青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『小犬を連れた男』 ジョルジュ・シムノン

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「《ぼく、フエリックス・アラールは四十八歳で、パリ三区、アルクビュジィエ通り三番地に住んでいる……》他の人々の遺書でのように、こうつけ加えるべきか、《心身ともに健康》?」

冒頭から不穏な事態がほのめかされている。「遺書」?それでは、出す相手のいない手紙がわりに書いているという、この手記は遺書なのか。

十一月のパリ。ただでさえ冬のパリは寂しい。それなのに、他に借家人とていない倉庫街の屋根裏部屋に犬と暮らす独り者の男。男の最終的な決心が自殺を意味していることは「遺書」という言葉から明らかだが、その理由は何か。男には、別れた妻と息子、娘が近くに住んでいる。さらにもう一組同じ構成の家族がいる。男はそのどちらも遠くから見守るだけで近づかない。それは何故。

いくつもの謎が提示される。青と黄の二冊のノートに記された手記には、その日の出来事に混じって、男の生涯の回想が記される。子どもの頃のこと、愛犬を手に入れたいきさつ、妻との出会い、今の仕事に就いたきっかけ等々。手記の日数が増えるにつれ、少しずつ男の過去が明らかになってゆく。そして、一日分の手記は愛犬ビブへの呼びかけで閉じられる。このあたりの小出しにされる過去と現在の境遇の微妙な兼ね合いが巧い。特にとんぼ返りをしたり、シーツをくわえて引っ張ったりするビブのしぐさがいちいち愛らしく、陰鬱とも思える中年男のわび住まいに僅かだが温かな灯りをともしている。

最後に主要な謎は解かれる。なるほど、と一応納得もするのだが、それで終わり、という訳にはいかない。これはメグレ警視物のような謎解き主体の探偵小説ではないからだ。これは一人の男が、なぜこんな生き方をしなければならなかったか。そして、そうした日々を送る自分を男がどう思っていたか。かつてソルボンヌの文学部で哲学を学んでいた男の自己分析は、どこか傍観者的で皮肉さを漂わせるものだ。

充分に知的だが、それに比べ感情や意志は未発達とも思える男が人生の途上で出会った事態に感情を爆発させ、果断に行動を起こす。その結果が現在の彼の境遇を準備したというわけだ。アイロニカルな作家の視線が強い印象を残す。主人公と彼の雇い主である元売春婦上がりらしい書店の店主の人物造形が素晴らしい。バルザックの『人間喜劇』にも比されるシムノンの本格小説群の一角を支える味わい深い一篇。

ウィスキーを少しずつすすり込むように飲むことを「シップ」という。評者はシムノンのこの本をシップするように読んでいった。あたかもグラス一杯の酒を一気に飲んでしまい後悔しないですむように。秋の夜長、じっくり時間をかけて、その深い味わいを愉しまれんことを。