『密告者』ファン・ガブリエル・バスケス
三年前から音信のなかった父から突然電話がかかってきた。心臓の具合が悪く、手術をするという。急いで病院に駆けつけた息子に父は詫びた。事の起こりは、三年前に父のしたことだ。ガブリエルと同じ名前の父は最高裁で雄弁術を講義するコロンビアの名士である。ふだんは、デモステネスやキケロといったギリシアの古典にしか興味を示さないはずの父が、こともあろうに当時世評に上っていた一人息子が出したばかりの本を酷評したのだ。
主人公のガブリエルは三十代のジャーナリスト。父の友人で家族がらみのつきあいをしているザラという女性の話を本にした。『亡命に生きたある人生』は第二次世界大戦中にドイツから逃れ、コロンビアに移住したユダヤ人の人生を書いたものだ。ナチスのせいでドイツにいられなくなった一家はコロンビアで始めたホテル業が成功し、ホテル・ヌエバ・エウロペは、コロンビアの名士に限らず、ヨーロッパを離れた人々の社交場となっていた。
1930年代までは、コロンビアではナチスの信奉者も一般のドイツ人と変わることなく交際があった。ところが、1941年にアメリカがコロンビア政府に、枢軸国に協力関係にある人物の名簿を提出するようにと通告を下す。ブラック・リストと呼ばれるその名簿に載ることは、財産没収の上、収容所入りを意味する。ザラの父は免れたが、親しかった人の中にはひどい目にあった人もいた。
ガブリエルの本は、その当時の苦い記憶を呼び覚ますもので、思い出したくない人々にそれを思い出させる必要などない、というのが父の論点であった。売名のために、人の語りたくないことまで聞き出すことの是非を問うというのが建前だったが、息子はそれを鵜呑みにはできなかった。父は何かに怒っている。いったいあの本の何が父をあそこまで苛立たせたのか。
『密告者』という、この本は、息子が父の隠された秘密を暴き、その真実にたどり着く過程を書き記したドキュメント、という体裁を持つ小説である。現在と父の手術があった三年前、それに第二次世界大戦の時代、この三つの時代を行き来しながら話は進められる。話者のガブリエルは人の語りを聞き取って記事にするジャーナリスト。特徴的なのは、ザラの語る1940年代の話、手術後第二の人生を始めた父のお相手のアンへリーナという女性の話、父の親友エンリケの語る話、これらが長いモノローグになっていることだ。
人に思い出したくない過去があるように、国家にもできれば忘れてしまいたい過去がある。日本でいえば、朝鮮人慰安婦問題や、南京大虐殺、などがそれにあたる。歴史修正主義者は都合の悪い事実は無かったことにしてしまえば、後世の国民には知られないと考える。ところが、教育やマス・メディアを駆使して自国民は騙せても、相手の口には封ができない。その苛立ちがヘイト・スピーチやデモを生む。よく考えてみれば、かえって問題が顕在化するだけだというのに。
父親のやっているのがまさにそれだ。実は、父には隠しておきたい事実があった。当時父が漏らした言葉が原因となって親友のエンリケの一家が離散することになってしまったのだ。だから、ザラに当時の話をさせることにあれほどむきになったのだ。ところが、話はそれで終わらない。
手術が成功したことで、父は第二の人生を得た。生まれ変わるためには過去と向き合う必要があった。父はエンリケの住む町に向かい、そこから一人で車を運転して帰る途中、対向車線を走ってきたバスと衝突して死ぬ。何故、指に障碍のある父が危険な夜のドライブを思い立ったのか。そもそも、エンリケには会えたのかどうか。息子は、父親の真意を探り、その死が本当に事故なのか、それともバスの乗客をも巻き込んでの自殺だったのかを調べ始める。果たして、その結果は?
人には誰にも言えない過去が一つや二つはある。できればなかったことにしてしまいたい、そんな事実が。しかし、過去は変えることはできない。人間一人で生きているわけではない。過去は自分にだけあるわけではないからだ。自分の過去を変えようとしても相手が同意しない限り無理なのだ。相手が一人であると仮定しても難しい。ましてや相手が複数だったら、考えれば考えるほど過去の改変がいかに難しいかが分かるだろう。
それは個人の場合も国家の場合も変わりはない。謝ったら許してもらえるというのはこちらの思い込みでしかない。おそらく、胸のうちにどうしようもないわだかまりを呑みこんだままその後の人生を送るしかないのだろう。お前なんか消えてしまえばいいと思う相手の思いを知りつつ生きながらえることを望むならば。戦争で酷い目に遭って、生まれ変わったような気がしても、またぞろ同じ血が騒ぎだしているどこかの国のように、第二の人生などというのは、第一の人生でまちがいをしなかった人にだけ、用意されているものと思った方がよさそうだ。