青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『熊と踊れ』上・下 アンデシュ・ルースルンド /ステファン・トゥンベリ ヘレンハルメ美穂 /羽根由 訳

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<上下二巻、併せての評です>

過去と現在の出来事が、交互に語られる。親子の物語であり、家族の物語であり、類い稀な犯罪小説でもある。人はなぜ理に合わない犯罪に走るのか。やむにやまれぬ強迫観念に突き動かされた行為の裏に隠された過去が、記憶の鍵をこじ開け、じわりじわりと顔をのぞかせる。子ども時代からこだわり続ける抜け落ちた記憶。本当は誰がしたのか。物語が進むにつれ、次第に明らかになる真実。

冒頭、四年ぶりに家族のもとに父が帰ってくる。ドアが開くなり、父は母親の顔を殴り、腹を蹴り、髪をつかんで引きずり倒し、なおも蹴り続ける。二人の間に体を入れ、止めようとする長男。その長男に「あとは頼んだぞ、レオナルド(略)わかるな? おれはもう、ここにはいられない。これからはおまえが束(たば)ね役だ」と言って立ち去る父。のっけから凄まじい暴力シーンではじまる、波乱の幕開けだ。

第一部。成人したレオは弟のフェリックス、ヴィンセント、それに幼なじみで軍隊仲間のヤスペルと組んで、軍の武器庫に収蔵された銃器を強奪しようとしている。大胆かつ細心な計画はレオが立てた。レオが営む工務店を隠れ蓑に、四人で盗んだ銃器を使って現金輸送車を襲う計画だ。後に「軍人ギャング」と呼ばれることになる強盗グループの初仕事である。この作品は、そのグループの胸のすくような仕事ぶりを描くと同時に、追う側と追われる側、双方が抱える過去との確執を描く。

こうした大掛かりで計画的な犯罪が起きた場合、警察はまず過去の事件を洗い、よく似た犯罪を起こした者を探す。しかし、今回はそれが全く役に立たない。なにしろ、犯人たちはまだ二十代で、前科などないからだ。顔には覆面、指紋は残さない。犯罪に使用した着衣その他は焼却し、銃器は分解してコンクリート詰めにし、水中に沈めるという徹底ぶり。練りに練った計画、それを完璧に行うための訓練、盗んだ大量の武器弾薬の隠し場所、それらを手配し、仲間を率いて実行に移してゆくレオの采配が光る。

しかし、そのレオもはじめから優れたリーダーだったわけではない。子どもの頃、年上の悪ガキに目をつけられ、痛い目に合わされた。それを父親に見つかり、やられたらやり返せ、と毎日喧嘩の練習をさせられた過去を持つ。父のイヴァンは半分セルビア人で、半分はクロアチア人。国が自分たちを守ってなどくれはしないことを骨身にしみて知っている。家族(クラン)の結束が何よりも大事だ、と信じ切っている。

練習の甲斐あって、レオは自分より大きくて力もある相手の顔面を殴りつけ、鼻骨を折る。まず、鼻をねらえ、というのが父の教えだった。相手が自分より強くても、鼻を殴られれば一瞬怯む。涙で目が見えにくくなり、動きが止まる。次は顎に一発。そうして相手の周りを動き続け、隙を見ては殴る。それを続けていれば相手の闘争心は鈍り、勝機をつかめる。題名(原題は『熊のダンス』)はその戦法を指している。

自分のあとを継ぐ長男には、家族を守る力がいる。自分の始末は自分でつけるしかない。そう考える父に対し、スウェーデン人の母は話し合いで解決するべきだという。妻は夫の過剰な暴力に耐えられず、家を出る。イヴァンは実家に帰った妻を無理矢理連れ帰ろうとし、家に火をつけ、駆けつけた警察に逮捕される。レオと違って年端のいかない弟たちは母に乱暴した父を許すことができない。冒頭の一幕は、四年の刑を終えて戻ってきた父と母の再会の場面だったのだ。

犯人を追う立場である刑事のヨンにも過剰な暴力の覚えがある。兄のサムは、母に暴力を振るう父をナイフで刺し殺し、今も獄中にいる。人はなぜ過剰な暴力を振るわずにいられないのか。ヨンは夜毎、警察に泊まり込んでは過去の暴力事件のファイルを読むのが日課になっている。そんなある夜、現金輸送車襲撃の一報が舞い込む。事件の担当を命じられたヨンは早速現場に向かう。

犯行は計画的で緻密、人目につかない場所を逃走経路に選んでいるところから、ヨンは犯人には土地勘があると見る。その後もグループの犯行は続き、次第にエスカレートする。そしてついにはストックホルム駅構内のロッカーが爆破される。もともとは陽動作戦で、警官たちを爆破予告した場所に引きつけておき、その隙に離れた場所の銀行を襲う計画だった。爆発は想定外。レオが作った爆弾をロッカーに仕掛けたのはヤスペルだ。まだ十七歳のヴィンセントは、この事態に動揺する。フェリックスはヤスペルに詰め寄るが、レオはヤスペルをかばう。兄弟間にひびが入り始める。

弟二人がグループから離脱を考えはじめるのをよそに、レオは新たな犯行計画を披露する。それを最後に、強盗を引退するという言葉を信じ、渋々参加した弟二人だが、思っていたような戦果が得られず、レオは更なる襲撃を口にする。そんな兄に対して、フェリックスは自分の思いをぶつける。兄貴のやってることは、異論を力で封じ込め、相手を自分の思い通りに動かそうとする、かつての父親と同じだと。

人はなぜ暴力に訴えるのか。そこには理由があるはず。実際に起きた事件をその内部からながめることで、ことの本質に迫ろうとする、フィクションではあるが、限りなく事実に近い位置に身を置いて描かれた小説である。なんと、作者の一人は実行犯の兄弟の一人で、強盗には加わらなかったため作中には登場しないが、計画は知っていたという。それだけにあれだけ強かった兄弟の絆が、一度ひびが入ってから見る見る脆くなってゆく様が手に取るように分かる。そして、悲劇が待っていた。犯人の側にこんなに身につまされる小説を読んだことがない。上下二分冊。どちらもかなりの厚さだが、読ませる。

『カリフォルニアの炎』ドン・ウィンズロウ 東江一紀 訳

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「火事があって、死者が出た」と電話。ジャック・ウェイドはカリフォルニア火災生命の火災査定人。現場にはすでにオレンジ郡保安局火災調査官が到着済み。「ウォトカと寝煙草」と得意の<失火>説を唱えるベントリー。元同僚だが、わけあって二人は互いを嫌っている。ジャックは自らの目と手を使って、徹底的に調べ上げる。火元が二ヵ所あり、それを結ぶ燃焼促進剤の撒布パターンもある。まちがいなく放火だ。

やったのは死んだ女の夫で、不動産王のニッキー・ヴェイルに違いない。仕事が上手くいかず、借金もかさんでいた。別居中の妻との間には離婚話も出ているが、子どもの親権をめぐり係争中だ。自宅を燃やすことで、妻を殺し、親権と保険金を手に入れる、一石三鳥というわけだ。ジャックは査定の結果を火災補償部長のビリーに報告し、ビリーも放火殺人犯に保険金は払わないと息まくが、そうは問屋がおろさない。

ニッキーが弁護士と一緒に会社を訪れ「契約不履行」訴訟を起こすからだ。やり手の弁護士は、ジャックが手にした証拠を悉く突き崩していく。借金は返され、銀行には預金があり、証人は次々と姿を消し、現場の焼け跡はブルドーザーが整地にかかるという徹底ぶり。死体の肺に煙がなかったと言った医師は脅されて証言を翻す。いったいヴェイルとは何者か。情報を漏らしたのは誰か。会社側は五千万ドルでの示談で手を打つ気だが、ビリーが首を縦に振らない。ジャックは期限までに新たな証拠を見つけ、裁判に勝つことができるのか。

ジャックには放火の目撃者の命を守るため、被疑者に自白を強要した過去がある。証言台でそれを否定し、偽証罪に問われたが、保護観察処分と免職で起訴を免れた。<失火>ベントリーが裁判で目撃者の名を挙げたことで、男は殺された。職を奪われ、自責の念に駆られ、酒に溺れていたところを、ビリーに拾われ、今の仕事に就いた。裁判におけるジャックの証言は、かつて偽証したことのある男の言葉として陪審員の耳に届く。原告側弁護士はそこを突いてくるはず。

放火の証拠をわざと残しておき、保険金を支払おうとしない会社相手に「契約不履行」訴訟を起こす手口は『砂漠で溺れるわけにはいかない』で既出。それを大掛かりにし、しかも一捻りしてある。「過去の失敗に学ばない」「取引しない」頑固者が主人公。失業後、自分が一緒だと駄目になるから、と愛している女を追い払い、ストイックな生活を続けるジャック。サーファーが探偵役という設定は、後の『夜明けのパトロール』『紳士の黙契』のブーン・ダニエルズにつながる。

アメリカという国は、移民が作った国だ。しかし、先陣を切ったアングロ・サクソンと後発のイタリア系やアイルランド系その他の人種との間には厳然とした格差がある。美味しいところは全部アングロ・サクソンが握って放さない。他の国の移民たちがのし上がろうとするなら、同じ人種で集団をつくり、結束を固め、犯罪に手を染めるしか方法がなかった。

ニッキーの本名はダザャートニク・ワレシン。レニングラード生まれのロシア人だ。父のような貧乏役人で終わらせたくない母は息子を厳しくしつける。その甲斐あって息子は賢く育つ。KGBのカルボツォフ大佐は、美貌で人の気を逸らせないワレシンに目をつけ、リクルートする。アフガンで任務を果たすと、アメリカに渡り、ドルを盗んで国へ送れと命じる。そのためにユダヤ人を偽装して刑務所に入り、ロシア人マフィアの組織入りを果たす。

渡米した彼は組織内で頭角を現し、トップに上りつめる。「祖父(じい)さんはギャング、孫は弁護士。(略)三代かけての方向転換だ。それがアメリカの歴史。しかし、一代でそれを成し遂げてはいけないのか? いけない理由はない」。彼はそう考え、禁じ手を使い、表の稼業で成り上がる。ロシア人が夢見たアメリカン・ドリームが『カリフォルニアの炎』の裏の顔だ。一方に正義、他方に悪を置いて、長年にわたる両者の対決を描いたのが『犬の力』。悪が凄まじければ凄まじいほど作品世界の魅力が増す。その萌芽がここにある。

巨悪に対する一匹狼という図柄は見映えはするが、それが通じるのは虚構の中だけであることは誰の目にも明らかだ。それに比べ、見映えは悪いが、本音渦巻く悪の世界は怖いもの見たさもあって興味深い。騎士道小説とピカレスク・ロマン、任侠映画と『仁義なき戦い』は地続きだ。ドン・ウィンズロウは正統的なハードボイルドに軸足を置きながらも、少しずつノワールの世界に力点を移しつつある。

本作も、前半はリーガル・サスペンス風のミステリ色が濃いが、後半に入ると、一気にノワール感が加速する。主人公が一敗地に塗れてからが俄然面白くなる。カット・バック手法を駆使して、シーンの切り替えを速め、切れ味鋭いアクション・シーンが連続する。あれよあれよという間に、それまで見ていた強固な世界が、がたがたと崩れ落ちてしまう。終わってみれば、身も蓋もない世界が顔をのぞかしているではないか。

信じられないような裏切りがある一方で、今となっては古くさいと思われがちな、男たちの友情や人間同士の信義を守ることも忘れられていない。世に言う、ウィンズロウ節は健在だ。原題は<CALIFORNIA FIRE AND LIFE(カリフォルニアの火と命)>は「カリフォルニア火災生命」とも訳せる。「訳者あとがき」にもあるが、作中ジャックが受ける授業の中にある「火事の三段階(くすぶり、炎上、爆燃)をストーリー全体の骨格とみごとに対応させた」ところなど、読みどころは多い。

『ボドキン家の強運』P・G・ウッドハウス 森村たまき 訳

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気の利いた会話、自立した女性、という設定に風変わりな人物が加わって騒動を巻き起こす、映画でいうなら、スクリューボール・コメディウッドハウスが二度にわたり、脚本家としてハリウッドに招かれていた三十年代は、その全盛期。三組の男女の結婚をめぐる顛末を描いたこれは、些細な出来事を大仰なセリフ回しで聞かせる「話芸」を楽しむユーモア小説。主たる舞台は、大西洋航路をアメリカに向かう、R・M・S・アトランティック号の船上。「主な登場人物」は以下の通り。

モンティ・ボドキン………気のいい青年紳士。大金持ち。ガートルードと婚約中。
ガートルード・バターウィック………イングランド代表女子ホッケー選手。
レジ―・テニスン………モンティの友人。ガートルードのいとこ。
アンブローズ・テニスン………レジ―の兄。モンティの友人。小説家。
ロッティ・ブロッサム………映画スター。スペルバ=ルウェリン映画社所属。
アイヴァ―・ルウェリン………スペルバ=ルウェリン映画社社長。
メイベル・スペンス………ルウェリン氏の妻グレイスの妹。
アルバート・ピースマーチ………R・M・S・アトランティック号所属スチュアード。

冒頭、ルウェリンが、真珠の首飾りを密輸せよという妻の指令を、義妹の口から聞くところから話が始まる。そのとき突然話しかけてきたモンティを彼は関税局のスパイだと勘違いしてしまう。なんとか金で丸く収めたいルウェリンは、モンティに口止め料を払う代わりに、俳優として雇おうと持ちかける。何といってもハリウッド黄金期。この話を断る馬鹿はいないはず。モンティは金に不自由はない。ただ、ガートルードの父が無職の夫に娘は遣れないと婚約を認めない。職につけば結婚ができるのだ。

アンブローズは脚本家としてルウェリン社と契約し、ハリウッドに向かうため海軍省をやめてきた。ところが、ルウェリンが欲しかったのは、あの有名な詩人のテニスン(とっくの昔に死んでいる)だった。人違いと知ったルウェリンはアンブローズの契約を破棄する。アンブローズはロッティと婚約中だったが、プライドの高い小説家は女優に食わせてもらうことをよしとせず、婚約は破棄されること必至。

弱ったロッティは、ピースマーチの勘違いで手に入れた、モンティがガートルードにプレゼントしたミッキーマウスのぬいぐるみをかたにとり、ルウェリンとの契約条項にアンブローズとの契約も付け加えさせようとする。一方、伯父に命じられてカナダの会社に向かおうとしていたレジ―は、船中で出会ったメイベルに一目惚れ。結婚したくてもレジ―には金がない。ぬいぐるみを取り戻せたらアメリカでの滞在費を出すというモンティの話に乗り、ロッティの部屋に忍び込むが、そこにロッティと兄が現れる。

アンブローズがロッティに非を悟らせたことで、ぬいぐるみは無事モンティの手に戻るが、兄の立派な振る舞いに自分の至らなさを思い知らされたレジ―は、自分も妻の資産に頼ることをやめる。それでも、メイベルをあきらめきれないレジ―は一計を案じ、首飾りの密輸を引き受ける代わりに、ルウェリン社と契約を結ぼうとする。

その嫉妬深さでモンティを散々振り回すガートルードの焼きもちの激しさと言ったらない。まあ、昔の恋人の名前を刺青した胸もあらわな写真を婚約者に送りつけるモンティもモンティだが。彼女がまたもや嫉妬した相手が女優のロッティ。赤毛で奔放。子ワニをペットとしてバスケットに入れて旅行中も持ち歩くところから見ても、かなり変わっている。おまけにこうと思ったら汚い真似でも平気でやらかす。メイベルはハリウッド・セレブ御用達のオステオパシーの施術師で、姉譲りの美貌だけでなく怜悧で仕事のできる女性。

元気で行動的な女性に比べると。男たちは人柄の良さ以外に誇るところがない。モンティは金はあってもその使い方を知らない。レジ―はモンティのためにひと肌も二肌も脱ぐのだが、やることなすこと裏目に出る。海軍省に勤務しながら小説を書くオックスフォード出身の小説家とくれば、まるでル・カレだが、アンブローズは真面目一点張りで融通が利かない。美貌の妻の尻に敷かれ、義妹を厭いながらもその力を借りずにいられないハリウッドの大物ルウェリンもそうだが、総じて男の影が薄い。

真珠の首飾り、ミッキーマウスのぬいぐるみ、結婚、というお題による三題噺。金もあり、家柄も人柄もよい青年紳士が、無職というだけで結婚できない、という不条理さが笑える。モンティのような億万長者が働く必要がどこにあるだろうか。まあ札束で人の頬を引っぱたたいたりしないところは買えるが。テニスン兄弟にしたところで、女性は立派な職業婦人として自活しているのだから、結婚してから何なりと仕事を探せばいいだけのことだ。そのいかにも上流階級らしい浮世離れしたところに、俗世間とズレた面白さがある。

映画『めぐり逢い』をはじめとして、大西洋航路を舞台にとった名作は数多い。飛行機ではなく、ゆったりとした旅程を楽しむ、サウサンプトン発、シェルブール経由ニューヨーク行きの六日間の船旅。人との出会いや別れを描くには最良の舞台だが、それを逆手に取って、船室を交換したことによる、すれ違いや人違いを使って、家柄と人の良さだけが取り柄の男たちを徹底的にいたぶる、人を食ったユーモアはウッドハウスの真骨頂。ジーヴスが有名だが、今回初登場のピースマーチもそれに負けない働きぶり。新シリーズから目が離せない。

『砂漠で溺れるわけにはいかない』ドン・ウィンズロウ 東江一紀 訳

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何ごとにも終りがある。というわけで、これがシリーズ最終巻。最後になって一人称の探偵が話者を務めるハードボイルド小説のスタイルが戻ってきた。そうは言っても、カレンを話者にしてみたり、脇を務める登場人物の書簡、電話の録音、日記をそのまま本文に持ち込んでみたり、と多視点も採用している。ページ数も短めで、登場人物も限られている。何しろジョーでさえ電話で登場するだけだ。少し変化をつけたかったのかもしれない。

ピカレスクに付き物の社会批評が本作に欠けていることから、シリーズは前作で完結していて、本作は後日談と見る評者もいる。そういう見方もできなくはないが、生まれも育ちも悪いピカロ(悪者)が自分の一生を振り返る自伝形式の小説をピカレスクだというなら、自分の人生を語るにはニールはまだ若過ぎる。いつでもこの続きを書くことはできるわけで、作者としては、ここらで、一区切りつけておきたかったのではないだろうか。

というのも、ニールは一息つきたがっているからだ。相変わらず、ネヴァダ州オースティンのカレンの家に居候を決め込んでいるが、結婚を二カ月先に控えた今になって、突然カレンが子どもが欲しいと言い出したのだ。父の顔も知らず、麻薬中毒の娼婦の子として生まれたニールとしては、自分が親になることに抵抗がある。親に育ててもらっていないので、親というものがよく分からず、親になる覚悟ができていないのだ。

そんな時、ジョーから電話が入る。例の「簡単な仕事」だ。今回は仕事ともいえない雑用みたいなものだという。パームスプリングスに住む八十六歳の爺さんがラスヴェガスから帰ってこないので、連れ帰れという。ホテルの部屋番号も分かっているし、見張りもついている。上手くすれば日帰りで帰って来れて、ボーナスが手に入る。ニールは今度も断りかけるが、惻隠の情に訴えられて、結局引き受けてしまう。文句たれだが、ニールは本当は優しい子だ。そこに付け入るスキがある。ジョーはそれをよく知っている。

ところが、この爺さんが食わせ者だった。歳は取っているが、食欲も性欲もいっかな衰える様子はない。おまけによくしゃべる。次から次へと繰り出すギャグが途切れることがない。その昔、ストリップ小屋でショーの合間に客が飽きて帰らないように引き留めるのがコメディアンの役目だった。ストリップが下火になってからは、ラスヴェガスの一流の舞台で鍛えた。ナッティー・シルヴァーと言えば、泣く子も笑わせる芸人だったのだ。

アボットコステロという有名なお笑いコンビがいる。ナッティー・シルヴァーこと、ネイサン・シルヴァーマンは、そのコステロにギャグを教えたというから、古強者だ。今は引退しているが、誰彼つかまえては当時のネタを披露して笑わせるのが大のお気に入りときている。ヴェガスには当時のネイサンを知る者が多く、今でも喜んでつきあってくれる。当然、ニールにもそれを披露するが、早く連れ帰りたい一心のニールには付き合ってる暇がない。焦るあまり、深く考えもせず、少しの間老人から眼を離したすきに逃げられる。

ヴェガスはマフィアの街だ。当然、朋友会とのつきあいも深い。ニールはミッキー・ザ・Cという顔役に会い、ネイサンを探してもらう。ネイサンは飛び入りで舞台に立っていた。古いユダヤのジョークで客席は沸いていた。ニールはその様子を見て、焦っていた自分を反省し、一泊することにした。それが甘かった。翌朝、搭乗寸前になってから飛行機は嫌だといい出す。ジープに乗せようとすると軍用車は体に悪い。レンタカーが日本車だと知ると、真珠湾を忘れたか、とくる。

やっと借りたシヴォレーに乗せると、また牛の涎のごとく繰り返されるネタが始まる。「一塁にいるのは誰だ?」という超有名なギャグに、心底うんざりしていたニールがつきあわないでいるとネイサンが拗ねてしまう。心優しいニールはこの沈黙に耐えられず、車を停め、用を足して戻ると車が消えていた。警察署での警官とニールのやりとりがまるで掛け合い漫才。パトカーに同乗して後を追うと、車は見つかるものの、肝心のネイサンがいない。

いったいこうまでして帰るのを嫌がるのはなぜだろう? そう考えて自分の車を走らせていたとき、ネイサン発見。ところが、邪魔が入る。銃を持ったアラブ人が、自分が車で送るといってきかない。銃が出てきては、いうことを聞くしかない。車にのせられ、モハーヴェ砂漠を走行中、銃の奪い合いになり、ニールは車の底を撃ち抜いてしまう。ガソリンが漏れ出し、外へ逃げたとたん車は爆発炎上。三人は廃坑跡の小屋で夜を明かすことに。

焚火を囲んでネイサンが繰り出す持ちネタに仕方なく聞き入るうち、帰りたくなかった理由が分かった。その中に、放火は儲かる、という話がそれとなく挿入されているのだ。隣の家に男が放火しているのを見てしまったネイサンは、相手に脅され、身の危険を案じてヴェガスに逃げてきた。それを無理矢理ニールが連れ戻そうとするから、あれこれと難癖をつけて引き延ばしにかかっていたわけだ。

今回ニールを襲う危機は、坑道に放り込まれるというもの。あれほど高みを目指してきたニールが、乾き切った砂漠の中で坑道に溜まった雨水の中で溺れかけるというのが皮肉だ。定時連絡のないことを心配したジョーがヴェガスのミッキー・ザ・Cに電話し、ニールはからくも溺死を逃れる。ギャグは満載だが、ストーリーにひねりがなく、仕掛けも小振り。最後にしては、少々物足りない気がするが、銃を手にしても人を撃たないニールが戻ってきて、ファンとしては一安心。

ニールは他人と関わることが苦手。必要に迫られた時は、作り話や皮肉、嫌味で相手を翻弄してきた。しかし、延々としゃべり続ける相手につきあうのは初体験。自分のこらえ性のなさに否応なく向き合った今回の経験は有意義だ。子どもに舌先三寸は使えない。嫌でも正面から向き合うしかないのだ。今のニールにはまだそんなことはできない。モラトリアムの期間がいる。それで、この辺で一休みしようというわけだ。続編が書かれることになったら、この一篇はさしづめ幕間劇という扱いになるのだろう。ニールのその後を知りたい向きは『壊れた世界の者たちよ』をご覧あれ。

 

『ウォータースライドをのぼれ』ドン・ウィンズロウ 東江一紀 訳

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中国四川省ネヴァダの草原を舞台にした前二作と比べると、ずいぶんスケール・ダウンしたものだ。カレンの部屋や、ホテルの一室、キャンディの家といった狭苦しいところに、女性三人が閉じこもって、ガールズ・トークに精を出し、酒を飲んで大騒ぎするところは、まるで昔懐かしい『ルーシー・ショー』。今回のニールは、ルーシーの相手役を務める銀行の副頭取「ムーニーさん」の役どころ。

というわけで、ニール・ケアリー・シリーズ第四作は、シチュエーション・コメディ・タッチ。もちろん、タイトルにあるように、ヤマ場ではウォータースライドをのぼらなくちゃいけないので、野外のアクション・シーンも用意されてはいるんだけど、高いといってもプールに設けた滑り台なわけで、三千メートル級の峨眉山に挑んだニールにしてみればいかにもショボい。つまり、今回のニールの冒険は意図的に矮小化されているのだ。

なぜ、そんなことになってしまったかというと、断じて、そうすべきではなかったのに、性懲りもなくニールがコーヒーの匂いを嗅ぎ、あまつさえ飲んでしまったからだ。「断じて……するべきでなかった」という決まり文句で始まる、このシリーズ。ニールに簡単(?)な仕事を持ってくる養父のジョーの登場で始まるのがお約束。繰り返しには少しずつ変化があり、今回ニールはどこにも出かけない。対象の方がやってくる。

前作『高く孤独な道を行け』で殺人に手を染めたニールは、官憲の目を恐れ、長髪に髭という偽装までしてカレンの家に引き籠っていた。ジョーが手土産に「簡単な仕事」をぶら下げてやってきたのは、やっと金で解決がついたという知らせだ。ニールはジョーに、そろそろ引退したいと弱音を吐くが、家にジャグジーつきのテラスがほしいカレンは儲け話に乗り気になる。結婚前から主導権を握られているニールは、渋々ヒギンズ教授役を引き受ける。

ケーブル・テレビ・ネットワークの創設者で社長のジャック・ランディスが、事務所のタイピストをレイプするというスキャンダルが発生。その相手がポリー・バジェット。朋友会はランディスの会社の株主で、社長の追い落としをはかるハサウェイの依頼を受け、ポリーの弁護を引き受ける。しかし、裁判で証言させるにはひとつ問題が。ブルックリン育ちのポリーは発音も文法も無茶苦茶。それを矯正するのがニールに課された使命。流暢に話せるようになるまでマスコミから隠しておくにはネヴァダ州オースティンは絶好の場所だった。

外に出ることができない三人は、カレンの家でひたすら『マイ・フェア・レディ』のまねごとを延々と演じ続けるしかないわけだ。そこで、シチュエーション・コメディ風の設定が生きてくる。このイライザ役のポリーのセリフの日本語訳が、さすが東江一紀噴飯物のセリフが次から次へと繰り出され、まさに抱腹絶倒。ところが、頭隠して尻隠さず。上手の手から水が漏れ、隠れ家の在り処がばれてしまう。

ポリーを探していたのは、ランディスの妻のキャンディ。レイプ事件が夫の言うように嘘なのかどうか、本当のところを知りたいのだ。次にランディスと組んで、テーマ・パーク「キャンディランド」を建設中のマフィア、ジョーイ・フォーリオ。ポリーの証言で視聴率が落ちると資金繰りの目途が立たず、工事中止ともなれば中抜きの旨い汁が吸えなくなる。その他に、借金返済のため功を焦る落ち目の私立探偵ウォルター・ウィザーズ。更には得体の知れない殺し屋まで、危ない連中が先を争ってネヴァダにやってくるから、さあ大変。

もっとも、かつてジョーの憧れだった名探偵は今はアル中で、酒を見ると手を出さずにいられない最悪の状態。かたや、完璧な仕事をすることで知られている殺し屋は、バー<ブローガン>の番犬ブレジネフに手首を噛まれ、カレンに金属バットで背骨を叩かれ、這う這うの体で逃げ出す始末。威勢のいい女性陣と打って変わって、男性陣の登場シーンは、こてこてのスラップスティック仕立て。レギュラー陣以外の男たちは全員笑いのネタにされている。

そんな中、人妻キャンディに恋慕するモルモン教徒の元FBI捜査官チャック・ホワイティングが大活躍。麻薬課から引き抜いた部下の働きで盗聴は大成功。チャックの連絡を受けたキャンディがポリーの前に現れるから修羅場になるのは必至。ところが、初めこそ険悪だった二人の仲は急速に雪解けムードになり、いつの間にやら互いの立場を理解し合い、自分たちの置かれた境遇を憂える同士となってしまう。敵の敵は味方、というやつだ。

今回は、徹底して女性が主役。フェミニズムの旗幟鮮明で、ニールも手を焼くほど。もっとも、今のニールはカレンに夢中。朋友会はランディスの一件にマフィアが一枚噛んでいることを知り、ニールに手を引けといってくるが、金で手打ちにすることにポリーが応じず、カレンがそれを後押ししていては、ニールも後に引けない。策を講じて、ジョーに一役買ってもらい、ホワイティングがジョーイに盗聴器を仕掛け、一世一代の大博打を打つことに。

下っ端連中がドタバタ喜劇を演じている間、イーサン・キタリッジは服役中のマフィアの首魁に会って、事態の幕引きを図る。このマフィアのボスと朋友会会長の一対一の話し合いの場面が作中最もシリアス。一緒に仕事をしていても、イタリア系の人間を人並みに扱おうとしないアングロサクソンに対するイタリア系の恨みつらみの深さも凄いが、話がぶち壊しになるのも恐れず、犯罪に易々と手を染める相手を侮蔑するアングロサクソンの銀行家の腹の据わり具合も見事。だが、キタリッジは汚れ仕事に嫌気が差し、引退を考えはじめる。

主人公の成長に絡めてアメリカ社会を批判的に描くという構想で、二十世紀のピカレスクを目指したのが、ニール・ケアリー・シリーズ。ピカレスクは「悪者小説」とも呼ばれるが、「悪者」には括弧がつく。生まれのせいで、そうとしか生きられなかったからピカロ(悪者)になるのだ。娼婦の子というニールの設定が、まさにそれ。ニールがトバイアス・スモレットばかり読んでいるのにもわけがある。スモレットは十八世紀イギリスのピカレスク作家。ニールはピカロであることを自認していたのだ。

前作がウェスタン仕立てだったのは、当時大統領だったレーガンが、元はB級西部劇役者だったのを揶揄する趣向。今回、標的にされるのは国民的人気の仮面夫婦。舞台はポンペイを模したラス・ヴェガスのホテル、手抜き工事のテーマ・パーク、とまがいものばかり。アメリカの顔となる存在自体が虚像と化したことに対する痛烈な風刺である。しっかり者の妻のおかげで今の地位に着けたのに不倫に耽るジャックは、誰が見てもビル・クリントンだが、モニカ・ルインスキー事件が発覚するのは作品の発表後というから、作家の想像力というものの凄みを思い知らされる。

『高く孤独な道を行け』ドン・ウィンズロウ 東江一紀 訳

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浮浪児あがりの青年が、育ての親が見つけてくる簡単な仕事を引きうけては、いつのまにか大事件に巻き込まれる、というお馴染みのシリーズ第三作。第一作はイギリス、第二作は中国と世界を股にかけてきたが、今回はアメリカに戻る。だが、地元ニューヨークではなく、ネバダ州が舞台。英文学を専攻する活字中毒で、孤独を好む街っ子のニールにカウボーイがつとまるのだろうか、と心配になるが、冒頭で中国拳法を修行中とあり、刮目した。

ニール・ケアリーは子どもの頃、ジョー・グレアムから財布を掏ろうとしたところを、つかまったのがきっかけで素質を見込まれ、探偵術を叩きこまれた。ジョーはニールの「父さん」になった。そして、自分の勤める「朋友会」に引きいれた。朋友会というのは銀行家のイーサン・キタリッジが、本業とは別に特別な顧客の抱えている難問を処理するために設けている部門である。その後ろ盾があって、資金面の不自由はない。

ニールは三年間、中国は峨眉山の僧房に籠っていた。その前はヨークシャーでやはり隠棲中のところをジョーがニールを引っ張り出しにやってきた。ニールとしては引き籠って、トバイアス・スモレット研究に勤しむことに不満はないのだ。ジョーはちがう。仕事をしないでいて勘が鈍るのを恐れている。実はニールには余人をもって代えがたい能力がある。朋友会ニューヨーク支部長のレヴァインは、ニールには「自分がない」という。それは別人に成りすます潜入捜査にうってつけなのだ。

ニールは父の顔を知らない。麻薬中毒者の母親は面倒を見てくれなかった。たった独りでニューヨークのストリートで生き抜いてきたのだ。食っていくのが精一杯で自己形成どころではない。人とのつきあいもなければ友人もいない。食うに困らなければ本を読んでいたい。だからジョーは仕事にかこつけてニールを世間に出そうとする。はじめは簡単な仕事のつもりだった。危険だと思ったら直ぐ手を引ける。問題はニールにある。人を好きになると、そのまま放っておけなくなるのだ。他人との間に適当な距離を保てないのは、その生い立ちに寄るのだろうか。

今回は、二歳の赤ん坊を連れ去った元夫を見つけ、我が子を取り戻してほしいという母親からの依頼だ。簡単な仕事に見えるが、相手が悪かった。ハーレーは悪人ではなかったが、夫婦関係のもつれから身を持ち崩し、真正キリスト教徒同定教会というカルト集団の信徒になっていた。そこは教会とは名ばかりで、KKKやネオナチと連携する白人至上主義者の集まりで、FBIの情報によれば、似た者同士が集まって地下テロ組織を創り上げようとしている最中らしい。そこに逃げ込まれる前に捕まえようという計画だったが、一足遅かった。

三年の休暇のせいで勘が鈍ったのか、隙を突かれたニールは車と金を奪われる。偶然通りかかった男に助けられ、車に乗せてもらう。男はスティーヴ・ミルズといってオースティンの牧場主だった。車はそこに向かうところだという。運のいいこともあるものだ。最後につかんだ情報では、ハーレーがいるのもオースティンだった。ニールはミルズの牧場で働きながら、ハーレーの行方を捜し始める。

原題は<Way Down on the High Lonely>。<High Lonely>は地名で「孤独な高み」とルビが振られている。ミルズ牧場のある草原を囲む三千メートル級の山々の一峰だ。そこからは牧場のある渓谷が見渡せる。ニールは小さな小屋を借りて一人暮らしを始める。コヨーテがうろつく、この地は冬になれば深い雪に埋もれるという。ニールはここが気に入り、仕事が終わったら小屋を買って暮らそうかと考えている。おまけにカレンという女性ともつきあい始めるから成長著しい。

ニールは隣のハンセン牧場がテロ組織のアジトであることを突き止める。舌先三寸で組織に潜り込み、昼はミルズ牧場で働きながら、夜は戦闘訓練に明け暮れる。少しずつ信用を得ていくものの、なかなか最後の壁を崩せない。そんな中、現金輸送車を襲う計画の責任者を命じられる。朋友会と連絡を取り、まんまと襲撃を成功させたことで信用を得たニールは幹部に昇格することになる。最終テストが輸送車の護衛に化けたジョーの処刑だった。ジョーは撃て、と合図するが、ニールには撃てない。二人は囚われ、レヴァインの救出作戦を待つ。

ウェスタン調のストーリーは単純だ。流れ物がやってきて小さな牧場に雇われる。隣には大きな牧場があり、二つの牧場の対立が決闘という形で終焉を迎える。問題はユダヤ系のミルズの牧場で働くニールが、裏で反ユダヤ主義者と通じていた点である。無論、ハーレーと赤ん坊の居所を探るための偽装である。しかし、争いが表面化しては、いつまでも曖昧な態度を取ることは許されない。ミルズの小屋を出て、ハンセン牧場に移るニールは、地獄に堕ちろ、と罵られる。

それより問題なのは、シリーズの主人公であるニールがすっかり変貌を遂げることだ。反ユダヤ主義者の群れに紛れ、戦闘訓練を受け、信用を得るためとはいえ強盗にまで手を染め、どっぷりと悪の世界に浸かってしまう。繊細で傷つきやすい心を憎まれ口で隠してきた好青年のイメージがごろっと変わってしまう変貌ぶりに驚く。まあ、そうはいっても、もともと人様の懐中をねらう悪ガキだったわけだから、素質はあったわけだ。今までそちらの世界に行ってしまわなかったのはジョーが目を配ってきたからだ。

ニールはこれまで、孤独な闘いを強いられて来たが、その後ろにはいつもジョーがぴったり貼りついていた。いわば父の掌中にいたのだ。ところが、今回ともに仕事をすることで、二人は対等になり、子は父の掌から出てしまった。そして、ジョーが危惧していたことが起きる。ニールは、父の想いを知りながらも、ついに一線を超える。自分がどうしても許すことができない人間を撃ち殺してしまうのだ。

ミルズの妻のペギーが以前警告したことがある。「ひげを剃らなくなったら、山のならず者。だから、ひげを剃りなさい」と。ニールはその言葉に従ってひげをきちんと剃っていた。ところが、末尾にちらっと顔を見せるニールは長い髪にひげを伸ばしている。つまり、ニールは「ならず者」であることを選んだのだ。しかも、今までは仕事が終わるたびに心の傷をいやすため、長い隠棲に入っていたニールが、酒場に顔を出している。カレンとの食事までの時間つぶしだというから恐れ入る。どうやら、このシリーズはピカレスク方面に舵を切ったようだ。

『仏陀の鏡への道』ドン・ウィンズロウ 東江一紀 訳

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この痛快さはどこから来るのだろう。国家のイデオロギーや指導者の大局観などとは一切無縁。一人の青年の美しい女性に寄せるひたむきな愛が、成就されることもなく、そうとしか有り得なかった結果を引き出す爽快ともいえる空しさにあるのかもしれない。生粋のストリート・キッズが、大自然の要害に徒手空拳、よれよれのからだで挑む、向こう見ず極まりない冒険の成り行きが、なまじい世間を知った年寄りにはただ切なく眩しいのだ。

はじめてドン・ウィンズロウを読んだのは『フランキー・マシーンの冬』だった。作品や作家が好きになるのに理屈はいらない。肌合いというか肌理というか、何かがぴたりとはまったのだ。その次に読んだのが『ボビーZの気怠く優雅な人生』。これも気に入った。それから『犬の力』にはじまるメキシコ麻薬戦争の内幕を綴った実録小説風のシリーズを通して読んだ。

ただ、生来ひよわなたちで、いくらよく書けていても、あまりに暴力的な小説は苦手。ミステリは楽しい思いで読みたい、というのが勝手な本音。そんなとき、新作の『壊れた世界の者たちよ』に出会った。中篇集ということもあってか、出会った頃のウィンズロウの持ち味を思い出した。軽く洒落のめしたテイストだ。所収の一篇に、念願の英文学の教授になったニール・ケアリーが顔を出していた。はじめまして、ニール。

シリーズ物を読む時の常で、第一話の『ストリート・キッズ』から読みはじめた。頼れる親のいない少年が、親代わりになるジョー・グレアムに出会い、探偵術を教わり、やがて「朋友会」という組織の一員となり、人探しの下請け仕事を命じられる話は、まるでディケンズの『オリヴァー・ツイスト』。しかし、本作を読むと、『ストリート・キッズ』は序曲に過ぎなかったという気になる。それほどまでにスケール感がアップしている。

何しろ舞台は、雨のヨークシャーに始まり、花のサンフランシスコ、それから香港は九龍寨城(ウォールド・シティ)の魔窟、そして四川省成都、最後は峨眉山の頂上へと至るのだ。仕事は姑娘に懸想して任地から失踪した米人の肥料研究者の目を覚まし、会社に戻るよう説得するだけのはずだった。ところが、ミイラ取りがミイラになり、李藍(リ・ラン)という中国人女性に一目惚れしてしまったのが運のつき。彼女を魔の手から救い出そうと単身、香港に飛んだのがまちがいのはじまりだった。

朋友会に仕事を依頼したのはCIAで、表立って動けない組織の猟犬となって、相手を駆り立てるのがニールの務めだった。ところが、何が何やら分からないままに命までねらわれた青年は、危険なことには近づかないというジョーの言いつけを忘れ、いくつもの思惑がからまり合った陰謀の網の中に飛び込んでしまったから、もういけない。九龍城の迷路の中に封じ込められ、自由を奪われ、阿片浸けにされては、グレアムたちにも手の施し様がなくなる。

ヒッピー文化も下り坂のサンフランシスコでの追いかけっこが第一部。香港の彌敦道(ネイザンロード)、ヴィクトリア・ピークといった観光名所でCIAのシムズや三合会や十四Kといった台湾、香港の組員たちとの命のやりとりを経て、九龍寨城に置き去りにされるまでが第二部。阿片浸けで正体を失った本人の知らぬ間に、舞台は第三部、中国の中西部、料理で有名な四川省に移る。李蘭の手で魔窟から救い出されたニールは中毒から回復するため療養生活を送っている。

巻き込まれ型ヒーローというのがある。自分はその気がないのに、いつの間にか事件の渦中にいるタイプの主人公を指すが、ニール・ケアリーがまさにそれだ。二十四歳という若さでは、いくら人間観察に長けていても、自分自身を統御できない。窮地に陥ったとき、ニールは、ジョー・グレアムの名を呼ぶ。するとどこからか救いの手が差し伸べられるのだが、今度ばかりは場所が悪い。いくら方々に顔がきいても、中国にはおいそれと手出しができない。

毛沢東による「大躍進」が、官僚の欺瞞を産み、人民は飢えた。中国の米びつと言われる四川省でも事は同じ。鄧小平の意を汲む省共産党書記、暁昔陽(シャオ・シーヤン)は、毛路線とは一線を画し、農地の私有化を進め、生産量を上げようと、娘の李蘭を使って化学肥料の研究者ロバートを秘かにアメリカから四川省に迎えようとしていた。中央に知れたら反革命の汚名を着せられ、処分を覚悟の行為だ。準備が整うまで、二人が香港に身を隠していたところにニールが現れ、CIAやら三合会、それに朋友会まで騒ぎ出し、計画が危うくなる。

自分の近くにいる党中央のスパイの目をそらし、計画を成就しようとする暁昔陽、それを阻止しようとする省共産党書記補佐、彭(ポン)、中国の二重スパイであることを隠すためニールや李蘭、ロバートを消したいCIAのシムズ、三者三様の想いが峨眉山という景勝地を舞台に闘いを繰り広げる。ニールとしては、ロバートの真意を確かめ、本人が望むなら自由にさせたい。ただし、そのロバートが隠れているのが標高三千メートル級の聖地峨眉山となると、高所恐怖症のニールにとっては苦行でしかない。

どこで、仕入れたのか知らないが、中国人民の苦難の歴史に対する理解、楽山大仏はじめ、中国の名所旧跡、そして何より、四川省という土地に広がる田畑、人々の様子など、見てきたように描き出すのがまるで映画。余談ながら、ニールの通訳を務める紹伍(ショー・ウー)との罵倒語のやりとりが楽しい。「決まり金玉(ファック・イエス)」は、ルビ振りで分かるが、あとの「くされちんこ」や「いかれぽこちん」の原文は何だったのか? 東江一紀の名訳が快調だ。 

本好きは、ニールが大の活字中毒で、どこに行っても本屋とあれば中をのぞかなくては気が済まず、成都の本屋で自分の研究対象であるトバイアス・スモレット作『ロデリック・ランダム』と紹伍の愛する『ハックルベリー・フィンの冒険』を手に入れるところでニンマリ。その『ハックルベリー・フィンの冒険』が、最後に重要な役割を果たすところなど、ビブリオ・ミステリ・ファンには涙なくして読めない。そう、全篇これ軽いノリで語られるこの小説。時々鼻の奥がツーンとさせられる。世界はクソみたいなものだが、それを変えるのは、真っすぐな若者の行動でしかない。いつまでも読み継がれたい青春純情探偵小説である。