青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ウェルギリウスの死』ヘルマン・ブロッホ

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大学時代、同じゼミにいた友人が、岩波文庫版の『アエネーイス』について話すのを傍で聞いたことがある。ギリシアを代表する詩人、ホメーロスの代表作が『イーリアス』、『オデュッセイア』だとすると、ローマでそれにあたるのが、神々の血を引く英雄アエネーアスが、ローマ帝国の礎を築くまでの遍歴を描いた長編叙事詩アエネーイス』である。そんな話だった。本の選び方に偏りがあり、古典に疎い学生には得難い友であった。

書名を耳にしても、手にとってみるほどの興味は持てず、長い間ご無沙汰をしていた。実際に読んだのはずっと後で、映画『トロイ』に触発されてというのが本当のところだ。もちろん、ブロッホに『ウェルギリウスの死』という作品があることも知らなかった。それを読んでみようと思ったのは、ある日突然ネット上に書影が流れて来たからで、理由は分からないが、何故か気になった。

ジョイスの『ユリシーズ』が、ダブリンの街を行く、レオポルド・ブルームの一日を「意識の流れ」の手法で追ったものであるように、『ウェルギリウスの死』は、ローマ時代の詩人ウェルギリウスが、死の床に就こうとする一日を、詩人の内面に湧き起こる心的葛藤や幻想の叙述、友人との対話という形式を通して、今まさに死んでいこうとする芸術家の魂の揺れを克明に描いた芸術家小説といえよう。

アウグストゥスの船団とともにアテーナイから帰る途中、病に倒れたウェルギリウスを乗せた船は、カラブリア海岸にあるブルンディシウムの港に停泊する。詩人はアテーナイで『アエネーイス』を完成させた後は彼の地で哲学にいそしみ、余生を過ごすつもりでいたところを思いもかけずアウグストゥスに帰国を共にするよう要請され、やむなく帰国の途に就いた。もとより、『アエネーイス』は未完であり、本人としては不本意の旅である。

おまけに、炎暑がたたって詩人は病みつき、帰りの船でも床に就いたままとなってしまう。病を得た者の常として気は弱まり、畢生の大作の帰趨に対する展望が見えないこともあり、ウェルギリウスは死を覚悟し、未完の『アエネーイス』を他人の手に渡すよりは、いっそ夜明けを待って自分の手で焼いてしまおうと決意する。

ウェルギリウスの死』は、死期が迫ったウェルギリウスに次々と襲いかかる幻想、それに焼却の運命にある『アエネーイス』を守ろうとする友や皇帝アウグストゥスと詩人との対話で成り立っている。その主題の一つが、芸術作品はその作者の所有物なのか、それを受容する無数の人々のものであるのか、という問いである。もとより、二者択一ができるような問いではない。それだけに、双方の情理を尽くしての対話、論戦が白熱するのは当然である。

そもそも、何故ウェルギリウスは草稿を焼いてしまわねばならないのか、その理由が第三者である友人プロティウスやルキウス、それに、完成した暁には『アエネーイス』を捧げられるはずの皇帝アウグストゥスには分らない。完成はしていないまでも、完成途上の詩は本人の朗読により何度も耳にしている。ローマの宝ともいえる傑作であることは多くの者が知っている。病気を治して、完成させればいいだけのことではないかというのが、三人の一致する見解だ。

それに対するウェルギリウスの考えは、冒頭から明らかにされている。まず、ウェルギリウスは根っからの宮廷人ではない。農民の子で、父親は陶工をしていた。長じて都会に来るようになり、実学に励んでいたが何の因果か今は詩人としてもてはやされている。周囲の期待に応えているうちに何となくここまで来ただけで、本人の中では詩人である自分に納得が行っていないのだ。

ウェルギリウスは、自分の詩は万人向けに受けの好い「美」を謳ったものであり、現実や正しい認識を取り上げていない、と思っている。何故そうしたかといえば、現実や認識をうたったところで、それを喜ぶ者はいないからだ。船中や市中で目にする群衆の姿、その浅ましさを目にすることで、詩で大衆に働きかけ、世の中の何かを変えることなどできない、という実感が強まってくる。そこに、自分の乗った輿を担ぐ捕虜である奴隷の惨状が追い打ちをかけ、無力感は高まる一方である。

宿舎に入った詩人は微睡みの中で夢を、熱のせいで幻覚を見る。そこにいるはずもない少年や奴隷、過去の恋人が眼の前に立ち現れて詩人に語りかける。その幻視、幻聴はすべて詩人自身の裡より生じる、自己内対話であろう。自分の資質にない仕事をし遂げ、名誉を得るも、自分が本当にしたかったことは何ら成し遂げていない。人生が終わりに近づいた時に、多くの人が感じる焦慮、悔恨が様々な想念となって、弱った魂に追い打ちをかけるのだ。

特に「死」のイメージが強烈だ。アエネーアスやオルフェウスに導かれ、黄泉の国を訪れる幻想をはじめ、間際に迫った死に対する強迫観念の強さに圧倒される。幻想文学好きとしては、イメージが奔騰する幻想の描写に迫力を覚える。ただ、このイメージの寄って来たるところが、ユダヤ人であったブロッホナチスの手によって捕えられ、五週間という長きに渡って収容所に投獄され「死」と直面していたことにある、と知ると唯々イメージの豊かさに感心しているわけにはいかない。

結果的に作家は死を免れることになるが、詩人はローマへの帰還は叶わず、旅先で死んでいる。四大に基づく四部構成の「第四部 灝気―帰郷」は、詩人の導き手である少年リュサニアスと過去への執着の象徴である恋人プロティアが一体化した存在に導かれ、死の世界に分け入る詩人の最期を描く。人間から動物へ、そして植物へと形相を変化させながら、次第に自と他の区別を離れ「言葉の彼方」へ旅立つ。人が死に至る場面を描く小説は多いが、これほど執拗に変化してゆく自分を追いつづける文学は珍しい。余りにも西欧的な死生観に違和感がないでもないが、いずれは死ぬ身。一読の価値がある。

めったに目にすることのない漢語(倏忽、灝気など)が頻出し、久しぶりに辞書の厄介になったが、詩を意識した荘重な叙事、いかにもローマというべき弁論術を駆使した対話、めくるめく幻想が奔出するイメージ、とただでさえ大部の著作を場面によって訳し分ける苦労は並々ならぬものだったろう。二段組四百ページを超えるボリュームではあるが、読み終えた後の達成感は保証する。