『やちまた』上 足立巻一
「丘の文庫」は、昔のままにたっていた。案内を請うと車椅子に乗った館員は、「おそらくその文庫はこの建物でしょう。当時のままで残っているのは、この建物とそこに見える赤い壁の書庫だけです」と説明した後で、閲覧室に誘った。真新しい机と椅子は最近のもので、空調設備もなかった昔は、夏は暑く冬は寒いところだった、と静かに笑った。
著者は二二六事件のあった年、二浪した挙句ようやく神宮皇學館に入学する。文法学概論の授業で、白江教授が語る盲目の語学者、本居春庭が著した「詞の八衢(やちまた)」についての講義を聴く。日本語文法なかでも動詞の活用について先駆的な研究成果をまとめたのが先に述べた「詞の八衢」と「詞の通路」の二書だが、多くの言語学者が影響を受けているのに、その研究がどこから生まれたのかがはっきりしない。それともうひとつ、春庭の父はあの本居宣長で、長男の春庭は能書家で歌も巧く後継者として期待されていたが若くして失明、家督を父の弟子の大平に譲ることになる。教授が語る「ふしぎですねえ……語学者には春庭のような不幸な人や、世間から偏屈といわれる人が多いようですねえ……」という言葉も気になった。
こうして著者は春庭という盲目の語学者に魅入られてしまう。「丘の文庫」こと神宮文庫に入り浸り、関係する書物を読み漁り、懇意にしている古本屋に、春庭に関する本なら何でも買うから集めてくれと頼む。「やちまた」は、不思議な本である。評伝文学というレッテルを貼られているように、江戸時代の語学者本居春庭の評伝を幹として文字通り四方八方に枝を伸ばし、「詞の八衢」に関係する本居宣長、春庭親子の門人、弟子について、その著した書物や手紙を頼りに、詳しい評伝を綴っているのだが、その合間合間に、軍靴の響きが高くなる時代を背景にしながら、貧しくも楽しげな友人や教授の家族との交遊や、春庭の関係者を訪ねる旅行記といった著者を主人公とした「小説」としかいいようのない文章が挿入される。
白江教授の言葉通り、後学者というのは偏屈なのか、春庭の「詞の八衢」に影響を受けた語学者たちが春庭に書いた手紙をもとに、著者が描きあげる人物像は誰も彼も相当にエキセントリックで、読むほどにその凄さに圧倒されてしまう。活用表もなかった頃に、仮名遣いの正否を明らかにしようという人々なのだから、一字一句もおろそかにしない、というのは分かるが、そのトリビアリズムの執拗さはなまなかではない。そういう人々が、宣長存命のうちはまだしも、宣長亡き後、その正統な後継者たらんとする一派と異端とされる一派が、かたや江戸、かたや松阪、或は京、とそれぞれの地にあって角逐する在り様は、ただ事ではない。
なかでも若狭の僧義門という人物の春庭に対する傾倒ぶりと、誰彼かまわず誤りありと思えば噛みつかずにはいられない一徹さ、平田篤胤の博学さとそれにあまりある一癖も二癖もある人間性が群を抜いている。著者は、資料を漁り、全集や書簡はもちろんのこと、断簡零墨に至るまで目を配り、それらを繋ぎ合わせ、引き合わし、日時や顔ぶれを確かめながら、まるで当時その場に居合わせたように、人物相互の関係を描きあげていく。書面や短冊に残る筆遣いから、その性格を判断してみせたりもしているので、思い込みや想像も多々あるとは思うものの、学術書ではないのだから、それくらいは許されるだろう。それよりも、この熱中、この集中の凄さに読む者は引き込まれてしまうのだ。
個人的には、上巻の、著者が伊勢の世義寺門前に家を借りて、友人と二人自炊しながらの学生生活を語っているところが懐かしい。
「しかし、もうそのころ、遊里は鉄道の駅の近くに移り、旧街道はすっかりさびれかえっていた。城廓のような遊女屋ののれんの色はあせ、皮膚の荒れた女たちがわずかばかり床几に腰かけ、通りかかれば昼まから学生にまで声をかけた。射的屋では日に焼けた赤い毛布の上で人形がほこりをかぶっていたし、カフェからもれるレコードはすりきれていた。旅館もおおかた二階の雨戸をしめきったままだし、天気のよい午前中には雨戸があけられていることがあったが、そのときはきまってたすきがけの女が箒をシュッシュッと鳴らしてはゴミを道へむかって掃き捨てていた。」
その遊女屋の一軒が火事で焼け落ちる前の我が家だった。母が子どもの頃には皇學館の学生相手の玉突屋に商売換えをしていたが、妓楼時代の屋号「清玉楼」から「ビリヤード清玉」という看板を上げていたという。旧街道の表通りに面した店だから、おそらく著者もその前を通ったにちがいない。そんなことを想像しながら読んでいると、散歩の途中、著者の通った学校の方にも足を向けたくなった。新緑の倉田山には往時をしのばせる建築はあまり残っていない。著者のいた学寮も今ではすっかり当世風の建物に代わり、辺りには学生がたむろしていた。その姿がまぶしく見えるのは、日の光のせいばかりではあるまい。