青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『リトル、ビッグ』ジョン・クロウリー

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読み終えた後、それについて何か語りたくなるのではなく、いつまででも読んでいたくなる、そんな本である。物語の中から出たくなくなる。読み終えてしまえば、そこから立ち去らねばならない。いつまでも、この謎めいた屋敷や森や野原のなかで迷い子になっていたい。それで、読み終えるとまた初めに戻り、もう一度、もう一度と読み返すのだ。読み返すたびに新しい物語が立ち現われてきて、いっこうに終わる気配がない。無数の物語を一つの大きな物語に封じ込めた小さく(リトル)て、大き(ビッグ)な魔法のような物語である。

 舞台はニュー・ヨークと思しき大都会(グレイト・シティ)から北に位置するエッジウッド(森の端)と呼ばれる土地。そこには、二十世紀の初めに建築家ジョン・ドリンクウォーターが手がけた「四つの階と、七本の煙突と、三百六十五段の階段と、五十二枚のドアを持つ家」が建っていた。森や丘が広がり、湖にそそぐ小川が流れる広大な敷地のなか、上から見ると五芒星形をした屋敷は、ぐるりを巡ると、その立つ位置により異なる建築様式が現われるという、変わった構造を持つ。

 そこには代々ドリンク・ウォーター家が住みなし、エッジウッドを五芒星形の中心とする頂点に当たる五つの町には、彼らの係累や使用人の一族が住み、一帯はシティとは隔絶した世界を営んでいた。19―年六月、聖ヨハネの祝日を前にしたある日、シティからスモーキィ・バーナブルという青年が結婚のため、エッジウッド邸を訪れる場面から物語は一応始まる。しかし、本当の物語は、そのずっと昔からはじまっていた。スモーキィの妻となるアリスも、その妹ソフィーも、ノラ大伯母さんもそのことを知っていた。知らないのは、スモーキィただ一人だったのである。

 大きな物語を語り続けてゆくためには時間がかかる。しかも、主題は「妖精」の世界と人間世界とのもつれあった関係である。妖精の方はいいが、時間に縛られる人間の方には何世代にも引き継がれる「物語」を担う役目がある。妖精と感応できる特別な能力を持つ人間が、その力を次世代に繋ぐためには配偶者と多くの子どもが要るのだ。しかし、自分はただの人間でありながら、妖精と関わる力を持つ相手と結婚し、その力を受け継ぐ子どもと暮らし続けることを引き受ける人間がそうどこにでも居る訳がない。言うまでもないことだが、初代ジョン・ドリンクウォーターがその一人であり、スモーキィ・バーナブルもまたその一人であった。

 大きな物語を生むためには、小さな要素が必要で、およそ個性というものを持たないスモーキィのような青年も、決められた位置に嵌められると絵柄が完成するパズルの無地の一ピースのようなものであるが、その一枚はどんな形でも良い訳ではなく、スモーキィその人でなくてはならなかった。スモーキィがエッジウッドを訪れ、そこに留まる間、物語を動かす歯車は回り続け、大きな大きな巡りが用意される。何代もにわたるドリンクウォーター家の直系、傍系につながる人々が、次々と現われてはそれぞれの物語を語る。一つの物語は別の物語を呼び寄せ、また別の物語の種をまく。こうして、古より伝わる、衰えつつあった一族が数々の試練を乗り切って帰還した新しい王を迎え再生する物語が語られる。これは「贈与と交換」、「死と再生」といった文化人類学でお馴染みの主題をもとにした「時間」をめぐる物語である。

 人間界と妖精界で、人が往来するのはそこに「贈与の互酬」があるからだ。ドリンクウォーター家からは、忽然とオーガストライラックといった子どもたちが消えるが、その代わりのように、跡継ぎとなる子が生まれたり、大事な伝言を携えて再び戻ったりする。このやりとりを通じて互いの世界の生命力は維持されているのだ。部外者であるスモーキィには、そんなことは皆目分からない。分からないなりに、時には義妹相手の浮気といった幕間劇も演じながら、カード占いが予言する物語の進行役をつとめていく。この愚者としてのスモーキィの「小さな」存在が物語の中で「大きな」意味を持つ。

 王や姫や騎士ばかりが登場する物語は永遠に春の季節が続く妖精の世界と同じで、謂わば「彼岸」で演じられている。それに対して、スモーキィは現実の人間界である「此岸」に生きている。そこには、発電機が故障して暖を取ることができない寒い冬もある。だからこそ、布団を重ねて妻と抱き合う夜の喜びもある。片足を妖精界に突っ込んで生きている家族の中で、ひとり局外者の位置にあるスモーキィの割に合わない努力があって物語はその生命を失わないでいられる。

 所謂ファンタジーを読むのとは一味ちがう味わいを持つのは、偏に、物語の基軸となるのがこの人物であることによる。後半、息子のオーベロンが軸となって物語を進めていく段になると、この小説は一気にファンタジー色を強めていく。シェイクスピア作『夏の夜の夢』を下敷きとするそれはそれで読み応えのある出来映えとなってはいるのだが、ヴァージニア・ウルフとその姉ヴァネッサを髣髴とさせるドリンクウォーター姉妹とその家族が醸し出す文学的ともいえる前半の読み心地には及びもつかない。

 英国由来の五十二枚組みのカードやアリスが湯浴みするゴシック風の浴室、永久運動による「太陽系儀」といったラファエロ前派の絵にでも出てきそうな英国風の意匠を、大西洋を越えた新大陸の自然のなかに移植し、別天地を創造して見せた作家の物語作者としての圧倒的な技量に感服した。たしかに存在することは分かっているのに、はっきりとは姿を捉えることのできない妖精というあえかな存在を扱う手際も水際立っており、あのル・グウィンをして「この一冊でファンタジーの再定義が必要になった」と言わしめたのもむべなるかな。刊行翌年の世界幻想文学大賞受賞も当然と思わせる、歴史に残る著者の代表作である。