青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『東方綺譚』 マルグリット・ユルスナール

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『東方綺譚』は、ユルスナール若書きの書。アムステルダムに住まう老画家を描いた一篇を除く八篇が作者の生地であるベルギーからみて東方(オリエント)に位置する地方を舞台にするのがその名の由来。ブリュッセルの名家に生まれ、教養ある父と家庭教師により高度の古典学を教授された著者は、父の死後各地を遊学し見聞を広める。厖大な古典学の教養と実地に感受した諸国の風土、文物の印象を綯い交ぜにし、絢爛たる修辞を惜し気もなく濫費しつつ、彫琢された硬質の文体で思惟を固め、衆生の耳目を驚かせるに足る九つの稀譚を、表情の一つも変えることなくさらりと語り終える。初版時には十篇構成であったが、38年後改訂版上梓にあたり、その内一篇を手直しの用無しとして削除するほか、文体上の修正を経て今に至る。

巻頭を飾る「老絵師の行方」が特筆すべき完成度を誇る。訳者いうところの「神韻縹渺たる趣き」が全篇を蓋いつくし、時に読者をして批判や解釈を捻り出そうとさせる夾雑物が入り込む隙を与えない。とはいえ、それでは評足り得ない。気のついたことを幾らか記しておく。旅の絵師汪佛の興味の対象は物ではなく、その影像にあった。偶々知遇を得た玲は、汪佛によって、事物に色彩あることを知り、師と仰ぐ。自分より画中の影像に心奪われる夫を憾んで妻は縊死を選ぶ。玲は家財を売り払い汪佛と旅に出る。

ある時、師弟は捕縛され皇帝の前に連れ出される。無実を訴える絵師に皇帝が語る。外界と隔絶され、汪佛の画を蒐めた部屋で育った皇帝は、世界を汪佛の描いた画のように美しいと思って育つ。長じて実世界の醜悪であることを知り、あまりの違いに絶望した。老師の罪は天子を欺いたことによる、と。最期に未完の絵を完成させるよう命じられた汪佛が素描の水に色を差すと櫂の音が聞こえ、先刻殺されたはずの玲が舟から招く。汪佛が乗るや否や舟は次第に遠ざかり、やがて画中の崖の陰に消える。汪佛が船に乗って消え去るところは、「解題」にあるハーンの『果心居士』によく似ている。

訳者は絵師の品格と作品の美的効果をもってユルスナールが勝るとする。それに異論はないが、両者の差は名品を所有する(描ける)者に対する権力者の思いの差にあるのではないか。信長や光秀のそれは単なる物見高さに過ぎない。しかるに皇帝のそれは、現実を超える美や真への希求である。魂のこもった画には、現実世界の空虚さには比ぶべくもない存在感がある。しかし、一度それを知ってしまえば、皇帝と言えども、世界の支配者という点では一介の絵師に及ばないことを認めねばならない。皇帝としてそれは許せない。手を断ち、眼を焼く罰は、汪佛からその世界を奪うことに他ならない。支配者は一人でいいという論理。これでこそ皇帝というものである。

ユルスナールの物語る綺譚は、ただ物珍しい話というのではない。そこには哲学というと言い過ぎかもしれないが、何か人をして深く思いに至らせるものが含まれている。しかも、寓話のように独断的な解釈によって諭すのではなく、読者が自ずから思いをめぐらせそれまで気づかなかったものの見方に触れる契機となる、そんな物語となっている。すぐれた文学だけが持つ美質である。

人柱とされても、幼子のために乳を飲ませたいと願う母性の奇蹟を描いた「死者の乳」、造物主の造り損ねた天使がニンフや牧羊神となった、というキリスト教ありきの解釈がいささか気にはなるが、急進派の宗教者がキリスト教以前の神の撲滅を図るのを憐れんで降臨するマリアの起こす奇蹟を語る「燕の聖母」と、地方に伝わる譚詩を素材とするものや、礼拝堂の名から発想を得て書かれた架空の由来記と、その発想は自在。原作がはっきりしているパスティーシュとしては『源氏物語』から想を得た「源氏の君の最後の恋」がある。さすがの光の君も歳をとり、奥山に庵を構え寂滅の時を待つ。目も見えなくなり人の訪れを厭う光のもとを訪れるのは花散る里、別人を装い最後の情人となることを願うのだが…。女人の持つ業の深さに、ひときわあわれを催す一篇である。

悼尾を飾る「コルネリウス・ベルクの悲しみ」は、レンブラントの画家仲間の一人、コルネリウス・ベルクが老境に至ってたどり着いた境地を描く。巻頭の「老絵師の行方」(原題は「ワン・フォーはいかにして救われたか」)が、画業に専念した画家の永遠の救済をモチーフにしたものとするなら、それに呼応して、救われることのない厭世観を胸に抱く、やはり老画家の末路を描いたもの。対比が鮮やかで、その構成の妙にただただ賛嘆するのみ。見事というほかない。