青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『運命の日』上・下 デニス・ルヘイン

f:id:abraxasm:20170616210814j:plain

(上下巻併せての評)
1910年代末のアメリカは揺れていた。1917年に起きたロシア革命を受けて、東海岸では社会主義者共産主義者アナーキストたちが盛んに活動し、テロ活動も頻繁に起きていた。同じころ、第一次世界大戦の帰還兵が持ち込んだスペイン風邪(流感)が猛威を振るい、ボストンでも多数の死者が出た。また、ボストンの米国産業アルコール者の糖蜜タンクが爆発し、流れ出した糖蜜が人々の住まいを破壊し、通りを埋め尽くした。配合の誤りによる過剰発酵が原因だったが、テロ疑惑がもたれ、世情は不安を増していた。

ボストン市警に対し、市は不況を原因に昇給を停止、警官たちは低賃金と過酷な勤務実態に不満を募らせていた。警官たちはボストン・ソーシャル・クラブ(BSC)という組合を組織し、市側と交渉を進めていたが、中心人物で信頼を一身に集めていた本部長の急死により、不遇をかこっていた名門出の男が就任する。新本部長はそれまでの約束を反故にし、組合は全国的な組合組織AFLの支援を受けてストライキに入る。しかし、市警のストライキは全市に暴動が起きる引き金となった。

主人公はアイルランド人警官の家に生まれたダニー・コグリン。黒髪の大男でボクシングの名手。家族と離れ、風紀の悪いイタリア人街ノース・エンドに住むことに喜びを見出す変わり種だ。父のトマスは十二分署長の警部。父の親友で特捜部を率いる名づけ親のエディは警部補という警官一家一家には波止場で飢えて凍えていたところをトマスが救ったノラという娘が働いていた。ダニーはノラを愛していたが、ノラにはアイルランドに夫がいた。アイルランドカトリックで、離婚は認められない。ダニーはノラと別れたが、事情を知らない弟のコナーはノラとの結婚を望んでいた。

ルーサー・ローレンスは俊足で鳴らす黒人野球選手だったが、白人に媚びる監督を殴り馘首になった挙句、勤め先でも人員整理にあう。妊娠した恋人ライラのおばを頼ってオハイオのタルサに引っ越すが、そこで、ナンバーズ賭博の胴元を手伝うことに。ところが、親友ジェシーピンハネがボスの知るところとなり二人は窮地に陥る。ジェシーを殺されたルーサーはボスを射殺。報復を恐れてタルサを出たルーサーを雇ったのがトマスの家だった。

黒人に対しても態度を変えることのないダニーと白人に媚びないルーサーは、ウマが合った。そんな時コナーとの結婚を決めたばかりのノラを訪ねてアイルランドから客がやってくる。ノラの夫だった。妻を連れ戻しに来た男をダニーは叩きのめし、二度と顔を見せないよう脅す。男は去るが、父と弟はノラを赦さず、家から放り出す。ノラは満足に食事もできず痩せるばかり。ノラをこんな目に遭わせたコグリン家をルーサーは許さなかった。

トマスは長年の警察の仕事を通じて政治指導者や有力者とコネを作っていた。エディが手下を使って探り当てた、組合に所属する労働者たちのリストを彼らに売り渡し、多額の金を得ていたのだ。メーデーの日にボルシェヴィキたちが暴動を起こすという情報が入り、最年少での刑事抜擢を餌に、トマスはダニーに潜入捜査を命じる。だが、マルクス他の著作を読んで会議に顔を出すうちに、ダニーは組合活動の意義を発見し、熱心な組合員となる。

一方、エディは情報網を使ってルーサーの過去を探り当て、じわじわと攻め立てていた。ルーサーが厄介になっていたNAACP(全米黒人地位向上協会)の協力者ジドロ夫妻をテロの容疑者として引っ張るつもりだったのだ。NAACPの支部建設に手を貸すルーサーに、地下に武器を隠す仕事をさせるため、エディはルーサーの親友を手にかける。

WASP(ホワイト・アングロサクソンプロテスタント)が権力を握るアメリカではカトリックアイルランド人は差別される側だった。自分たちも移民だったアイルランドの男たちは、新天地でそれなりの身分や地位を得ると、黒人はおろかイタリア人やロシア人を差別しはじめる。正当な形で力を発揮できない男たちは裏で力を得ようとする。トマスの悪事はスマートな表面に隠されて人の目には立たなかったが、エディの暴力と恐怖による支配は、心ある警察官なら誰でも知っていた。

代表として組合員の信頼を集めるダニーは、コグリンの家とますます疎遠になってゆく。そんな時かつては知らずにベッドを共にしたこともあるテッサという女テロリストが自分の親友を撃つ。後一歩まで追い詰めたところで、ダニーは潜入捜査時に顔を知られたボルシェヴィキに裏切り者として半殺しにされる。ぼろぼろになったダニーが這うようにして向かったのはノラの家だった。途中でノラを訪ねたルーサーに助けられダニーは命を拾う。

ボストン市警ストライキという「運命の日」をクライマックスにして、群衆に州兵の騎兵が襲い掛かる暴動の全容を描き切る筆力もすごいが、ダニーとルーサーの友情、トマスとダニー親子の信頼と裏切り、ダニーとノラ、ルーサーとライラの恋愛、という情愛を描かせてもルヘインは巧い。しかも、息詰まる展開の息抜きのように、当時売り出し中のベーブ・ルースの行動を幕間劇として随所に挿入し、ベースボールを愛するアメリカ人の関心を惹きつけるところなど心憎い。

テッサとその夫フェデリコというイタリア人アナーキストや実在の組合活動家、後にFBI初代長官となる在りし日のジョン・フーヴァー、この暴動事件で名を挙げ、大統領にまで上り詰めた州知事カルヴィン・クーリッジなど多彩な人物が、明確な輪郭を持って描かれていて、フィクションであるのに、実際にあった事件のその場に立ち会っているかのようなリアルさが見事。二段組上下巻という長さだが一気に読める。

正義と仲間の信義を信じ、真摯に行動した男が権力の手で汚名を着せられて放逐され、事の理非曲直は問わず、うまく立ち回った者が最後まで生き延びて勝者となる。また、一度失敗者の烙印を押され権力者の位置を明け渡さざるを得なかった男が、再び権力を握る立場に上ると、かつての恨みがどれだけの非情をなしうるか、そのルサンチマンの発露の怖ろしさなど、まるで他国のこととも思えない。人間というのはある面、時代や場所を超えて、同じようなことをするものだな、とつくづく思わされた。