青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『数字を一つ思い浮かべろ』ジョン・ヴァードン

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デイヴ・ガーニーは四十七歳。いくつもの難事件を解決してきた超有名な刑事だが、今はニューヨーク警察を退職し、デラウェア近郊の牧草地に十九世紀に建てられた農館で暮らしている。事件解決以外に興味を持たない夫と二つ違いの妻マデリンとの間にはすき間風が吹いていて、それは近頃ではどんどん強くなってきていた。早期に退職したのはそれも原因の一つだった。

どんな資産があれば、ただの元刑事がそんな優雅な引退生活を送れるのだろう、と素朴な疑問がわくのだが、ともかくそんな元刑事のところに事件は突然舞い込んでくる。大学時代の友人に送られてきた奇妙な手紙の一件だ。手紙には「数字を一つ思い浮かべろ」と書かれていた。友人は658という数字を思い浮かべた。同封の小さな封筒を開けるとその中に入っていた紙には、658と記されていた。なぜ差出人は前もって知ることができたのか、というのが謎だ。

クラブのショーの一つに読心術というのがある。それと同じ手口だが、サクラを使えない手紙で、どうしてそれができたのか。しかも、手紙には続きがあり、なにやら復讐めいた匂いすら漂う。今は成功者だが、かつて酒浸りだったことのある友人は当時のことを覚えておらず、恐怖を感じてガーニーを頼ってきたのだ。初めは警察に知らせろと言っていたガーニーだが、その友人が殺される。

被害者は割れたガラス瓶で喉を何度も刺されて死んでいた。しかし、不可解なのは雪の上に残された犯人の足跡だった。現場から規則的に続いた足跡が途中で消えていたのだ。何という古典的なトリックだろう。近頃とんとお目にかかれないべたな足跡消失ネタである。読心術に雪上に残る足跡。古き良き探偵小説の読みすぎだろう、とツッコミの一つも入れたくなるところだが、それでいてこの小説けっこう読ませる。

ガーニーは地方検事の要請で、捜査に協力することに。すると、間を置かず、ブロンクスでもウィチャーリでも殺人事件が起きる。被害者は一様に喉を指されているのだ。しかも、現場にはしりとり遊びのように殺人の行われた地名を示す何かが残されていた。もっとも、そのことに気づくのはガーニーではなく、彼の妻であるマデリンなのだが。そう、このガーニーという凄腕の元刑事、前評判は高いくせにひらめきという点では妻にかなわない。

それというのも、何かというと自分の過去や現在の家庭内の問題にばかり頭を悩ませているからだ。実は父親に疎まれていた過去を持ち、今は前妻との間にできた子とは疎遠で、マデリンとの間に生まれた子は事故で失くしている。妻との間に溝が生まれたのはその事故がきっかけだった。ガーニーは子どもの死以来、家庭を顧みなくなっていた。自分が眼を離した間に息子が交通事故に遭えば、自分を責めるのは当たり前だと思うが、妻の眼から見るとまるで自分を罰しているように見える。

謎解き物の本格ミステリのように見えるが、評判の割にはガーニーの捜査にキレはない。むしろ、口は悪いが腕は立つディックもふくめ、妻のマデリンや捜査本部のチームに属する冷静沈着な女性巡査部長ウィッグや同じく女性心理学者のレヴェッカに助けられている。むしろ、刑事でもないのに長時間車を運転して現場に向かい、現場を仕切る刑事に煙たがられるガーニーの姿は、どちらかというとハードボイルド小説の探偵のようだ。

シリーズ化を考えているらしいが、数字のトリックはまだしも、消えた足跡の方はあまりにも時代がかっている。謎解きならよほど目新しいものを持ってくる必要がある。他の人気シリーズとの差異化を図るなら、ニューヨークという大都会ではなく、キャッツキル渓谷という山間地を舞台にしている点はポイントになる。もう一つ、アームチェア・ディテクティブ役を振られているマデリンとのコンビを強化し、今後も二人三脚でやっていくことを強く勧めたい。

『ブラック・スクリーム』ジェフリー・ディーヴァー

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リンカーン・ライム、シリーズ第十三作。今回の相手はコンポーザー(作曲家)を名乗る犯罪者。特別に繊細な聴覚を持つが、統合失調症を病んでいる。脳内で音が異常に増殖する、ブラック・スクリームという症状が現れると、自分を制御できなくなる。チェロ用のガット弦で作った首吊り縄を被害者の首に巻き、時間をかけて首を絞めてゆく仕掛けを用いて、苦しむ様子を撮影した動画をネットに曝す。そして、被害者の呻き声をサンプリングして作曲し、バックに流すというのがその手口。

一人目の被害者がニュー・ヨークで誘拐される現場が少女によって目撃され、ライムたちが動き出す。現場に残された証拠から、ライムは監禁場所を割り出し、サックスが現場に急行し、すんでのところで被害者は辛くも助け出される。運よく逮捕を免れた犯人は、現場にパスポート用の写真を切り抜いた紙片を残していた。海外逃亡を企てたのだ。舞台は、イタリア、ナポリへと移る。

このシリーズには珍しく、主要な事件が海外で展開される。紛い物のトリュフの売人を追っていた森林警備隊の巡査エルコレは、逮捕を目前にして自分を呼ぶ声に気づく。誘拐事件の目撃者が警官を呼んでいたのだ。現場に残された首吊り縄のミニチュアといい、目を通していたニュー・ヨークの事件に酷似していた。指揮を執る国家警察警部ロッシにより捜査の一員に抜擢されたエルコレは、早速アメリカに連絡を取る。依頼した証拠物件とともにやってきたのがライムと介護士のトム、それにライムの婚約者アメリア・サックスだった。

シリーズ物の常として、ある程度続くと、何か新味を出す必要に迫られる。ライムとアメリアの結婚ネタや、新メンバーの投入だけでは興味をつなぎとめることが難しいと見たのか、今回は、なんと臨時チームの編成となった。国家警察ナポリ本部を捜査本部に、腕利きだが狷介な上席検事スピロや、有能な科学捜査官ベアトリーチェ、美人の遊撃隊巡査ダニエラ、と今回限りにしておくには惜しいメンバーの勢ぞろいだ。

首から上と右腕を除き全身麻痺のライムはいうところの安楽椅子探偵。現場に向かうのはサックス刑事だ。グリッド捜索で微細証拠を集めて帰り、それを分析して一覧表にまとめる。不案内なイタリアでサックスのバディを務めるのが、三十歳のエルコレ。国家警察か国家治安警察を目指していたが諸事情で断念した経緯がある。この事件で認められ、念願を果たすという野心を抱いている。果たしてそれはなるのか。

能力はあるがお人好しで思いつきをすぐ口に出してしまうエルコレは事あるごとにスピロの叱責を受ける。スピロは何故かライムたちを目の敵にする。ふだんならチーム・ワークを武器に事件の謎に迫るが、今回はこの難敵が立ちふさがる。かといってこのスピロ、ただの敵役ではない。ライムも認める高い捜査能力を持つ男だ。外部の者の協力を拒否するスピロの目をかいくぐり、サックスとエルコレは次々と起きる事件に立ち向かう。

部下思いの穏健な警部ロッシの陰の協力を得、科学捜査官のベアトリーチェの力を借り、エルコレに無理を強いてライムは捜査を進める。ところが、コンポーザーを追うライムたちに別の事件が降りかかる。留学中のアメリカ人学生が強姦事件の犯人として逮捕され、その嫌疑を晴らしてほしいというナポリ領事館からの依頼である。しかも、検察側の担当検事がスピロであることから、話がややこしくなる。この窮地をどうやって乗り越えるのか。

今回の舞台となるのが、ヨーロッパへの難民の玄関口であるイタリア南部に位置するナポリ。イタリアには有名なシチリアコーザ・ノストラだけではなく、ナポリを拠点とするカモッラ、カラブリアンドランゲタ、プーリア州のサクラ・コロナ・ウニタなどの犯罪組織が犇めいている。そこに今話題となっている難民問題が加わる。原題は<The Burial Hour>。本文では「生き埋めの危機」と訳されている。地滑りのように押し寄せる難民で、もともとの国民が生き埋めに会うような恐怖を味わうことを意味している。

難民問題という政治的な話題を絡ませることで、単なる犯罪捜査に留まらず、意外な展開が待ち受けていることもあり、いつもとは一味も二味も違った風合いに仕上がっている。おなじみのどんでん返しもちゃんと用意されているので心配はいらないが、アモーレ、カンターレ、マンジャーレの国イタリアらしく、各国料理の成分や蒸留酒の製法が事件解決のカギを握るなど、思ったよりマイルドな仕上げになっている。

ごりごりのミステリ・ファンはどうかしれないが、たまにはこういう変化球もあっていい。ライムがウィスキーではなくイタリアの蒸留酒グラッパにはまるなど、アレンジも効いている。風光明媚なヴォメロの丘や海に浮かぶ卵城、カモッラが根城にするスパッカ・ナポリなど、ナポリらしさが満喫できる。犯行現場となる地下通路の絞り込みなど見どころは多く、マッスル・カーではなく、ルノー・メガーヌを駆るサックスもまた一興だ。

無愛想な敵役に見えたスピロの意外な正体や、エルコレの国家警察入りの成否など、人間関係の機微にも興味は尽きない。事件が終わった後、ライムとサックスの結婚についてもあらましが仄めかされており、ファンなら読むしかない。ミステリは好きだが、あまり酸鼻を極めるものは苦手、という読者にお勧めできる後口のさわやかな一篇である。

『洪水の年』マーガレット・アトウッド

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<上・下巻併せての評です>

ディストピア小説の傑作『侍女の物語』の作者マーガレット・アトウッドによる「マッドアダムの物語」三部作のひとつで、やはりディストピア小説。近未来のアメリカが舞台。疫病が蔓延し、人々は感染してほぼ死に絶えた中で、奇跡的に生き延びた女性が主人公。一人は大人でトビー、もう一人がレンという娘。二人は「神の庭師たち」という名の宗教団体に庇護されていた時に知り合う。

同じディストピア小説でも、超監視社会という閉鎖的な世界に生きる人々を描いた『侍女の物語』とは異なり、『洪水の年』は、まともな政府が機能しなくなり、私企業がその代わりをつとめている無政府状態にある国家で生きる人々の姿を描く。近未来のアメリカは階層化が進み、一流企業に勤務する人々が住む地域はそれ以外のヘーミン地と隔てられている。

遺伝子化学によって、異なる種を接合した動物が作り出される一方でヘーミン地に住む人々は食糧不足のため、得体の知れない肉で作られたシークレット・バーガーなるものを食べている。暴力とセックス、ドラッグが支配するヘーミン地に生きる人々の間にはいくつもの狂信的なカルト集団ができており、そのひとつがアダム一号をリーダーとする「神の庭師たち」と呼ばれる教団である。

キリスト教を母体とする教団「神の庭師たち」は宗教と科学を教義の基礎に据えて集団で暮らしている。廃墟となったビルの屋上に庭園を造り、有機野菜を栽培し、ハチを飼い、蜂蜜を採取したり、薬草やキノコを育て、薬や食料にしている。菜食主義を貫き、動物を食べない。自分たちが死ねば、他の動物の餌となったり、堆肥の中で腐敗溶解されることを当然のことと考えている。

地味な服を着て肉食を避ける「神の庭師たち」は、他のヘーミン地に生きる人々からはからかいの対象であり、時にはひどい扱いも受けるが、蜂蜜や手工芸などを売る行為を通じて、ある程度受け入れられていた。この物語は、その教団の歴史でもある。各章の初めには「教団歴何年」と記されている。その後に「トビー」とあればトビーの視点で語られ、「レン」とあればレンの視点で語られている。

冒頭に「教団歴二十五年」とあるが、この時点でアメリカは疫病でほぼ壊滅している。無菌状態にある場所に隠れ潜んでいた者だけが感染死を免れている。トビーもレンもその数少ない生存者の一人。物語は、二人の生い立ち、家族関係、そして独立後の悲惨な暮らし、教団との出会い、教団での生活、教団の危機、そして迎えることになった「水なし洪水」と呼ばれる疫病の蔓延、そこからのサバイバルが、過去と現在が往還し、トビーとレンの交錯する物語として展開される。

人間が作り出した災害は人類だけを滅ぼし、動植物や虫たちは、人間が消えた地上を我が物顔に動き回っている。こう書けば分かるように、『洪水の年』のモチーフは聖書にあるノアの方舟がモデルだ。傲慢な人間は遺伝子を操作し、神の真似をしようとして愚かにも自分たちを滅ぼしてしまう。主人公の二人は「神の庭師たち」の手によって性奴隷の状態から救い出され「水なし洪水」を乗り切る。

一部の人間をのぞいて全滅しなくてはならないほど、人間はどんな悪行を積んだのか。自分たちだけが偉いと勘違いして、他の動物を単なる食料と考え、好き放題に食べ尽くすと同時に環境を破壊し、自然な暮らしを捨て、薬物や美容整形に頼って、本来の健康な生き方を捨ててしまった。もし、神がいてこのような有様を見たなら、第二の大洪水をおこして、人類を絶滅させるにちがいない。ただ、人間にわずかの可能性を与えるため、一部の者は助かるようにするかもしれない。

全篇に響く「神の庭師たち」の口伝による聖歌は、もっと荘厳で、イメージ豊かなものとして書かれているが、簡単にいえば、このような考え方が教団設立の基礎にあったのだろう。トビーもレンも信仰心などは持っていない。ただ、教団の中で暮らしたことで、何かを自分の中に育てることができ、自分を守るだけでなく、他人のために何かができるようになっていく。二人を包む環境は最悪で、イモラルなものとして描かれている。その対極にあるのが「神の庭師たち」の静謐な暮らしだ。

ただ、「神の庭師たち」はまるで60年代のヒッピーのコミューンのようなものとして描かれている。ノスタルジックではあるがそこに希望のないことは、あの時代を経験したものには明らかだ。ディストピア小説が人気を呼ぶのは、今の時代の世界の在り方が、それに地続きであるかのように感じられるからだろう。物語の中で描かれるヘーミン地は、まるでソドムとゴモラだが、富裕層であるコーポレーションの世界も目に見えないネットワークによって管理される超監視社会であり、ディストピアであることに変わりはない。

水道を外資に売り渡そうとしたり、自国民が働かない劣悪な労働環境で移民を働かそうとしたりする今のこの国を見ていると、本物のディストピアまで、あと一歩だと実感する。そうと分かっていてもそこで生きるしかない点で物語の主人公と自分が重なる。劣悪な環境の中に放り出されながらも、そこを抜けだし、凶悪な追っ手の追跡をかわし、自分を見失わず、孤独に耐え、仲間を信じ、新しい世界に希望を抱く、そんな主人公の生き方は、この暗い時代を生きる者にひとつの希望を与えてくれる。

 

『両方になる』アリ・スミス

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読み終わって気になることがあり、書棚の展覧会の図録や画集の並んでいるスペースの前に立った。ルネサンスに関する本を片端から手にとってみるのだが、記憶に残っている一枚になかなかたどり着けない。最後に手にとったのが中山公男監修の『初期ルネサンスの魅力』だった。そしてやっと見つけた。フランチェスコ・デル・コッサ画「男性の肖像」。黒い帽子をかぶった男がじっとこちらを見ている。

その意志的な眼もだが、特徴的なのは窓枠と思われる縁をこえてこちらの方に突き出された指輪をつまんだ左手だ。二次元の絵画からそこだけ三次元になったように突き出して見える。なるほど、これがバルトか。そういわれてみると、そのような気がしてくるから不思議だ。もちろんフィクションなのだから、そんなことはあり得ないのだが、本作の主人公の一人がフランチェスコ・デル・コッサその人なのだ。

この本には「第一部」が二つある。まちがいではない。聞くところによれば、流布されている本の中には、二つの「第一部」の順番が入れ替わっているものがあるとか。手許の本の場合、フランチェスコ・デル・コッサを主人公とするクワトロチェントの画家の物語は後半に置かれている。どちらが先でも構わないということらしい。なかなか面白い趣向ではないか。

それでは前半に置かれた「第一部」はというと、舞台は現代のイギリス、オックスフォード。主人公は十六歳の少女ジョージ。女なのにジョージはおかしいだろう、と思うのは当然だ。実は、60年代にヒットしたザ・シーカーズの『ジョージー・ガール』にちなんで、母がつけた名前なのだ。懐かしい!元々は同名のイギリス映画のタイトル曲で、実は主人公のジョージィは、男っぽくてあまりさえない女の子に描かれている。自分の大事な娘にそんな名前をつける母親ってちょっと変わってる。

男の名を持つ女の子、というのが『両方になる(How to Be Both)』という本のテーマに関わってくる。もう一つ、実在するフランチェスコ・デル・コッサという画家が、この本の中では女性とされている。当時女性の画家はいなかった。その腕を惜しんだ父親の機転で、男性として絵を描く仕事に就いたのだ。先に触れたバルトは子どものころからの親友で、女であることがばれて一時疎遠になるも、後にまた友人となる。肖像画は結婚して父の跡を継いだバルトを描いたものということになっている。

二つの物語は、フランチェスコ・デル・コッサの描いた絵を間にはさんで、表と裏、前と後ろの関係になっている。邦訳はジョージの物語から始まるので、かいつまんで紹介する。ジョージは母親の喪に服している。美術史を学び多方面で活躍していた母が突然病死し、父は酒浸りとなり、ジョージは笑わなくなった。生前、母がジョージと弟をつれ、訪れたのがフェラーラの宮殿に残されたフランチェスコ・デル・コッサの描いたフレスコ画だった。

当時の母は、友人リサとの間がこじれてすさんでいたが、その絵の前では生き生きして見えた。母は政治的な活動にも参加しており、一度現役政治家を揶揄したことで当局に目をつけられていた。郵便物も開封されていたらしい。リサは互いに惹かれあう関係となった同性の友人だったが、その正体が知れないところがあり、関係を断っていたのだ。ありていに言えば当局のスパイではないかと疑ったわけだ。その後母は急死している。

いじめにあったのがきっかけでジョージに心の許せるやはり、同性の友だちができる。二人は協力してフランチェスコ・デル・コッサについて調べたことを発表しようと決める。つまり、もう一つの「第一部」は、二人が創作したクワトロチェントの画家の生涯についての物語、というふうにも読めるわけだ。もちろん、そう読まねばならない理由はない。というのも、フランチェスコ・デル・コッサの方も、ジョージを見ているからだ。当然生きてはいない。突然現代のイギリスに空から舞い降りた形になっている。実体はない。姿は見えないし声も聞こえない。まあ、幽霊のようなものと考えてもらえばいい。

フランチェスコが降り立ったのが美術館。目の前には自分の描いた絵を見る少年がいた。15世紀の画家の目にはジョージは少年に見えたのだ。ジョージは美術館でフランチェスコ・デル・コッサ描くヴィンチェンツォ・フェレーリを見ている問題の母の友人リサを見つけ、後をつける。引きずられるようにフランチェスコもその後を追う。後半の物語は、画家が語る自分の生涯と現代でジョージが行うリサの監視を話者として物語る構成になっている。

タイトルの意味は、男と女、友人と恋人、母と娘、その他数多ある組み合わせの「両方になる」ことを意味しているようだ。前半に埋め込まれたいくつもの伏線が、後半の物語の中で回収されていくわけだが、その逆もある。DNAの二重らせん構造のように二つで一つの物語になっている。後半の物語にはフランチェスコ・デル・コッサと同時代の画家、コズメ・トゥーラや、弟子のエルコレなど、クワトロチェントの画家が、多数登場するのも美術好きにはたまらない。画集などを引っ張り出してきて、いちいちあたってみるのも愉しい。

『エリザベス・コステロ』J・M・クッツェー

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人は、基本的に自分の考えを率直に発言することができる。しかし、当然のことに批判や非難がつきまとう。ところが、作家は小説の中で自分の作り出した人物に好きなことをしゃべらせることができる。しかも、自分の代わりにしゃべらせるばかりでなく、自分の考えとはおよそ異なる意見や考えをしゃべらせることもできる。そういう人物をひとり設定しておくというのは、かなりいい思いつきなのではなかろうか。

クッツェーの場合、エリザベス・コステロがその役目をつとめている。オーストラリア出身の作家で、今はかなり高齢ながら、まだまだいろんな場所に出かけて行っては話をする機会があり、インタビュアーや対談相手とのやり取りを通して、自分の考えを明らかにしている。ただし、エリザベス・コステロは、クッツェーという腹話術師の使う人形ではない。なかなか食えない人物で、ある意味クッツェーアルター・エゴである。

性格的には狷介なところがあって、人の発する言葉に反応しては、それとは異なる意見を表明しだす。問題点を明らかにしながら、自分の考えをつらつら述べるわけだが、これがけっこう難物だ。筋を通し、物事を突きつめて考えようとするので、いきおい話は根源的になる。ふつう人はそこまで考え抜いて話をしたりしない。誰もが、相手の批判を喜んで待ち構えているわけではない。ひっかかることはできるだけスルーして、当たらず障らずにすませたい、と内心思っている。

何よりも自由人なのだ。実際に社会の中で生きていれば、そう自分の考えを押し通したり、他人の批判を気にせずやり過ごしたりできるものではない。しかし、エリザベス・コステロは若い頃からそうやって生きてきた。年をとり、体も今までのように自分の言うことを聞いてはくれないけれど、生き方を変えることだけはできない。それでも、不必要なもめ事はできるだけ避けるようにはなってきた。今回も講演の中で取り上げる人物が会場の中にいることを知って、講演内容を書き替えようとするなど、けっこう気を使っている。

エリザベス・コステロ文学賞の授賞式に招かれ長男のジョンとともにアメリカを訪問した時の話が「リアリズム」。自分の仕事を放り出して母親を支えるジョンの目を通して、少し疲れの目立つ作家の公的な生活とその間にはさまれる私事とが息子との真摯なやりとりがリアリズムの手法を通してじっくりと語られる。そして、それがそのまま文学上のリアリズムについて考える極上の「レッスン」となっている。この目の付け所が秀逸だ。

実は、連作短篇小説の体裁をとる、この本の各篇は、クッツェーが大学で行うレッスンのために書かれたものなのだ。因みに各篇の表題を挙げると「リアリズム」「アフリカの小説」「アフリカの人文学」「悪の問題」「エロス」「門前にて」「追伸」と、最後の二篇をのぞけば、ほとんど講座名のようになっている。御心配には及ばない。どれもちゃんとした小説として書かれていて、講義臭などどこにも漂いはしない。

その場に臨んだエリザベス・コステロの当惑やためらい、体の好不調の波、話し相手に対する思いといった実にこまごまとした印象が、まさにリアリズム小説の手法で綿密に描かれているので、その辺に転がっている娯楽的な読み物を読むより、格段に面白く読める。それでいて、話が核心に及ぶと、エリザベス・コステロの考えていることはそんなに簡単に分かるとはいえない。

「リアリズム」の中で、ジョンが母親に、なぜカフカの猿の話(「ある学会報告」)などを持ち出したのか、と聞くところがある。誰もそんなリアリズムの話など聞きたくないのに、と。それに対しては母は答える。「本のページにその痕跡が残っていてもいなくても。カフカという作家は、省かれた場面の間もずっと目覚めているのよ、読者が眠っているのをよそに」と。コステロの代表作はモリー・ブルームが主人公の『エクルズ通りの家』だ。

ジョイスの『ユリシーズ』を読めば分かるが、通りを行くレオポルド・ブルームのその時その時の意識の流れが、実に克明に綴られている。はじめて読んだときは驚いた。普通のリアリズム小説は、そこまでやることはない。省略に次ぐ省略で、話は進められている。「省かれた場面」というのは、それを言うのだろう。読者は場面が省かれていることに気づくこともなく、読んでいるつもりでいる。つまりそのとき「読者は眠っている」のだ。

そう書くと、何やら難しそうに思えるのはこちらの書きようがまずいので、クッツェーのせいではない。『モラルの話』を、読んで『エリザベス・コステロ』に手を伸ばしたのだが、エリザベス・コステロと、ジョンの関係は『モラルの話』に至って、ますます深まっているようだ。レッスンの側面は『モラルの話』にもちゃんと受け継がれているが、よりリアリズム小説的な方向に進んでいるように思える。

長男のジョンが、よき仲介者となって、エリザベス・コステロの考えている世界へ読者をいざなうことができるので、ジョンの登場する作品は読んでいて楽しい。『エリザベス・コステロ』の中でも「リアリズム」がお勧めだ。エリザベス・コステロの用いる方法は、ソクラテスの産婆術に似ている。ジョンは矢継ぎ早に母に議論をふっかけるが、エリザベス・コステロは、何食わぬ顔で次々とジョンの既成概念や思い込みを明るみに引き出し、その考えがジョン自らのものでないことを教えている。

そうして読者は、上出来の小説を読みながら、自分もまたレッスンに立ち会っていることに気づかされるのだ。エリザベス・コステロの繰り出す突拍子もない過去の打ち明け話に翻弄されながら、文学や人文学、悪の問題、エロスについて、いつか自分の頭で考えを組み立て、コステロ相手に議論を仕掛けている自分を発見する。これはナボコフの『文学講義』を、小説化したような、実に手の込んだ読者教育の試みである。

『インヴィジブル』ポール・オースター

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詩人を目指す大学二年生の「私」はパーティの席上でフランス人男女と知り合う。次に会ったとき、そのボルンというコロンビア大学客員教授は「私」に雑誌編集の話を持ちかける。新雑誌の内容から運営まですべてを任し、資金は援助するという嘘みたいな話である。連れのマルゴが「私」のことを気に入ったのが支援を申し出た理由だ。最近、財産を手にしたので、女を喜ばせてやりたいという。

信じられない話だが、ボルンは大金の小切手を用意していた。事件は前祝いの夜に起きる。夜道で黒人の少年が二人を銃で脅したのだ。おびえる「私」をしり目に、ボルンはしのばせていたナイフで少年を刺す。銃には弾が入っておらず、救急車を呼ぼうという「私」をボルンは裁判沙汰になっては面倒だと制す。翌朝、背中を何度も刺された少年の死体が発見される。「私」は悩んだ末、何日たってから警察に連絡するが、その頃ボルンはすでにフランスに帰国していた。「私」はボルンと自分が許せなかった。

以上が第一部の概要。文中「私」と記されているのは、アダム・ウォーカー。第二部の話者である、今は作家となった「僕」と同じニュージャージー出身で大学の同級生。第一章は、ウォーカーが作家となった「僕」に送りつけてきた小説の原稿だった。白血病を患うウォーカーの余命は幾ばくもなかった。同封の手紙には、どうしても書きたかったことを死ぬ前に小説に書いているが、内容は事実に基づいているとあった。

小説の書名は『一九六七年』。第三次中東戦争勃発の年で、アメリカの諸都市で人種暴動の嵐が吹き荒れた熱い夏だ。第二部「夏」は過去を振り返る回想形式で「君は」と二人称で書かれている。事件のあった後「君」はフランス留学を認められる。留学を目前にした一九六七年の夏休みを、「君」は最愛の姉と過ごしている。この二人の過ごす夏休みが尋常でない。二人は姉弟として愛し合うだけでなく、男と女としても激しく愛を貪りあう。

第二部を読んだ「僕」はウォーカーに会うためオークランドを訪れるが、ウォーカーはすでに死んでいた。体力がなくなりかけていたせいか、「僕」宛に残された第三部「秋」は完成した原稿ではなく「店へ行く、眠りにつく」といった電報のようなメモ書きで概略が書かれ、完成は「僕」に委ねられていた。「僕」は「三人称、現在時制」で文章を完成させることにする。

第三部はフランスに渡ったウォーカーとボルンのその後を描く。ボルンは帰国後マルゴと別れ、別の子連れの女性と婚約中。パリ留学中、街角で偶然再会したウォーカーとボルンは、旧交を温めることになる。ウォーカーは、ボルンを許したふりをしながらイレーヌとセシルという親子に近づき、信用を得た後でボルンの秘密を明かし、婚約を破談に持ち込むことで復讐を果たそうと動きはじめる。

第四部の舞台となるのは現在。二〇〇七年に小説を書き終えた「僕」はフランスを訪れ、現在は文学研究者となった五十七歳のセシルを訪ねる。「僕」はセシルから、その後のボルンと母親との顛末を聞かされる。最後に付されるのが、セシルの眼から見た晩年のボルンの姿を描いたセシルの手記である。ボルンが何故イレーヌと結婚しようとしたのか、その謎が暴かれる。読者が謎に満ちたボルンという人物を知るための手掛かりになっている。

四部構成で、第一部は一人称、過去時制。第二部は二人称、現在時制。第三部は三人称、現在時制。そして第四部を締めくくるのは、謎の解決を仄めかす他人の手記、といういかにもポスト・モダン風の手の込んだ構成の小説になっている。内容は完全なフィクションながら、素材となっているのは、同時代にコロンビア大学に学び、詩人を目指し、パリに留学し、帰国した後、小説家となったポール・オースターその人の過去である。

「インヴィジブル」とは、「不可視」という意味。アイデンティティや、生きる意味を探ることを主たるテーマとするポール・オースターにとって、見るという行為はいつも問題となる。だが、作家の書くことの真偽は読者にとっては「不可視」である。オースターはそれを逆手にとり、書いた作家にも「不可視」の小説を書いた。小説の核となる、ボルンの殺人、姉との近親相姦、ボルンの来歴等々について、小説の完成者であり、作者なのに「僕」は真実を目にすることは許されていない。

「僕」との話の中で、グウィンは弟との関係を彼の妄想と言い切っている。ボルンの話を信じるなら、少年は公園に運んだ時には死んでおり、多くの刺し傷は別の誰かによるものだ。しかし、「僕」には二人の言葉の真偽のほどを計る術がない。小説は完成を見たものの、ひとりの青年が体験した戦慄と陶酔、そしてその贖罪のための後半生は「不可視」の闇に包まれたままだ。

凝った構成で、読ませるための読者サービスに溢れた小説になっている。ポール・オースターは自己言及的な作家で、自伝的エッセイも書けば、半自伝的な作品も書いている。これだけ、何度もくり返し自分の人生を扱っていながら、まだそれを素材に新しい小説を書こうという意欲を残しているというのがすごい。そうは思いながら、自分という存在に対する臆面もない熱の入れように、ちょっと気おくれを感じてしまう自分がどこかにいる。自分という存在は、自分にとってそんなに大したものなのだろうか、と。

 

『ジャック・オブ・スペード』ジョイス・キャロル・オーツ

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人は自分の見たいものだけを見て、見たくないものは見ないで生きているのかもしれない。ごくごく平凡な人生を生きている自分のことを、たいていの人間は悪人だとは思っていないだろう。でも、それは本当の自分の姿なのだろうか。もしかしたら、知らないうちにずっと昔から自分の心や記憶に蓋をして、自分の見たくない自分を、自分から遠ざけ続けてきたのではないだろうか。ふと、そんなことを考えさせられた。

どちらかと言えば苦手な世界を得意とする作家なのに、『邪眼』、『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』で、ハマってしまったジョイス・キャロル・オーツの長篇小説。まあ「とうもろこしの乙女」も、かなり長めの中篇だったから、長篇小説の技量についても疑ってはいない。冒頭、いきなり斧が振り回されるので驚かされるが、次の章からは実に微温的な書きぶりに落ち着いてくるので、ほっとする。だが、これも仕掛けのうちだった。

ニュージャージー郊外の屋敷に妻と二人で暮らす、アンドリュー・J・ラッシュは五十三歳。「紳士のためのスティーヴン・キング」と称される「少しだけ残酷なミステリー・サスペンス小説のベストセラー作家」だ。作品は適度に、不快でも不穏でもない程度の残酷さを持つが、卑猥な描写も、女性差別的なところもない。善意の寄付にも熱心な地元の有名人でもある。そう書けば、ほのぼのとしたストーリーが想像されるが、この作家を知る者なら誰もそんなことは信じない。

アンドリューには秘密がある。大したことではない。「ジャック・オブ・スペード」という別名で、ノワール小説を書いているのだ。ある程度キャリアが安定してきた作家にはよくあることで、「別人格」を作りあげ、全く異なる世界に挑戦したくなるものだ。別人格の作家、ジャック・オブ・スペードは「いつもの私とは違って残酷で野蛮で、はっきりいって身の毛のよだつ作家」である。そのアイデアが浮かぶのは真夜中、奥歯が勝手に歯ぎしりして目を覚ますと、小説のアイデアが浮かんでいるという。

もうお分かりだろう。ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』に代表される解離性同一性障害をテーマにした作品であることの仄めかしである。ただし、薬品によって別人格に変わるジキル氏とちがい、アンドリューは作家として別人格を作り、その名前で小説を書いているだけのことで、故郷の田舎町に住む有名人としては、血まみれの大量殺人が売り物の「身の毛のよだつ作家」が自分だと知られることは避けたくて家族にも秘密にしている。

その完全な隠蔽がふとしたことで危うくなる。出版社が送ってくるたび、地下室の書棚にしまうはずのジャック・オブ・スペードの新作が、机の上に放置されていて、たまたま帰郷していた娘の目に留まる。それは娘の過去の出来事が素材になっていた。誰も知るはずのない私事をなぜこの作家は知っているのか、娘は父に迫るが、偶然の一致というやつだろうとその場は切り抜けた。

さらに厄介な事件が起きる。ある日裁判所から出廷命令書が届く。地元のC・W・ヘイダーという女性がアンドリューを窃盗の罪で訴えたのだ。身に覚えのないアンドリューはパニックに陥る。第一、何を盗んだというのか。裁判所に電話をしてもらちが明かないので、直接本人に電話すると、その女はアンドリューが自分の書いたものを盗作している、と怒鳴り出した。弁護士に言わせると、その女は過去にスティーヴン・キングその他有名な作家にも同じ訴訟を起こしているという。

アンドリューは弁護士に出廷するには及ばないと言われていたにもかかわらず、のこのこと変装までして裁判所に出かけてゆく。それからというもの、ボサボサ髪をした老女の顔や声が、頭にとりついてしまい、執筆に集中できなくなってしまう。証拠として裁判官が朗読した自分の文章が紋切型でつまらないもののように聞こえてしまったのが原因だ。自分をこんな目にあわせた相手を憎むアンドリューの頭の中で、ジャック・オブ・スペードの声が聞こえだす回数が増えてくる。

自分に危機が起きると第二の人格が目を覚まし、過剰に防衛機制をとる。ここでアンドリューに起きているのがそれだ。温厚篤実で良き家庭人、良き夫を任じていたアンドリューに変化が現れてくる。酒量が増え、妻が言ったことを聞きもらす回数が増える。しかし、それが自分のせいだと思えず、妻を疑い、うとましく思うようになる。次第に妻は家を空けることが増え、夫は不倫を疑いはじめ…と事態は思わぬ方向へ。

別人格を抑圧する決め手となる「兄弟殺し」の記憶は『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』所収の「化石の兄弟」、「タマゴテングダケ」にも登場する主題で、そこでは双子の兄弟という関係になっている。双生児とは、ある意味もう一人の自分である。もう一人の自分を抑圧することで自分を自分として確立しようとする、その確執と葛藤が主要なテーマとしてジョイス・キャロル・オーツの作品に繰り返し現れていることが見て取れる。

幾つもの変名を使って、別種の本を書くミステリー・サスペンス作家という自分のキャラクター、さらには自分に起きた過去の盗作疑惑までネタにしつつ、小説のアイデアというもののオリジナル性の不確かさや、自分が思いついた物語にはどこかに起源があるのではないか、という作家ならではの拭い去れない恐怖が、生々しいほどに表現されている。せんじ詰めれば、オリジナルなものなどない。すべてはすでに誰かによって書かれている。それを如何に自分のものとして再創造するのか、という主題を扱う手際がこの作家らしい。