム小説である。それでは、どこが分かりにくいのか、といえば人間そのものである。特別な人ではない。が、人である以上、自分以外の人々とのかかわりがある。そのかかわりを通じて明らかになってくる、人間なら誰でも持つ意志や感情、理性の表出が表層的でなく、尋常ではないほど深い。それが分かりにくさの原因である。

トレヴァーと比べると、アリス・マンローのほうが、より自分自身の経験や過去を創作の基部となるものを汲みあげるための場所にしているように思う。家族、親子、夫婦といったごくごくミニマルな関係性を基本にしながら、角度を変え、立場を超え、何度でも何度でも掘り下げ、新たな側面を見つけ出してくる。その想像力の供給量は無尽蔵とも思えるが、いったいどこからそんなに湧いてくるのだろうか。思うに、自分という存在は、正気を保っている限り、いやでも死ぬまでつきあうしかない唯一の人間だということではないだろうか。

誰であれ、歳をとればとったで、それまでに見えていなかった面が新たに立ち現れてくる。子であった自分が親になるときには、あれほど権威のあった親は半ば呆けているように見える。可愛くてしかたのなかった我が子は、自分のもとを去り、他人以上に距離を置いた価値観の持ち主となっている。この理不尽さ、不条理感をどう処理すればいいのだろう。われわれ、凡人はただただ、それに驚きあきれ、憤り、抗い、悲しみ疲れては、ため息をつくばかりだ。

作家はちがう。自分以外の人物の中に分け入り、その人の視点で事態を眺めることができる。すると、それまで自明のように見えていた自分を取り巻くあれこれが、まったく異なる局面を見せるのだ。人は誰でも自分がかわいい。意志的に抑圧でもしなければ、誰でも自己愛のかたまりである。自身は客観的に分析、理解していると思っていることが、意外にも自己保身や自己弁護のせいで偏った見方になっていたりする。人生は一回きりだが、角度を変えて見てみれば人は同じ人生を何度でも異なった生として生き直すことができる。アリス・マンローを読んでいると、自分にもそんなことが可能になるのではないかという気にさせられる。

短篇集『ジュリエット』は、2004年に刊行されたマンロー七十三歳にして十一冊目の短篇集である。女を描かせて定評のあるスペインの映画監督ペドロ・アルモドバルの近作『ジュリエッタ』の原作となった、三部作の短篇を収めているため、邦題は主人公の名をとり『ジュリエット』とした。ただし、「ジュリエット」という名の短篇はない。素っ気なさの極みのような一単語を表題にした八篇は、原題でも理解可能。これでどうだ、という潔さが際立つ命名だ。原題は<Runaway>(「家出」)。

それに続いて<Chance><Soon><Silence><Passion><Trespasses><Tricks><Powers>。邦題は、「チャンス」「すぐに」「沈黙」「情熱」「罪」「トリック」「パワー」と、これも原題の意を踏襲して簡潔。「チャンス」、「すぐに」、「沈黙」が<ジュリエット三部作>になっている。

大学院生のジュリエットは、臨時職員としてラテン語を教えている。たまたま乗り合わせた長距離列車で起きた事故がきっかけで漁師のエリックと出会う(「チャンス」)。エリックと暮らし始めたジュリエットは二人の間にできた一歳のペネロペを連れて帰郷する。父は教職を辞めて野菜作りを仕事にし、母は床についている。一家の暮らしを取り仕切っているのはアイリーンという娘で、ジュリエットは様変わりした家に違和感を抱いたままエリックの待つ家に帰る(「すぐに」)。

ペネロペがキャンプで留守の晩、ジュリエットと喧嘩をしたエリックは海に出て遭難死する。今は人気キャスターとなったジュリエットは宗教施設に入所中の娘に会うため島を訪ねるが、娘はそこにはいなかった。ペネロペは以後ジュリエットの前から姿を消してしまう(「沈黙」)。理解しあえていたと思っていた父の変化を受け入られず、ジュリエットは母を看取ることもなかった。歳をとったジュリエットは、娘と会うこともかなわずに一人暮らしている。近しいからこそ距離の取り方が難しい親と子の関係を解きほごすには、「女の一生」を三部作で描く、時間のかかる手法が必要だったのだろう。

その他、夫を亡くした女性が、家を手伝ってくれる娘の涙にほだされ、家出に必要な金を貸す。ところが、自由を奪われていたはずの娘は夫の家に帰ってしまう。無事元の鞘に収まるかに見えた物語に残された仄めかしが怖い、マンローらしさの横溢する「家出」。結婚目前の娘の前に突然現れた男は、けがの治療を理由に娘を乗せた車を走らせる。何故か知らないが娘は男の言うがままに。人生を変える一瞬の判断を描いて慄然とさせる「情熱」。

自分の出生の秘密に悩む少女を描いた「罪」。ミステリの常套手段を使って勘違いの生んだ悲喜劇を描く「トリック」。虚栄心のために友人の秘めた力を紹介したことがあだとなり、取り返しのつかない運命を引き寄せてしまう「パワー」、と『ジュリエット』は、アリス・マンローとしてはめずらしく、サスペンスあふれる作品を収めた短篇集である。

歴史(history)は勝ち残った者によって著される。物語(story)も また、生き残った者の眼で見た通り語られるという点で歴史に似ている。そこには、はかなく死んでいった者や不幸にも望みを遂げることなく世に棲む人々の声は響いていない。ジュリエットの一生を眺めれば、彼女の精一杯生きた軌跡は明らかだ。知的好奇心にあふれ、ぶれない生き方を通し、それなりに満ち足りた晩年に至る。

その一方で、わだかまりを抱えたままに死んだ夫、ついに看取ってもらえなかった母、学もない家事手伝いの女性を賛美したことで教養人の座から滑り落ちた父、はジュリエットの前から姿を消した。視点人物の気持ちはわかるが、対象となった人物の気持ちは分からない。だから、下手な作家は次々と視点人物を取り換え、すべての人物の気持ちを描こうとする。アリス・マンローのすごいところは、これらの人の気持ちをあえて書かないことだ。

トレヴァーもそうなのだが、あえて書かないことで、かえって分かることがある。過去を回想する視点の多用は、今は死者となった人物からの声なき声を聴くことだからだ。知的好奇心を武器に、がむしゃらに生きてきた主人公は、自身に執することで他者を顧みず、残余の部分として切り捨ててきた。晩年の孤独は自業自得である。知的に秀でるあまり、身近な幸せを逸した人間のさみしさ、という主題は作家自身の年齢を思い合わせ、感慨深いものがある。

『アリバイ・アイク』 リング・ラードナー

f:id:abraxasm:20161123181029j:plain

話芸というものがある。早い話が噺家の語る落語のようなものだ。面白いにはちがいないが、そんなものは小説ではない、という声が聞こえてきそうだ。小説のどこがそんなに偉いのかは知らないが、なんとなくただ面白い話や、法螺話を喜んで聞く文化というのが、一昔前はあったが、とんと最近では聞かなくなった。もちろん、寄席に足を運べば、今でも聞くことができる。そうではなくて、床屋だの、湯屋だの、人が集まってくる場所で、「まあ、お聞きよ」と口を開く、話し上手と呼ばれる人がめっきり減ったってことだ。

近頃では、本を読むということさえ稀になったらしいから、世に珍しい話や奇人変人の噂話は、ネット上に流れる何文字かの文章で処理されることになるのだろう。まあ、時の流れには逆らえない。それはそれとして、一昔前の与太話や法螺話を、一応そういうもんだとのみ込みながら、いいじゃあないか、急ぐわけでもないんだから、ここはひとつゆっくり聞いてやろうじゃないか、という聴く側の料簡が狭くなったから、話し上手も腕を揮えないってことがある。

逆に言えば、そういう気持ちでかかるなら、何も目の前に話し上手を連れてこなくっても事はすむ。圓朝に口演筆記があったように、語り口調のうまさをペンに乗せて書くことのできる作家というのがいる。マーク・トウェインなんかがその代表だが、このリング・ラードナーもその一人。なにしろ、一人語りで最初から最後まで語りっぱなし、というスタイルの小説が何篇もある。さすがに、そればっかりというわけにもいかないから、話し手を替えてみたり、会話を多用したりするが、語りが主体であることは変わらない。

ジャーナリスト出身で、自身を作家だと認識していたかどうかも怪しいところだ。売文業というと何だか賤しく響くが、腕さえあればどれだけでも書いて売ることができるわけで、いっそ潔いくらいのものだ。そのかわりと言っちゃあ何だが、話の面白さとオチのつけ方、それと語り口調のうまさは外せない条件だ。いわゆる名人芸というやつ。リング・ラードナーの短篇を読んでいると、読書をしているというより、めっぽう話し上手な男のごく近くにいて、語り聞かせてもらっているような気になってくる。

スポーツ・ライター出身ということもあって、野球選手の話、ボクシング・チャンピオンの話に精彩がある。タイトルになっている「アリバイ・アイク」もその一つ。どんな選手でも撃ちそこなったり取り損ねたりしたときは、言い訳はつきものだ。ところが、アリバイ・アイクに至っては、ファイン・プレイをした時も、とんでもない打率を挙げたときも、一言言訳(アリバイ)を呟かなくっては終わらない、というのだから厄介だ。

打っても、取ってもうまいので、アイクのおかげでチームは優勝候補に。ところが、そんなアイクに彼女ができる。婚約したことを仲間に話すとき、ついいつもの癖で言い訳めいたことを口にする。それを聞いていた彼女はアイクに腹を立て婚約を解消して帰ってしまう。意気消沈したアイクは全く打てずチームは苦境に陥る。彼女を取り戻すためにチームメイトが立てた策とは?なんにでも一言言訳をしないではいられない男という設定がいい。プライドが高過ぎるのか、うまくやった時でさえ、本当はもっとできるのだが、と言いたいのだ。どこかにいそうな困ったさんではないか。

逆に、こんなに酷い男はいない、と思わせるのが「チャンピオン」の主人公、ミッジ・ケリーだ。極悪非道にして冷酷無比。四字熟語のオン・パレードでしか形容できないワルのチャンピオン。しかもめったやたらと強い。あれよあれよという間にチャンピオンの座に上りつめながら、故郷で待つ家族や妻子に金は一銭も送らないという無慈悲さ。この悪党を取材しに来た記者にマネージャーが話して聞かせる美談は全くの嘘ばかり。それが記事として成立していることを皮肉る視線がミッジに負けず冷徹で、ラードナーがただのユーモア作家ではないことを証している。

金婚式を迎えた老夫婦が、避寒地に長期滞在するうちに起きたあれこれを夫の一人語りで聴かせる「金婚旅行」も、辛口のペーソスが効いていて後口に苦い味わいが残る一篇。人あしらいがうまく、交通違反を犯した違反者にも嫌な気をさせないでさばくので有名な交通巡査が、飛びっきりの笑顔の持ち主ながら、無免許で暴走を繰り返す女性ドライバーと顔を合わすのを楽しみにしている「微笑がいっぱい」は、「おもしろうてやがて悲しき」を地でいった話。

「散髪の間に」は床屋が語って聞かせる地元の人気者ジムの話。どこがおもしろいのか、というほどはた迷惑で、自分勝手な男なのに、床屋に集まる男たちには面白がられているジムは、少し頭の弱い少年をからかったり、騙したりしては仲間受けをねらっていた。ある時ジムは、ハンサムな医者に片思いをした娘のことが好きになり、医者の声色を使って誘い出し、笑い物にする。そのジムが鴨猟の最中銃の暴発に合う。ラードナーにはめずらしく読後スッキリする話。

ラードナーは、おそらく人間が好きでたまらなかったにちがいない。ところが、その人間ときたら、いつも善意にあふれたり、公正であったりばかりはしない。人前では立派な姿を見せていても、一歩裏に回れば真実の姿は醜かったり悲しかったりするものだ。その両面を兼ね備えているのが人間というもの。その真実の姿を、めったに世に出ない珍しい材料を準備したり、ありふれた素材にはピリッとした香辛料を効かせて目先を変えてみせたりして、存分に腕を揮って見せたのが彼の短篇小説だ。口に合うかどうかは客しだい。さて、あなたのお気に召すかどうか?