青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ウインドアイ』 ブライアン・エヴンソン

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全二十五編の短篇集。いちばん短いものは二ページに満たない掌編。確かに短いが、それだけに恐怖感が煮凝り状に凝縮され、飴色をした琥珀の薄明りの中に蟻ならぬ恐怖の本体が閉じ込められている。エヴンソンの物語は、突然訳も知らされずに絶望的な状態の中に放り込まれ、やむを得ずそれを受けいれるところからはじまり、首まで使って身動きがとれなくなったところで、ぷっつりと切れる。読者は、終りが近づくことを怖じ恐れながらも、物語が終焉を迎えることで恐怖から解放される時を待つしかない。短篇という狭小空間にグロテスクのアラベスクを敷詰めるその手法はE・A・ポオの末裔と呼ばれるにふさわしい。

「ダップルグリム」は、馬に魅入られた若い男の逃れられない宿命を描いている点で、本家ポオのデビュー作「メッツェンガーシュタイン」を思い起こさせる。ポオのそれはドイツ・ゴシック小説の意匠を借りて、タペストリーに織り込まれた運命の馬が招く悲劇を描く。エヴンソンは、シャルル・ペローの『長靴をはいた猫』を下敷きに、末の弟に遺産として遺された仔馬が破格の出世を招き寄せる話を書いている。ペローの猫を馬に替えたわけだ。後にダップル(まだらの)グリム(陰惨)と呼ばれることになる黒いまだらのある灰色の仔馬である。

初めて見たときからその馬の人を射すくめるような瞳に見つめられると、「私」は、私の中から引っ張り出され、我を忘れて周りにいるものを殺しまわる。気がつけば「私」は血まみれで死体の中に立っているのだ。「私」が血を浴びれば浴びるほど、馬は大きくなる。馬のおかげで力を得た「私」は、遂には王の位置にまで駆け上がる。主人公の意志で王になるのではない。猫が、馬が、王にさせるのだ。所詮、王とて誰かの操り人形に過ぎないという寓話か。陰惨な話を抑制のきいた文体で記した一篇。

エヴンソンのすごさは、一様に恐怖を描きながらも、変幻自在なそのスタイルにある。古潭もあれば、SFもある。たとえば、語り手が「あなた」に物語る寓話で始まる「無数」。列車に片腕をもがれたはずの男が目覚めると腕がある。手術によって高性能の義肢を与えられていたのだ。義肢を作った技師には、自殺した統合失調症の弟がいた。「自分の身体を、複数の人間が支配権を争う一種の乗り物だと感じる」のはどういうものか、と考えた技師は、義肢の各関節に超小型脳を組み込む。初めはよかったが、腕自体が考えはじめると、男は腕の暴走に悩み眠れなくなる。

切断された腕のほうにはまた別の話がある。「想像を超えた何かを一瞬垣間見て、その後また以前の暮らしに戻らねばならない人間は何をするものだろう」というのがそのテーマだ。話を聞いている「あなた」の置かれている状態が判明すると、これまで語られていた寓話が、実は恐ろしい意味を持つものであったことが分かる。自分を構成しているのは一人ではなく、無数の人ではないか、というのは、片腕や弟といった自分の一部と感じているものが消える、という故知らぬ喪失感とともに、エヴンソンの強迫観念の一つらしく、集中に何度も登場する。

モルダウ事件」は、タイトルからも想像がつくミステリ風の一篇。複数の報告者による報告書を入れ子状に配した階層性を持つ物語である。ストラットンという金持ち階級の男が、妻と子ども二人を鉈状の刃物で斬殺し、肉と骨の断片を部屋中にまき散らした後シャワーを浴び、留守の間に家族が惨殺されたと警察に電話をする。警察は男を疑うものの弁護士への電話を許可する。ストラットンが電話したのが、報告者ハービソンの勤務する組織である。

ハービソンとストラットンは旧知の仲、というより、前者は後者に恋人を盗られた過去を持つ。しかし、相手はそれを知らない。組織は警察権力に介入することが可能らしい。ハービソンが釈放させたストラットンをどうするかはお察しの通り。ストラットンの失踪を受けて、今度はモルダウが、今やハービソン事件と呼ばれることになった事件を担当する。モルダウとハービソンの二つの報告書の存在が、地下室でこれから起きるであろうことを示唆する、追う者が追われる、監視する者が監視される、「ミイラ捕りがミイラに」という、どこかポール・オースターを連想させるサスペンスフルな一篇。

ポオのようなミステリも書けそうなエヴンソンだが、何故推理小説を書かないのか、その理由を論じたのが、遠く離れた二箇所にある二つの死体が互いに殺し合ったことを示す不可解な事件を描いた「知」だ。ミシェル・フーコー張りの言説をそこら中に点綴して、一つの事件の解決が不能であることを証明してみせる。そして、次のように不遜な言葉を書きつける。

推理小説というジャンルは、ひとつの認識体系にしか属さない。知ることは真実を明るみに出すことであり、知をめぐってほかの考え方を導入しようとしても、つねにジャンルに変調をきたす結果しか招かない。我々としてはせいぜい、ある犯罪が解決不能と見なされ、何も知られず理解もされない地点に行きつくことが望めるのみである――周りの世界を理解する上で自分の認識体系がまったく無力であるにもかかわらず、その認識体系に探偵が頑固に、執拗にしがみつく状態に。/だからこそ私は、私の推理小説をいまだに書いていないのである。

フーコー的な言葉を使って「知」の言説を書いてみるという一種のパスティーシュだろうが、結論部分は、もしオーギュスト・デュパンがこれを読んだら驚くだろう、「推理小説時代遅れ」論である。推理小説も愉しむ者としては、たとえ、ひとつの認識体系にすがる懐古趣味の持ち主とよばれようとも、いっこうに構いはしないが、アメリカではもう推理小説というジャンルは過去の遺物なのだろうか。それとも、これはまだ書かれていない、新しい推理小説についての、「ポオの末裔」からの挑戦状なのだろうか?

以前一度は手に取ってはみたものの、読まずにすませた『遁走状態』に、再挑戦したくなる出来映えの第二作(邦訳)である。

『素晴らしいアメリカ野球』 フィリップ・ロス

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このタイトル、丸谷才一の提案によるらしい。でも、どうなんだろう。確かに、内容は野球の話だけど、原題は<The Great American Novel>。そのまま訳せば、『偉大なるアメリカ小説』となる。こちらのほうもちょっと首をかしげたくなるタイトルだけれど、偉大なもの好きなアメリカ人は、小説だって偉大なものが欲しいんだよなあ、くらいは想像できる。ただ、新しくできた国であるアメリカには、ヨーロッパの国々のようにこれが古典、と誇れる文学的伝統がない。

メルヴィルの『白鯨』なんかはそれらしい風格のある小説で、「偉大なるアメリカ小説」の筆頭候補にあがるらしいが、いまだこれ、という定番はないようだ。いわば、いつか書かれるだろう理想の小説の代名詞のようなもの。そこで、ヘミングウェイをはじめ、アメリカの現代作家はいつかは自分たちの手で書かねば、と気負い立っていたわけだ。

で、あの映画にもなった『さよなら、コロンバス』の原作者フィリップ・ロスが、書いたのがこれ。いくら前々から使われている表現にしても、自分から「偉大な」と名のる馬鹿はいない。そう考えれば、これはジョーク、というかパロディだろうと見当がつく。その大事なしかけが、『素晴らしいアメリカ野球』と訳されると、映画『素晴らしきヒコーキ野郎』なんかといっしょくたにされ、パロディ臭が消えてしまう。ここは、『偉大なるアメリカ小説』という直訳でいくべきではなかったのでしょうか、丸谷先生?

その丸谷氏が、書評には本を読んでいなくても、それを読んだら、人に何か言えるくらいの内容紹介が必要という意味のことを書いている。いつもはそれを心掛けて、ネタバレしない程度のあらすじは書くようにしている。でも、これはあんまりだ。というか、何を書けばいいのだろう。濃すぎるキャラクターが招き寄せる悲喜劇のエピソードを脱線に次ぐ脱線で書き継いでいったようなストーリー展開。悪趣味の見本のような小説に仕上がっている。

もし、連合国側ではなく枢軸国側が第二次世界大戦で勝利していたら、世界はどうなっていたかという設定で書かれた歴史改変(SF)小説というものがある。フィリップ・K・ディック作『高い城の男』や、ロス自身の『プロット・アゲンスト・アメリカ』がそれだ。そういう意味で、もし、メジャー・リーグがア・リーグナ・リーグの二リーグ制でなく、三リーグ制であって、三つ目がその名も「愛国リーグ(Patriot League)」だったら、という設定で書かれた、これは一種の偽史(小説)である。

第二次世界大戦にアメリカが参戦し、メジャー・リーグの選手も戦場に駆りだされていた時代。愛国リーグのルパート・マンディーズ球団は、オーナーがホーム球場を軍に供出してしまったため、ホーム・ゲームがなくなり、死のロードに出ることに。さらに、選手層の薄さをカバーするために、往年の名選手といえば聞こえはいいが、三塁ベース上で居眠りばかりしているロートル選手や、俊足だが、まだ14歳の二塁手、義足をつけた捕手、片手しかない外野手、といった障碍を持つ選手がそろいもそろってレギュラーをつとめる。

この連敗必至チームの珍プレイ、好プレイぶりを延々描写するくだりは、泣いていいやら笑っていいやら。先日読んだリング・ラードナーの『アリバイ・アイク』も、奇妙な癖を持つ野球選手の話だったが、あれならまだ許せる範囲内。法螺話ということですむ。『偉大なるアメリカ小説』の場合、いたぶられるのは、身体障碍者だけではない。黒人、ユダヤ人、アフリカ人に小人(こびとが打席に立てばストライク・ゾーンは極端に狭い)、その他書いているときりがないが、日本人も含むWASP(ホワイト・アングロサクソンプロテスタント)でない人種すべてが、嘲笑の対象となる。

移住者が建設した国家であるアメリカは神話を持たない。そのアメリカ人にとって、国民を統合するための神話に代わるのは国技とされるベース・ボールだ。映画『フィールド・オブ・ドリームス』でも描かれている、(シューレスジョー・ジャクソンをはじめ、伝説的な悲劇の英雄にも擬せられる神話的人物に事欠かない。その創生神話を逆手にとって、ここまでやるかという無軌道振りの野球小説を書くロスの真意はどこにあったのだろう。

自身がユダヤ人であり、WASPでないことがアメリカではどういう意味を持つか、いやというほど知っていたロスは、アメリカ人がまっとうなものと信じて疑わないアメリカ人気質を、グロテスクなまでに誇張することで、アメリカ人自身に、その姿を直視させ、さんざっぱら笑いのめしてみせる。ただ、その誇張表現が極端に過剰なため、笑える状態を超えて、むしろイタい。捕球を一人で処理することが難しい隻腕の外野手がチーム・メイトの協力を得て併殺に成功するシーンを描くときは胸がすく。しかし、その選手がトレードで別のチームに行かされると誰も口にくわえた球の処理ができず、むざむざと相手に点を献上することになる。

すべてがこの調子で、ここまで書かなくてもいいだろうに、と思えるほどカリカチュアライズされたキャラクターが引き起こす、ドタバタ劇は荒唐無稽を通り越してハチャメチャ。「面白うてやがて悲しき」アメリカ野球の感が強い。ただ、徹底したスラップスティック劇に、擡頭する共産主義に脅え、何でもかでも共産主義者の仕業と決めつけてかかる議員その他の人々の疑心暗鬼を風刺する作家のシニカルな視線に同調して笑いながらも、本当のところはどうだったのか、と背中に寒いものが走る覚えがしたのも事実。

アフリカに野球の伝道師として出かけた信仰心篤い監督が、原住民の「四球で一塁に行く時も滑りこみしたい」という要求を、野球という制度を墨守するため拒否し、怒らせた相手に磔にされる挿話がある。ステレオタイプの設定の中に、いかにもアメリカ人のやりそうなことがすけて見え、案外、本質は外していないような気もする。アメリカ大統領選にロシアのプーチン大統領命令によるハッカー攻撃が仕掛けられていたなどという話が、オバマ大統領の発言として、報道されるような事態が現実に起きている昨今である。大統領選までネタにして茶化してみせた作家も、今頃、事実は小説よりも奇なり、を実感しているかもしれない。

「スミティと呼んでくれ」で始まる書き出しが、『白鯨』の冒頭をパロっているように、文学的な引用に溢れ、大量の注釈がついている。原則にこだわる主審の喉に速球を食らわせ、球界を永久追放される投手の名前がギル・ガメシュと名づけられているように、すべてにおいて伝説や叙事詩を踏まえている。注釈のついている箇所以外にも、ギルガメシュとエンキドゥの関係など、物語の背後に広がる隠喩の網は想像がつかないほどだ。表面の虚仮威しめいた意匠に騙されず、一歩踏み込んでみると案外豊饒な文学世界が広がっているのかもしれない。一度は読んでおいて損はない。ただし、常盤新平の手がどこまで入っているのかは知らないが、中野好夫訳はちょっと古めかしい。でき得るものなら柴田元幸氏による新訳を所望したい。

『鳥の巣』 シャーリイ・ジャクスン

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冒頭、傾きかけた博物館で働く職員の様子をひとわたりユーモラスに語り終えると、話者の視点は主人公であるエリザベスその人に寄ってゆく。

博物館の三階にある事務室でタイプを打っているエリザベス・リッチモンドはこれといって特徴のない二十三歳の女性。早くに父を亡くし、母が四年前に亡くなった後は叔母に引き取られて暮らしている。これといった友だちもなく、仕事にも特段の関心を持っていなかった。博物館の修理のため、エリザベスの机のすぐ横に穴が開けられた日、彼女宛に匿名の手紙が届く。鉛筆書きの文章は、「きたないリジー」と、彼女を中傷し、脅す内容のものだった。

すると、エリザベスはその手紙を持ち帰り、さも大事なものでもあるかのように母の手紙を入れた箱にしまう。なにか変だ。ざわりとした感じが読者を襲う。文面から見て嫌な感じがする手紙だ。普通、破り捨てるか、その勇気がないなら人に相談するだろう。だがエリザベスは、その後、何事もなかったかのように叔母のモーゲンと夕食を済ませる。頭痛のせいで背中が痛むので叔母の手を借りて服を脱ぎ、床につく。翌朝、叔母は昨夜どこへ出かけたのかとエリザベスをなじる。

何がおかしいのかよく分からないが、どこか変なのだ、この娘は。夜半の外出や、知人の家での無作法を覚えていないという姪の言葉を信じた叔母は、医者に診せることにする。かかりつけ医は、エリザベスを診て、精神科医のライト医師を紹介する。ライトは、催眠療法を用いて、エリザベスの深部に潜り込み、真相を究明する。エリザベスは多重人格。今でいう解離性同一性障害だった。

結果的にエリザベスには、四つの人格が見つかった。まず、手紙でリジーと呼ばれる博物館で働く感情を顕わにしないエリザベス。次に、催眠時に最初に現れた情感豊かなべス。三人目が例の手紙を書いた、いたずら好きで、厄介者のベッツィ。最後が母が死んでからの叔母との四年間の記憶がすっぽりと抜け落ち、父の遺産を叔母が横取りしたと信じ込んでいる金の亡者ベティだ。初めのうちは、催眠状態の中でしか現れることのなかった四つの人格が、覚醒時にも現れるようになり、ついには、代わる代わる現れて相争うようになる。この四つの異なる人格の描きわけが上手い。

特にずっと内側に閉じ込められていた邪悪なベッツィが表面に登場してくる場面はぞっとする。ところが、第三章では、そのベッツィが一人でバスに乗り、ニューヨークまで母を探しに行くのだが、人のまねをして切符を買ったり、河が見えた、壁がピンク色だった、といった断片的な記憶を頼りに、母を探そうとしたり、ベッツィのやることは、まるで子どもだ。大人の体の中に入った子どもが、ニューヨークをさまよっている。ベッツィの視点から描かれることで、読者にもその心細さが伝わってくる。

初めのうちは感じのいいべスが気に入っていたライトだが、事態が錯綜してくると、愛情をほしがってばかりのベスよりも、乱暴だが行動力のあるベッツィを頼りにしはじめる。最終的には、四つの人格を統合して一人のエリザベスにしたいと願うライトだが、なかなか思うようにことは進まない。特にベッツィとベティの仲が悪く、首を絞めたり引っかいたりと喧嘩沙汰におよぶ。そう書くといかにも二人が取っ組み合いをしているようだが、実際は自分で自分の首を絞めているわけだ。

重篤な多重人格の発症には理由があるにちがいない。それには、エリザベスの過去に何があったかを知る必要がある。謎を解く鍵は母親の死にあると考えたライトは、エリザベスに訊こうとするのだが、その度にベッツィがふざけ散らして邪魔をする。それでも、読者は切れ切れの話から、手がかりをつかむことができる。つまり、この物語は、探偵ライトによるエリザベスの多重人格発症の謎を解くミステリなのだ。冒頭に登場したエリザベスが箱に大事にしまっていた母の手紙が大事な伏線になっている。

1954年に発表された著者による長編第三作。こんなに面白いのに、これが本邦初訳とは、ちょっと信じられない。多重人格を描いた作品は多いが、発表年代から見て先駆的作品だろう。訳者あとがきによれば、ホラー小説で有名な作家のようだ。ベッツィの登場するシーンなど、確かに怖い。ただ、この作品に限れば、エリザベスに関わる叔母や知人の描写には相当量のユーモアも塗されている。視点の転換による心理描写の描き分けなど構成も巧みである。今年は生誕百年にあたり、他の作品も出版されている。もっと読まれていい作家だと思う。

『言葉の降る日』 加藤典洋

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近所の神社に、突然掲揚ポールが立てられ、日の丸の旗が揚げられるようになった。鳥居の両脇にも、「祝祭日には国旗を揚げましょう」「氏神様にお参りしましょう」という神社庁提供の幟が二本立てられている。ちょっと前まではそんなものは目にしなかった。夏祭りの時は、神社なのに盆踊りの会場にもなる、ごくごく小さな神社で、小さいころはいい遊び場だった。それが今では鳥居の前で最敬礼をしてゆく観光客の姿を度々目にするようになった。

冒頭の「0.死が死として集まる。そういう場所」という文章に、柳田國男が戦争が終わろうとしていたときに考えたことが紹介されている。柳田は「故郷から遠く離れた南の海などで非業の死をとげている若者の魂はどうなるだろう」と、考えたというのだ。日本の祖先信仰では、死んだ人間は、故郷の近くの山の上に集まる。そしてそこから生者を見守る。当初は「あらみたま」として存在するが、やがて子孫に敬い弔われることで、自ずから鎮まり、祖先の御霊に合体してゆく。

ところが、遠い異国で行われた戦争で死んだ若者には当然のことに子孫はいない。故郷の山もない。彼らの魂はどうなるのか、という疑問である。そこで、柳田は一つ提案をする。国に残った年少の縁者に死者の養子となってもらい。彼らの子孫として弔ってもらっては、というものだ。「新たに国難に身を捧げた者を初祖とした家が、数多く出来るということも、もう一度この固有の生死観を振作せしめる一つの機会であるかも知れぬ」と。

この間読んだ京極夏彦の『書楼弔堂 炎昼』の中で、本屋の主が、登場人物の一人である当の柳田に説いていた説を思い出した。おそらく、京極は柳田が1945年の春から夏にかけて発表した『先祖の話』などを参照して、この話を作ったのだろう。それにしても二つの新刊の偶然の符合に驚くではないか。ユングのいうシンクロニシティとはこういうものか。それとも死者が生者の悲しみに応えてのことだろうか。弔堂の主人は言う。

「死者を迷わせるのも、死者を地獄に落とすのも、それは生きている者なのでございます。忘れないことです。(略)亡くなった方の生前を。人は生きてこそでございます。尊重すべきは生。ならばその方の生きていたことを忘れずにいること――それが菩提を弔うということでございましょう。覚えている者が誰もいなくなれば、幽霊も出られませぬぞ」

記憶も、名前さえ忘れられても、何世代前の人であっても、本邦では祖先として祀られ続ける。そしてお盆には帰ってきて、生者に混じって踊る。盆踊りで笠などで顔を隠すのは、人でないものという印なのだそうだ。こういう死生観を持つ、この国ならではの柳田の提案は、終戦の翌年に発表されるも、見事なまでにスルーされてしまう。敗戦の混乱の中では、無理からぬことであっただろうとは思う。

加藤は言う。もし、戦後こういう動きがあったら、死者を持つ家にとっては一つの慰めになっただろう、と。「そういう人々の心には、深いとてつもない穴が開いていたでしょうから、もし誰かがそのとき、そのことに心を向けたら、その穴のうつろを、それらの気持ちは少しなりと埋めただろう」と。さらに、そうなっていたら、靖国神社国家神道のもとでの「英霊」信仰は無力化されていたのではないかとも。

「死んだら靖国で会おう」と、いうのは出撃するときに戦友に語る言葉として、映画などでよく聞くセリフだ。加藤に言わせると男同士のマッチョな物語で、当時の学校制度がつくる男子校の同窓会みたいなものだ。一方、戦場から生きて戻った者が語るのは、兵が死ぬときの最後の言葉は「天皇陛下万歳」ではなく、「お母さん」の一言だった、という話だ。

一人一人の死者が会いたかったのは、また戻りたかったのは、靖国などではなく、それぞれの故郷であり、家族のもとだったはずです。一人一人が、その愛する家族のもとに帰る、というもっと小ぶりの物語が、「英霊」物語に取って代わり、生まれなければなりませんでした。そしてこちらのほうが、もっと深く、家ごと、郷里ごと、一人一人のもとに死者を呼び戻す、日本古来の仕方に近かったに違いありません。 

 

加藤は、昔『先祖の話』を読んでいるが、そのときはピンと来なかった、という。しかし、今は「柳田は、戦争という大きな物語の渦中で、なんという小さな物語を手放すまいとしていたのかと、そのことに驚嘆しています」と語る。確かにその通りだ。

『言葉の降る日』は、死者に寄せる言葉に溢れている。追悼文や、亡き人の思い出を語る文が多く収められているからだ。実は、加藤は2013年に愛息を事故で亡くしている。しかも、思想的に影響を受けた吉本隆明鶴見俊輔をはじめ、友人でもあった編集者と、近しい人を相次いで亡くしたことが、柳田の『先祖の話』を思い出させたのかもしれない。それは、水木しげるの死に深く影響を受けた京極夏彦にも通じる。

かつての戦争で、戦死した人々、空襲で、原爆で亡くなった人々、と私たちは、多くの死者を持った。戦争を直接には知らない世代にしても、阪神淡路、東北と長い間をおかずに起きた大震災がある。死者をどう弔うか、という死に対しての向き合い方に、敏感にならずにはいられない。しかし、世の中の動きは、大きな物語にばかり目が向いていて、加藤のいう「小ぶり」な物語のほうには、ちっとも目が向かない。

現代に生きる人々は、なにやかやと騒がしく世情をにぎわしては移りすぎてゆく大文字で語られる話題にまぎれ、人の死に、まっすぐに向かい合い、死とは何か、人は死んだらどうなるのか、などという問題とじっくり取り組むことができなくなっているのではないか。日本古来の死生観とはどういうものかを知らず、祀る人を持たない大量の死者をそのままにして、次々と原発は再稼働され、多くの若者が遠い異国に送り込まれていく。私たちはどこへ行こうとしているのか。このあたりで一度立ち止まり、胸に手を当てて考えてみることが必要だろう。

その時に頼りになるのは、ベネディクト・アンダーソンがいうところの、せいぜいがここ二、三百年に作られた「想像の共同体」である、国民国家などではなく、亡くなった人が宿るはずのすぐそこに見える山を抱く、小さな郷土であり、息づかいさえ懐かしく思い出すことのできる身近な死者の声なのではないだろうか。そんなことを考えながら、今日も神社の前を歩く。大きな木が伐られ、寒々とした木々の合間から、山が見える。父の葬儀の後、詣でた山である。

『書楼弔堂 炎昼』 京極夏彦

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山を背に、林の中に隠れるように建つ、優に三階はあるだろうという陸灯台のような変わった建物。前面に窓はなく、奥まった入り口にかかった簾に「弔」と書かれた半紙。そこが、書楼弔堂。人伝に聞いて訪ねてくる客には一見書肆には見えないこの店は目に留まらない。しかし、中に入れば吹き抜けの空間をうずめる書架には和漢洋の古書、新刊は言うに及ばず、浮世絵から新聞に至るまで、およそ文字を記した文書なら、大抵揃えている。ただし、この本屋はふつうの本屋ではない。

万巻を読み漁った主人は、人にはその人のためのただ一冊の本がある、という。弔堂を訪れる客は、主人と会話することによって、その一冊を選んでもらう。明治もはや三十年。当初は西洋に追いつくために欧化政策をとった日本も、日清戦争に勝利すると大国気分になり、国粋主義が擡頭してきていた。女子教育も始まったが、男尊女卑の風潮は改まることがない。狂言回しをつとめる薩摩士族の令嬢、塔子も女子高等師範學校を出ているが、何かと気のふさぐことの多い毎日だ。

『書楼弔堂 破暁』に続く第二弾。「小説すばる」に連載中のシリーズ物、第七話から十二話までを単行本にまとめたものである。明治三十年代初頭の東京を舞台に、当時世間を騒がした著名人が、塔子に導かれるように弔堂を訪れる。初めはその名は伏せられているが、会話の中で人物にまつわる事実が明らかになってくる。読者は、クイズ「わたしは誰でしょう」に参加している気分が味わえる趣向。訪問客の名を当てる謎解きミステリになっている。

最初から本名を明かしているので、ネタバレにはならないだろうから書いてしまうが、「炎昼」篇は、塔子のほかにもう一人、松岡國男という新体詩人がほぼ全篇に顔を出す。いうまでもなく後に『遠野物語』を著すことになる柳田國男の前身である。この時代は、見込みのない恋に悩み、将来どの道を進めばいいのか決めかねている一書生に過ぎない。一冊の単行本として読むと、毎回新しく登場する訪問客より、この松岡國男のほうにライトが当たっている。

連作短篇小説集としては一話限り、塔子が連れてくる人物にスポットライトが当たるのは当然だが、通して読むと、悩める青年松岡が、後に民俗学を起こす柳田國男になるための試練の時を描いているビルドゥングスロマンのように読める仕掛。というのも、明治に有名人は多いだろうが、井上円了泉鏡花のように、妖怪や幽霊と深い縁を持つ人物の数は限られている。得意の「憑き物落とし」をやろうにも、適当な人物がそうはいない。そこで、満を持しての柳田國男の登場である。

その工夫は功を奏して、東京帝大生の松岡を通じてメスメリズムやら、催眠術やら、オカルトめいた話にうまくつないでいる。とはいえ、「憑き物落とし」につき物の妖怪色は意外に薄い。時代の転換期に己の針路をどう取ろうかと悩める人士の行く手を、陸灯台ならぬ弔堂主人が照らすという趣きが強いのだ。もちろん、松岡が毎回手にする本として、フレイザーの『金枝篇』や、ハイネの『流謫の神々』などが登場するのも、ビブリオ・ミステリとしての『書楼弔堂』シリーズの面目を保つ。

オカルト嫌いは、京極のトレード・マークのようなものだが、なぜ嫌いかといえば、それは理が通らないからだ。不合理なことは他にもある。文明開化、四民平等を唱えながら、内実は良妻賢母をよしとし、男尊女卑を是とする日本という国の嘘っぽさを、塔子やその友人の口を借りて明らかにし、最後には、後に『妹の力』を著すことになる柳田國男によって、そんなものは日本の伝統なんかではなく、古来より日本の女性は大切な存在であったことを明らかにする。

さらには富国強兵制度によって、国民を戦地に送り出す国家の過ちをいつもは穏やかな弔堂が厳しく問い質す。その相手は、今は還俗して弔堂主人となった龍典が僧であった頃、貴方は軍人になるべきではないと何度も諭したのに聞かず、中将の位まで上り詰めた一人の男。明治の日本人を代表するといっても過言でない軍人に対し、諄々と説き語るところは、『虚実妖怪百物語』にも共通する作家の軍人嫌い、戦争嫌いが強くにじみ出ていて、本気度がうかがえる。

戦略とは、戦を略すと書くのです。戦わずに済ます方策を考えることこそが人の上に立つ者の仕事ではないのですか。戦の道を選んだ段階で、もう国は護れていない

この龍典の言葉と、作家が同じころに書いたと思われる『虚実妖怪百物語 急』に出てくる次の言葉はほとんど同じである。

国を護るために戦争をするっていうのは、そもそもおかしい訳ですよ。国が護れなくなったからこそ戦争になるんじゃないですか。外交だって経済だって、文化だって技術だってそのための手段ですよ。戦わないためのカードをどれだけ持っているか、どれだけ作れるかつうのが政治でしょうに。それが真の国防ですよ

これにとどまらず、シリーズはちがっても、主たる人物の話す言葉の内容がほぼ同じ、というのが最近の京極夏彦の気になるところである。繰り返しが悪いわけではない。大事なことは繰り返したくなるものだ。ただ、主義主張イデオロギーの類が、手を変え品を変え、たびたび強調されると、読んでいて、ああまたか、と思ってしまうのもたしかだ。鼻につくのである。雑誌発表が2016年二月とあるから、水木しげるの死が影響しているのかもしれない。

そういえば、作中、龍典、塔子、松岡はそれぞれ大事な人と死に別れている。親しかった人と死に別れる辛さもまた、何度も繰り返し強調されているのだ。人は必ず死ぬ。しかし、死後の世界というものはある。つきあいの広かった人にはあの世も多い、という龍典の言葉はいぶかしく聞こえるが、近しい人を亡くした悲しみに暮れる者には目の前が開ける思いのする解釈である。どういう意味か気になったら本文を読んでほしい。塔子や松岡を前に主人の言い聞かせる言葉は、そのまま畏友を亡くした作家が自身に引導を渡す言葉なのだろう。

『夢宮殿』 イスマイル・カダレ

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19世紀、オスマン帝国の首都コンスタンティノープル。皇帝に代わって政務をとり、オスマン帝国を支えた有能な大臣を五人も出した一家としてラルースにも名前が残る名門キョプリュリュ家の若者マルク=アレムは、初めて出仕する朝を迎えていた。彼の勤め先は<タビル・サライ>別名<夢宮殿>と呼ばれる。そこは帝国全土に暮らす臣民の見た「夢」を集め、選別し、解釈を加える大組織である。

イスラムの神アッラーは、大地に雷を落とすのと同じように、人々の見る夢のなかに、国家の災いになる予兆を知らせることがある、と当時の皇帝は信じていた。ただ、厄介なことに帝国の支配する膨大な領土に暮らす誰の夢に、それが現れるのかは分からない。そこで、もともとは星を見て凶兆を占う組織であった組織を<タビル・サライ>と改称し、国中から集めた夢を管理統括、金曜ごとに最も重要な夢を選び出し、<親夢>として皇帝に提出することとした。

マルク=アレムは、<夢宮殿>の<選別>課で働くことになる。重要度では<解釈>課に劣るが、新任で<選別>に配属されることはまずなく、キョプリュリュ家の一員であることが、この優遇の原因であることはまちがいなかった。というのも、キョプリュリュ家と<タビル・サライ>には、以前から因縁があり、キョプリュリュ家になにかあるときには<タビル・サライ>が活気づくと言われていた。

オスマン帝国の歴史は複雑で、その支配体系も多岐に入り組んでいる。キョプリュリュ家を歴史に残る名門にした始祖メフメト・パシャは大宰相としてオスマン抵抗の版図を広げるという功があった。だが、それは皇帝にしてみれば政治権力を横取りされたも同然で、ましてや代々のキョプリュリュ家の者が大宰相の地位につくのは目の上のたん瘤であったろう。

さらに、皇帝がキョプリュリュ家を嫉妬することがもう一つあった。それは武勲詩と呼ばれるものの存在である。キョプリュリュ家の武勲を歌った武勲詩がスラブ系の吟遊詩人によって歌い継がれていた。オスマン帝国の覇者である皇帝にもないものがキョプリュリュ家にはある。それこそが、皇帝の癪のたねだった。

帝国の最深部では、皇帝とキョプリュリュ家の暗闘がどの時代でも繰り返されていたのだ。皇帝は<タビル・サライ>という組織を使って、キョプリュリュ家を追い落とすための確証を探し求めていた。マルク=アレムの伯父はキョプリュリュ家出身の大臣として、常に<タビル・サライ>の動向に注意を払っていた。マルク=アレムが<夢宮殿>内部に勤めることになったのは、本人の意思ではなく名門一家の運命を託されてのことだったのだ。

と、これだけの前置きを置かなければ、話の内容が読めてこない。一部、主人公の家や、伯父の邸宅で行われる晩餐会が舞台となるが、大半が薄明の裡に閉じ込められた巨大な回廊を持つ<夢宮殿>という建築のなかで演じられるといってもいい。大きな井戸のような空洞を囲むように、幾多の課が配され、中央通路から何本もの横道が伸びる<夢宮殿>は、巨大迷路のようなもので、主人公はいつでも目的の部屋を見つけることができない。めったに通る人のいない回廊で、人を待って尋ねては道を知るのだ。

情報を得る手段としては、休憩時の立ち話や、隣の机に座る同僚との小声の会話しかなく、すべては不確かな推測、噂話でしかない。<夢宮殿>があるのはオスマン帝国とされているが、ミナレットが並び立つ華麗なイスタンブルを偲ばせる情景描写は皆無で、意識的に色彩や明るさというものを欠いた叙述は、その徹底した秘密主義、時間厳守、中央集権制などと重ね合わせると、旧共産主義諸国の管理社会を思わせる。作家の祖国であるアルバニアがモデルだろう。

また、昼間であっても高い窓から曇ったガラス越しに届く光しかなく、暗くて自分がどこにいるのかすら見当のつかない迷路じみた回廊の地下には巨大な<文書保存所>があり、過去に集めたすべての夢の記録が保存されている。「いかなる歴史も、いかなる百科事典も、そればかりかあらゆる聖なる書物やその類いの書物をまとめ合わせたところで、いかなるアカデミー、いかなる大学や図書館にしたって、この<文書保存所>から発するほどの凝縮した仕方でわれわれ世界の真実を提供することはできないのだ」と断言されるその場所こそ、人類の集合的無意識の暗喩である。

無数の人によって組織され、同じ課で働く同僚くらいしか知り合うこともない細胞のような人間が、個人の意思などではなく、機械的に処理してゆく情報によって、国家が動く。このディストピアめいた<夢宮殿>で働くうちにマルク=アレムは次第に、実生活をけち臭くしみったれたもののように感じはじめる。同時に自分が毎日接している夢の方が色彩に溢れ、生き生きしているように感じ始める。たまの休日に街に出ても、以前のように心惹かれることはなくなってゆく。

現実世界に生きる人々は、加工された情報を断片的にしか知らされず、<夢宮殿>で働くマルク=アレムを自分たちの知らない秘密を知る者として、どこか敬して遠ざけるようになる。多くの人々によって見られた夢が毎日届けられる<夢宮殿>とは、東独のシュタージのような秘密警察や諜報機関をソフトに著したものではないだろうか。その証拠に、歩哨の立つ一室には、問題のある夢を見た者が監禁され、査問を受ける場面がある。それどころか、そこから棺が運び出される情景すら垣間見られている。

無垢で、世間知らずの青年が、組織内で出世するうちにしだいしだいに取り込まれ、組織に同化してゆく様子が、主人公の内側の視点から描きだされることで、管理社会に対する恐怖がじわじわと迫る。最後に主人公の流す涙が、わずかに残る人間性の証でもあろうか。伝説や武勲詩、吟遊詩人といった文化的遺産を効果的に配することで、管理社会に飲み込まれる人間を描く殺伐とした空気をやわらげ、長い歴史を持つ民族の物語性豊かな作品にしている。

無名の人たちが見た夢を集め、選んで、解釈を施すという<夢宮殿>の中で働く主人公の仕事は、ある意味、作家の仕事でもある。われわれ読者もまた無意識に雑多な夢を見ている。多くの人間の見る夢の中に分け入り、断片的で支離滅裂な内容を、選別、解釈し、ひとつのストーリーに織り上げてくれる作家という職業あってこそ見られる、完成された形としての<夢>が小説なのだ。

今年ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランのメッセージが発表されたが、アルバニア生まれの亡命作家イスマイル・カダレもまた、その受賞が待たれる一人である。寓意的でありながら、寓話に堕ちることなく、潤沢な物語性を湛えた硬質な作品世界は独特の魅力にあふれている。本作はフランス語訳からの翻訳だが、是非アルバニア語原書からの訳で読みたいものである。ノーベル賞はそれを可能にしてくれるはずだ。

『パリはわが町』 ロジェ・グルニエ

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フランス文学界現役最長老ロジェ・グルニエによるパリ文学散歩。大き目の活字に余白をたっぷりとった組版、短い断章風のスケッチでさらりと語られる長いパリ暮らしで出会った人々の思い出。記憶に残る出会いの中には、ジョージ・オーウェルヤ、マルカム・ラウリーのように知り合ったのかどうか記憶がはっきりしないのもある。実に淡々としたものだ。1919年生まれの97歳のことでは仕方がなかろう。わたしなど、つい最近のことでも忘れてしまう。

核となっているのは、大きな歴史、1944年のパリ解放時の思い出。連合軍の進撃を待ちながら、抵抗を続けるドイツ軍との戦いに、レジスタンスとして参加していたのだ。実際に銃をとるようなことはなかったが、非合法組織における情報伝達役、いわゆるレポをやっていた。情報伝達といっても、銃を持った兵が監視する街の中を、時には銃撃されながら駆け抜けるわけだから危険極まりない。二十代の青年らしく無鉄砲な行動で、時にはあわや銃殺というところまでいく。この辺りは、さすがにジャーナリストらしい文体で、ドキュメントの迫力に満ちている。

もう一つは個人史。生まれ故郷であるノルマンディ地方での祖父母や父母の思い出からはじまり、新聞記者や雑誌編集者という経歴の中で知り合った文学者や芸術家、有名人との出会いを、パリの街区の所番地を小見出しにしながらつづっている。こちらのほうは戦争中の緊張感とは無縁で、リラックスした雰囲気のなか、年老いた著名人が過去の記憶をたどり、懐かしい人とのめぐり合いを回想するといった趣きが深い。

パリ解放直後のこと。占拠した市庁舎を出てシャンゼリゼ大通り六三番地に≪ヴォロンテ≫誌の事務所を構えたグルニエは、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の映画『舞踏会の手帖』に出演し、後に『陽気なドン・カミロ』で主役の田舎司祭を演じて人気を得ることになる馬面の喜劇役者に出会う。

われわれの新しいオフィスでは、しばしば、奇妙な光景が見られた。多少とも、対独協力に手を染めた形になったアーティストたちがやって来ては、われわれのために特別公演を開いて、名誉を回復したいと持ちかけるのだ。こうして、わたしは、あのフェルナンデルが椅子に座ったままじっと何時間も順番を待つ姿を目撃することとなった。

そこには、あのジョルジュ・バタイユも訪れ、自分はインテリのあいだでこそ評価されているものの、一般には知られていない作家だと説明し、一般読者に訴えるためになにか書かせてほしいと言いに来たりもしたという。ヘミングウェイの小説も掲載したが、どれだったかは忘れたそうだ。

その後≪リベルテ≫誌に移ったグルニエは、カミュに階段ですれちがいざまに礼を言われる。当時、実存主義哲学の信奉者であると思われていたカミュサルトルら「無と絶望の哲学者たち」はナチス・シンパであったハイデッガーの弟子として、キリスト民主主義系新聞が糾弾中であった。グルニエは≪リベルテ≫誌にそれに対する反論を掲載していたのだ。この後、二人は≪コンバ≫誌で共に働くことになる。

アンドレ・ジッドやサミュエル・ベケットといった名の知れた作家たちとの出会いは数限りなくあるのだが、個人的にはアイザック・ディネーセンについて触れたさわりを紹介したい気持ちが強い。晩年のことだろうか。

ホテル<サン=ジェームズ&アルバニー>には、その名前からして、なんだか神秘的で、高級な香りがただよう。こんなことをいったのも、じつはこの場所で、わたしは尊敬している二人の作家と出会っているのだ。(略)もう一人が、『アフリカの農場』の作者カレン・ブリクセンだ。ブリクセンはやせこけていて、年齢もよくわからず、なんだかラムセス二世のミイラに似ていた。

ジャズ・コンサートにも出かけている。『死刑台のエレベーター』の音楽を担当していた頃のことか。

トランペットでは、フィリップ・ブランとかマイルス、デイヴィスを聴くことができたが、マイルスは、ある晩、非常にご機嫌が悪くて、観客に背を向けてプレイしていた。また、とりわけルイ・アームストロングが素晴らしかった。

ヘミングウェイとのすれちがいの話もおかしい。ある日、アメリカの有名な出版人であるクノップ氏の夫人ブランシュとホテル<リッツ>で話をしていると、友だちのモニクがヘミングウェイと入ってきた。

わたしの姿に気づいたモニクは、ヘミングウェイと会えれば私も喜ぶだろうと思って、ヘミングウェイをわれわれの方に引っぱってきた。ところが、二、三歩歩いたところでヘミングウェイは、ブランシュがいるのに気づくと、厄介な婆さんだと思っているにちがいなく、さっと引き返してしまったのである。

 マイルスといい、ヘミングウェイといい、いかにもその人らしい様子をまちがいなくすくいとってみせるポルトレの手わざが鮮やかで、すぐれたジャーナリストとしての片鱗を見る思いだ。

カミュとの出会いは先に述べたが、16年後同じ≪コンバ≫誌のあった建物の階段でカミュの死を知らされる。グルニエは逃げ込むかのように15年前に二人で組み版をした印刷機のある階に行くと、植字工や印刷工といっしょに部屋の片隅に座り込んだ。そのうち一人が口を開く。

「君がカミュの死亡記事を書くなら、ぼくたちが彼の仲間だったことをちゃんと入れてくれよ。」

やがて、印刷工や校正者たちは、『アルベール・カミュへ。彼の本の仲間たち』というタイトルの本を書くことになる。彼らはわたしに序文を依頼することで、仲間に入れるという栄誉を与えてくれた。

 いかにも、カミュらしい、いい話だ。サルトルでは、こういう話にはならない気がする。サルトルといえば、『聖ジュネ』だが。そのジュネについての逸話はまるでギャグだ。グルニエの友人で、写真家のブラッサイのアパルトマンを有名になったばかりのジャン・ジュネが撮影で訪れた時の話。

「無意識のうちに、ジュネは窓の外に目をやった。彼はもう、そこから目を離すことができなかった」とブラッサイは語っている。つまり、ブラッサイのアパルトマンからは、サンテ刑務所が見渡せたのである。ジャン・ジュネは男友だちといっしょにもどってくると、窓から外を見て見ろよといった。だが、その若者はなんの反応も示さなかったという。

「なんてこった!おまえはわからないのか?サンテ刑務所じゃないか!」
「だって、ぼくは刑務所を内側からしか知らないから。」

 日当りのいいところに出した椅子に腰かけて、近所のご隠居の昔話を聞いているような心地よいひと時を過ごすことのできる小冊子である。ロジェ・グルニエにはタイトルに、この本にもたびたび登場する愛犬ユリシーズの名を冠した『ユリシーズの涙』という作品がある。英雄ユリシーズとその愛犬の逸話を話の端緒に、文学内外の犬とその飼い主の話を集めた、こちらも心に残る本である。