青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

バウドリーノ

薔薇の名前』で一躍有名になったウンベルト・エーコの最新作。今回も舞台は同じ中世だが、異端審問最中の僧院に起きる連続殺人事件を描いた『薔薇の名前』の雰囲気を期待して読むと見事に裏切られる。神聖ローマ帝国ビザンツの両帝国を股にかけ、生まれついての嘘つき男が自らの才を頼りに成り上がっていく姿を面白おかしく描いた『バウドリーノ』はビルドゥンクスロマンのパロディとも、東方奇譚のパスティーシュとも呼ぶべき異色の作品である。

北イタリアのアレッサンドリアに牛飼いの子として生まれたバウドリーノは、人の会話を聞くと知らない国の言葉でも直ちに理解できる才能に恵まれていた。ある日霧深い山中で道に迷った騎士を助けたことが彼の将来を決定することになる。その騎士こそが神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ・バルバロッサその人だった。バウドリーノの才気が気に入った皇帝は彼を自分の養子にし、叔父であるオットーの下で学問をさせる。

バウドリーノは天性の夢想家で、自分の思いついたことを本当にあったことのように話す癖がある。つまり生来の大嘘つきである。ところが、「嘘からでた真」という言葉どおりに彼の嘘は次々と実現する。これは、そのバウドリーノが実際に経験したフリードリヒによるイタリア遠征と、その後の「司祭ヨハネ」の国への探検行を自ら語った物語、とここまで書いてすぐに気づく。嘘つきが実際に経験した物語というのはどこまでが本当の話なのか分からないということである。

バウドリーノの生地アレッサンドリアエーコの生まれ故郷。この仄めかしによって、嘘つきバウドリーノは作者ウンベルト・エーコに重なる。読者は初めから嘘につきあうことを求められているのだ。しかし、考えてみれば、誰もが信じて疑わない歴史一つを例に取ってみても、誰かによって書かれた「歴史」があって、はじめてその事件を知るのであって、事実が歴史を残したわけではない。歴史なんてものはみんな多かれ少なかれ為政者に都合よく捏造された偽史でしかない。つまり語った(騙った)者勝ちということさ、というエーコの得意気な顔が浮かんでくる。

碩学エーコのこと、嘘とはいえ手が込んでいる。史実と伝説を按配よく配し、それに全くの嘘を織り交ぜた中世文献のタペストリー。その中には、有名な一角獣と貴婦人の図柄が類い稀な美しさで中央に織り込まれている。それを取り囲むように『幻想博物誌』をはじめ、澁澤龍彦の著作に度々紹介されている犬頭のキュノケファロスや矮人ピュグマイオイ、巨大な貝殻のような耳をぴんと立てたパノッティら、中世ならではの奇っ怪な連中がぞろぞろ顔を並べている。中でも澁澤偏愛の一本足のスキアポデスは重要な役を担う。

中世好きで、ボルヘスの『幻想動物学提要』を愛読していた澁澤が生きていてこれを読んだら、さぞ喜んだことだろう。「司祭ヨハネの国」に至る旅の途中で出会うことになる連中だが、中世人にとってオリエントとはこうした異形の者たちの住む世界であったのだろう。『幻想博物誌』によれば、これらの畸形人間はフランス中部ヴェズレーの教会正面扉口に彫り込まれているという。エーコはエミール・マールあたりから引っぱり出してきたのだろう。因みに澁澤の本には「プレスター・ジョン」(司祭ヨハネの英語読み)のこともちゃんと載っている。

バウドリーノの話の聞き役はコムネノス朝とアンゲロス朝の多くの皇帝に使えた歴史家にしてビザンツ皇帝の書記官長を歴任したニケタス・コニアテス。時代は紀元1204年。コンスタンティノープルは、第4回十字軍によって蹂躙されている最中であった。十字軍とは名ばかりのならず者たちによる放火と略奪に足止めされ脱出もままならないニケタスは、窮地を救ってくれたバウドリーノに身の上話をせがむ。所謂「枠物語」。ペストで足止めを食らった人々が物語る『デカメロン』や、古くは『千夜一夜物語』にまでさかのぼれる物語形式である。

ネタもととなっているのは、フライジングのオットーが書いた『二国年代記』。その中に、東方にキリスト教異端のネストリウス派を信じる王にして司教ヨハネが治める国があり、十字軍の救援にエルサレムに向かったがティグリス川の洪水にあって断念したという伝聞を記す記述がある。ヨーロッパで「司祭ヨハネ」について初めて言及したのがこれである。その後、司祭ヨハネの国からビザンツ皇帝宛てに送られてきた親書やら、それに対するローマ教皇の返書など多くの偽書が各国語に翻訳され様々な国に飛び交った。エルサレムで苦戦中の十字軍を東方のキリスト教国が助けにくるという一種のデマゴギーだが、エーコはこれもバウドリーノの仕業にしてしまう。

映画「インディ・ジョーンズ」シリーズにも登場する「聖杯」伝説も大事なネタの一つ。ここではグラダーレと呼ばれているが、バウドリーノの東方への旅は、グラダーレを司祭ヨハネの国に返すという名目で行われる。質素な木造りの聖杯は、実はバウドリーノの父親がワインを飲むために作った物で真っ赤な偽物。しかし、それを本物と信じた探索の旅の仲間がフリードリヒ殺害計画を企てる。十字軍遠征中のフリードリヒが川で沐浴中に謎の死を遂げたという史実がミステリ仕立てとなって組み込まれている。いったん解決したと思われた謎が次の探偵役によって次々と覆されてゆくというお馴染みのパターンにエーコのミステリ趣味がよく現れている。

異形の種族が奇想天外な戦いぶりを発揮する場面のグロテスクなユーモア、愛の成就を願う故に予め愛を諦めるという騎士道的恋愛、陰謀渦巻く宮廷人の権力闘争とその壮絶な最期、といずれも暗黒の中世という時代背景を逆手にとって、想像を絶する世界をひたすら奔放に描ききったピカレスク・ロマンである。旺盛な筆力と厖大な知識を持つエーコならでは。ヤワな小説など足下にも寄れない構想力を示す圧巻の物語と言っておこう。
バウドリーノ(上) バウドリーノ(下)