青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『それまでの明日』原尞

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愛煙家必読の書。今どきこれだけ煙草を吸うシーンが描かれる小説は世界中どこを探してもないだろう。出てくる男も女もひっきりなしに煙草を吸っている。禁煙になっていてもだ。まあ、自分は吸わないが、最近の煙草に対する世間の冷たさには首をかしげたくなるところもある。昔の映画の喫煙シーンをカットしたり、煙草の代わりに別のものを持たせるように改変したりする動きがハリウッドであるという。それだけはいくらなんでもご容赦ください、と言いたくなる。ボギーに何を持たせるつもりだ。ぺろぺろキャンディか?

和製ハードボイルドの第一人者による14年ぶりの沢崎シリーズの新刊である。期待は大きい。書き出しを読んで胸躍らせる愛読者も多かろう。沢崎もとうに五十の坂を越えたが、事務所の看板は相変わらず<渡辺探偵事務所>のままだ。ただ愛車のブルーバードは部品取り用に修理工場に買い取られ、今はそこの代車に乗っている。携帯電話は今も持たない。この節携帯なしで仕事ができるのか、と思うだろうが、電話サービスを利用しているので、留守の時はそちらにかかる。後で確認すればいいし、嫌な相手の電話を無視できる利点もある。

今回の依頼人は当節めったにお目にかからない紳士。老舗の料亭の女将の身辺調査の依頼である。依頼人の望月は金融会社の新宿支店長で融資先の経営者を調べたいという。本当は別の依頼があって、これはそのための小手調べではないかと思った沢崎は、あまり気の乗らない仕事だが受けることにした。ところが、調査を開始してすぐ、その女将は半年前に亡くなっていることが分かる。赤坂の<業平>というその店は、今では妹が後を継いでいた。

そのことを告げようとしても電話が通じない。依頼人が勤める金融会社に出向いた沢崎を待っていたのが強盗事件だった。支店長不在で金庫が開かないことに業を煮やし、一人が逃げ、残された一人は客の海津という青年に説得されて自首。強盗は未遂に終わったが、金融会社が渋るのを警察が強引に開けさせた金庫には本来あるはずの金のほかに数億円の札束が詰まったジュラルミン・ケースが入っていた。

沢崎は海津と一緒に姿を消した支店長の望月を探し始める。海津は学生ながら人材派遣会社を経営しており、望月とは懇意で娘のアルバイト先も斡旋する間柄だという。貰った名刺から電話サービスで自宅の住所を突きとめ、部屋に入ると、そこには別人の死体があった。すわ殺人かと色めきたつ警察。そこにやくざまでがからんでくる。もしや望月は事件に巻き込まれ、やくざに監禁されているのでは、とアタリをつけた沢崎は<清和会>の相良に探りを入れる。相良は親を介護するため一時的に組を離れていた。

本家のハードボイルドのギャングだが日本ではやくざになる。これが苦手だ。どうにも絵にならない。チャンドラーの小説に出てくる大物は、ディナー・ジャケットに身を包み、身だしなみも整ったいっぱしの紳士気取りだ。交わす会話も洒落ていて、読んでいてそれが楽しい。ところが、安藤昇を除けば、やくざには学もなければ教養もない。ただ、怒鳴り散らして脅しをかけるだけだ。洒落っ気はないが相良との会話に人間味のあるのが救いだ。

チャンドラーの『長いお別れ』、近頃では『ロング・グッドバイ』の方が通りがいいか。あれを意識しているのだろう。男の友情というのが一つの主題だ。つけ加えるなら親子、夫婦といった家族もそうだ。探偵という稼業のせいか、渡辺を亡くしてからというもの、沢崎には心許せる友人も家族もいない。今回相棒をつとめるハンサム・ボーイの海津や、沢崎が紳士だと認めた望月と名乗る依頼人が、二人でテリー・レノックス役をつとめている。

つきあいは浅いが、好ましく思える相手のために、いろいろと世話をした挙句、結果的には裏切られてしまう、孤独な探偵の心情を哀感込めて描いたのが『長いお別れ』だ。もちろん殺人事件が起こり、その謎を解くのが本筋だが、読者の心に長く残るのは、人たらしのテリー・レノックスに手もなく魅了される、まだ若さの残るマーロウの意外にやわなハートだ。さすがに五十をこえた沢崎はそこまで甘くはない。

残念なのは、魅力的な女性が語りの中には出てくるのに、すでに死んでしまっていることだ。伝法で気っぷのいい静子という女将は映画なら山田五十鈴あたりが役どころ。銀幕の名女優の名が何人も出てきて、高峰秀子が語ったとされる女将の生前の印象が文中に引用されている。これがなかなかの出来。強盗犯の一人が俳優の河野秋武に似ていたという一節が出てくるが、若い者は誰も知らないというのも面白い。携帯は持たない、辺りかまわず煙草は吸う、懐かしの映画スター、と時代に逆らったような演出だ。

それでいいのだ。十四年も新作を待つファンなら、変わり果てた沢崎など見たくはなかろう。ミステリ調よりもハードボイルド調を優先したというのが作家の言葉。たしかに発砲事件が起こり、死者も出るが、肝心の事件が物足りない。まあ、舞台が新宿ではハリウッド大通りのあるLAとちがって街並みからして猥雑だ。ケチなやくざ絡みでは話がショボくなるのも仕方がないのかもしれない。過去に因縁のある新宿署の錦織も<清和会>の橋爪も沢崎の相手役としての魅力に乏しい。三月初旬というから東日本大震災だろう。新しい事務所は地震を持ちこたえ、沢崎も健在だ。次の事件を期待するとしよう。

『日本人の恋びと』イサベル・アジェンデ

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舞台はアメリカ西海岸、主人公の名はアルマ・べラスコ。慈善事業に熱心なべラスコ財団の代表である。自身のブランドを所有するデザイナーでもあるが、何を思ったか家を出て民主党支持者やヒッピーの生き残りやアーティストが入居待ちリストに名を連ねるラーク・ハウスという老人ホームに入居を決めてしまう。そのアルマのもとに時々、クチナシの花と手紙が届く。二重の封筒に収められた手紙の送り主は誰か、ハウスでアルマの世話を任されているイリーナにもアルマの孫のセツにも分からない。

ずっと運転手付きのメルセデスに乗っていたアルマは、最近免許を更新してスマートに乗り始めた。それだけではない。突然思い立っては数日家を空け、どこかに旅に出る。いくら健康に見えても高齢者で、パーキンソン病の持病もある。孫は祖母がどこへ出かけていくのかを探ろうと、愛するイリーナに協力を求める。イリーナはアルマには恋人がいるのではないか、それは部屋にある写真立ての中にいる日本人、イチメイ・フクダではないか、と話す。

アルマはポーランド出身のユダヤ系女性。ナチスの擡頭で欧州情勢が緊迫していることを心配した叔父イサク・べラスコは妻の妹の家族をアメリカに移住させようと試みるが、アルマの父は頑固でその好意に応じず、娘一人を船に乗せる。サンフランシスコの港でアルマを出迎えたべラスコ家の中には後に結婚することになる従兄のナタニエルがいた。孤独なアルマは実の兄の代わりにナタニエルを慕った。

太平洋とサンフランシスコ湾に挟まれた敷地シークリフに邸宅を建設中のイサクには信頼して庭造りを任せられるタカオ・フクダという庭師がいた。イチメイはその末っ子でアルマとすぐ仲良くなる。しかし、日米開戦により、日本人は敵国人として財産没収の上収容所送りになり、二人は会えなくなる。

幼い頃に出会ってすぐに惹かれあった男女が戦争によって引き裂かれてしまう。戦後再会した二人は愛し合うが、戦勝国の富裕層の女と敗戦国の庭師の男とでは人種と身分に差がありすぎ、結婚に踏みきれない。しかし、別れることのできない二人は周囲に関係をかくして密会を重ねる。ゴキブリの出る汚いモーテルで人目を忍んで愛し合う二人。限られた時間しか会うことのかなわない恋愛はいっそう二人を燃え立たせる。その結果、アルマは妊娠する。

イリーナの視点で描かれるラーク・ハウスで遠くない死を待つ老人たちの日常。その間に挿まれるアルマの過去の回想で、第二次世界大戦から現在までのユダヤ人、日本人、アメリカ人、それにイリーナの故郷モルドバ、と国の歴史に翻弄される人々の暮らしが語られる。アメリカ在住の裕福なユダヤ人は別として、ヨーロッパのユダヤ人の悲惨なことはいうまでもない。独立後のモルドバも苦しい。人々の暮らしは国家の歴史と切り離すことができない。

結局アルマは妊娠したことをイチメイに告白せず別れる。ナタニエルが父親役を引き受け、二人は結婚。日本に帰ったイチメイも日系二世と結婚する。それぞれ幸せな家庭を営む二人だったが、運命の悪戯が二人を再び出会わせる。ミステリ仕立てなので詳述は避けるが、そこには一筋縄ではいかない試練が待ち受けていた。

一方、イリーナはセツの求愛を受け留められずにいた。ハウスの住人から愛され、人から距離を置くアルマにも信用されるイリーナには他人に言えない秘密があったのだ。イリーナの母は娘を自分の両親に預け、早くに国を出た。いい稼ぎ口があると騙され、行き着いた先はイスタンブールの売春宿だった。イリーナが十二歳の時、母から手紙が届き、アメリカに呼び寄せられる。しかし、そこに待っていたのは思いもつかない事態だった。

ラーク・ハウスという場が心の中に孤独を呑みこんだ二人の女を結びつけた。信頼できる人との出会いによって、やがて心と心が響きあい、秘し隠していた過去にほころびが生じる。人は一人で生きることも一人で死ぬことも出来るかもしれないが、幸せとは言い難い。できるものなら、他者に心を開き、他者の思いも受け止め、ともに生きて老いたい。そして、最後は誰かに看取られて死んでいきたいものだと思う。

一日本人読者として、イチメイの造形が少々気になる。その指で触れると植物が芽吹くという「緑の指」の持ち主で、空手と柔道をあわせた格闘術に秀で、乞食行で百寺巡礼を果たし、画才もあるというから、まるで求道者。興味深いのは、父のタカオがオオモトの信者とされているところ。高橋和巳の『邪宗門』のモデルとなった大本教のことだ。収容所行きが決まったとき、白装束を着てオオモトの儀式に則って先祖伝来の刀を地中に埋めるところなど、外国から見た日本人のステレオタイプそのもの。

現代のアメリカ西海岸と、第二次世界大戦下のアメリカを主な舞台に、祖母の世代と孫の世代のふたつの恋愛事情を、老女の秘められた過去の謎解きをからめたミステリ仕立ての一大ロマンス小説。ミステリではないから、謎が解けても問題が解決されるわけではない。ただ、ゲイやエイズ尊厳死ユダヤ人差別、小児虐待と深刻な主題をいくつも扱いながら、登場人物が善良で心優しい人々であることが幸いして、愛と友情に満ちた物語になっている。人によっては、そこがもの足りないかもしれないが、読み終えた後味はさわやかだ。

『マイタの物語』マリオ・バルガス・ジョサ

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訳者は一般に流布する「リョサ」ではなく、原語の発音に近い「ジョサ」と記すが、著者はあのノーベル賞作家である。実際にあった事件に基づいて書かれた小説である。新聞に載った数行程度の記事から小説を書くのは、スタンダールに限らず、多くの小説家がやることだが、面白いのは、冒頭では主人公の革命家は「私」の友人であるのに、結末近くでは、それが虚構であることが暴露されることだ。

つまり、読者はフィクションと思って読みはじめた小説が、途中からメタ・フィクションであることを教えられるわけだ。冒頭、貧困と不衛生がはびこる現代のリマをジョギングする作家の「私」がかつての同級生マイタの昔話を始める。しかし、普通の小説のように生い立ちから語り出された話は途中で打ち切られる。突然話者である「私」が割り込んできて、マイタを知る人物に当時の思い出話を聞く部分が挿入される。

それがしばらく続くと、マイタその人が前面に出てくる小説が再開される。「私」がインタビューする相手が代わるたびに小説の場面は新しい局面に変わってゆくのだが、章による区切りも、改行による目配せもなく、「私」が書きつつある小説と、その資料収集と事実確認のために「私」が行ったインタビュー記録が綯い交ぜになって織り為されているのが、この小説である。

そして最後には、とうとう主人公であるマイタのモデルである本人自身がインタビュー相手として登場するのだから、かなり異色の小説といえるだろう。小説の元ネタになっているのは、一九六〇年代初頭に『ル・モンド』に載ったニュース短報で、「下士官と組合運動家と数名の学生がペルー山間部で極小規模の反乱を起こして即刻鎮圧された」事件である。

はじめは合流するはずだった労働者その他のメンバーが当日になって現れず、数名の学生と四人の大人だけで警察や銀行を襲撃したものの、広場で行った集会には誰も顔を見せず、革命の狼煙を上げるはずが、ただの銀行強盗の扱いを受けて追われる身になるという、惨めな展開。しかし、成功していれば、その後に何度か起きることになる社会主義革命の先駆的な事件になっていたはずだ。今やだれも見向きもしない事件に「私」が興味を持ったのはその点にある。

歴史は勝者によって作られる。当時マイタが接触した人物は今でも生きていて、上は国会議員から、下は貧しい暮らしをする盲人までいろいろだ。当然、事件に関わった経緯は自分の身を守るためや、自慢話のために、ねじ曲げられたり、粉飾されたりすることになる。「私」はそれらの人々の証言に耳を傾けながら、マイタという人物を作り上げていく。大事なことは、作者のねらいが歴史的な事実を語ろうというのではないことだ。

当然、語られることの中から真実を嗅ぎ分けようとはする。しかし、小説家の「私」がやりたいことは真実をかき集めて、それを素材に嘘を語ることだ。リアリズム小説の作家であるリョサは、かなり丹念に資料を漁り、証言を集める。しかし、そこに大量のフィクションが混入するのは当たり前のことだ。だから、リョサの小説は読ませる。細部がしっかり書き込まれ、人物がくっきりした輪郭を備えているからだ。それは、この小説でも同様だ。

ただ、多くの人が語るマイタその人の像は、語る人によって誤差が大きく輪郭がブレる。むしろ、かつては友人だったり、敵対者であったりしたマイタを取り巻く人物たちの方がはっきりした人物像を描いている。最後にはマイタのモデルその人が現れて、それまでに作ってきた人物像を裏切ってみせるのだから、マイタが「作られた歴史」に擬せられているのは明らかだ。人は、自分の見たように自分の考えで「人」を語る。それは結局のところ、対象ではなく、本人について語っているのではないか。そんなふうに思われてくるのだ。

「私」がインタビューを行う時代設定は、ペルーにキューバ革命が飛び火し、ボリビアから軍が越境し、反政府ゲリラに対応するためアメリカ軍が派遣され、ペルー自体が大騒動になっている。そういう時代だからこそ、人々の語る言葉にはその人間の本音が現れる。激動の時代をうまく生き延びた政治家や商人のうさん臭さをあぶり出すために、マイタたちの行動は対比的に純粋で無思慮かつナイーブに描かれる。

マルクシズムのイデオロギーを信じ、暴力革命に身を投じる人物を現時点で読めば、とてものことに感情移入はできない。青臭くて痛々しくてとても見てはいられない。おまけに、「私」はマイタの属性に同性愛者であることをわざわざつけ加えている。マチズモの国で男性同性愛者であることは負の属性でしかない。マイタが革命に賭けたのは貧困だけではなく同性愛者も差別されない自由な国の建設だったというのだ。

はじめから負けると分かっている勝負に賭けるロマンチシズムが書きたかったわけでもあるまい。性の問題はともかく、反乱自体はたとえ限定的なものであっても革命の烽火になることはできたかもしれない。歴史にイフはないというから、そんなことを言っても仕方がないが、作家自身も含めて多くの若者が社会主義革命に未来を見つけた思いでいたことも確かだ。時の流れは無常で、今の世界の有様を見るにつけ、出るのはため息ばかりだ。三十年も前の作品だが、マイタの物語を書こうとした「私」には、今も感情移入できるものがあるように思われる。

『女王ロアーナ、神秘の炎』ウンベルト・エーコ

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<上下巻併せての評>

歳をとってきた人間がやろうとすることの一つに「自分史」を書くというのがある。記憶力も衰えてきて、思い出すことができるうちにまとめておきたくなるのだろう。特に遺しておくような値打ち物の過去もなければ、日記をつける習慣もないので、これまで考えもしなかったが、エーコが書いたのを読んでいたら、これの日本版が読んでみたくなった。というのは、本作『女王ロアーナ、神秘の炎』は限りなくエーコの自分史に近い。それもただの自分史ではない。

少年時代に読んだ本やコミック、目にしたポスター、ラジオから聞こえてきた音楽などを通して、当時の自分を思い出す試みである。しかも、それは自分一人にとどまることなく、同じ時代を生きた人の記憶とも重なる。エーコが列挙するマンガや物語の中には、アメリカのコミックやディズニーのアニメなども含まれるので、それらは分かるものの、イタリアのものはほとんど分からない。同じ国の読者ならどんなに楽しいことだろう。しかも、贅沢なことに大量の原色図版つきである。

自分史などに興味が持てないでいるのは、他人の名前は忘れてしまっていても自分についての記憶はまだ確かだからだ。もし、それも覚束なくなってきたら、必死になって思い出そうとするだろう。現に口に出そうとして出てこない人の名前は一日中出てくるまで気になって仕方がない。当時の世の中の出来事とその頃出回っていた読み物や流行の音楽を、自分の個人史と結びつけることで、ありありと目の前に光景が浮かんでくる。日本版があれば、という所以である。

ミラノ古書店を営むヤンボこと、ジャンバッティスタ・ボドーニは、目を覚ますと病院にいて医師の質問を受けていた。口はきけ、眼も見えるし、百科事典的な記憶には何の問題もないのに、自分の名前も、顔も一切合切記憶から消えていた。事故のせいで脳の一部に損傷を受け、自動的に行動することを助ける潜在記憶には問題がないのに、もう一つの意識的に思い出すための顕在記憶の中のエピソード記憶と呼ばれる、自分を自分につなぎ留めておく記憶がすっぽり抜け落ちてしまったのだ。

彼にはパオラという心理学者の妻がいて、彼が子どもの頃暮らしていたソラーラに行ってみることを勧める。そこには、祖父が遺してくれた大きな館があり、子どもの頃にヤンボは、そこに住んでいたからだ。当時は第二次世界大戦中でミラノは空襲が激しく、両親はヤンボを疎開させていた。ところが、結婚してからヤンボはソラーラに行くことも館で暮らすことも嫌がっていた。そこには何らかの理由があるにちがいない。記憶が戻らないのも何かそこに起因しているのでは、というのが優しく聡明な妻の見立てであった。

古書店の仕事の方はシビッラという美しい娘が彼の代わりをつとめていた。親友のジャンニが娘のことで揶揄うようなことを言ったので、ヤンボは自分とシビッラの間には何かあるのではと疑心暗鬼にとらわれる。しかも街角で出会った老婦人から、かつての情事をにおわせるような言葉を掛けられる。この辺の艶笑譚的なくすぐりはいかにもエーコらしくて、愉快。何にも覚えていない男の自意識の暴走は止めようがない。

妻と子はミラノに残してソラーラで暮らし始めたヤンボは祖父の書斎を覗いて本がないのに驚く。聞けば、屋根裏部屋にあるという。そこには祖父が蒐集した大量の新聞や書籍があった。ヤンボはそれから毎日、屋根裏部屋に通い詰め、飽かずにそれらを読み漁るのだった。屋根裏部屋、秘密の扉、封じられた礼拝堂、というゴシック小説めいた筋立てが読者の心をそそる。記憶の底から表面に気泡のように立ち上ってくるいくつかの名前や歌。それらの手がかりを求めてヤンボの探究は続く。

幼少期にソラーラで何が起きたのか、どうしてそれを思い出したくなかったのか。霧に関する文章をいくつも集め出したのはそもそも何を理由としていたのか。下巻に入ると、第二次世界大戦下のソラーラは決して安全な田舎とはいえなかったことが明らかになってくる。村にはドイツ軍がシェパードを連れて脱走したコサック兵を捜索にやってくる。彼らを逃がし、パルチザンのもとへ届けるためにヤンボは手助けを頼まれる。

頭がよくて行動力もあるヤンボの活躍とその後の展開が時代状況と絡み合い大きな重みをもって迫ってくる。トーマス・マンの『魔の山』に登場するセテムブリーニとナフタを一人にしたようなグラニョーラという人物がヤンボに、神は邪悪だと説くあたりは『魔の山』や『カラマーゾフの兄弟』を彷彿させる。少年だからといって戦争は免罪符をくれるわけではない。その時代を生きた者でなければ書けない真実が、そこにある。

『女王ロアーナ、神秘の炎』の主題になっているのは記憶である。次第に明らかになってゆく少年時代のヤンボの生活だが、その中でリラという少女の顔だけが思い出せない。初恋の少女で、その後転校して会えずじまいになっている。ソラーラでの出来事がタナトスを主題にしているとすれば、リラに関する挿話の主題はずばりエロスだろう。ソラーラで一度は死んだヤンボの魂が再生するきっかけとなったのがリラである。人を喜ばせ、人に好かれる今のヤンボはリラによって命の火がともされたのだ。

自分史とはいっても、少年時代が中心で、尻切れトンボの感じがしないでもないが、ムッソリーニと黒シャツ党の跋扈する時代のイタリアを生きた一人の多感で読書好きの少年の瑞々しい思春期をイタリアらしい明るい色彩と音楽、それにそこだけフォントを変えて記される様々な小説から引用された名文句の数々。これはプルーストだな、とかランボーときたか、というふうに分かるものを見つけてはにやりとする愉しみがある。ユイスマンスの『さかしま』のように贔屓の作品への言及は何よりうれしい。本好きのために書かれたような小説だ。誰か書けるうちに日本版を書いてくれないだろうか?

『ソロ』ラーナー・ダスグプタ

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『ソロ』という音楽用語に似つかわしく、小説は第一楽章「人生」、第二楽章「白昼夢」と題された二つの章で構成されている。この章につけられた名前の意味は、小説が終わりを迎えるころ意味を明らかにする。その意味を知った読者は、作者の巧妙な作為にはたと膝を打つにちがいない。それはありそうで、今までなかった小説の書き方である。もしかしたら先例があるのかもしれないが、すぐには思いつかない。

第一楽章は、ブルガリアのソフィアに住む盲目の老人の「人生」を描いたもの。話者は、はじめその人物を「男」と呼ぶ。映画の冒頭で、キャメラがひとりの男に焦点を当て、少しずつ近づいていくように。やがて男の現在の様子が、食べる物も人に恵んでもらい、人の助けを得ねば薬も飲むことができない惨めな状況であることが明らかにされてゆく。それと同時に今のソフィアという街の有様も、音やにおいといった盲人に残された感覚器官を総動員して描写されてゆく。この導入部が効果的だ。

男の名はウルリッヒ。大好きだった音楽を父に取り上げられ、その代わりに化学を愛するようになる。ベルリンの大学で化学を学ぶが父の死により学資が続かず志半ばで帰国。化学への夢をあきらめて会社に勤め、やがて親友の妹と結婚。子どもを授かるも、夢をあきらめた夫に愛想をつかして妻は子どもを連れて家を出る。共産主義国家となってからは工場勤務を命じられ、退職後は年金暮らしで今に至る。

オスマン帝国から独立、幾度の戦争を経て共産主義国家となり、ソ連崩壊後資本主義化されたブルガリアは強国の意向に沿うように工業化される。その結果、化学工場から排出される薬物により大地は汚染された。オスマン・トルコやソ連といった大国にはさまれたブルガリアという国の近現代史を背景に、かつてはそれなりの夢も才能もあった男が、家族の桎梏と歴史の波に翻弄され、最後に残されたわずかな日々の慰めまで奪われてしまう無残な人生を、突き放したようなさめた筆致で語るのが第一楽章だ。

第二楽章は、ぐっと曲想が異なり、アップ・テンポでスリリング。ブルガリアとは黒海をはさんだ対岸にあたる、グルジアの王家の血を引く少女ハトゥナとその弟が、ブルガリア出身の若者ボリスとアメリカで出会ったがために起きる悲劇。住民が逃げ出してしまった土地で豚を飼いながら、ヴァイオリンを弾き続けてきたボリスは、ワールド・ミュージックの辣腕プロデューサーに見いだされて渡米。トラブルに巻き込まれたハトゥナも弟と二人アメリカに渡る。

体制が代わるたびに、元スポーツ選手などの有名人が政治家になり、金を蓄え、やがて実業家になる。しかし、実態は麻薬を扱い、女を売り飛ばすギャング同様の稼業だ。早晩暗殺され失脚する運命。しかし、その刹那的な生にしか、生きることの快楽を見出せない種類の人間がいる。ハトゥナがそうだ。弟はその価値観を認めず、詩を書くことだけを愛していた。ところが、ボリスの曲を聴いたことで二人は共鳴しあう。友から片時も離れられない弟、弟を愛する姉は音楽家を憎む。三角関係が軋みを上げはじめる。

大物実業家が何人ものボディ・ガードに囲まれ、城の内部を要塞化した邸宅を立て、世界中で武器を売買する。美女たちが夜ごとパーティーに集まり、奔放な音楽家は業界のしがらみなど気にせず、好きな相手とセッションしては勝手に配信してしまう。音楽家の失墜を策謀した女は情報を操作して追い落としをはかる。華やかな世界とその陰で蠢く人々の姿を描く第二楽章は、いったいあの陰鬱な第一楽章とどうつながっているのか?

実は第二楽章で語られるストーリーの素材は、そのほとんどが第一楽章の中に象嵌されている。ただし、語られるのはほんのわずかで、最初に読んだときは、そのあまりの短さに読み飛ばしてしまう。それが作者のアイデアだった。九十代後半のウルリッヒの記憶からは多くのものが抜け落ちていても不思議はない。ただ、とげのようにひっかかって離れないものだけが断片的に残っている。

目の見えない男の楽しみはテレビ番組から聞こえてくるニュースや隣人の立てる物音、街に聞こえる騒音といった素材をもとに、日がな自分が組み立てた「白昼夢」を見ることだった。そこに登場するのは、生きていれば今はもう七十代になっているはずの子どもだが、夢の中ではまだ若いままだ。ボリスやハトゥナはウルリッヒがかつて接した人々の記憶を頼りに作り上げられた夢の創造物、というのが作者の見立てだ。

再読してみて驚いた。あれがこれになるのか、と。白昼夢の何とけばけばしくおどろおどろしいことか。ウルリッヒの実人生がついえた夢の破片の集積物だとしたら、白昼夢はその可能態である。母の遺品を買い叩いた骨董商の記憶は、いつまでも心の片隅に残っていて、ハトゥナの手によって復讐される。あきらめた音楽家の夢はボリスによって成し遂げられる。所詮夢ではないか、というなかれ。かつて荘周は夢の中で胡蝶になって遊び、覚めて後、果たして荘周が胡蝶の夢を見たのか、それとも今の自分は胡蝶が見ている夢なのか、とつぶやいたというではないか。

『水底の女』レイモンド・チャンドラー

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原題は<The Lady in the Lake>。サー・ウォルター・スコット叙事詩湖上の美人』<The Lady of the Lake>をもじったもの。< Lady of the Lake>は、アーサー王伝説に登場する「湖の乙女」のことだ。この作品のもとになっている中篇「湖中の女」は、稲葉明雄訳『マーロウ最後の事件』の中に収められており、かつて読んだことがある。そこに登場する色男の名前がランスロットであることから、チャンドラーがアーサー王伝説を意識していたことはまちがいない。長篇となった本作ではクリス・レイヴァリーと名を変えている。

人物の名前こそ変わっているが、『水底の女』の骨格にあたる部分は、ほぼ「湖中の女」を踏襲している。主な舞台となるのは、ロサンジェルス東部の砂漠地帯サン・バーナディノ近郊のリトル・フォーン湖にある別荘地。それと別の短篇「ベイシティ・ブルース」の舞台となるサンタモニカがモデルといわれる海辺の町ベイ・シティ。既存の短篇を使い回して長篇に仕立て上げるのは、チャンドラーの得意とするところだが、本作に限っていえば、別の土地で起きた事件を同一人物の仕業にしたため、偶然の一致が多くなったのが残念だ。

チャンドラーの長篇の持つ魅力は、事件解決よりも、事件を捜査する過程で、探偵であるマーロウと他の登場人物とのやりとりや、マーロウが人物に寄せる感情の揺れを味わったり、マーロウの目を通して語られる富裕層の頽廃的な生活や、大都会に蔓延る犯罪組織とそれを事実上見逃す警察組織への批判に共鳴したりするところにある。ところが、本作は意外に律儀に謎解き推理小説をなぞろうとしているふしがある。

チャンドラーはフリーマンやハメットは別として、不必要な蘊蓄や不誠実な叙述の詐術を用いた推理小説を嫌っていた。本作にも名を訊かれたマーロウが「ファイロ・ヴァンス」と偽名を名のる場面がある。ヴァン・ダインへの揶揄だろう。それもあって、乱歩が「類別トリック集成」に挙げている中でも使用例の多いトリックを扱いながら、本作におけるマーロウによる語りは実にフェアなものだ。それがかえって、長篇ならではの脱線や遊びを遠ざけ、作品を窮屈にしている気もするが。

マーロウは香水会社を経営するドレイス・キングズリーから妻の捜索依頼を受ける。リトル・フォーン湖にある別荘に出かけた夫人が帰宅予定日に帰って来ず、エル・パソから打たれた電報には、離婚してクリスと結婚するとあった。妻の性格をよく知るキングズリーはそのまま放っておいたが、先日、そのクリスと市内で偶然出くわした。話を聞けば、夫人とは最近会っていないという。何か事件に巻き込まれたのであれば事業に影響が出る。それで探偵を雇ったのだ。

ベイ・シティにクリスを訪ねたマーロウは、向かいの家に住む医師によって警察に通報される。医師の妻は自殺しており、不審に思った妻の両親は探偵を雇って事実を調査していた。デガルモという強面刑事に町を出るよう威嚇されたマーロウが次に向かったのはリトル・フォーン湖。持参してきた酒を管理人のチェスに飲ませ、妻の家出の顛末を聞き出す。二人でキャビンに向かう途中、湖中に沈む女性遺体を発見する。損傷が激しかったが、夫は妻のミリュエルだと認めた。

これが題名の由来だが、実は死体は「水底」にはない。人造ダムを造ったことでかつての船着き場が水中に沈み、死体はその船着き場に邪魔されて浮かび上がってこれなかったのだ。つまり女は「水底」ではなく、文字通り「湖中」にいたのだ。その意味でいうと、『水底の女』という新訳の題名はあまりそぐわない。いつものように原題を片仮名書きにして『レディ・オブ・ザ・レイク』とでもしておけばよかったのに、とつい思ってしまった。

リトル・フォーン湖の遺体は自殺か他殺か。他殺だとしたら犯人は誰か。マーロウは保安官補のパットンに推理を語る。このパットンがいい。短篇ではティンチフィールドという名で登場する、ステットソンをかぶった田舎町の保安官補だ。肉付きのいい好々爺に見えて、その実見事な手腕を見せる名脇役だ。短篇を読んだときもそう思ったが、長篇ではなお一層魅力が増している。チャンドラーは女を描かせると、美しいが危険な人物にしがちだが、男性の場合は大鹿マロイをはじめ、憎めない脇役、敵役を多く生み出している。

村上春樹のチャンドラー長篇全七巻の翻訳はこれで最後。当初は、旧訳になじんだ読者から批判もされたが、今後はこれが定訳になっていくのだろう。村上訳の特徴は、原作に忠実なところだ。一語たりとも見逃すことなく、日本語に移し替えてゆく。ただし、その分一文が長くなる。それが冗長と感じる読者もいるだろう。たしかに、原文はおどろくほどシンプルな英語で書かれている。ただ、それをそのまま日本語に置き換えると、身も蓋もない訳になる。それをいかにもそれらしい日本語に置き換えるところに訳者は頭をひねるのだ。

一例をあげるとマーロウが香水の香りをたずねる場面で、問われたキングズリーが「白檀(びゃくだん)の一種だ。サンダルウッド種」と答えるところがある。旧訳では「チプレの一種だ。白檀(びゃくだん)のチプレだ」となっている。「チプレ」って何のこと?と思ってしまうが、「シプレ(シプレー)」はキプロス島のことで、香水の香りの系統を表す。原文は<A kind of chypre. Sandalwood chypre.>で「チ」と「シ」の読みまちがえは惜しいが、清水訳の方が原文に忠実なのがわかる。

しかし、これを「シプレの一種だ。白檀のシプレ」と正しく訳したところで、香水に詳しくない者にとってはチンプンカンプンだろう。註を使わず乗り切るためにわざと「シプレ」を省いて、白檀の訳語であるサンダルウッドを使うことで、分かりやすくしたのだと思う。村上訳は逐語訳や直訳を避け、原文を、読んで分かる日本語に解きほぐす訳を目指しているようだ。チャンドラーの長篇を村上氏がすべて訳してくれたことで、旧訳と比較しながら原文を読む愉しみが増えた。『湖中の女』には、田中小実昌氏の訳もある。これもいつか探して読み比べたいと思っている。

『地下鉄道』コルソン・ホワイトヘッド

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南北戦争が起きる三十年ほど前、ヴァージニア州にある農園で奴隷として働いていたコーラは新入りのシーザーという青年に、一緒に逃げないかと誘われる。はじめは相手にしなかったコーラだが、農園の経営者が病気になり、酷薄な弟の方と交代することになって話は変わった。実は、コーラの母もまた逃亡奴隷だった。母はうまく逃げ果せたのか連れ戻されることはなかった。自分を置いて一人で逃げた母をコーラは憎んでいたが、危険な逃亡を試みる点では二人は似ていたのかもしれない。

この時代、逃亡奴隷が生き延びる可能性はほとんどなかった。奴隷狩り人と呼ばれる専門家がいたし、警ら団が見回ってもいた。逃げた奴隷の特徴を記した文書が姿を現しそうな場所に配布されていた。狩り人が追いつくより先にはるか遠くに逃げることが必要だった。それを助けてくれるのが表題でもある「地下鉄道」だった。史実に残る「地下鉄道」とは、逃亡奴隷を秘密裡に匿い、荷物に紛れて、遠くの駅に送り出す「地下」組織を表す隠語だった。

ホワイトヘッドは大胆にも、それを文字通り、地下深くを走る鉄道として表現している。どこまで行っても真っ暗なトンネルの中をどこに到着するかも知らないで、無蓋貨車に乗せられる逃亡奴隷.の心持ちはいかばかり心細かっただろう。しかし、着いた駅には「駅員」と呼ばれる協力者がいて、着る服や寝泊まりする宿まで提供してくれる。そればかりか、そこに留まる気なら、働き場所まで世話してくれるのだ。

シーザーとコーラが下りた駅は、州境を越えたサウス・カロライナだった。二人には新しい名前が用意され、自由奴隷としての新しい生活が始まる。しかし、以前に比べればはるかに暮らしよいと思われたサウス・カロライナもまた、黒人に対する偏見と差別から免れてはいなかった。コーラは博物館の展示物と同じ扱いを受け、医者には避妊手術を迫られる。黒人が増えることを脅威に思う白人たちは、黒人を騙して断種を進めようとしていたのだ。

さらに、コーラとシーザーを追うリッジウェイという奴隷狩り人がすぐ近くまで迫っていた。昔、「逃亡者」というテレビ番組があった。主人公を追う警部の名はジェラードだったが、語り手はその前に必ず「執拗な」という修飾語をかぶせていた。逃げる者も必死だが、追う方もまた必死だ。特に、人狩りを楽しみとする性癖を持つ狩り人の手にかかったら、なかなか逃げられるものではない。州を越えてもどこまでも追い続ける。

コーラは何度も逃げる。もちろん、そこには「地下鉄道」の協力者がいるからだ。その人たちの手を借りて、ノース・カロライナまで落ちのびたコーラだったが、そこはもっとひどい状況にあった。毎週末広場で奴隷の処刑が行われるようなところだった。白人たちはそれを見物に集まって騒ぐのだ。親切な住人の住む家の屋根裏部屋の梁の上に潜んで息を殺していたコーラのことを密告する者がいて、コーラは捕まってしまう。

しかし、捨てる神があれば拾う神もいて、コーラは今度はインディアナで暮らし始める。黒人たちが奴隷制反対の集会が開けるような土地だった。しかし、運動が広がるにつれ、目指す方向性のちがいから、派閥間に軋轢が走るようになる。どこまでいっても奴隷たちが安心して暮らせる土地などはない。希望を見出した途端、それを打ち砕く出来事が待ち受ける。逃亡奴隷の手記や記録をもとにしながら、ホワイトヘッドが赤裸々に描き出す黒人奴隷の置かれた社会はどこまでも残酷で、読んでいる方もつらい。

しかし、そんな中、コーラは本を読み、学習し、自分たちの置かれたアメリカという国の持つ矛盾を発見してゆく。もともとはインディアンと呼ばれる人々が住んでいた土地に流れ着いた人々が、彼らから土地を奪い、自分たちのものとしていった、それがアメリカだ。綿花を積むための労働力にとアフリカから黒人を連れてきて奴隷として酷使した挙句、黒人の数が増えると暴動を恐れ迫害を繰り返す。コーラは散々な目に遭いながらも、持ち前の強運で前途を開いてゆく。

実はピュリッツァー賞受賞作と聞いて、最初は二の足を踏んだのだ。ヒューマニズムを前面に押し出して迫ってくるような作品は苦手だからだ。しかし、杞憂だった。これは面白く読める小説だ。コーラという逃亡奴隷が追っ手を逃れてどこまで逃げられるかを描いたロード・ノヴェルであると同時に、アメリカという国が歴史の中でどれほど非道なことをしてきたかを突き詰める記録文学の顔も併せ持つ。

アメリカというのは一つの国というより、複数の州の連合体である。州境をまたげば、そこはもう別の国。まるでSFでいうところの並行世界である。最も印象に残ったのはそこだった。表には法体系や人々の習俗の全く異なる国が共存し、その裏では州境など無視して縦横無尽に大陸中を駆け抜ける「地下鉄道」が走っている。これはもう隠喩ではないか。書かれた文字や本は、過去の因習に囚われた州固有の枠を突き抜け、新しい考え方をアメリカ全土に届けることができる。「地下鉄道」は、アメリカの良心である。

時代が突然逆戻りしたように思えるのは、アメリカだけの問題ではない。世界各地で人種や宗教のちがいによる争いが起きている。『地下鉄道』は過去の話ではないし、アメリカだけの物語ではない。黒人を排斥する白人の姿にはヘイトに走る人々を見る思いがする。読んでいる間、心がざわついた。暗いトンネルを抜けた向こうに明るい光が待ち受けている、そう思いたい。そのためにも、今はトンネルを掘らなければいけないのではないか。人と人とを隔てるものを越境できる自由な空間のネットワークを構築するために。