青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ボドキン家の強運』P・G・ウッドハウス 森村たまき 訳

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気の利いた会話、自立した女性、という設定に風変わりな人物が加わって騒動を巻き起こす、映画でいうなら、スクリューボール・コメディウッドハウスが二度にわたり、脚本家としてハリウッドに招かれていた三十年代は、その全盛期。三組の男女の結婚をめぐる顛末を描いたこれは、些細な出来事を大仰なセリフ回しで聞かせる「話芸」を楽しむユーモア小説。主たる舞台は、大西洋航路をアメリカに向かう、R・M・S・アトランティック号の船上。「主な登場人物」は以下の通り。

モンティ・ボドキン………気のいい青年紳士。大金持ち。ガートルードと婚約中。
ガートルード・バターウィック………イングランド代表女子ホッケー選手。
レジ―・テニスン………モンティの友人。ガートルードのいとこ。
アンブローズ・テニスン………レジ―の兄。モンティの友人。小説家。
ロッティ・ブロッサム………映画スター。スペルバ=ルウェリン映画社所属。
アイヴァ―・ルウェリン………スペルバ=ルウェリン映画社社長。
メイベル・スペンス………ルウェリン氏の妻グレイスの妹。
アルバート・ピースマーチ………R・M・S・アトランティック号所属スチュアード。

冒頭、ルウェリンが、真珠の首飾りを密輸せよという妻の指令を、義妹の口から聞くところから話が始まる。そのとき突然話しかけてきたモンティを彼は関税局のスパイだと勘違いしてしまう。なんとか金で丸く収めたいルウェリンは、モンティに口止め料を払う代わりに、俳優として雇おうと持ちかける。何といってもハリウッド黄金期。この話を断る馬鹿はいないはず。モンティは金に不自由はない。ただ、ガートルードの父が無職の夫に娘は遣れないと婚約を認めない。職につけば結婚ができるのだ。

アンブローズは脚本家としてルウェリン社と契約し、ハリウッドに向かうため海軍省をやめてきた。ところが、ルウェリンが欲しかったのは、あの有名な詩人のテニスン(とっくの昔に死んでいる)だった。人違いと知ったルウェリンはアンブローズの契約を破棄する。アンブローズはロッティと婚約中だったが、プライドの高い小説家は女優に食わせてもらうことをよしとせず、婚約は破棄されること必至。

弱ったロッティは、ピースマーチの勘違いで手に入れた、モンティがガートルードにプレゼントしたミッキーマウスのぬいぐるみをかたにとり、ルウェリンとの契約条項にアンブローズとの契約も付け加えさせようとする。一方、伯父に命じられてカナダの会社に向かおうとしていたレジ―は、船中で出会ったメイベルに一目惚れ。結婚したくてもレジ―には金がない。ぬいぐるみを取り戻せたらアメリカでの滞在費を出すというモンティの話に乗り、ロッティの部屋に忍び込むが、そこにロッティと兄が現れる。

アンブローズがロッティに非を悟らせたことで、ぬいぐるみは無事モンティの手に戻るが、兄の立派な振る舞いに自分の至らなさを思い知らされたレジ―は、自分も妻の資産に頼ることをやめる。それでも、メイベルをあきらめきれないレジ―は一計を案じ、首飾りの密輸を引き受ける代わりに、ルウェリン社と契約を結ぼうとする。

その嫉妬深さでモンティを散々振り回すガートルードの焼きもちの激しさと言ったらない。まあ、昔の恋人の名前を刺青した胸もあらわな写真を婚約者に送りつけるモンティもモンティだが。彼女がまたもや嫉妬した相手が女優のロッティ。赤毛で奔放。子ワニをペットとしてバスケットに入れて旅行中も持ち歩くところから見ても、かなり変わっている。おまけにこうと思ったら汚い真似でも平気でやらかす。メイベルはハリウッド・セレブ御用達のオステオパシーの施術師で、姉譲りの美貌だけでなく怜悧で仕事のできる女性。

元気で行動的な女性に比べると。男たちは人柄の良さ以外に誇るところがない。モンティは金はあってもその使い方を知らない。レジ―はモンティのためにひと肌も二肌も脱ぐのだが、やることなすこと裏目に出る。海軍省に勤務しながら小説を書くオックスフォード出身の小説家とくれば、まるでル・カレだが、アンブローズは真面目一点張りで融通が利かない。美貌の妻の尻に敷かれ、義妹を厭いながらもその力を借りずにいられないハリウッドの大物ルウェリンもそうだが、総じて男の影が薄い。

真珠の首飾り、ミッキーマウスのぬいぐるみ、結婚、というお題による三題噺。金もあり、家柄も人柄もよい青年紳士が、無職というだけで結婚できない、という不条理さが笑える。モンティのような億万長者が働く必要がどこにあるだろうか。まあ札束で人の頬を引っぱたたいたりしないところは買えるが。テニスン兄弟にしたところで、女性は立派な職業婦人として自活しているのだから、結婚してから何なりと仕事を探せばいいだけのことだ。そのいかにも上流階級らしい浮世離れしたところに、俗世間とズレた面白さがある。

映画『めぐり逢い』をはじめとして、大西洋航路を舞台にとった名作は数多い。飛行機ではなく、ゆったりとした旅程を楽しむ、サウサンプトン発、シェルブール経由ニューヨーク行きの六日間の船旅。人との出会いや別れを描くには最良の舞台だが、それを逆手に取って、船室を交換したことによる、すれ違いや人違いを使って、家柄と人の良さだけが取り柄の男たちを徹底的にいたぶる、人を食ったユーモアはウッドハウスの真骨頂。ジーヴスが有名だが、今回初登場のピースマーチもそれに負けない働きぶり。新シリーズから目が離せない。